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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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――火刑の街編―― 第7話 紙の宿、耳なしの契

前書き


紙の宿は、夜になると声で文字を浮かべた。

——だがその文字は、読んだ者の名を縛る。



I 紙の宿


 川の市の外れ、灯がまばらになる通りの角に、紙の宿があった。

 屋号は出ていない。戸口の上に白い短冊が一枚、風に揺れる。そこに泊の字が薄く浮いたり消えたりしている。


 中へ入ると、床は紙を幾層にも漆で貼り重ね、壁も天井も紙に白い糸で継いだ板のように硬かった。

 帳場の女将は耳に布を巻き、声を使わず手で合図を作る。二本指で下を示す——「空きあり」。掌を上下に振る——「静かに」。


 ヨハンは短く会釈し、銅貨を出した。女将は銅貨を手の甲に弾き、紙の板に置く。銅貨の冷たさで、板に小さく宿の字が浮いた。


「紙が“覚えている”」ナディアが囁く。「触れた温度で、字を起こす」


 ミナは壁に目を細めた。光に透けた層が、年輪のようにうっすら見える。「この宿、長い時間を重ねている。——夜になると“出る”かも」


 ルーシアンは鼻を鳴らし、漆の匂いと紙の乾きを確かめた。「火の心配はないが、声は吸う」


 ボミエが足もとをくんくん嗅いで、しっぽを立てるニャ。「猫が走った匂いはないニャ。代わりに、子の匂いがするニャ」


 ヴァレリアは廊下の隅に立つ小さな箱を見た。蓋に穴、側面に切れ目。「……告の箱。紙の宿の“口”だ」


 レオンハルトは肩の力を抜くため、短く息を吐いた。紙の床はわずかに撓むが、弾みで返ってくる。


 ミレイユは名録に三行。


  紙は記

  温で字

  口は箱



II 耳なしの子


 案内に出てきたのは、小柄な給仕の子だった。髪は耳を隠すほど長く、布でさらに深く覆っている。

 子は声を出さない。けれど、歩くたびに袖口から紙の小片がふわりと落ち、床に触れて薄く字が出る。


 ——ようこそ

 ——二階へ

 ——静かに


 ヨハンが階段で足を止め、子の頭にそっと視線を落とした。「名は、あるか」


 子は真っ直ぐヨハンを見、袖から一枚の紙片を滑らせた。

 そこには墨ではなく、浅い凹みで点が三つ打ってあった。

 子はそれを胸に当て、指で三つの点を順に示す。

 ——「……名は、点だけ」


 ナディアは薄く頷いた。「呼ぶと、“契り”になるのね」


 ルーシアンが眉を寄せる。「耳を隠す理由は、声を拾われないためか」


 子は小さく首を振った。袖の紙が落ち、『やくそく』と浮く。さらに一枚、『ゆるす』。

 ボミエがひげを震わせるニャ。「“許す”が先に来る契りニャ。……嫌な順序ニャ」


 ヴァレリアは子の目の下の薄い青味を見て、ゆっくり息を吐いた。「眠れていない」


 ミレイユが短句。


  耳は布

  名は点

  許が先



III 紙枕の部屋


 二階の部屋は四方が紙で、枕も蒲団も紙でできていた。驚くほど柔らかく、体温を受けると、沈みすぎずに形を変える。

 灯を落とすと、天井の紙の層に薄く文字が浮かびはじめた。

 ——おやすみ

 ——夜は短い

 ——忘れていい


「……字が“慰め”に偏ってる」ナディアが低く言う。「眠らせるための言葉」


 ミナは指で天井の字をなぞり、紙に写し取った。「筆がないのに、読んだだけで浮く。読み手の息を拾っている」


 ルーシアンは枕の縁を押す。「湿りは低い。——乾いた眠りだ。夢が軽い」


 ボミエは蒲団の角で爪を立て、ささやかに音を出すニャ。紙は破れない。代わりに音の紙鳴りが生まれた。


