沼地恐怖編 第3話 沼の咽、斧の拍
I 夜の口、開く
門の外は、夜の内側だった。
葦は息を潜め、かわりに水が呼吸している。表面張力の膜が、遠くで規則正しく膨らんではしぼむ。その拍に合わせるように、灯が列をつくって進んでいた。火ではない。火のふりだ。
「拍は合わせるな。半拍ずらして歩け」
俺の声に、皆の足取りが小さく崩れる。ヴァレリアは刃の角度を落とし、ナディアは息を低く保ち、ルーシアンは瓶の栓を半分だけ緩めた。
ジークは斧を握り直し、顎を引く。肩に残る縄痕が夜露に濡れて光っていた。
「怖ければ、怖いと言っていい」
俺が言うと、ジークは短く答えた。
「歩ける。斧は落とさない」
葦の壁が一箇所だけ、内側から押されたように膨らんだ。そこに“門”が生まれ、灯の列が滑り込む。歌が反転して輪郭をほどき、輪郭だけが人の形をまねる。
鈴のない鈴が、一度だけ鳴った。――ようこそ、と。
II 逆唱の輪
浅い盆地の中央へ出ると、黒い水がなめらかに広がっていた。中心に、輪。輪の外側を“人のふり”が回り、内側に向けて逆さ言葉を投げ入れる。
輪の際には板が生え、こちらの足を待っている。
「踏まない」
俺は輪の外へ塩を散らし、杖で水膜を二度叩いた。薄い波紋が重なって、逆唱の拍が少しだけ乱れる。
ボミエが星杖の先で空に点を三つ置き、見えない糸で逆唱の輪を“ずらす”。
「真ん中は“口”ニャ。飲み込みたいだけニャ」
“人のふり”のひとつがこちらを向いた。目も鼻も口もない顔が、笑ったつもりになる。
ヴァレリアが半歩出る。
「こちらに来るなら、形を捨てろ」
影はすぐには来ない。鈴のない鈴が二度、遠くで鳴って合図を変える。拍が変わり、灯の列が逆回りを始めた。
ルーシアンが瓶を倒立させ、夜気の湿りをわずかに奪う。
「輪郭は湿りに乗る。乾けば鈍る」
ジークが斧を構えなおした。その刃は、人ではなく“縫い目”に向いている。
「縫い目を叩く。……教わった」
俺は頷き、輪の内側、わずかに凹む暗さを見た。そこが――**咽**だ。
III 咽
水面がたわむ。内側から大きな息を吸い込むように凹み、次の瞬間、暗さが立ち上がった。
それは巨きな喉頭の影で、人の喉のまねをした “器官のつもりのもの”。
声帯の位置にあたる二条の暗が波打ち、逆唱の音がそこから生まれている。
「近づくな。声が奪われる」
俺は杖の石突きで水面を叩き、咽の拍から半歩外へ出た。
ナディアが輪の外に“息の輪”を置き、こちら側の拍を固定する。
咽が開閉するたび、“人のふり”が膨らんでは縮む。拍が揃えば、こちらの足音が餌になる。
ヴァレリアが低く言う。
「輪郭だけの敵は、切っても増える。……なら、芯を眠らせる」
「非致死でいく。壊すのではなく、沈める」
俺の言葉に、皆が短くうなずいた。
IV 仕度
ルーシアンが粉末の小瓶を三つ、俺の手のひらへ転がした。
一つは乾き、一つは鈍り、一つは重み。
「順序は任せる。咽の拍に“逆順”を差し込め」
ナディアは笛を唇に寄せ、音を鳴らさずに指を動かす。
ボミエは星杖を横にし、尾で地面を二度打つ。
「こっちの拍を守るニャ。乱れたらすぐ戻すニャ」
ジークは斧を肩に担ぎ、視線を咽の付け根――暗さが水から顔を出す“縫い目”に据えた。
「言われたとおりにやる」
ヴァレリアが一歩先へ出た。刃はまだ抜かない。
「寝かす。起こさない。……それで終わらせる」
V 第一声
咽が開き、逆唱が一段低く沈んだ。
その瞬間、俺は“乾き”を水面へ散らす。膜が一所だけ痩せ、咽の輪郭が微かに崩れる。
ナディアの無音の指が、拍を半音ずらす。
“人のふり”が足をもつれさせ、輪の外へこぼれる。
ヴァレリアが初めて刃を抜いた。
切る、のではない。触れる。
刃先で“ふり”の外皮を撫で、力の向きを変える。
空気のベクトルがひとつ、こちら側へ寝た。
咽が息を吸い込む。
俺は“鈍り”を投げる。
声帯の位置で暗さが一瞬だけ擦れ、逆唱の舌がもつれる。
ジークが走った。
踏み込みは浅く、音は小さい。
斧は喉へではなく、縫い目へ――
“器官のつもり”と“水の記憶”を継ぎ合わせている境目に、柄で叩きを入れた。
鈍い音。
暗さが揺れ、拍が一拍だけ落ちた。
VI 咽返し
怒り。
咽が一気に開き、逆唱が裏返ってこちらの胸腔を叩く。
ナディアの膝が一瞬折れ、息が奪われかける。
「大丈夫」彼女は言い、自分の胸に輪を描く。「ここにいる」
ボミエが星の点で彼女の拍を縫い、尾で地面を三度打って固定する。
「奪わせないニャ。息は自分のものニャ」
“人のふり”が数を増やし、輪の外に押し寄せた。
ヴァレリアは刃を寝かせ、肩と肘で受け流す。
切らない。割らない。
輪郭の向きを、外へ、外へ。
「戻れ。名前の外へ」
ルーシアンが短く息を吐き、瓶を反転させる。湿りが一瞬濃くなり、次いで乾く。
