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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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夜梯子の降下、銀の裂片




I 余燼よじんの朝


 上告審の夜が明けた。港は静かで、しかし静けさが耳鳴りのように痛い。

 空には薄い黄の皮膜が張り、潮風は熟れた果実と鉄の匂いを半分ずつ運んでくる。鐘は三度、低く鳴り、丘を渡って海へ落ちた。


 石円壇に残る血の色は浅い。浅いほど、長く残る。

 倒れた影は抱き上げられ、教会の中庭に運ばれた。小さな手に握られていたのは、ヨハンの胸から欠け落ちた銀の裂片――古い十字の端、鋭く光る欠片だった。


「トマス……」

 ナディアが膝をつく。鐘守見習いの少年の胸は上下しているが、まぶたの裏に誰かの音が住みついているようで、呼びかけに応えない。


 ヨハンは銀の裂片を掌に包み、耳を近づけた。銀は言葉を発しない。だが、拍がある。――骨太鼓の裏返しの拍、誰かに奪われた心拍の影だ。


「拾ってくれと、言った」

 ミレイユが羽根筆で裂片の輪郭をなぞり、息を吐く。「この子は、鐘の“間”を拾ったの。だから、声が戻らない」


 エステラが鼻をひくつかせた。「甘くない。……黄昏の粉じゃない。地下の冷気。――“夜梯子よばしご”の匂い」


「行くニャ」

 ボミエが杖を抱き締め、耳を立てた。「トマスを置いて、次の幕へは行けないニャ。夜の下へ降りるニャ」


 ヨハンは頷き、胸の銀――欠けて輪郭が変わった十字――をきつく握った。「降下の祈りは殴るためでなく、掴むために。――降りて、拾って、戻る」



II 夜梯子の支度


 教会の床を少し剥がすと、ひび割れた石に古い刻印が見えた。円と直線、そして細い梯子の絵。

 ルーシアンが水を薄く流して埃を抑え、ザードルが炎を音だけで灯し、影が濃くならないように整える。ジュロムは梁に楔を増やし、ナディアは笛の穴を布で拭いた。


「“夜梯子”は二人で降りるのが掟」ミレイユが言う。「片方が呼ぶ、片方が返す。――どちらも、途中で振り返らないこと」


「わたしが呼ぶニャ」

 ボミエは星潮の杖に結んだ三つの小さなのこり――ピックルの芯、アメリアの布、ライネルの反句の欠片――に指を添える。「震えは節に入れるニャ。節は線に、線は梯子になるニャ」


「なら、ワシが返す」

 ヨハンは銀の裂片をポケットに落とし、残った十字を掌に乗せた。「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。返名は道しるべじゃ」


 ヴァレリアが棘を見せ、冷ややかに微笑む。「約束、忘れないで。最初に斬るのはわたし。――あなたたちが戻るまで、私が入口を斬って守る」


 エステラは鼻で穴の縁を嗅ぎ、「甘さ、ゼロ。冷たさ、十分。――夜が下から覗いてる」


 ナディアが短く笛を鳴らし、二音で合図を決める。「降りる拍は二三。戻る拍は一四。混ぜないで」



III 降下


 ヨハンとボミエは梯子の最初の段に片足を掛けた。

 音は消え、代わりに匂いが濃くなる。鉄、石、湿った紙。古い祈りが湿度の中に沈んでいる。


「Ex voco… Misericordia… inter manus」

 ヨハンが囁き、ボミエが星の線を梯子の左右に渡す。

 光はない。だが、線が見える。震えを節にして、暗闇に目盛りを刻む。


 十段降りたところで、風が逆向きに吹いた。下からではない。横から。

 ボミエが耳を伏せる。「ここで振り返るなニャ。匂いは幻ニャ」


「聞いとる」

 ヨハンは十字を胸骨に押し付け、息を刻む。二三、二三。

 梯子は柔らかくなり、次第に“手触り”だけが梯子の正体になる。骨のような、布のような、不確かな段。


 やがて、梯子は終わった。

 二人は床のない場所に立っていた。足は地面を感じないのに、落ちない。落ちないから、歩ける。



IV 地下聖堂の“間”


