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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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生贄の村編 第7話 名の手向け



I 雨と灰のあいだ


 夜の雨は一度弱まり、明け方の手前で音だけを残してやんだ。

 村は静かだ。井戸の縁に黒く貼り付き続けていた古い層は、薄皮のように剥がれ、丸石の目地にまで水が行き渡っている。

 焚かれた杭の跡は泥を吸って冷え、かすかな湯気が立つ。鼻に残る鉄の匂いはまだ消えないが、そこに湿った土の匂いが重なって、息が少し楽になっていた。


 ルカは広場の真ん中に立ち、掌を合わせて深く息を吸った。

 「おはよう」

 その一言が、広場の四方の戸口を開ける。

 戸口に顔が現れるたび、ルカは短く頷いた。

 「おはよう、ヤロス」

 「おはよう、アニェス」

 「おはよう、エミル」

 呼ばれた名に、誰かが驚き、誰かが泣き、誰かが目をそらし、またゆっくり顔を戻した。


 ヨハンは井戸の縁に片手を置き、背を伸ばした。鎖帷子の鎖目がわずかに雨を滴らせる。

 「名を声にするだけで、景色が変わるな」

 ナディアは笛を懐にしまい、頬に当たった雫を親指で拭った。

 「昨日まで、影にしか見えなかったのにね」

 ヴァレリアが小さく笑う。

 「影でも人でも、名を呼べば『誰か』になる。祈りの最初の形」


 ボミエは帽子のつばを上げ、井戸のへりを覗いた。

 「底、静かニャ。もう縫い目は動かないニャ」

 ルーシアンは槍の穂先を布で拭きながら、広場を回すように見ている。

 「静かにしてる間に“次の手”が入らなきゃいいがな」


 ミレイユは名録の縁を撫で、紙の白さを確かめる。

 「黒い染みは残る。でも、上書きはできる。……書くのは村自身」


II 手向けの輪


 陽は薄雲の向こうで白い輪になっていた。

 長老は杖を突いて広場に出て来ると、井戸の前で膝をついた。

 年寄りの眼は濁っていたが、その奥に沈んだ石のように、動かないものがあった。

 「呼んでくれ」

 誰にともなく言ってから、自分で続ける。

 「私は、イヴァンだ。……イヴァンだ」

 名乗る声は掠れており、最初の音だけが強かった。

 彼の名を聞いて、あちこちの戸から「イヴァン」という音が返る。長老の肩が細かく震え、背を丸めたまま泣いた。


 ルカが井戸のそばに膝をつく。井戸を囲む石の輪に、もう一つの輪が重ねられていく。

 少年は麻紐を取り出し、木片に名前を刻み始めた。

 「ここに、みんなの名を吊るそう」

 ナイフの先が木の目を拾い、ぎこちない字が並ぶ。

 最初の板には「ルカ」、次には「母の名」、さらに「父の名」。

 やがて近づいてきた子どもたちがそれぞれの名を刻み、手の届く高さに結びつけていく。

 大人たちは最初ためらったが、やがて一人、二人と輪に加わった。

 釘も血も使わない。麻紐だけで足りた。

 風が動くと、縁に吊るされた名の板が、鈴のない鈴のように、わずかに触れ合って音を出す。


 ヴァレリアがその輪を見て言った。

 「手向けは刃じゃなくて、手の作業でいいのよ。

  血の代価は、もう要らない」


 ボミエが宝珠の光で板を乾かす。

 「湿りが残るとカビるニャ。長持ちさせるニャ」

 ミナは風紙を束ねて井戸の口にかざし、空気の巡りが乱れないように軽く符を貼る。

 ミレイユは名録の余白に、輪の図を簡単に描いた。

 輪は、広場だけにとどまらない。回廊、家々、小さな畑、丘の道。名の線で、村は結び直されていく。


