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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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マリナ・デル・ベーラの洗礼



ゴーン、ゴーン――。


 朝の霧に鐘の音がしみ込み、窓のガラスを微かに震わせる。ワシは目を開け、藍にほどけていく海の気配を肺に吸い込んだ。


「今日も海が綺麗じゃのう」


 寝台から身を起こし、窓の留め具を外すと、潮の匂いが押し寄せてきた。斜面に貼りつくように家々が連なり、屋根の赤土と白い壁のあいだを、魚の鱗のように光る洗濯物が泳いでいる。港には三本マストの帆船、片舷に櫂が並ぶ小舟、黒い帆を畳んだ遠洋船――あらゆる船が、まるで異国の単語みたいに折り重なっていた。


 着替えを済ませ、きしむ階段を下りると、宿の女主人ナディアが腰に手を当て、陽のような笑顔で迎えてくれた。


「アラ、おはようヨハンさん。昨夜はよく眠れた? もう朝ご飯出来てるわよ!」


 卓には大ぶりの塩パン、オリーブを散らしたサラダ、湯気を立てるスープ。そして――サラダの皿の上で、赤いパプリカに化けた妙なものが、光っておる。


「ほほう、これは一体なんじゃ?」


「それは茹でたタコにオリーブオイルとパプリカをかけたこの街の名物料理よ。港に上がったばかりの子を使ってるの。歯切れがいいのよ」


「タ……タコとな。確か海の悪魔とか言われ、恐れられている生き物ではないのかっ! そんなモノが名物料理だと……」


 ワシのいた聖教国では、そのような呪われた生き物など――と、舌が勝手に古い教えを並べそうになる。だが、窓の外で笑いながら朝を担ぐ人々を見ていると、その言葉が急に古びた石像のように思えてくる。


「えっ?? ヨハンさんはタコを食べたことがないのですか? こんなに美味しいのにーっ!」


 ナディアはフォークでひと切れをすくい、ワシの皿にぽとりと落とす。ぐに、とした感触。祈りの言葉を心の中でひとつ唱え、意を決して口に入れる。噛むと、はじける潮。オイルの香り。……悪くない。いや、悪くないどころか、パンに合う。


「む、むぅ……」


「ほらね!」


 彼女は目尻を下げて笑い、スープを添えた。朝食を平らげると、ワシは部屋に戻り、歯を磨き、ペンダントを胸に収める。窓の外の海をひとしきり眺めてから、背嚢、杖、薄い福音書の束を確かめる。


 ここマリナ・デル・ベーラでは、晴れた日はテラスに出て本が読める。気が向けば浜へ降り、夜は波音で眠り、朝は鐘で起きる。理想の生活じゃ。……ただ、どうにもタコだけは好かん。好かんが、食う。


 ペンダントを握る。十字と古代文字が刻まれた銀の面は、師の手の温度を今も閉じ込めておる。ワシはこれを掲げ、まずは小さな礼拝所を――それが今日の目当てだ。


 マリナ・デル・ベーラ。海に面し、タコが名物で、世界と港で繋がった街。断崖にへばりつく建物は上へ上へと継ぎ足され、アーチの上にまた家がのる。狭い路地は階段でできていて、外敵の侵入を惑わせる迷路そのものだ。港には商工の看板、海洋学舎の尖塔、造船所の鎚音。潮と金と知恵の匂いが混じる、奇妙に生き生きした場所。


 ここに十字聖教の教会を作る。まずは布教だ。人混み嫌いのワシだが、今日は別――南西の大陸の玄関口で、第一歩を刻む。


     ◇


 昼過ぎ、宿を出たワシは、波に濡れる石畳を避けながら街の中心へ向かう。魚の箱を担ぐ少年の群れ、色とりどりの果物を乗せた女たちの頭、貝殻を売る老婆の声。言葉がいくつも交錯し、どれもこの街の音楽の一部に聞こえる。


 人が多い。坂が多い。道が狭い。アーチの上にまた部屋、階段の先にまた階段。よくこれで街が崩れんものだと感心する。迷宮のような路地を抜けると、小さな広場に出た。中央に泉。周りには花の露店が並ぶ。