 そこは地下聖堂の影絵のような場所だった。柱は輪郭だけ、祭壇は刻印だけ、蝋燭は音だけ。

 奥に鐘が吊られている。音はしない。だが、鳴り終わりだけが空中に残っている。


 鐘の前に、少年が立っていた。トマス。

 彼は振り返らない。振り返れば、道が消えるから。

 ボミエが小さく息を吸い、「トマス、聞こえるニャ? わたしだニャ」


 少年の肩が僅かに震え、また静かになる。

 鐘の向こう側で、骨太鼓がコン、コッ、コンと低く、遠く、逆さに鳴った。


「クローヴィスじゃ」

 ヨハンは銀の裂片を指で転がし、足元の“ない”床に十字の影を置いた。「呼ぶな。返しを待て」


 骨太鼓は返しを待たない。拍は奪うためにある。

 鐘の“鳴り終わり”がもう一度、微かに揺れ、トマスの足元に影の綱が伸びた。


「切るニャ」

 ボミエが杖を振る。星の針が一本、綱の“次の結び目”に刺さる。肉ではない。未来の筋に。

 綱は切れない。だが、遅れる。

 遅れた半拍にヨハンの祈りが板を挟み、影の綱は鐘の柱に擦れて細くなる。



V 裁縫師と書記の影


 鐘の背後の暗がりから、二つの影が歩み出る。

 骨の拍を持つ楽士がくしの影――クローヴィス。

 血で契約を書く書記の影――ネリナ。

 どちらも輪郭だけで、中身は冷たい音で満ちている。


「ここは法廷の余白」ネリナの声は紙の音。「判決の“述語”を先に決める場所。――この子は、鐘の“します”を拾った」


「返すニャ」

 ボミエが一歩進み、杖を胸に。「トマスの“します”は、街にあるニャ。黄昏の述語には渡さないニャ」


 クローヴィスが骨を指で打つ。コッ、コン、コッ。

 拍は逆立ちし、歩幅を狂わせる。

 ヨハンは十字を胸に押し当て、返名の祈りを落とす。「Nomen reddo… inter manus。――鐘守かねもりトマス」


 名前は主語ではない。だが、骨だ。

 骨が入れば、拍はその骨に従う。

 クローヴィスの骨太鼓が一瞬だけ空振りし、ネリナの筆が白紙の端をなぞって止まる。


「返ってしまうのね」ネリナが寂しそうに笑う。「返す動詞は、きらい」



VI 星縫いの階段


 鐘の綱に新しい梯子が現れた。ボミエの線が結んだ、星の梯子だ。

 トマスのかかとがそれに触れ、少年は振り向かずに一段、上がる。


「いい子ニャ……そのままニャ。振り返らないニャ」

 ボミエの声は小さい。だが、線はその声を覚える。

 ヨハンは後ろを守る。クローヴィスの拍は再び逆さに鳴り、ネリナの筆が無主の記号を空に描く。


「無主の鐘は、誰にでも鳴らせる」ネリナ。

「誰にでもは、誰もじゃ」ヨハン。

 十字が光らないのに重くなり、骨拍の道を踏み抜く。


 クローヴィスが骨を三つ同時に打つ。コン・コン・コン。

 拍は等間に割れ、星の梯子のが伸びる。

 トマスの足が一瞬宙を踏み、落ちそうになる。


「ダメにゃ――!」

 ボミエは震えを節に変え、一段を“句点”にする。

 句点は止める。

 トマスの足がそこに止まり、落ちない。


 彼は顔を上げないまま、囁いた。

「……ぼく、鐘を鳴らしてないのに、鳴った……」

「鳴り終わりを拾ったのニャ。悪いことじゃないニャ。――返すだけニャ」



VII 黄昏公の囁き


 聖堂の奥から、黄の薄皮が滲み出る。

 アドラステアの声は、姿より先に届いた。「降りてきたのね、御坊。礼儀は守られている」


「礼儀は順番じゃ」

 ヴァレリアの棘の影が、上の穴の縁から斜めに差し込み、光のない夜の空気を裂く。「最初に斬るのは、わたし」


「ええ。上では、ね」

 アドラステアの声は横から鳴る。黄昏は、上下を嫌う。間を好む。

