沼地恐怖編 第8話 赤灰の記録
夜が明けた。
けれど、沼地の村に訪れた朝は、祝福というよりも呪詛の残り香のようだった。
家々の屋根には、赤黒い灰が薄く積もっている。燃えたはずの炎が残したものではない。昨夜、村を覆い尽くした“異形の泥”が、消え失せるときにまき散らした残滓であった。
ヨハンは杖を突き、重い息を吐く。
「……赤い灰。まるで、赦しよりも罪の証のようだな」
ナディアは首を振り、懐から布張りの手帳を取り出した。旅の記録を欠かさぬ彼女は、震える指でペンを走らせる。
「書き残さないと……。忘れたくても、忘れちゃいけないから。これはきっと、ほかの土地にも同じ影が伸びている」
その傍らで、ボミエが鼻をひくひくと動かし、残る気配を探っていた。猫人族の耳がぴくりと震える。
「ニャ……まだ完全には消えてない。影のにおいが、どこかに潜んでるニャ」
村人たちは広場に集まり、焼け落ちた祠の前で膝をついていた。
老人は手を組み、すすけた声でつぶやく。
「祈りを捧げたはずなのに……祠が炎に呑まれるとは。やはり、あの沼の化け物どもは、ただの怪異ではない……誰かが、仕組んでおる……」
ヨハンの眉がひそむ。
(またか。火刑の街と同じだ。恐怖をあおり、誰かがそれを利に換える……)
ちょうどそのとき、アルノが抱えていた帳面がナディアの足元に転がった。表紙は水に濡れて歪んでいる。ヨハンが拾い上げ、泥を払いのけて開いた。
そこには、奇妙な取引の記録が残されていた。
――「赤灰一袋 銀貨十枚」
――「祭祀の夜、村の若者ひとりを“供物”とせよ」
――「沼に沈むものへ、祈りを装い代価を渡すこと」
「……やはりな」
ヨハンの声が低く響く。
「恐怖を作り、祈りを売り、代価を搾り取る。どこも同じだ」
ミレイユが肩をすくめ、かすれ声でつぶやいた。
「赦しを与える神ではなく……恐怖を食う怪物に、代価を差し出してただけ。あの街も、この村も」
沈黙が流れた。
やがて、ジークが背を向けたまま低く呟いた。
「……俺は、これを見たことがある」
仲間たちが振り返る。ジークの瞳は、過去の影を映すように揺れていた。
「俺の故郷の村でも、“供物”と称して子供が連れて行かれた。……その夜、赤い灰が降ったんだ」
誰も言葉を返せなかった。
ただ、ナディアのペンが震えながら記録を続ける音だけが、広場に響いていた。
◇
夕刻。
ヨハンたちは村を発つ準備を整えていた。
赤灰を払うように風が吹き、屋根の影を不気味に揺らしている。
そのとき。
広場の端、倒れた祠の残骸の影に、人影がひとつ立っていた。
黒衣。けれど、捕らえたはずの“黒衣の男”ではない。
別の誰か。顔は見えない。ただ、赤い灰に溶けるように立ち尽くしていた。
ヨハンは杖を握りしめた。
「……まだ終わっておらんか」
影は何も言わず、風とともに掻き消えた。
残されたのは、不安の残響。
旅は続く。だが赤い灰は、彼らの心に刻まれたままだった。