「どれ、ナディアにプレゼントしてやろうかの」


 小振りな白い花――潮風でも長持ちしそうなやつ――に手を伸ばし、財布を出そうとして、指が空を掴んだ。


 ない。ポケットにあるはずの財布が、ない。


 顔を上げると、向こうのアーチの陰でワシと目の合った男が、すっと顔を引っ込めた。


「あ」


 男は駆け出した。ワシも追う。聖教十字軍に入ったばかりの頃、散々走らされた脚だ。坂などどうということはない。外套の裾をたくし上げ、石段を飛ぶ。


 男は人通りの薄い裏路地へ。洗濯物の影が揺れる。酸っぱい匂い。狭い曲がり角。息が白くなるほど、路地は日陰だった。


 そのとき――。


 足音。ワシの背後ではなく、前方の路地の入口から、別の靴音が滑り込んだ。気配がふたつ、みっつ。路地の出口には、妙な箱を抱えた男が三人、道を塞ぐように立っていた。


「どけ」


 ワシが杖を突き出すと、中央の男が蓋の留め金を跳ね上げた。箱の中で何かがふくらみ、白い霧が、ぶわりと立ち上がる。


 鼻孔に刺さる、奇妙な甘さ。潮っぽい、ぬめりの匂い。まぶたが重くなる。膝が緩む。


「眠り香、っと……おやすみ、御坊」


 男の声が遠ざかる。石と額がぶつかる前に、ワシは闇に沈んだ。


     ◇


 目が覚めると、冷たい石の匂いが鼻を刺した。頭が割れるように痛い。手は背中で縛られている。足も。薄闇の中、海鳴りのような低い音がする。ここは――地下だ。


 目が慣れると、棚に並んだ瓶が見えた。中には赤黒い液体や、干からびたタコの脚のようなものが漬かっている。天井には配管、壁には苔。床は湿って、ところどころ水たまりが光っている。


「お目覚め?」


 灯りが近づき、籐椅子に座った女の輪郭が浮かんだ。黒い巻き毛、金の耳飾り、笑っているのかどうかわからん唇。指には細工の細かい指輪がいくつも光っている。


「初めまして、巡り合わせの御坊。アタシはエステラ。『潮の占い師』って呼ばれてる。鼻は生まれつき良いの。信仰と金の匂いは、遠くからでもわかる」


 占い師――いや、この手の街では「情報屋」の別名でもあるだろう。


「ここは、どこじゃ」


「アーチの下の下。海が満ちれば床が濡れて、引けば鼠が走る。住むには向かないけど、話をするには悪くない」


 彼女の背後に、先ほどの男たちが控えている。片目に傷のある大男、鼻に輪を通した痩せた男、そしてさっきワシの財布を掠めた小柄なやつ。小柄なやつはまだ若い。目だけが、飢えた獣のように鋭い。


「まずは返してもらおうかの、ワシの財布」


「おや、肝が据わってるね。ほら」


 小柄な男――少年と言っていい年だ――が肩をすくめ、ワシの腰の辺りに財布を落とした(縛られていて拾えん)。エステラは椅子の背にもたれ、顎を上げた。


「本題に入ろう。御坊の胸元にぶらさがってる、その銀のペンダントさ。綺麗だね。古い祈りの文字。十字聖教の印。……それ、アタシに預けてもらえない?」


「断る」


「断るよねぇ」


 エステラは楽しそうに笑い、椅子の脚で床をきゅっと鳴らす。


「この港では、いろんな神様のために、いろんな人が祈る。海の底の神様、風の神様、古い石の神様。……でも、ひとつだけ共通してるのは、みんな『代価』を置いてくってこと。御坊のそれは、代価になる」


「何の、代価じゃ」


「“街の均衡”」


 彼女は指を鳴らした。奥の暗がりから、もうひとり影が出てくる。アザラシ革の外套、濡れた髪。肌は薄い青みがかって、耳の形が人と違う。水掻きのある指。港で何度か見かけた、海人うみびとの血を引く者だ。