 ボミエは声の方向を追わない。追えば、線が絡む。

「アドラステア。トマスは返すニャ。代わりが欲しいなら――わたしたち全員が盾になるニャ」


 黄の声が少しだけ笑った。「甘い。――好き」



VIII 骨に勝つ調べ


 骨太鼓の拍がさらに速く、小刻みになる。ココッ、コン、ココッ、コン。

 ナディアの笛が上の世界でそれを聞き取り、返しを吹く。

 笛の返しは梯子の段に宿り、星の結び目は増えすぎないように自制する。


 ザードルの炎は音だけで高音を支え、ルーシアンの水は梯子の隙間に浮力を仕込む。

 ミレイユは羽根筆で撚名の束を結界に貼り、エステラは鼻で甘さが入り込む隙を弾く。


 ヨハンは十字を胸で押し、言葉を短く刻む。

「呼ぶ――返す――掴む」

 動詞は梯子になる。主語は街だ。

 トマスの足取りが軽くなり、星の段が上へ延びる。



IX 見送りの骨、見返りの血


 鐘の背で、クローヴィスが骨を片手に持ち替えた。拍が告別の拍に変わる。コン……コッ……

 ネリナは筆を下ろし、紙を巻いた。「今回は、見逃す。――上で会える」


「上で会っても、返すニャ」

 ボミエの声は強く、しかし震えは節に入っているだけ。

 黄昏の声が、最後に一言だけ落とす。「御坊。……銀は、欠けたままが美しい」


 ヨハンは十字の角を撫でた。「欠けは刃にもなる」



X 帰還


 梯子は穴の縁に繋がり、空気が濃くなる。匂いが薄くなり、音が戻ってくる。

 ナディアの笛が一四を合図し、ジュロムの肩が梁を押し上げ、ザードルの炎が色を取り戻し、ルーシアンの水が床を固体へ戻す。


 ボミエがトマスの背に手を添え、最後の一段を押し上げた。

 少年は地に立ち、膝から崩れる。「……ぼく……鐘を、鳴らした?」

「鳴り終わりを返したニャ。立派な鐘守だニャ」


 ミレイユが彼の手を取り、名録に一行を書き足す。

 ――《鐘守見習いトマス、鳴り終わり返却。呼吸、街に復す》


 ヨハンは胸の銀を確かめる。欠け目は深く、しかし十字は軽くなっている。

 ヴァレリアが棘を袖に仕舞い、ふっと笑った。「戻った。――順番も、守られた」



XI 潮窯の男、蝶番の独白


 夜、潮窯。

 イーサンは薄い眠りから目を開け、石天井の星の結び目を見つめた。


「戻ったのか。――鐘は、鳴り終わった」


「返したんじゃ」

 ヨハンが窯口に座り、答える。「お主が蝶番である間、ワシらは扉を落とさん」


 イーサンは短く笑う。「扉は重い。……持つ手が要る」


「手はあるニャ」

 ボミエが窯口に顔を出す。耳は立ち、尻尾は膝に巻きつき、杖は胸に。「わたしの震えは、もう線の中にあるニャ」


 イーサンはその杖を見て、声を細くした。「増えているな。……欠片が」


「三つニャ。ピックル、アメリア、ライネル。――そして四つ目は、まだ結ばないニャ。銀の裂片は御坊の胸にあるニャ」


「それでいい」

 イーサンは目を閉じる。「上告は、まだ終わっていない」



XII 黄の雲、港の稽古


 翌日から、港は稽古を始めた。戦の稽古でもあり、合唱の稽古でもあり、呼吸の稽古でもある。


 ナディアは笛の譜を三段に増やし、非常時の合図を色で分ける。

 ザードルは炎の音階を練り、灯りが“灯りのまま”でいられるよう温度の守りを作る。

 ルーシアンは水路に逆潮の溜まりをいくつも用意し、逃げ道でなく戻り道を設計する。

 ジュロムは大槌で床を叩き、梁の鳴きを覚える。「ここは耐える、ここは響く」

 エステラは鼻で市場を歩き、甘さの流入を見つけては砂を撒く。

 ミレイユは名録を繕い、撚名の束を固め直す。

