海門の逆潮、骨笛の折り口
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I 潮の口、拍の支度
海門――港と外洋を隔てる巨大な閘門は、夜になると黒い歯列のように並び、潮の出入りを咀嚼する。黄の皮膜は薄く、風は生温い。だが、海の底だけが冷えていた。そこに拍が潜んでいる。
「潮は引くふりをして、引かない」
ルーシアンが手の甲で波頭を撫で、眉を寄せる。「下から押し戻してる流れがある。――誰かが水の述語をいじってる」
「骨の連中の“礼儀”は面倒ね」
ヴァレリアが棘を袖の中で二度撫でる。「順番は守るくせに、道理は踏みにじる」
「順番は、こちらが守るニャ」
ボミエは星潮の杖を胸に抱え、耳を立てた。「最初に斬るのはヴァレリア、次にわたしが句点を落とすニャ」
ナディアは海門の見張り台に登り、笛の譜面を三段に分けて並べた。二三は前進の拍、一四は帰還の拍、三二は踏み止まりの拍。どの段も、途中で切り替えられるように余白がある。
「合図は増やすわ。長丁場になる」
ナディアは笛の穴を布できっちり拭いた。
ミレイユは羊皮紙の上に二つの名を書き、海風に晒してから油で封じる。
――《ハル・ガロット(最年長の少年)》、――《ミラ・ノエル(小さな女の子)》
「名は浮標。こちらの海に浮かせておく」
ジュロムは大槌の頭を鉄の門扉に当て、深さを量った。「ここを叩けば唸る。潮が変わった瞬間に楔を打ち込めば、門は半拍“ずれる”。――行軍は、それで崩れる」
ザードルは火打石を軽く鳴らし、炎の音だけを立てる。「火は目立たせない。音で骨を乾かし、割れ目を作る」
エステラは鼻を高く上げ、すっと吸った。「砂糖菓子、乳香、古い羊皮紙、乾いた血。――骨紋司祭が来る。甘さはまやかし、匂いの高さは子どもにだけ届く」
「銀は?」
ヨハンが問うと、ヴァレリアは小さく笑みを作った。
「ここ」
彼女が見せた掌の中で、銀の裂片が細い月のように光った。トマスが拾い、ヴァレリアが投げ、骨笛の高さを一段落とした欠片。今夜は――折り口になる。
ヨハンは胸の十字を握り、低く祈る。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために。――掴め」
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II 骨の艦隊、潮上の祭壇
靄が裂け、骨の艦が海門へ滑り寄る。肋骨で組まれた舷側、頭蓋を並べた舳先、脊椎の束が桁になり、甲板の中央には祭壇――古い竜骨の切り株。
艦首に骨紋司祭オッセウス。細い肩、乾いた眼、唇に白く乾いた跡。彼は骨笛を掲げ、海の冷えを口に含んだ。
「礼を尽くそう。――行軍、徴発、奉献」
骨太鼓が鳴る。コン、コッ、コン、コッ。
岸の陰からスケルトンが列をなし、海面からドロザメの群れに引かれたゾンビが浮上する。彼らは波に逆らわない。波の拍に乗る。
祭壇の脇、肋骨の檻の中に、二つの小さな影。
ハルとミラだ。目は開いているが、視線は遠い。骨笛の高さに瞳孔を合わせられている。
「返すニャ」
ボミエが一歩出て杖を掲げた。「子どもは街の星ニャ。夜に縫いとめないでニャ」
オッセウスはうっすら笑う。「戻しに来い。礼儀正しく」
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III 潮の第一声
ナディアが二三を鳴らした。
海門の歯列が半拍ずれ、ルーシアンの水が逆潮の筋を門の足元に集める。
ザードルの炎は色を持たず、音だけで骨の継ぎ目を乾かした。
ジュロムが槌で門柱を一度、低く叩く。鉄は応える。関節は迷う。
エステラの砂が甘い匂いを飲み込み、偽物の香りを苦味に変える。「子どもに嗅げない高さへ」
ヴァレリアの棘が袖からするりと出た。「最初に斬るのは――わたし」
彼女は飛び石の上を軽く走り、骨艦の舷側の礼儀を斜めに裂く。
棘は礼を壊さず、順番を狂わせる角度で入る。
骨艦は美しく軋み、甲板の列が半歩遅れた。
「いまニャ!」
ボミエが句点を落とし、遅れた“次”を延ばす。星の線が海面の上に階段を作り、海風は拍を足元に縫い付ける。
オッセウスは骨笛を吸い、吹き、舐め、叩く。
子どもの耳の高さに甘い音を置き、「おいで」を作る。
だが、ナディアの笛が即座に返す。「留まれ」の音形。
ミレイユの羽根が**「ここ」**を二重下線で記し、名を浮標に結ぶ。
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IV 銀の折り口
「投げる」
ヴァレリアが銀の裂片を指に挟み、海風に乗せて放った。
