上告審の幕開け、夜の階段
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I 黄の空、ざわめく街
マリナ・デル・ベーラの朝は、静かだった。
それなのに、街全体の空気がざわついている。潮風には熟した果実の匂いが混じり、港の鐘は普段よりも低い音を響かせていた。
「黄昏の匂いが濃くなったわね」
エステラが鼻をひくつかせ、目を細めた。
「三十日の猶予なんて、初めからなかったんだわ。もう次の幕が開く匂いがする」
ヨハンは胸の銀を指で押さえながら、港の海面を見つめた。
「潮も変わっとる。満ち引きの拍が乱れておる。……“上告審”が近いのじゃ」
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II 潮窯の中の男
潮窯の奥、イーサンは静かに座っていた。
彼の足元には星の糸と祈りの縄が絡み、かつての“英雄”を蝶番のように縛っている。
それでも、その瞳はどこか遠い夜を見ていた。
「外のざわめきが聞こえる」
彼が小さく呟いた。
「街が息を整えようとしている」
ヨハンがゆっくりと答える。
「街が決めたのじゃ。今度は“街が”お主を裁く」
ボミエが杖を抱え、耳をぴくりと動かした。
「でも、イーサンは逃げないニャ?」
彼は目を閉じて、薄く笑った。
「逃げられない。……俺は蝶番だからな」
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III 準備する仲間たち
仲間たちはそれぞれ、法廷に向けた支度を進めていた。
•ナディアは鐘と笛のリズムを複雑に組み替え、混乱の中でも仲間が息を合わせられるよう調整した。
•ザードルは炎の音階を一段高くし、結界に必要な熱と拍を細かく調律した。
•ルーシアンは水路を繋ぎ直し、緊急時の退路と結界の“逃がし穴”を整えた。
•ジュロムは大槌を磨き、石の梁を補強して戦闘の舞台を整備した。
•ヴァレリアは棘を研ぎ直し、礼儀を外さない斬撃の角度を何度も確認した。
ミレイユは羽根筆を握り、記録用の羊皮紙に小さな文字を刻んでいた。
「“街が街を守る”。……その記録が、必ず力になる」
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IV 黄昏公の影
一方、沖合の霧の向こう――
黄昏公アドラステアは、静かにグラスを揺らしていた。
黒真珠のような瞳が、海の向こうの街を見つめている。
「準備は?」
彼女が問いかける。
「整っています、御身」
槍騎士ヴァスコが膝をつく。
「法廷の円は完全に組み直しました。今回は“述語”を問う場です」
ネリナは筆を手に微笑む。
「上告のための記録も揃いました。彼らがどの主語を掲げても、書き換えることができます」
アドラステアは薄く笑った。
「彼がどう答えるか、それだけが舞台の色を決めるわ」
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V 出陣前の誓い
その夜、教会の奥で仲間たちが輪を作った。
灯りは小さく、息づかいだけが響く。
「次は、逃げ場のない戦いになるわ」
ナディアが笛を握りしめる。
ジュロムは肩で笑った。
「逃げる気なんざねえさ。俺の槌は、“ここ”に残すためにある」
ヴァレリアは棘を胸に抱き、冷ややかに告げた。
「約束は果たす。――最初に斬るのは、わたし」
ボミエは杖を握りしめ、耳を立てた。
「今度こそ、誰も落とさないニャ。……星と、祈りと、街があるニャ」
ヨハンは胸の銀を撫で、静かに頷いた。
「掴むんじゃ。何が来ようとも」
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VI 法廷の夜
上告審の夜が訪れた。
法廷の石円壇は、前回よりも深い色をしていた。
古代文字の刻印が微かに光り、円の中央には再びイーサンが立たされている。
黄昏公アドラステアがゆっくりと歩み出る。
彼女の背後には、ヴァスコ、イリダ、ネリナ、クローヴィスが並び、その行列が夜の闇を切り裂いた。
「――始めましょう」
その声は、港の隅々にまで届いた。
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VII 述語の審問
アドラステアが指を上げると、骨太鼓が低く鳴った。
「第一の審問。あなたたちは、どう“する”のか」
ヨハンは胸の銀を握りしめ、声を張った。
「われらは、掴む! ――“街”を、“あいだ”を、そしてお主をも!」
骨太鼓が一瞬、拍を奪おうとするが、ナディアの笛がすぐに返した。
ボミエは杖を高く掲げた。
「星は震えないニャ! だからわたしも震えないニャ!」
ザードルの炎が線を描き、ルーシアンの水が結界を補強する。
ヴァレリアは棘を腰の高さに下げ、冷静に構えた。
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VIII 黄昏公の挑発
アドラステアが薄く笑う。
「掴む? その手はもう血で濡れているのに?」
ヨハンは首を振った。
「血で濡れても、掴む手は離さぬ。――それが祈りじゃ」
アドラステアは歩を進め、イーサンの前に立つ。
「イーサン。答えて。あなたは、どう“する”の?」
沈黙が落ちた。
観衆の心拍が、骨太鼓の拍に合わせて遅くなる。
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IX 決断の刃
その時、ヴァレリアが棘を抜いた。
「なら、わたしが代わりに答える。――斬るわ」
棘が一閃し、アドラステアの頬をかすめた。
薄い血の香りが夜に漂う。
黄昏公は驚きもせず、唇を吊り上げた。
「……礼儀は守られたわね」
その瞬間、ヴァスコの槍が閃き、ジュロムの肩口を裂いた。
大槌が石を叩き割る轟音が夜に響いた。
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X 乱戦
イリダの霧犬が姿を現し、観衆を混乱に陥れる。
ザードルの炎がその輪郭を焼き、ルーシアンの水が結界の外側を守る。
ナディアの笛が必死に拍を戻し、ミレイユの羽根筆が囁きを結界に縫い止めた。
ボミエは杖を掲げ、星の線を張り巡らせた。
「この結界、絶対に崩させないニャ!」
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XI 蝶番の答え
混乱の最中、イーサンが声を上げた。
「俺は――“街”に残る! 蝶番として、最後まで!」
アドラステアの瞳が揺れた。
「……そう。なら、あなたは“夜”のものでも“昼”のものでもない」
ヨハンが祈りを叫ぶ。
「ならば、その“あいだ”を掴んでやる!」
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XII 戦いの果て
激しい戦いの末、鐘が三度、低く鳴った。
黄昏公の行列が霧の中へと退き、骨太鼓の余韻だけが夜に残った。
法廷の中央には、倒れた仲間の影がひとつ――
その手には、ヨハンの銀の欠片が握られていた。
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XIII 静かな誓い
翌朝、港は静かだった。
仲間たちは疲れた体を抱えながら、それでも視線を交わす。
ボミエは杖を胸に抱き、強く言った。
「絶対に終わらせるニャ。もう誰も、落とさないニャ」
ヨハンは頷き、海を見た。
「掴むんじゃ。“夜”も、“昼”も、“あいだ”も」
空には、黄昏の薄い色が残っていた。
次の幕が、もう動き始めている。