 ヴァレリアは棘を磨き、初撃の角度を三度試し、四度目で微笑を作った。


 ボミエは夜毎、星の糸を撫で、震えを節に落とし、節を線に仕立て、線を網にする。

 ヨハンは胸の銀を温め、短く唱える。「掴め」――合図ではない。復唱だ。

 港の子どもたちまでがそれを真似て、遊びの終わりに掴めと言い合う。

 言葉は筋肉になる。



XIII 黄昏公の側の支度


 沖の霧の向こう、黄昏公アドラステアは静かに髪を梳かしていた。

 鏡の中に映るのは、自分ではない。夜そのもの。

 ヴァスコが槍を磨き、「御身、上告の形は」と問う。


「述語は、わたしが持っていく。――するのは、わたし。されるのも、わたし。させるのも、わたし。させられるのも、わたし。――恋は、いつも過剰」


 イリダは霧犬の首輪を撫で、「港の鼻は鍛えられています」と警告する。

 ネリナは新しい紙を開き、「無主の記号だけじゃ、彼らの撚名をほどけません」と眉を寄せる。

 クローヴィスは骨を指で弾き、「拍を食べるのではなく、疲れを足す。――今回は長丁場」と静かに言った。


 アドラステアは黒真珠を喉で鳴らし、小さく笑った。「幕を長くする。――終わりは、好きだから、遠ざける」



XIV 夜の前の夜、ささやかな食卓


 戦と祈りばかりでは、息が持たない。

 ナディアが小さな食卓を用意した。塩パン、オリーブ、少しのタコ。

 ボミエが目を丸くする。「またタコニャ……」

 エステラが笑って鼻を鳴らす。「嫌いでも、匂いはわかるでしょ。――潮の現在の味」


 ヨハンは最初にタコへ手を伸ばし、噛みしめ、目を細めた。「……うむ。やはり、慣れんのう」

 皆が笑い、重さが半歩だけ軽くなる。

 ミレイユが杯を掲げた。「撚名に。――われらの名に」

 ヴァレリアが棘でパンを刺し、笑わずに言う。「順番に」


 ジュロムは杯を高く掲げ、「返すに!」

 ザードルは「灯りに」、ルーシアンは「水に」、ナディアは「拍に」、エステラは「鼻に」、ボミエは「星に」。

 ヨハンは最後に言った。「掴むに」



XV 暮鐘石の二度鳴り


 夜半、石円壇の中央に置かれた暮鐘石が、誰も触れないのに二度、小さく鳴った。

 それは前打ち。――幕が上がる前に喉を鳴らす、歌い手の礼儀。


 エステラが鼻を上げ、「来る」と短く告げる。

 ナディアが笛を取って二三を吹き、港全体の胸が同時に持ち上がる。

 ザードルの炎は無色の高音を保ち、ルーシアンの水は輪で拍をしまう。

 ジュロムは大槌で地を二度叩き、ミレイユは羽根筆で名録の余白を開ける。

 ヴァレリアは棘を袖に滑らせ、ボミエは杖の結び目に指を置いた。

 ヨハンは胸の銀を押し、「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために」と低く告げる。



XVI 黄昏の行列、再来


 靄が割れ、黄と黒の行列が港を渡る。

 先頭にアドラステア。黄昏の目は暗く、しかし柔らかい。

 槍騎士ヴァスコ、霧犬のイリダ、書記ネリナ、骨楽士クローヴィス。

 彼らの歩みは遅い。遅いほど、長い。長いほど、疲れが足される。


 アドラステアが微笑む。「幕を、長くしましょう」


「なら、拍を分ける」

 ナディアの笛が三段譜を刻み、街の呼吸が交代制になる。

 一部が吸い、一部が吐き、一部が止める。疲れは回る。


 クローヴィスが骨を撫で、「面倒だ」とぼやいた。

 エステラが鼻で笑う。「面倒は、生き残る味」



XVII 述語の争奪


 アドラステアが石円壇の中央に言葉を放った。

 「愛す――奪う――赦す――残す」