裂片は回転しながら骨笛の喉を目がけ、縫い目の端――折り口に吸い込まれる。
キン――キ――
骨笛の音が半音下がり、さらに半音、半音。
音高はずれ、共鳴は抜け、オッセウスの指が迷う。
ザードルが炎の音を一段上げ、骨の管に膨張を作る。
ルーシアンがその瞬間に冷水を霧にして吹き付け、熱疲労の小さな傷を拡大する。
ナディアは逆位相の二音を吹き、亀裂に歌を差し込む。
ボミエはライネルの反句の欠片を杖頭で鳴らし、「ならば“ならばでない”」を笛の中に刻む。
パキ――
骨笛に裂け目が入り、オッセウスの肩がわずかに沈む。
「折れたのか?」ジュロムが目を細めた。
「折り口が入った。――次で折れる」エステラが鼻で告げる。「苦い匂いに変わった」
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V 子どもたちへ、手の文
ミレイユは羊皮紙を胸もとに当て、声を低くした。「書く――“あなたは、今、ここにいる”」
彼女の文字は風に混ざり、子どもたちの手の甲に薄く浮かぶ。
ボミエが近くまで星の糸を伸ばし、句点で押さえる。
「ミラ、ハル、見てニャ。手の字ニャ。――今、ここニャ」
ハルの目に焦点が戻る。彼はミラの手を握り、小さく頷いた。
「……帰る。俺が前、君が後。今、ここから」
「よく言った」
ヨハンは胸の十字を海に向け、祈りを落とす。「Ex voco… Misericordia… inter manus.――呼ぶ、返す、掴む」
海面に薄い板が現れ、二人の足元に段が現れる。
ジュロムが跳び、肋骨の檻に槌を噛ませ、ヴァレリアが隙間を棘で広げる。
ザードルの炎が音で檻の強度を削り、ルーシアンが海水の浮力で檻を持ち上げ、ナディアが一四を吹いて帰還の拍を確立する。
オッセウスが骨笛を押さえ、骨太鼓の拍を増やす。
スケルトンの列が厚くなり、ゾンビが嗅覚で裏道を開く。
エステラが砂で匂いを潰し、ミレイユが**「戻る」を壁一面に記す**。
ボミエの星が網になり、手になって、二人の背を押す。
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VI 逆潮の梯子
「今!」
ルーシアンの声が海門全体に響く。
彼が両腕を開いた瞬間、逆潮の筋が合流し、海門の足元から上へ梯子のように立ち上がった。
水は固体にはならない。だが、拍で踏める。
ナディアの笛が二三を二倍速に駆け上がり、段は息の長さで現れては消える。
「ハル、今ニャ!」
ボミエが句点を手のひらに置く。
ハルはミラを引いて一段、二段――三段!
ジュロムが後ろから骨の腕を叩き落とし、ヴァレリアが前で棘を横薙ぎにし、ザードルの音が骨の中の乾きを割り、ルーシアンの水が浮かせ、ミレイユの文字が橋になり、エステラの鼻が偽物を弾く。
オッセウスの骨笛が悲鳴に変わる。
彼は最後の手段として、笛の裂け目に血を塗り、音を粘らせようとした。
その瞬間――
「折る」
ヴァレリアの棘が、銀の裂片の反対側に軽く触れた。
パキン。
骨笛が二つに割れ、音は沈黙に落ちた。
オッセウスの顔に初めて怒りが差す。「……礼儀を……尽くしたのに」
「順番は守ったわ」
ヴァレリアが肩で息をしないまま言う。「最初に斬るのは、わたし」
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VII 骨の波、合唱の壁
笛を失ったオッセウスは、骨太鼓の叩き手に合図を送る。
コン、コン、コン、コン――
骨の波が来る。肋骨が束になって波頭を作り、頭蓋が泡のように砕け、脊椎が渦の芯に**捩**れる。
「合唱で受ける!」
ミレイユが羽根筆を高く掲げた。「主語は――街! われらが残す、われらが赦す、われらが奪わない、われらが愛す!」
ナディアの笛が主旋律を取り、港じゅうの喉が**「われら」を拾う。
ザードルの炎が音で支和音を立て、ルーシアンの水が低音を支え、ジュロムの槌が拍の地を踏み、エステラの鼻が匂いの乱れを均す**。
ボミエの星は上声で**「ここ」を繰り返し、ヨハンの祈りが底声で「掴め」**を置き続ける。
骨の波は崩れ、砂になり、風に散る。
海門の梯子はまだ残り、子どもの足は上へ上へ伸びた。
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VIII 奪還
ハルが最後の段を踏み、堤の上へ転がり出た。
ミラがその胸にしがみつく。
ボミエは駆け寄り、両手で二人の手の甲の文字を撫でた。「今、ここニャ。……帰ったニャ」
ハルはボミエの手を握り返し、震えながら笑う。「ありがとう。……“句点”って、あったかいんだな」