「誰かが“眠りに押し込む”仕掛けを持ち込んでいる」ヴァレリアが窓の紙障子の外を見た。通りは静かに灯り、遠くで耳の塔が影を落とす。


 ヨハンは枕元に角の重りを置いた。「基準はここだ。……夜が来る」


 ミレイユが短句。


  読で浮

  息で字

  眠は軽



IV (ちぎ)りの紙


 夜半、廊下を紙の足袋が滑っていった。

 ドアの下の隙間から、薄い紙束が差し込まれる。十枚ほど。どれも白く、何も書かれていない。


 レオンハルトが拾い上げ、「契約か」と眉をしかめた。


 ミナが耳を寄せる。「音が入ってる。……“読む前の声”」


 ナディアは紙束を掌に載せ、息を温めてから一枚だけ広げた。

 紙面に、薄く文字が浮いた。

 ——耳なしの契。

 ——声を使わず、点で交わす。

 ——名は書かない。けれど、読む者の名に絡む。


 ルーシアンが舌打ちした。「“匿名で縛る”やり方か。耳を使わず、文字で“指紋”を取る」


 ボミエが一枚を端で摘み、「この紙、蜜蝋がわずかに塗ってあるニャ。塚のやり方が混ざってるニャ」


 ヴァレリアが真顔になる。「承諾の“点”を置いた瞬間、名がどこかで参照される」


 ミレイユが短句。


  書かず縛

  点で絡

  耳いらず


 ヨハンは紙束を重ね、「誰に効く契りだ」と小さく言った。


 ドアの外で、足音もなく、子の影が止まった。

 袖から紙が滑り落ち、『読まないで』と浮いた。



V 告の箱


 階段下の曲がり角に、昼間見た“告の箱”が置かれている。夜は蓋が開き、小さな灯が中で白く燃えずに光っている。

 箱の底には紙片が折り重なり、どれも短い凹みと点だけで意味を作っていた。


 ——たすけて

 ——返して

 ——耳をかえして


 ボミエがひげを伏せるニャ。「“耳を返す”ニャ。耳を取られた子がいるニャ」


 ミナは箱の縁に指を置き、音の揺れを感じ取る。「箱の底で繋がってる。どこか別の箱に」


 ルーシアンが壁を叩き、空洞の響きを確かめた。「この宿全体が“配管”だ。紙の管で声を運んでいる」


 ヴァレリアは子の袖にそっと触れた。「箱の行き先、知ってる?」


 子は首を横に、小さく振る。袖から紙が落ち、『夜だけ』『四つ目の柱』と浮く。


 ミレイユが短句。


  箱は管

  夜に開

  柱で口


 ヨハンは頷いた。「四つ目の柱へ行く」



VI 四つ目の柱


 廊下の端、四つ目の柱は太く、その根元にだけ薄い隙間があった。

 紙を剥ぐのではなく、めくるようにして、宿の女将が現れた。耳の布は外れている。

 女将は指で三つの点を描き、胸に押し当て、外を指した。——「今夜、あの子の“契り”が満了になる」。


 ナディアの目が細くなる。「満了の後は?」


 女将は言葉を使わず、両手で耳を押さえ、空を撫で下ろした。——「消える」。


 レオンハルトが一歩前へ出た。「誰が持っていく」


 女将は四つ目の柱の内側を指差した。

 そこには細い紙管が幾本も束ねられ、耳の塔の方角へ伸びている。管には小さな印、『聴政』の刻印。


「塔か」ルーシアンが低く笑った。「声の管理だけじゃない。“契り”の回収もやってる」


 ミレイユが短句。


  満で消

  塔で回

  耳の線


 ヨハンは女将に目礼した。「案内は要らない。——止める」



VII 紙階の下へ


 四つ目の柱の陰に狭い紙階段があり、下は薄暗かった。

 足を踏み出すごとに、階段がしなって、紙鳴りを作る。

 下りきった先は小さな室。天井から紙管が垂れ、中央に低い机。その上に紙束が積まれている。


 紙束は呼吸していた。

 めくれ、撓み、薄く文字を起こし、また沈める。

 ——耳なしの契

 ——点で結べ

 ——満で来い


 ボミエが身を低くし、紙束の端に爪を立てるニャ。「“満で来い”ニャ。来ないと“耳を預かる”ニャ」


