黄昏の法廷、鍵の審判
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I 港の朝、ざわめく風
マリナ・デル・ベーラの朝は、いつもより重かった。
塩と潮の匂いは変わらないのに、風がざらついている。まるで、街そのものが緊張に震えているようだった。
港の広場では人々が小声で噂していた。
「三日後だろ、法廷は……」
「あの黄昏公が、堂々と街に足を踏み入れるなんて」
「鍵は、誰が握るんだ?」
ボミエはそのざわめきを杖の先で聞くように耳を動かし、小さく呟いた。
「みんな、不安なんだニャ……」
ヨハンは胸の銀を握り、静かに応えた。
「不安は“声”だ。聞こえる声は、まだ届く」
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II 法廷の舞台
港から東へ二刻の丘に、古代の石円壇がある。
そこはかつて、海と風と星の神へ誓いを立てるための儀式場だったが、今は「法廷」と呼ばれている。
黄昏公アドラステアがこの場所を“舞台”に選んだのは偶然ではない。
エステラが石円壇を見下ろしながら鼻を鳴らした。
「潮と血と、古い誓いの匂い。……完全に、あの女の舞台に整えられてる」
ナディアは笛を指で弄びながら、目を細める。
「鐘と笛の合図は倍に増やす。人の呼吸が乱れたら一気に崩れるわ」
ザードルは火打石を弾き、火花を空に飛ばした。
「法廷に立つのは俺たち全員だ。逃げ場はない」
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III 潮窯の囚人
潮窯の奥では、イーサンが静かに座っていた。
星綴錠と祈りと仮名縄が、彼をしっかりと縛っている。
だが、その瞳は妙に澄んでいて、外のざわめきを透かして見ているかのようだった。
ヨハンが声を掛けた。
「法廷まで、あと三日だ」
イーサンはわずかに笑った。
「三日じゃない。……三度、鐘が鳴るまで、だ」
ボミエは杖を握りしめ、耳を伏せた。
「ニャに笑ってるんだニャ……あんた、まだ……」
「まだ、何も終わっていない。だから笑うしかない」
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IV 黄昏公の準備
一方、沖の霧の向こう――
アドラステアは古い石造りの館の最上階で、血の色をした酒を揺らしていた。
彼女の背後には、四人の随従が控えている。
イリダは霧犬を撫でながら言う。
「御身、法廷で全てを奪いますか?」
アドラステアは首を横に振った。
「奪うだけでは駄目。主語を決めるの。――彼がどちらの夜を選ぶか、それを見届ける」
ヴァスコが槍を磨きながら、低く笑った。
「どちらを選んでも、血は流れますよ」
「血は舞台の色。……欠かせないわ」
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V 策を練る仲間たち
港の教会では、仲間たちが円卓を囲んでいた。
ルーシアンが水路の図を広げる。
「法廷の周囲には隠し通路がいくつもある。黄昏公が逃げ道を使う可能性は高い」
ザードルは炎を灯し、周囲を照らした。
「逃げるなら焼き払う。……だけど、こっちの損害も大きい」
ライネルは印を刻んだ石板を並べた。
「法廷そのものを封じ込める“逆句”を配置する。これで一時的に外界との干渉を断てるはずだ」
ナディアが笛を見せた。
「鐘と笛のパターンを複雑にする。混乱を防ぎ、味方同士の呼吸を合わせる」
ボミエはうつむき、杖を抱きしめた。
「……わたし、まだ怖いニャ。でも、ピックルの杖は震えてないニャ。だから……わたしも、震えないニャ」
ジュロムが大槌を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「怖がってもいい。だが逃げるな。お前の星は、俺たちの鎖だ」
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VI 前夜の静けさ
法廷の前夜、街は不自然なほど静かだった。
海鳥の鳴き声もなく、波の音も遠い。
ただ、鐘の音だけが規則正しく響いていた。
ボミエは宿の屋上に立ち、夜空を見上げた。
「ピックル……見てるかニャ。わたし、ちゃんとやるニャ」
星潮の杖がかすかに脈を打つ。
その温もりが、彼女の胸を満たした。
ヨハンは窓辺で銀のペンダントを握り、祈りを紡いだ。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。……掴むための祈りを」
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VII 法廷の開幕
三日目の夜、港の丘の石円壇――法廷が開かれた。
円壇の中央には、塩で描かれた大きな円と、その周囲を囲む古代文字の刻印。
イーサンはその中央に立たされ、両手は解かれていたが、足元には祈りと星の縄が絡んでいる。
アドラステアが階段を降りてくる。
黄昏の瞳が、イーサンを射抜く。
「イーサン・ローグフェルト。……あなたの夜を、選びなさい」
街全体が息を呑んだ。
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VIII 審判の始まり
ヨハンが一歩踏み出し、低く告げた。
「主語は、ここで決める。お主が選ぶのではない。“街”が選ぶのだ」
アドラステアは笑う。
「街は、彼を“英雄”と呼んだ。だから彼は踊った。今度は、“裏切り者”と呼ぶの?」
ボミエが震える声で叫んだ。
「裏切り者でもいいニャ! でも、もう……だれも死なせないニャ!」
イーサンの唇がわずかに動いた。
「……俺は……」
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IX 襲撃
その瞬間、空気が裂けた。
イリダの霧犬が突如として姿を現し、観衆の中を駆け抜けた。
悲鳴と混乱が広がる。
ザードルが炎を投げ、ジュロムが大槌を振り下ろし、ルーシアンが水の壁を立てた。
だが、別の影が背後から迫る。
――槍騎士ヴァスコ。
鋭い一撃が放たれ、仲間のひとりが倒れた。
赤い血が石円壇に広がる。
「――っ!」
ボミエの耳が震え、杖の先が火花を散らした。
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X 崩れる均衡
アドラステアは淡い笑みを浮かべた。
「舞台は整ったわ。……ここからは、あなたたちの“選択”」
イーサンの瞳が揺れる。
その奥には、迷いと、怒りと、そしてわずかな哀しみ。
ヨハンが銀を掲げ、声を張った。
「掴め! ――祈りは殴るためでなく、掴むために!」
星潮の杖が強く脈を打ち、ボミエの震えが消える。
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XI 決意の星
ボミエは高く杖を掲げた。
「ピックル! 見ててニャ! わたし、今度こそ……!」
星の線が法廷全体を覆い、結界となる。
ザードルの炎がその線に沿って燃え上がり、ルーシアンの水が柱のように立ち上がる。
ナディアの笛が鳴り響き、エステラの鼻が異変を告げる。
「来る――!」
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XII 夜の審判
黄昏公の瞳が淡く光り、イーサンの耳に囁く。
「帰ってきなさい、イーサン。……わたしの夜へ」
イーサンは目を閉じ、息を吸った。
その瞬間、ヨハンの祈りが届く。
「胸の鍵を掴め。――主語を、決めろ」
イーサンの瞳が開いた。
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XIII 血と祈りの衝突
轟音が響いた。
法廷の石円壇が揺れ、塩の円が砕け散る。
炎と水と星が絡み合い、夜空を裂くような光が走った。
そして――
ひとりが、静かに崩れ落ちた。
その血が、石に吸い込まれていく。
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XIV 次の幕へ
黄昏公アドラステアは、薄く笑った。
「決まったわね。……まだ“幕間”だけれど」
イーサンは拳を握り、低く呟いた。
「終わらせる……この夜を」
ボミエは杖を抱きしめ、涙をこらえた。
「……絶対に、終わらせるニャ」
夜はまだ深く、そして、残酷だった。