「句点は止めるためじゃなくて、居場所を教えるためにあるニャ」
ヨハンは胸の十字を二人の額近くへ傾け、短く祈る。
「Nomen reddo…――名は返る。息は街に戻る」
ナディアが一四を吹き、帰還の拍を港へ流す。
ミレイユが名録に二本の線を引き、空白の待つの囲みを解く。
――《ハル・ガロット 返還》
――《ミラ・ノエル 返還》
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IX 骨紋司祭の退潮
骨笛を失ったオッセウスは、骨艦の上で静かに膝を折り、骨太鼓の叩き手へ手を下げた。
行軍の拍は止む。
彼は頭を垂れ、乾いた声で言う。
「礼は尽くされた。――半分返されたものは、全部返された。今夜の徴発は、失敗だ」
「次は?」ルーシアンが問う。
「骨は学ぶ。――礼儀も、敗北も」
オッセウスは骨笛の二片を掌に乗せ、波へ捧げるように落とした。「また、下で」
骨艦は潮とともに退き、肋骨の影は靄に消えた。
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X 数える声、重ねる拍
港は一斉に息を吐き、泣き声と笑い声が入り混じった。
トマスが鐘楼から降り、ロープを抱きしめたまま膝をつく。「鳴らせませんでした。でも、鳴り終わりは、返せました」
「上出来じゃ」
ヨハンは少年の肩に手を置き、胸の十字の欠け目を撫でた。「欠けは刃にも柄にもなる」
ヴァレリアは銀の裂片の汗を指で拭い、ヨハンへ返す。「折り口は入った。――次、折るのは、もっと大きい何か」
「骨じゃ、ない匂いが混ざってた」
エステラが鼻をしかめる。「薔薇と黄昏の遠い匂い。……見ていたわ」
ミレイユは名録の余白に、小さく一行を書き足す。
――《海門返還、監視あり。黄の視線》
ナディアが笛を拭き、ザードルは火の音を低くして灯りを灯りの温度に戻す。
ルーシアンは汲んだ水を子どもたちに分け、ジュロムは槌を肩に担いで短く笑った。「借り、ひとつ返した」
ボミエは星潮の杖の結び目を撫で、耳を立てた。「ピックル、アメリア、ライネル。――ありがとニャ。震え、線に入ったままニャ」
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XI 潮窯の蝶番、扉の意志
夜更け、潮窯。
イーサンは石天井の星の結び目を見上げ、微笑を小さく落とした。
「扉は、残った」
「残ると、お主が決めた」
ヨハンは窯口で膝を折り、低く言う。「街は、その扉を持ち上げられることを学んでおる」
「見ていたよ」
イーサンは瞼を閉じ、息を吐く。「骨は、礼儀を覚えた。礼儀は交渉になる。――黄昏は、幕を長くする」
「幕が長くても、拍が持てば舞台は崩れん」
ヨハンは胸の十字を指でなぞり、欠け目の冷たさを確かめた。「掴むのじゃ」
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XII 黄に濡れる窓辺
港の屋根。
ボミエは杖を胸に抱え、耳を立てて星に言う。「今夜は全部、返したニャ。――次も、全部ニャ」
風の中に、薄い黄が紛れた。
遠い沖で、黒真珠が微かに鳴る。
黄昏公アドラステアは、海の縁で笑う。
「嫌い。――だから、好き」
彼女の背後で、クローヴィスが骨を一度だけ弾いた。
コン――
拍は、長くなる。
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XIII 小さな宴、長い誓い
ナディアが小さな食卓を用意した。塩パン、オリーブ、少しのタコ。
ヨハンはタコを噛みしめて目を細め、「……やはり、慣れんのう」と言い、皆が笑った。重さが半歩だけ軽くなる。
ミレイユが杯を掲げる。「名に」
ルーシアンが「水に」、ザードルが「灯りに」、ジュロムが「地に」、エステラが「鼻に」、ヴァレリアが「順番に」、ボミエが「星に」。
ヨハンは最後に言った。「掴むに」
杯が触れ合い、拍が揃う。
夜はまだ深い。だが、海門は扉であり、扉は蝶番を持ち、蝶番は折れていない。
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つづく:第二十四話 薔薇と黄昏の前庭、名の税
次回予告
骨の礼儀が退き、遠くから薔薇の香と黄の目がこちらを覗く。
「名」にかかる税が街を締め付け、記録と匂いと拍が再び試される。
先に斬るのは誰か。最初の呼び声はどこから来るのか。
星は震えず、祈りは掴み、槌は地を打ち、棘は礼を裂く。
そして、銀の裂片はもう一つの折り口を指し示す――“扉の外側”へ。