 ナディアが輪を細く結び、紙束の呼吸を遅らせる。

 ミナが点を机の四隅に置き、紙束の落ち着く場所を作る。

 ルーシアンは湿りを与えず、乾きすぎを避けるよう空気を整える。


 ヴァレリアが気配の流れを読み、レオンハルトは入口に背を向けず、両側を見張った。

 ヨハンは角の重りを紙束の中央に置いた。「——今はここだ」


 紙束が一瞬、黙った。


 ミレイユが短句。


  束は息

  輪で遅

  今で据



VIII 契りの主


 背後の紙壁がめくれ、影が立った。

 薄い外套、細い指。顔は布で隠れ、耳の形だけが布越しにくっきりわかる。——大きな耳ではなく、偽の耳。


「いらっしゃい」影は声を使わない。指で点を打ち、紙束の上に文を起こす。

 ——代筆屋。

 ——耳なしの契、取り扱い。


 ルーシアンが唇を歪めた。「耳は付けたり外したり、か。便利だ」


 影は二本指で自分の喉を撫で、紙に短い線を落とした。

 ——声は使わない。

 ——名は書かない。

 ——点を置け。


 ヨハンは首を振った。「点は置かない。名も渡さない。——耳も」


 影の指が速く動く。

 ——契りは救う。

 ——耳を塞ぎ、声を奪う者から。

 ——私たちは橋だ。


「橋は橋でも、渡らせない橋だ」ヴァレリアが一歩前へ。「点で縛り、満で回収する」


 ミナが紙に点と×を重ねた。「点は拒否できる。読まなければ」


 影は肩を竦め、袖の中から小さな刀片を出した。紙を切るための刃。

 ——読ませる方法はある。

 ——眠らせ、枕で“読ませる”。

 ——紙枕はそのため。


 ナディアの目が冷たく光る。「——枕を取り替えたわね」


 影の指が止まり、布の下の頬の線が薄く笑んだ。


 ミレイユが短句。


  橋と称

  枕で読

  満で回



IX 眠りの刃


 天井の紙が鳴り、部屋の四隅から白い粉が舞った。

 粉は眠りを呼ぶ匂いをしている。沼の匂いではない。紙の乾いた眠りだ。

 紙束の文字が速くなり、積まれた契りが一斉に浮きかけた。


 ナディアが輪を頭上に広げ、粉の落ちる角度を変える。

 ミナが点を鼻先に置き、呼吸の入口を守る。

 ルーシアンが瓶の冷えを天井に送り、紙鳴りを鈍らせる。

 ヴァレリアが影の手首の角度を盾で止め、レオンハルトが刀片を叩き落とした。

 ボミエが星喉で紙束の“今”を縫い、契りが浮くのを待たせるニャ。


 ヨハンは角の重りに掌を重ね、紙束へ押し入ろうとする見えない手を押し返した。「——今は渡さない」


 影の肩が僅かに動き、薄い布の下で笑いが揺れる。



X 耳を返せ


 紙階段の上で、軽い足。

 あの子が立っていた。耳を覆う布の端がほどけ、白い小さな傷跡が覗く。

 子は袖から紙を落とした。

 ——かえして。


 影の指が止まる。

 紙束の上に、点が一つだけ浮く。

 それは、あの子の名の輪郭ではなかった。名の空だ。


 ボミエが尾で床を叩くニャ。「空の名は、縛れないニャ」


 ミナが点をその空の中へ置き、ナディアが輪で縁をなぞる。

 ルーシアンが冷えを薄く足もとへ落とし、影の立つ場所の感覚を鈍らせる。

 ヴァレリアが盾で影の視界を切り、レオンハルトが踏み込んだ。

 刀片はもうない。代わりに、子の袖の紙を握る。


 ヨハンが低く告げる。「耳を返せ。——耳は外のものじゃない」


 影は笑わない。指で紙束の端を撫でる。

 ——耳は契りの“担保”。

 ——返すには“満了”。

 ——満了は今。


 紙束が一斉に浮いた。

 あの子の袖から、紙片がはらはらと連なって落ちる。

 ——ゆるす

 ——ゆるす

 ——ゆるす


「許すのはこちらだ」ヨハンが言った。


 ミレイユが短句。


  耳は身

  担は虚

  許は此



XI 紙裂(しれつ)