III 布と汁とパン


 昼前になると、広場に布が敷かれ、鍋が持ち出された。

 誰かが干し肉を刻み、誰かが豆を洗い、誰かが玉葱を炒める。

 「……食うのは久しぶりだ」

 男が恥ずかしそうに笑い、女が肩を叩く。

 「昨夜も食べたでしょ。声を」

 笑いが散った。


 ボミエは鍋のふちに鼻先を近づけ、目を輝かせる。

 「いい匂いニャ。胡椒があるニャ?」

 「あるよ。ほら、猫ちゃん」

 「猫ちゃんではないニャ。立派な魔導士ニャ」

 そう言いながら胡椒の小瓶を受け取り、指先で弾いて香りを立てる。

 ルーシアンは匙でもらった煮込みを黙って口に運び、ひとつ頷いた。

 ナディアはパンを割り、ルカの皿に一切れ多く置いた。

 「ありがとう」

 「礼は要らないよ。約束でしょ。生きるって、食べるってこと」


 ヨハンは布の端に腰を下ろし、鎖帷子を肩で少しゆるめた。

 膝の上に置かれた器から、湯気が鎖の隙間を芯まで温める。

「うまい」

 誰にともなくそう言うと、隣に座っていた年配の女が微笑んだ。

 「御坊。あんた、顔が見えないねえ」

 「見なくていい顔だ」

 「でも、声がいい。うちの孫がじいさんに似てるって言うんだわ」

 ヨハンは、わずかに肩を揺らした。

 「孫に、よろしく伝えてくれ。……じいさんは、もう少し歩くと」


IV 石の下の会話


 昼過ぎ、空は明るく、雲は早く動いた。

 村はそれぞれの仕事に戻りはじめ、広場は少しずつ静かになっていく。

 ヨハンは井戸の縁に片手を置いたまま、しばらく石の下を眺めていた。

 そこに、足音もなくヴァレリアが立つ。

 「背中、痛む?」

 「大したことはない。……昨夜の、最後の言葉のことを考えていた」

 「『裏切り者』?」

 ヨハンは頷いた。

 「たしかに俺は、あれに“背を向けた”。昔は、向こう側に立っていたから」

 「向こう側に立っていたから、今は背を向ける。裏切りでいいじゃない。

  あなたの裏切りで、救われるものがあるなら、私はその言葉を胸に下げる」

 「お前は強いな」

 「弱いの。弱いから、言葉に体を寄せているだけ」

 ヴァレリアは空を見上げ、微笑んだ。

 「それにしても、あなたはいつも正しいところで刃を使わない」

「まだ、刃でしか払えないものも多い」

 「でも、今朝は刃ではなかった」

 「今朝は、声で足りた」


V ひとつ欠けた輪


 午後、木片の輪に、ひとつだけ空いた間が目立っていた。

 そこには小さな板を結ぶための紐だけが垂れ、板の姿がない。

 ルカが紐を指で摘み、小さく眉を寄せる。

 「ここ、誰の?」

 「……イルゼだ」

 母親が答えた。

 「隣村の子。去年、冬のはじめに……」

 言葉はそこで切れた。

 ルカは頷き、木片を取り、板面の端から名前を刻んだ。

 「イルゼ」

 「いいの?」

 「いい。いない人の名でも、呼ばれれば、どこかで立つよ」

 ミレイユはその板を見て、小さく短句を書いた。


呼べない名

呼んだときだけ

輪の音


 風がやさしく吹き、イルゼの板が他の板とかすかに触れ合った。


VI 林の影


 村はずれ、昨日影が立った林の端。

 小鳥の羽根が二、三枚、濡れた地面に散っている。

 足跡は浅く、長靴の幅。

 ヨハンがそこに視線を落としたとき、ルーシアンが言った。

 「見張っていたのはひとりじゃない。足は二つ以上。重いのと軽いの」

 「器を置いた跡は?」

 「片付けてる。痕跡を残さない癖がついてる手合いだ」

 「町へ下ったか」

 「風の向きなら、東。川筋沿い。……祭と市が立つ季節だ」

 ヨハンは顎に触れ、鎖帷子の隙間から低く息を吐いた。

 「賑わいと“律”は仲がいい。人が集まるところへ、言葉は入りこむから」


