黄昏公の行列、血の楽章
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I 来訪の匂い
港の風が変わった。塩と鉄のあいだに、熟れすぎた蜂蜜の粘りと、古びた絹を箪笥から出したときの粉っぽい匂いが混ざる。
エステラはアーチの上で鼻先をすっと上げ、扇の骨で自分の踝を二度叩いた。
「“宮廷”の匂い。――上が来る」
ヨハンは胸の銀を指先で押さえ、短く頷いた。潮窯では無名の男――仮名《風切》ことイーサンが星と祈りと仮名の三重の綴りで留められている。綴り目は日ごと強くなるが、だからこそ“見に来る”。
ボミエは星潮の杖を抱き、耳を立てた。尻尾は膝に巻きついているが、杖先は震えない。震えは線の中に入れるもの――ピックルが教え、アメリアが背中で示したこと。
「ニャ……ヘンな音の風だニャ。ふたつの歌が同時に鳴ってるみたいニャ」
「片方は“薔薇”。もう片方は、“暮鐘”の歌だ」ザードルが指先に小さな炎を灯し、すぐに消す。「夜を一段低くする鐘の音――上位吸血鬼の印だ」
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II 黄昏公
夕刻、沖の靄がひとつの影を包んだまま岸へと滑ってきた。影は陸に触れる直前、舞台の幕みたいに裂けて、内側から女が現れた。
黒と紫を溶かしたような紗をまとい、肩には薄羽の外套、目は深い黄昏色。笑えば喉元の小さな黒真珠がほのかに鳴る。
上位吸血鬼《黄昏公》――アドラステア・ヴェスパー。
彼女の背後に、四人の随従が無音で並ぶ。
霧を編む猟犬使いイリダ――足元に白い獣影が二つ、息をすると輪郭がほどける。
長柄の穂先に銀の傷をいくつも刻んだ槍騎士ヴァスコ――歩くだけで床が礼をする。
血で契約を写す書記ネリナ――脈を数える指がいつも冷たい。
骨太鼓を打つ楽士クローヴィス――皮は貼られていない。骨同士を打つだけで拍が生まれる。
アドラステアは潮窯のある岬へ視線を投げ、薄く微笑んだ。
「いい牢ね。――塩と祈りと星。三つ編みの縄。……解き甲斐があるわ」
その声は、舞台の観客席まで届く声ではない。夜の上にそっと置く低さ。だが港全体がそれを聞いた。
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III ふたつの薔薇
潮路の反対側で、別の香りが細く立ち上がる。
ヴァレリア――葡萄色の外套に棘を忍ばせた薔薇派の女が、アドラステアの前に歩み出た。目の下の影は浅くないが、唇はまだ甘く結べる。
「黄昏公。ここは、わたしの“庭”よ。甘さで飢えをごまかす場所。――あなたの暮鐘では花が凍る」
「凍れば香りは保つ。あなたの“糖衣”では虫が寄る」
「だったら虫を飼い慣らせばいい」
ふたりの視線が、夜の薄皮を焦がして擦れ合う。
ヨハンはその間――“あいだ”に立った。胸の銀は衣の下、手の中で温度を持つ。
「客人。――要求を聞こう」
「愛しいものの返還。イーサン。……彼はわたしの夜を選んだ。昼の礼節と舞台の幕引き、甘さの契約も嫌いではないけれど、恋はひとつで足りる」
言葉に嘘は混ざらない。エステラが鼻で確認し、扇で踝を一度叩く。
ヴァレリアの棘がわずかに震えた。「それでも、最初に斬るのは、わたし」
アドラステアは笑う。「順番を守るのは、礼儀ね」
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IV 潮窯の内側、綴りの補強
外の応酬と同時に、潮窯では補強が始まっていた。
ルーシアンが窯口に水の輪を張り、ライネルが外周に“逆句”を一段深く刻む。ジュロムは肩で入口の楔石を押し、ザードルは炎の“音”だけを高く保つ。ナディアの笛は空気の拍を整える。
ボミエは星綴錠の糸を一本ずつ撫で、糸目に震えを“節”として落としていく。
ミレイユが囁きを集め、仮名《風切》の*撚名*を弱めないように束ねる。
「“風切”。……“風切”。……“風切”」
ヨハンは銀を掌で温め、潮窯の天井――扉と扉のあいだへ祈りを落とした。
「Ex voco… Misericordia… inter manus.」
イーサンは目を閉じたまま、静かに息をしている。名を返した男の呼吸は薄い。だが、薄いものほど音が通る。
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V 楽士の拍、街の心拍
外ではクローヴィスが骨太鼓を指で弾いた。
コン…コッ…コン…
その拍は人の心拍をわずかに遅らせる。市場の灯りがひとつ、ふたつと揺らぎ、階段の踊り場で猫が背を丸めた。