影は滑りそこね、体重を見失って沈む。
「今だ」
俺は最後の粉――重みを、咽の付け根へ落とした。
暗さが、沈む側へ傾く。
ジークの斧がもう一度、縫い目へ叩きを入れる。
同時に、俺は杖で水膜を横へ押し、沈むための“坂”を作った。
咽が、咽返る。
自分の声でむせ、開こうとして閉じ、閉じようとして開く。
拍が壊れ、歌がばらばらになった。
VII 眠りの角度
「寝ろ」
俺は低く言い、刃裏で咽の輪郭に触れたヴァレリアが角度を添える。
ナディアの指が静かに降り、こちら側の拍が“子守歌”へ変わる。
ボミエの星が三つ、咽の上に点となって灯る。
「今は眠っていいニャ。朝になったら、別の水になれニャ」
ルーシアンが火粉を散らし、夜気の温度をわずかに上げる。
逆唱は抵抗をほどき、暗さは水の記憶に戻りはじめた。
“人のふり”は支えを失い、輪郭をやめる。
ひとり、ふたり――泥に返る。
最後に残った影が、ジークの足元で形を保とうとした。
彼は一度だけ斧を握りしめ、柄でそっと、それを地面に伏せた。
「帰れ。……お前の名前の外へ」
影は、ためらい、ほどけた。
VIII 静
鈴のない鈴が遠くで鳴る。
それは怒りでも嘲りでもない、承知の音だった。
沼の奥で、何かが顔を背ける。
今夜はここまで、と。
葦は少しだけ風を受け、場に残った拍を運び去る。
俺は杖を地に突き、皆の顔を順に見た。
ヴァレリアの刃は鞘に戻り、ナディアの肩は静かに上下し、ボミエの尾は高く一度揺れて止まった。
ルーシアンは瓶の口を締め、顎でジークを示した。
「やるじゃないか」
ジークは短く首を振る。
「みんなが位置をくれたからだ」
それで充分だ。
位置がわかる者は、歩ける。
IX 拾うもの
盆地の縁、倒れた板の下から、布切れがひとつ出てきた。
泥に細い刺繍。小さな花。
ナディアがそれを拾い、胸に当てる。
「覚えておく」
ボミエが頷く。「忘れないニャ」
夜明け前、沼の面は鏡に変わった。
こちら側の顔を映す鏡。
そこに、誰もいない。
よくない鏡ほど、よく映る。
俺は鏡を見ないようにして、足元の土だけを見た。
X 帰路
門までの道は、来たときより浅かった。
湿りが引き、足跡が自分の重みで残る。
門番は朝の準備をしながら、こちらを見て手を上げた。
「お帰り。顔が、あるな」
「お前のも、ある」
「今日は、井戸が静かだ」
塩の輪を崩し、火の芯を土で眠らせる。
俺たちは短く休み、暖かいものを胃へ落とした。
ジークは斧を膝に置き、静かに刃を拭った。
「ありがとう」
彼が言った。
「まだ、強くない。……でも、弱くもない気がする」
「それがいちばん面倒で、いちばん頼りになる」
ヴァレリアが短く笑い、肩で彼の背を小突いた。
「次は、もっと動け」
ナディアが湯気に顔をのぞかせる。
「あなた、食べる時だけは強いね」
ジークは照れたようにスープを啜り、言葉を飲み込んだ。
ボミエが小魚の干物をひとつ差し出す。
「食べ終わったら、板の根をもう少し探すニャ。夜に生える分を、昼に折るニャ」
ルーシアンが頷き、空を見た。
「それと……匂いが残ってる。咽は眠ったが、誰かが起こしに来る。人の足だ」
XI 影の帳簿
昼下がり、市場に人が集まる時間。
遠くから、旅の商隊が入ってきた。荷車に布と塩、乾いた材木、そして帳簿。
隊の先頭に、細身の男。指先は綺麗で、靴底は泥に慣れていない。
門番が耳打ちした。
「湿原の新しい橋を“測る”と言っていた奴だ」
俺たちは顔を見合わせ、小さく頷いた。
火刑の街で嗅いだ匂い。
恐怖を商う手は、どこへも現れる。
沼の咽と、帳簿の喉。
どちらも“飲み込む”道具だ。
「ジーク」
「いる」
「歩きながら、もう一つ覚えろ。刃を使わず、言葉も使わず、位置で崩すやり方を」
「やってみる」
商隊の男がこちらを見た。笑って、手を上げた。
鈴のない鈴が、遠くで一度だけ鳴った。――また会う、と。
XII 残照
夕方、俺たちは門の外で最後の板を一本、抜いた。
音はしなかった。
沼は鏡をやめ、ただの水に戻る。
夜は来る。だが、今夜の口は浅い。
ジークが空を見上げ、斧を肩に担いだ。
「歩き続ければ、強くなるか」
「歩き続ければ、“弱さの形”がわかる」
「それは、強いのか」
「十分だ」
葦が最後に一度だけさわさわと鳴り、鈴のない鈴が遠くで短く応えた。
俺たちは門へ戻り、塩を払い、火を土で眠らせた。
⸻
次回予告
沼地ホラー編 第4話 帳簿の喉、笑わぬ橋
湿原を“測る”男が持ち込む、利権の橋。
夜に生える板を、昼の帳簿で合法にする算段。
沼の咽は眠ったが、人の喉はよく回る。
ヨハンたちは刃ではなく位置で崩し、ジークは初めて「立って庇う」稽古に入る。
――恐怖は商いになる。だからこそ、拍をこちらへ戻す。