VII 見送りの輪


 出立の時刻、広場には名の輪ができた。

 村人たちが互いの名を呼び合いながら立ち、真ん中にヨハンたちがいる。

 ルカが前に出て、深く礼をした。

 「ありがとう。……でも、ありがとうは一回だけ。あとは“また”」

 ヨハンは頷き、片膝をついて少年の視線に下りた。

 「ここは、お前の声で持つ。俺たちの声は、遠くからでも届く。

  何かがまた縫おうとしたら、名前を呼べ。……お前の、誰かの、みんなの」

 ルカは頷き、唇を結んだ。

 「また」

 「まただ」

 ナディアは笛を胸に当て、短く輪を吹いた。

 それは祈りではなく、合図。別れの音でもない。

 ――続け、の音だ。


 ボミエは帽子を押さえ、最後にもう一度井戸の縁を撫でた。

 「乾いてるニャ。よし、よし」

 ミナが風紙を束ねて懐に収め、ミレイユが名録に紐をかける。

 ルーシアンは槍を背に回し、無言で顎を上げた。


 歩き出す足の下で、泥が柔らかく鳴った。

 丘をひとつ越えれば、村の輪の音は薄くなる。

 けれど、風向きが変わるたび、板が触れ合うかすかな気配が背中に戻って来る。

 振り返らない。戻らない。

 前へ。


VIII 酒場の看板


 川沿いの道は、ひと月ぶりの市場へ通う荷車で少し賑わっていた。

 日が傾いた頃、町の外れに粗い木組みの宿屋が見え、二階の窓から暖かな灯りが漏れている。

 看板には、泡をあげた黒い盃。

 「……飲むか」

 ヨハンが言うと、ナディアがすこし笑って頷いた。

 「飲もう。今日は飲もう」

 ボミエは鼻先をぴくりと動かし、尾を揺らす。

 「肉の匂いニャ。魚もあるニャ。ソーセージもあるニャ」

 ルーシアンが目だけで天井を指す。

 「上の奥の席、空いてる。背中が守れる」


 扉を押すと、暖炉の熱が鎖帷子の表面を柔らかく包んだ。

 厚手の木の卓、泡を流す音、スパイスの香り、笑い声――人が生きている音が、ここではほとんど恐怖の衣をまとっていない。

 給仕の女が気っ風のいい声で迎え、すぐに薄切りの肉とパンとスープ、そして黒い麦酒が並べられた。

 ボミエはこっそりと卓の下にパンの切り端を落とした。

 「……何をしている」

 ヨハンが目だけで問うと、ボミエは耳を少し倒して笑った。

 「野良が顔をのぞかせたニャ。ほら、あそこ」

 卓の陰から、汚れた毛並みの小さな犬が鼻を伸ばしている。

 ひどく痩せ、目だけがひたむきに明るい。

 「おいで。食べていいニャ」

 犬は最初びくりと身を引いたが、パンの匂いに耐えきれず、そろそろと近づいて切れ端をくわえた。

 ナディアが目を細める。

 「かわいい」

 ルーシアンは肩をすくめた。

 「ついてくるぞ、たぶん」

 ボミエは得意そうに、もうひと欠片落とした。

 「名前、いるニャ」

 「早い」

 「ニャ」


IX 灯の下で


 杯が半分空になった頃、戸口の陰で小さなざわめきが起きた。

 旅の憲兵が二人、外套に雨粒を散らして入って来る。

 宿の親父が慌てて布巾で手を拭き、迎えに出た。

 「夜警の通達だ。広場に集まれ、だとよ」

 「火事か?」

 「違ぇ。……祭の準備を、しばらく止めろだと」

 店の空気が少し変わった。

 祭は町の心臓だ。止めろと言うのは、心臓に手を突っ込むのと同じ。


 憲兵の一人は卓の上に乾いた紙を置いた。

 役所の刻印。滑らかな書き手の字。

 『巡回告示 近隣にて不穏な“集会”の兆候あり。民を惑わす“印”の配布が確認された。

  祭の名を借りた“律”に注意。五芒の印を見た者は届け出よ』


 ヨハンは紙から目を上げ、ルーシアンと視線を合わせる。

 「東の足跡」

 「ここだな」

 ナディアは笛に指を当てた。