「ルシアン。彼は海のものと陸のものの橋渡しをしてる。最近、港の外でよくない潮がうずまいてる。黒い帆の船が来て、夜のうちに出て行く。亜人を買い、亜人を売り、祈りを捻じ曲げる。ルオ=ヴァルドの影が差してる」


 ルオ=ヴァルド――隣国。聖教国を後ろから突き崩した策謀の国。ワシは奥歯を噛んだ。


「その均衡とやらに、ワシのペンダントが何の関係がある」


「潮の鼻はね、教えるの。あんたのペンダント、ただの飾りじゃない。鍵だよ。南の海に沈んだ、十字聖教の古い礼拝堂の“扉”の鍵。そこには――」


 彼女は言葉を切り、身を乗り出した。


「『赦しの定式』が眠ってる。人を縛る祈りでも、亜人を縛る祈りでもない、“本当の赦し”を呼ぶ式文だってね。それを手に入れた者は、この街の祈りを自分の色に染められる」


 ワシは唾を飲み込んだ。知らん。そんなもの、師からは聞いていない。だが、銀の面を指が無意識に握りしめる。この重みの中に、師の最後の決断が詰まっておるような気がした。


「だからこそ、預けて。アタシが安全に保管する。アタシのところは、どの海風にも倒れない」


「断ると言った」


 エステラは目を細め、笑いを消した。静かな部屋に、海の水音だけが戻ってくる。


「じゃあ、別の話をしようか。御坊。あんた、布教をするつもりなんだろ。十字聖教の旗を、もう一度掲げる。……その口で、亜人をどう呼ぶ?」


 返す言葉がのどに詰まった。聖典の文は、舌の上に几帳面に整列している。だが、それを押し出すより先に、頭の中にナディアの笑顔が浮かぶ。港で働く半ば魚の血を引いた子らの、濡れた足。タコを切る娘の、真剣な目。


「……ワシは、人の前では誰もが平等だと……」


「神の前では、ね」


 エステラが言葉を重ねる。優しい声で、逃げ場を塞ぐ。


「海に落ちたとき、舟は神の前じゃなくて、目の前の手に掴まるのよ、御坊。あんたがこの街で祈りを呼ぶなら、その手にひどい棘があったらだめ。刺す棘じゃなく、繋ぐ手じゃなきゃ」


 片目の大男が、ワシの背の縄をほどき始めた。痩せた男が杖を足元へ転がす。彼らの目には敵意も好奇心もない。ただ、試すような、潮みたいな視線。


「……ほどくのか」


「ここで縛っても、御坊の神さんは笑わない」


 エステラが立ち上がった。椅子の脚が水に触れ、輪を広げる。


「三日。三日だけ待つ。そのあいだに、港の外の“扉”を見つける。鍵が要るなら、アタシはまた来る。……それまで、御坊の祈りを聞かせてもらおう。どっちの潮に立つのか、ちゃんと」


