沼地恐怖編 第9話 赤灰の終わり
夜風が赤灰をさらい、村の屋根からひらひらと散らしていく。
音のない雨のように降るその粒は、炎の名残なのか、祈りの屍なのか。
誰も答えられなかった。
ヨハンは杖をつき、村の門を背にしながら振り返った。
「……人の恐怖は、火よりも灰を残すものだな」
ナディアは黙って旅の記録帳を閉じ、胸に抱いた。
「でも、書き残した以上、もう忘れない。あたしたちが次の土地で同じものを見たとき、気づけるように」
その横で、ボミエの耳がぴくりと動く。
「ニャ……まだいる。灰のにおいに混じって、遠くから視線を感じるニャ」
仲間たちが警戒するが、闇の中には何も見えなかった。
ただ、沼の奥から吹く湿った風が、彼女の言葉を裏付けるようにひやりと頬を撫でた。
◇
広場に残る人々は、まだ祈りの形を探していた。
ある老女がヨハンに縋りつくように言った。
「御坊……次に向かうなら、北の村は避けるがいい。そこでは今も……生贄を差し出す習わしが残っていると聞く」
「生贄……?」
ナディアの瞳が揺れた。
ヨハンは短く頷いた。
「情報に感謝する。だが、避けて通ることはできまい。人の命が秤にかけられるなら、見過ごすわけにはいかん」
ジークがその言葉に応じるように拳を握り、口を開いた。
「俺は……一緒に行く。あの夜に奪われた子供の代わりに、今度は俺が立つ」
その決意に、ミレイユがかすかに微笑んだ。
「そう……なら、私たちはもう“ただの旅人”じゃないのね」
◇
翌朝。
村を発つ一行を、沈んだ顔の村人たちが見送った。
赤灰にまみれた屋根の下、誰もが口をつぐんでいる。
門を出て、沼の湿地を越えると、灰はようやく風に消えていった。
ただし、それは目に見える灰の話だ。
胸に残った赤灰は、誰の息でも払えはしなかった。
ヨハンは歩きながら小さく呟いた。
「恐怖を売る者がいれば、必ず買う者がいる。……その鎖を、いつか断たねばならん」
ボミエが横を歩き、尾を振った。
「ニャ。次は、生贄の村。きっと、また何かが潜んでいるニャ」
誰も返事をしなかった。
ただ、旅の靴音だけが、赤灰を踏み砕いて進んでいった。