 「今度の“律”は、形を持ってる」

 ヴァレリアが紙の角を指で押し、薄く笑う。

「政治の匂いも、する」

 ミレイユは名録を開き、余白の片隅に星形を一つ置いた。


 ボミエの足元では、さっきの犬が丸くなっている。

 「ついてくるニャ」

 「チューリップ、はどうだ」

 ヨハンがふと呟いた。

 ボミエがぱっと顔を上げる。

 「いい名前ニャ!」

 犬は首を傾げ、短く尻尾を振った。

 ナディアが笑い、ルーシアンがため息をついた。

 「決まりだな」


X 名の手向け


 夜、宿の窓から外をのぞくと、町の広場に祭の骨組みが見えた。

 花輪を掛けるはずの梁はまだ空で、幟の布も巻かれたまま。

 代わりに、角灯がいくつも置かれ、役人の声が冷たい石に跳ねた。

 ヨハンは杯を置き、立ち上がる。

 「歩こう」

 「今から?」

 「今からだ。名の輪を見せに来るやつらがいる。手向けなら、先に置いてやる」


 外は冷える。

 鎖帷子の頭巾を手で馴染ませ、ヨハンは一段下りるたびに足の裏で石の癖を掴む。

 広場の端で足を止め、懐から小さな板片を取り出した。

 ルカが刻んでいたものとおなじ板。

 彼は短い刃で板面に名を書いた。

 ――“名を奪わせない者たち”。

 言葉としては成っていない。だが、板は板だ。

 ボミエが麻紐を仕舞いから出し、ミナが風紙の端を裂いて紐に絡める。

 ヴァレリアは板の端に薄い霜を置いて文字の角を締め、ミレイユは名録に丸印をつけて位置を記録した。

 ルーシアンは見張りの兵の視線の隙を読む。

 「今だ」

 ヨハンは骨組みの低い梁に板を結びつけ、指で二度叩いた。

 鈴はない。音はない。

 だけど――風が通れば、ここでも輪は鳴る。

 名で呼ばれたときだけ。


 戻る足元で、チューリップが軽く吠えた。

 短く、控えめに。

 「静かに、な」

 ヨハンが手を下げると、犬は耳を伏せて従った。


XI 遠い仮面


 夜更け、宿の向かいの石造りの屋根に、ひとつ影が腰を下ろした。

 外套の内から取り出した小皿に粉を落とし、指で五つの点を線で結ぶ。

 「遅いな。……でも、来たか」

 男の口元に笑みがかすかに見えた。

 「祭は大きいほど、音がよく響く。いい“律”になる」

 遠くの闇の中に、同じような影がもう一つ。

 金の紋章。黒い外套。

 男は小皿を重ね、ひと吹きの息で粉を散らした。

 散った粉は、風に乗り、石畳の隙間へ、扉の蝶番へ、酒樽の栓へと忍び込んでいく。


 犬が低く唸った。

 ボミエは犬の頭を撫で、耳に囁く。

 「大丈夫ニャ。仲間がいるニャ」


XII 夜の縁


 寝床に戻る階段で、ナディアが足を止めた。

 「ねえ」

 ヨハンが振り返る。

 「昨日の村……生きることを選んだあの声、忘れないでいよう」

 「忘れない」

 鎖帷子の影からの声は低く、柔らかかった。

 「忘れずに、次でも呼ぶ。名があれば、縫われない」

 ナディアは頷き、笛を胸に抱えた。

 「うん。……明日、弦も買おう。祭、できるなら少し見たい」

 「見よう。見て、止めよう」

 ヨハンは短く笑った。

 「順番は逆だが、うまくやる」


 灯が落ちる。

 外では、山のほうから小さな雷がふたつ光った。

 遠い。まだ遠い。

 それでも、夜の縁はいつでも近い場所にある。



次回予告


酒場と花、市と霧 ――冬祭り前夜

黒い外套の客、甘い粉、五つの点。

賑わいは“律”の入り口。

野良犬チューリップは尻尾を振り、

老騎士は鎖の下で目を細める。

花火の上がる音とともに、最初の叫びが、石畳に落ちる――。

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