 ワシはゆっくり立ち上がり、痺れた腕を揉んだ。足首に落ちた縄が、冷たく重い。


「条件がもう一つある」


 口が勝手に動いていた。自分でも驚くほど、声は静かだった。


「ワシの財布を掠めた小童こわっぱ――そやつに、食わせてやってくれ。パンでも、タコでもいい。盗みは、神の口からは遠ざかる」


 小柄な少年が、はっと顔を上げた。エステラが片眉を上げ、肩をすくめる。


「名は?」


 少年は逡巡し、短く答えた。


「リオ」


「リオ。お主は……ワシのところへ来い。掃除でも手伝いでもいい。三日、飯は出す。祈りは――自由だ」


 少年は鼻を鳴らした。エステラが笑った。


「面白い御坊だこと」


     ◇


 地上に戻ると、日は傾き、海は黄銅の皿のように光っていた。ワシはふらつく足取りで宿まで戻り、扉を開けるや否や、ナディアの声が飛んできた。


「どこ行ってたのよ! 市場で倒れたって聞いたわ! 顔色が悪い、ほら、座って!」


 彼女はスープを温め直し、塩パンをちぎって差し出した。ワシはありがたく受け取り、匙を口に運んだ。体の芯に火が灯る。


「ナディア。……すまんの。花は、また今度」


「やだ、そんなのいつでもいいわよ。命が先でしょ」


 彼女は腰に手を当て、首を傾げた。


「それ、血がついてるじゃない。外套、貸しなさい。洗っておくから」


 いつのまにか、袖に小さな血の筋がついていた。縄が擦れた跡だと気づき、ワシは外套を脱いで渡した。ナディアは洗い桶に向かいながら、軽い調子で訊く。


「そうだ、ヨハンさん。今日は“教会”の場所、見つかった?」


「いや……だが、見当はついた。港のはずれのボート小屋、空きがある。床は傾いとるし、屋根も雨漏りじゃが、祈るには十分じゃ」


「なら、明日の朝、手伝うわ。ほうきと布と釘と……あと、看板を描ける子にも声をかけておく」


 看板――十字を掲げる看板。それはつまり、ワシの覚悟を、街に見せるということだ。


「ナディア」


「なに?」


「タコは……やっぱり、まだ怖い」


「馬鹿ね」


 彼女は笑いながら、湯気に顔を隠した。


     ◇


 翌朝、鐘が鳴る前から起き出し、ワシは港の外れのボート小屋へ向かった。斜めに沈んだ屋根、剥がれた板。扉を開けると、塩と魚の匂い。床には古い網と浮き玉。窓は小さく、光は細い。だが――ここなら、声が反響する。祈りが、天井と壁に留まる。


 ナディアが大きな桶を抱えてやって来た。背後には、目つきの鋭い少年たち、絵筆を耳に挟んだ娘、手に釘袋をぶら下げた男。見覚えのある小柄な影――リオもいた。目が合うと、彼はすばしこく視線を逸らし、ほうきを掴んだ。


「掃除は任せて」


「釘はワタシだよ」


「看板は“潮の十字”にする? それとも、普通の十字?」


 潮の十字――この街で海の安全を祈願して描く、波を抱くような十字の意匠。ワシは一瞬迷い、ナディアに目で尋ねた。彼女はうなずいた。


「潮の十字にしよう。……いや、波の片翼だけを十字に絡める。どちらでもない。海を敵にせず、神を奪わない」


 娘は目を丸くし、笑顔で頷いた。


 掃除をしながら、ワシは胸元のペンダントを服の下に滑り込ませる。エステラの言葉が、心のどこかで塩のように残っていた。鍵。扉。赦しの定式。師の沈黙。


「御坊」


 扉口で声がした。振り向くと、革の胸当てに短剣を佩いた女が立っている。日に焼けた褐色の肌、髪は短く、目は風に鍛えられた鳥のように鋭い。


「市警のアメリア・グレイと申す。港の騒ぎ――あんたが巻き込まれたと聞いた。夜、黒帆の船が入る。人の出入り、妙だ。……ここで祈るつもりなら、夜は戸をしっかり閉めろ。鍵がなければ、板で塞げ」


「ご忠告、痛み入る」


「それと」


 彼女は指で身振りし、皆から離れたところへワシを誘った。


「“レジスタンス”って言葉を聞いたことがあるな?」


「聖教国を……滅ぼした勢力の名じゃ」


「似た名前の連中が、この街でも動いている。亜人の“保護”を掲げてるが、裏で売り買いもしてる。御坊の教えが、誰かの“旗印”に使われることもある。……気をつけろ」


 アメリアは短く頷き、踵を返した。扉の外で、ナディアが彼女の背に声をかける。


「今夜、見回りに来るでしょ。スープなら残しておくわ」


「助かる」


 短いやり取り。港の人々は、必要な言葉だけで呼吸を合わせる。ワシも、そのリズムに足を乗せなければ。


     ◇


 昼過ぎ、初めての小さな礼拝を開いた。壁にかけた粗末な布の十字、潮の十字を抱いた看板、掃除で磨かれた床。集まったのは十人ほど。ナディア、リオ、看板の娘“レーナ”、古道具屋の夫婦、港の荷役、そして片手に網の修繕を持った海人の青年ルシアンも、扉の影に立っていた。