 述語は舞台に杭を打つ。そこに主語が並ぶ。

 ミレイユは羽根筆で並べ替える。「われらが残す。われらが赦す。われらが奪わない。われらが愛す」


 ネリナが筆で書換を狙う。「無主が従う」

 ボミエが杖で反句の刃を差し込む。「無主は存在しないニャ」

 ライネルの欠片が杖の頭で薄く鳴り、無主の記号が紙から剥がれる。


 アドラステアは黒真珠を鳴らし、嬉しそうに囁いた。

 「嫌い。だから好き」



XVIII 槍と棘、礼儀の裂け目


 ヴァスコが礼儀正しく踏み込む。

 ジュロムは礼儀正しく受けない。肩で、斜に、鈍く。

 槍と槌の音だけが高く、金属は鳴らない。

 ザードルの炎が音の高さを支え、ルーシアンの水が足の深さを奪う。

 ヴァレリアの棘が順番を守って割り込む。「最初に斬るのは、わたし」

 棘は槍の礼儀を崩さずに、ずらす。

 ボミエの線がそこへ句点を落とし、槍の“次”が迷う。


 イリダの霧犬が鼻を狙う。

 エステラは鼻で笑い、砂を撒き、甘さを消す。「ばいばい、にせものの匂い」



XIX 蝶番の決定


 そのとき、潮窯の鎖の中でイーサンが立ち上がった。

 星の指輪と祈りの板と仮名の縄が軋み、ほどけないまま、彼を“立っている蝶番”にする。


 アドラステアの黄の目が震える。「戻ってきなさい」

 ヴァレリアの棘が静かに上がる。「最初に斬るのは、わたし」

 ヨハンは胸の銀を押し、短く告げる。「掴め」

 ボミエは杖を掲げ、耳を立てる。「逃さないニャ」


 ――イーサンは、首を横に振った。

「俺は扉に残る。蝶番のまま。――お前たちが、行き来できるように」


 述語は決まった。

 「残る」。

 主語は――「俺」ではない。「扉」。

 街の合唱が拾い、ミレイユの羽根が記す。

 ――《扉が残る。蝶番は、折れない》


 アドラステアは目を閉じ、黒真珠を喉で鳴らした。

「嫌い。――だから、愛す」



XX 退潮


 暮鐘石は鳴らなかった。

 黄の行列は、拍に負けて退いたのではない。幕の長さに飽きて、引いたのだ。

 クローヴィスの骨太鼓は布に包まれ、ネリナの筆は蓋を閉じ、イリダの霧犬は輪の中で丸くなり、ヴァスコの槍は胸に立てられ、アドラステアは微笑の角度だけを残して靄へ消えた。


 港は息を吐いた。

 ナディアの笛が解散の二音を吹き、ザードルの炎が色を戻し、ルーシアンの水が輪を解き、ジュロムは槌を肩に担ぎ、エステラは鼻で新しい朝の匂いを嗅いだ。

 ミレイユは名録を閉じ、ヴァレリアは棘を袖にしまい、ボミエは杖を胸に抱えた。

 ヨハンは胸の銀の欠片を撫で、最後に小さく言った。


「掴んだ」



終章の手前に


 夜は終わっていない。黄の薄皮はまだ空に貼りついている。

 だが、港は拍を持ち、名を持ち、述語を選んだ。

 鐘は、鳴り終わりを自分で返せるようになった。

 蝶番は、自分の意志でそこに残ると決めた。


 ボミエは屋上で星を見上げ、杖の結び目を撫で、耳を立てて小さく笑った。

「ピックル、アメリア、ライネル。――次も、いっしょに行くニャ」


 ヨハンは窓辺の海に十字の影を落とし、ゆっくりと深呼吸をした。

「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために。――そして、扉は残る」


 満潮はまた来る。

 だが今、街は自分で引いて、自分で満ちることを覚えはじめていた。

 その拍の上に、次の幕が、静かに、しかし確かに、登り始めている。

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