悪魔の追跡編 第2話 三叉路の光
I 石英の丘
霜の名残を踏んで進むと、やがて丘の地肌が白く光を返しはじめた。
石英。陽が差すと、地中の粒が光を弾き返し、足元の砂までも淡く透ける。
「まぶしい……」
ボミエが目を細め、耳をぴくりと動かした。「でも気持ちいいニャ。お腹の中の“わるい笑い”が引っ込む感じニャ」
丘を登るにつれ、風の匂いが変わった。湿った血と灰の混じった“追跡の風”ではない。乾いた麦の匂い。
その風の中で、チューリップが一度だけ吠えた。吠え声の向こうで、なにかが光に焼ける音がした。
「……尾だ」
ルーシアンが低く言った。
地面に転がるのは、焼け焦げた“笑いの尾”の残骸。昨日の橋で襲ってきたものと同じ、だが力はもうない。
「笑いは夜のものだ。朝は弱い」ヨハンが呟く。
「けど、弱っても残る。跡が残れば、また笑う」ナディアが笛袋を撫でた。
ヴァレリアが地面に膝をつき、焼け跡を見つめる。「まだ熱い。……通ったのはついさっき」
ミナが風紙を空に浮かべ、紙の上の風向きを読む。
「北東。森へ向かってる。――例の女、左の道を選んだ」
II 三叉路
三叉路の標柱は、半ば倒れかけていた。
“右・リザンの丘” “左・灰の森” “正面・戻る道”
森の方角だけ、文字が煤けて黒い。誰かが焼いたのだ。
「笑いが進む方はいつも煤ける」
ミレイユが名録を開きかけて、指を止める。「書いたら燃える。……書かずに覚えておく」
レオンハルトが剣の柄に手を置く。「右へ行くと言ったな、御坊」
「ああ。光のある方へ」
ヨハンは目を細めて陽を見た。「だが、森を放っては後で響く」
「レオンハルト、ヴァレリア、ミナは俺と右。ルーシアン、ボミエ、ナディア、ミレイユは左へ。
森の入口を見てこい。“笑い”の残り香だけでいい。深入りはするな」
「はいよ」ルーシアンが肩をすくめた。「腹で笑う連中と笑い合う趣味はねぇしな」
III 森の口(ルーシアン側)
森は“静かすぎた”。
木々は風も受けず、葉一枚落ちない。湿り気だけが、空気の底に沈んでいる。
ボミエが杖で地面をつつく。「柔らかいニャ。誰かが掘った跡ニャ」
ナディアが笛を唇に当て、息を殺す。笛は鳴らない。
「音が吸われる。森が“笑い”を食べてる」
ミレイユが囁く。「見て……」
苔の上に、足跡。裸足のもの、小さなもの、そして――
「逆さ足跡?」ボミエが目を丸くした。
そう、踵が前、指が後ろ。
「歩いてない。“這ってる”んだ」ルーシアンが言った。
奥の方で、何かが笑った。
低く、腹で。
“あは……はは……は……あ。”
女の声に似ていた。
ナディアが短く息を吐き、笛を鳴らした。音は短く、鋭い。輪ではなく“鎮め”。
笑いが途切れた。森の中で、何かが腐る音がした。
「戻るぞ」ルーシアンは即断した。「これは“追跡されてる側”の笑いじゃねぇ。“呼んでる側”の声だ」
IV 光の丘(ヨハン側)
右の丘は、白光に満ちていた。
石英が陽を反射し、目が焼ける。
チューリップが前を駆ける。鼻を鳴らし、急に立ち止まった。
丘の上、幌車の残骸。
帆布が裂かれ、木の枠は歪み、車輪は半分土に埋まっている。
そして、影がない。
「昼だというのに……?」ヴァレリアが眉をひそめる。
「笑いが“影を喰った”」ミナが風紙をかざす。「これ以上近づくと、声を吸われる」
「なら俺が行く」レオンハルトが剣を抜く。
「斬るな。触れるだけだ」ヨハンが言う。「この光の下では、“剣の拍”も影を持つ」
レオンハルトは頷き、剣先を車体に触れさせた。
次の瞬間、帆布の下から黒煙が立ち上り、笑い声が混じる。
“あは、あはは……ひとつ、ふたつ、まだ足りない”
ヨハンは胸の十字に手を当てた。「沈め」
その声と同時に、ヴァレリアが盾で光を反射させ、ミナが風紙を広げて陽の角度を変えた。
光が幌車を真上から突き刺し、笑いが焼ける。
煙が消えるころ、地面には細い焦げ跡だけが残った。
「……これで全部?」ヴァレリアが問う。
「いや」ヨハンが首を振る。「影の方がまだ動いてる。……レオン、見えるか?」
「丘の裏に、黒馬の足跡」
V 再会
丘を下りると、左の隊と合流した。
ルーシアンのマントは裂け、ボミエの杖には黒い液が付着している。
「森の“笑い”は潰したか?」ヨハン。
「潰してねぇ、寝かせただけだ。……けど動き出す前に丘の光で焼けりゃ御の字だ」
ナディアが笛を押さえたまま、ヨハンを見上げた。
「御坊、あの女……“腹”の悪魔は抜けてた。でも“声”は残ってた」
「声?」
「ええ。……誰かの“名を喰った声”。――森の奥から、呼ばれた」
空がわずかに曇り、光が翳った。
丘の白が灰色に変わる。
チューリップが短く唸る。
「追跡は続くな」
ヨハンは腰の鞘に触れ、唇を結ぶ。
「走る影が声を得た。――次は、声が形を得る番だ」
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次回予告
悪魔の追跡編 第3話 声をもつ影
光に焼かれた笑いが、今度は“声”として蘇る。
森の奥で呼び合う名のない者たち。
そして、黒馬の女が残した“誓いの印”とは――。
追跡はまだ終わらない。
輪は、沈まない。