 ワシは深く息を吸い、言葉を選んだ。


「ワシはヨハン。滅びた聖教国から参り、この街で祈りの場を開く者じゃ。……だが、ワシの祈りは、過去の石ではない。ここで暮らす各々の手と足と背に、乗る祈りでありたい」


 古い聖句が舌の裏で待ち構える。けれど、違う言葉を選ぶ。エステラの問いの棘が、まだ指に刺さっているからだ。


「神の前においてすべては平等――それはワシの国で千度叫ばれた。しかし“神の前だけ”平等であるとき、人の前では不平等が育つ。ワシはそれを、見た。だから、ここで約束する。ワシの祈りは、人の前にも伸ばす。殴るためでなく、掴むために伸ばす」


 波が小屋の下板を叩く音が、言葉の間に挟まる。ルシアンの喉が微かに動いた。リオは視線を落とし、靴先をもぞもぞさせた。


「罪を裁く言葉は、世界に溢れとる。赦す言葉は、いつも足りん。ワシは、足りんほうを数えたい。……まずは、感謝を」


 ワシは胸の前で十字を切り、短い祈りを捧げた。言葉は、壁に当たって戻り、皆の肩に落ちる。潮の匂いと混ざり合い、少しだけ、温度を持つ。


 礼拝が終わると、レーナが看板を持って飛び跳ねた。


「見て、御坊! 波の片翼を十字に絡めたやつ、うまくいったでしょ?」


「うむ、見事じゃ。ありがとう」


 古道具屋の婆さんが、手慰みに作った貝殻の首飾りを差し出す。「祭壇に置くといいよ」と言われ、ワシは受け取った。リオは横目でそれを見て、鼻を鳴らす。


「リオ」


 呼ぶと、彼は間を置いて顔を上げた。


「今日、飯はどうじゃ」


「……タコは、嫌いだ」


「同感じゃ」


 思わず笑いがこぼれ、周りも釣られて笑った。ナディアがパン籠を振り上げた。


「じゃあ、今日は鯖ね!」


     ◇


 日が暮れる。アメリアの言ったとおり、黒い帆の影が沖に現れ、音もなく港に近づく。ボート小屋の戸を固く閉ざし、内側から打ち木を渡す。灯りを落とし、耳で外を探る。靴音、波、船の軋み。


 扉に小さく指が触れた。ノックではない。触れるだけ。合図だ。


「御坊」


 囁く声は、ルシアンのものだった。戸板越しに、彼の湿った息がわずかに伝わる。


「外で、何が起きてる」


「黒帆のやつら、夜明けまでに三度、荷を上げる。箱、袋、人。……ひとり、女の海人の子が混ざっていた。半分は陸の血。顔を見られたくないように、髪で隠してる」


 ワシの喉に、熱い石が落ちたような感覚が走る。


「どこへ」


「“アーチの下の下”」


 エステラの地下。均衡。代価。


 ナディアが暗闇で、ワシの袖をつまむ。アメリアに知らせるべきだ。だが、彼女ひとりでは足りない。市警は数が少ない。港は広い。


「御坊」


 戸口の向こうで、ルシアンが続ける。


「アタシの仲間も動いてる。海の目は、闇でも見える。……ただ、地上の扉は、鍵がいる」


 鍵――胸元の銀が、汗で冷たくなる。エステラの言葉。「扉」。南の海の“礼拝堂”の鍵。赦しの定式。


「これは、海の底の扉の話ではないのか」


「扉は、いつもひとつじゃない」


 短い言葉。海人の論理。だが、妙に腹に落ちる。目に見える扉と、目に見えない扉。鍵は同じで、開ける場所が違うだけ。


 アメリアが小声で言う。「三つの波止場に分かれてる。こちらが動けば、残りが逃げる。……合図がほしい」


「合図ならある」


 ナディアが立ち上がる気配を作る。「鐘を鳴らすの。朝の鐘の人は友だちよ。あの鐘は、潮の合図にも使える。三つ鳴らせば一番桟橋、二つ鳴らせば二番、四つ鳴らせば“全部”」