 紙束の端で、裂けが走った。

 縫い止めた星喉の節を合図に、紙の層が別々の方向へ微かにずれる。

 契りの文字が二重に見え、読もうとする指が迷う。


 ナディアが輪で読み筋を寝かせ、ミナが点で句切る。

 ボミエが星をもうひとつ置き、紙束の重心をこちら側に引くニャ。

 ルーシアンが乾きを戻し、紙鳴りを強くして影の耳を騒がせる。

 ヴァレリアが踏み出し、盾で影の胸を押し、レオンハルトが肩で紙壁を割った。

 ヨハンは角の重りを退け、空いた中心に“言葉を使わない言葉”を置いた。「——帰れ」


 紙束が沈んだ。

 契りの文が潰え、点が散り、縄のように絡んでいた無数の細い線がほどける。


 影は一度だけ後ろを見た。

 見た先は紙階段の上、子の空の名。

 微かな仕草で降参に似た合図を作り、布の耳を外して足音もなく消えた。



XII 戻る耳


 静かになった紙の部屋で、あの子は両手をゆっくり耳へ伸ばし、布をほどいた。

 そこには、薄い耳があった。形はまだ曖昧で、皮膚の色に新しい血の色が混じっている。

 子は袖から紙を落とす。

 ——きこえる。


 女将が膝をつき、子の肩を抱いた。声は出さない。涙だけが紙の床に丸い跡を残す。

 跡はすぐ乾き、しみになった。


 ミレイユが短句。


  耳は戻

  跡は丸

  しみで在


 ヨハンは紙枕の部屋へ戻り、角の重りを拾い上げた。

 枕の上に文字がまだ薄く浮かんでいる。

 ——忘れていい。

 ——おやすみ。

 ——名前はあと。


 ナディアが微笑むだけで、輪は置かない。

 ミナは紙束の残骨に点を三つ置き、「ここまで」を記した。

 ルーシアンは瓶の栓をすべて閉め、ボミエは尾で枕の角をぽんと叩いたニャ。

 ヴァレリアは窓の紙障子を少し開け、レオンハルトは外の灯を見張る。



XIII 静かな夜更け


 市の灯が遠のき、耳の塔は影だけになった。

 紙の宿は、深呼吸をひとつ、長くした。

 告の箱は蓋を閉じ、四つ目の柱の紙管に流れる音は細くなっている。


「——終わったわけじゃない」ルーシアンが小声で言う。「塔は“紙の条例”を増やす」


「紙は橋だ」ヨハンは枕の文字を見上げた。「焼かないかぎり、渡り直せる」


 ナディアが短く頷く。

 ミナは紙の端に、帰り道の点を整える。

 ミレイユは名録の余白に三行。


  名はあと

  耳は在

 紙は橋


 ボミエが小さく伸びをして、丸くなるニャ。

 ヴァレリアは盾を壁に立てかけ、レオンハルトは窓辺で浅く目を閉じた。


 夜は、ようやく眠りを許した。



XIV 紙明かりの朝


 朝、紙障子が白く透け、宿の女将が静かに頭を下げた。

 子は耳に薄い布を巻き直し、袖の紙で『ありがとう』と浮かせた。

 ヨハンは手を軽く挙げ、言葉を使わずに返す。

 ——また。


 階段を降り、戸口の短冊が揺れる。

 泊の字は、風の中でゆっくり消えた。今夜は休みにするという合図だろう。


「川を離れよう」ヴァレリアが地図を指で叩く。「丘の道を北へ。……“炎の広場”の余波が、まだ続いている」


「途中で鍋にしようぜ。塩は薄めで」ルーシアンが半分わざとらしく言う。


「猫にも食べられるやつニャ」ボミエが尻尾を上げたニャ。


 ミナが紙束を抱え直し、点を二つだけ前に置く。

 ナディアは笛箱に触れ、息をひとつ深く吸う。

 レオンハルトは肩を回し、足の置き方を確かめる。

 ミレイユは名録を閉じ、余白に一句。


  紙は静

  耳は鳴らず

  道は先


 ヨハンは角の重りを懐に収め、戸口の外へ歩み出た。



次回予告


火刑の街編 第8話 丘の道、蜂起の鈴

川を離れ、丘を抜ける街道へ。

止まったまま鳴らない鈴、封じられた掲示板、行列を仕切る黒い棒。

——“火刑の街”の余波が、商人と兵士と祈りの間で火薬のように乾いていく。

その乾きに、一つの音が火を入れる。

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