 ワシは息を呑む。鐘――ゴーン、ゴーン。朝の音。目覚めの合図。祈りの入口。


「行けるか、ナディア」


「任せて」


 彼女は肩にフードをかけ、裏口から滑り出た。しばしの沈黙。波が、板を叩く。


 やがて、夜を裂くように鐘が鳴った。ゴーン、ゴーン、ゴーン――間を置いて、ゴーン、ゴーン――そして短く四つ、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン。


 外が走り始める。足音、怒号、網が投げられる音。アメリアの笛。海人の水音。黒帆の気配が散る。


「今だ!」


 扉を開け、ワシたちも走る。ボート小屋から石段を駆け下り、二番桟橋へ。リオが軽い足で先を行き、レーナが看板の棒を振る。ワシは杖を握り、祈りの言葉を口の中で転がす。神よ、足を。


 桟橋には、袋を担いだ影が二つ。アメリアが横から飛び込み、短剣の柄で一人の手首を叩く。袋が落ち、中から細い手が転がり出る。手には水掻き。髪は濡れ、顔は髪で隠れている。


「こっちへ!」


 ルシアンが水から現れ、子を抱え上げ、ワシのほうへ押しやる。ワシは両手で受け、胸に抱く。軽い。冷たい。心臓が早く打っている。


「大丈夫だ」


 ワシは耳元で囁く。かつて、炎の中で握った小さな手を思い出しながら。


「大丈夫じゃ」


 黒帆の影がひとつ、背中に飛びかかる気配。アメリアの短剣が間に入り、金属が火花を散らす。リオが足払いをかけ、男が海へ落ちる。レーナが棒で別のやつの膝を打つ。ナディアの笛が、鐘に合わせて鳴る。


 夜明け前の港は、しばし戦場のようになり、やがて静けさを取り戻す。黒い帆は沖へ、潮に流されるように去っていった。


     ◇


 ボート小屋に戻ると、海人の少女は毛布に包まれ、ナディアのスープで指先に色を取り戻していた。顔を隠していた髪がほどけ、頬に貼りつく。大きな目が、恐る恐る開く。


「名前は?」


 ルシアンが優しく問う。少女は耳の先を震わせ、小さく答えた。


「ミラ」


 ミラ。ワシはその名を胸の中で繰り返した。ミラ、ミラ。


「ミラ。ここは安全じゃ。……祈っても、祈らんでもいい。食べるが先じゃ」


 少女は一瞬、ワシのペンダントに目を止め、そしてスープに視線を落とした。匙が、震える手で口に運ばれる。温かいものが喉を通ると、目に水が溜まり、ぽろりとこぼれた。ナディアが背を撫でる。ルシアンが頷く。アメリアが短く「よし」と言う。リオが鼻を鳴らし、レーナが毛布を整える。


 ワシは、胸の前で静かに十字を切った。言葉は要らん。ただ、今は、手を。


     ◇


 夜が明け、海が白む。鐘が再び鳴る。ゴーン、ゴーン――。


 ワシは扉の外に出て、潮の匂いに深く息をした。胸元の銀が、太陽で温まる。エステラの言葉が、また蘇る。三日。扉。鍵。赦し。


 背後で、ナディアが腕を組み、横に並んだ。


「ヨハンさん」


「なんじゃ」


「タコ、今夜は炙りにするわ。苦手でも、炙ると香ばしくてお酒に合うのよ」


「……酒は、祈りの前に飲むものではない」


「祈りのあとなら、いいでしょ?」


 笑い合う。笑い合ってから、どちらからともなく、真顔に戻る。港の先、黒い帆の影はもう見えない。だが、海の底には何かが眠っている。南の“礼拝堂”。赦しの定式。鍵――。


 ワシはペンダントを握り、心の中に小さな言葉を置いた。


(師よ。ワシは、ここで祈る。殴るためでなく、掴むために。……もしこの鍵が誰かの命綱になるなら、ワシは、その先に手を伸ばす)


 潮の風が、答えの代わりに頬を撫でた。


 鐘は、なおも鳴っている。ゴーン、ゴーン。


 マリナ・デル・ベーラの朝は、今日から、少しだけ違う音で始まった。

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