「笛、二度――!」ナディアが息を入れ、拍を奪われない“返し”を吹く。
ザードルは炎の音をさらに上げ、ルーシアンは水を一段低く流す。ジュロムは床の沈みを肩で殺し、ライネルは骨拍に逆らう“反句”を地に置いた。
ネリナが羊皮紙をほどき、赤い筆を立てる。「返名網、薄い。――書き換えられる」
「書き換えさせないニャ!」ボミエが杖で星の線を“噂の糸”と撚り合わせた。「“風切”は、わたしたちが貼った仮名ニャ。剥がさせないニャ!」
ミレイユが頷き、羽根筆で撚名を紙から空へ反転させる。「街全体で“書字”するわ。囁きは、文字になる」
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VI 槍と霧、棘の初撃
ヴァスコの槍が一度だけ地を打った。塩の粉が輪になって跳ね、イリダの霧犬が輪の上だけを走る。霧の足跡は石に残らず、鼻だけに傷を残す。
「鼻に来る」エステラが目を細め、踝を三度叩いた。「でも、甘くない。――いける」
ヴァレリアが棘を前に出す。「約束を守るわ。――最初に斬るのは、わたし」
棘は礼儀を知らない。だが、順番は守る。薔薇の女の身のこなしは美しく、それでも爪は黒い。
アドラステアは一歩も退かず、暮鐘の低い音を胸で鳴らした。
「宵の第一楽章」
空気が一段、低くなる。灯りの炎は消えない。ただ、影が伸びる。
ヴァレリアの棘が影の深みに吸い込まれ、速度を削がれた。その刹那、ヴァスコの槍が外側から“礼儀正しく”割り込む。
ジュロムが飛び込んだ。「オラァッ!」
大槌と槍が正面からぶつからないよう、ヨハンの祈りが軌道を僅かにずらす。殴るためでなく、掴むために。
火の音、水の流れ、笛の返し、鼻の告げ――すべてが細い糸で繋がって、舞台が崩れない。
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VII 潮窯の囁き
アドラステアは岬に立ち、潮窯のほうへ顔を向けた。声は小さい。だが、石は声を覚える。
「イーサン。――聞こえる?」
窯の中で、目を閉じた男の呼吸が一瞬だけ深くなった。
ボミエの線が微かにきしむ。恋の声は“名”を持たないのに、名のように働く。
「だめニャ……!」
ボミエは反歌でその“響き”に薄膜を掛け、ミレイユは撚名をさらに硬くする。ヨハンが銀を胸の骨に当て、短く祈る。
「Nomen figo… inter voces.」
イーサンの呼吸は再び浅くなり、窯の天井に星の結び目がひとつ、確かに締まった。
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VIII 黄昏公の告白
戦の合間、アドラステアはふっと笑い、ヴァレリアにだけ聞こえる声で呟いた。
「わたし、彼に恋をしているの。――政治じゃない。庭でもない。舞台でもない。恋なのよ」
「知ってる。だから最初に斬ると言った」
「斬りなさい。あなたの棘で。……それでも、わたしは彼を解きに来た」
アドラステアの瞳の黄昏が、ほんの瞬きのあいだだけ向日性を帯びる。
ヴァレリアは目をそらさず、唇の端で笑った。「嫌い。――なのに、少しだけ好き」
「矛盾は匂いが強いわ」
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IX 第二楽章――骨拍の反転
クローヴィスの骨太鼓が拍をひっくり返した。コン…コッ…コンがコッ…コン…コッになる。
ナディアの笛が即座に返す。双子の旋律。
ザードルは火の音を“二重”にして炎そのものは小さく保ち、ルーシアンは水を環で流して拍を吸う。
ネリナが潮窯の縁に赤い筆を走らせた。返名網の隙間へ“無名の記号”を差し込むつもりだ。
「そこは――触らせない」ミレイユが羽根筆を叩きつける。「名前は街のもの。記録は歌。あなたの記号は冷たい」
ネリナの指先が一瞬止まる。彼女は笑い、紙を替えた。「冷たいから、永いのよ」
ボミエの線がその“冷たさ”を節に変え、祈りの芯に温度を戻す。震えは弱点ではない。綴りだ。
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X 窯口の対面
アドラステアはゆっくりと潮窯の前まで歩み寄った。随従は広場で時間を稼ぎ、薔薇と黄昏の駆け引きは一度下がる。
窯口に影が落ちる。
ヨハンが前に出た。胸の銀を衣の下で押さえ、低く言う。
「黄昏公。これ以上は“あいだ”を損なう」
「“あいだ”に鍵があるから来たのよ。御坊。――あなたの祈りは美しい。だから嫌い。止められない美しさは、残酷だから」
「残酷でも、掴む」
「掴んで。――その指が折れるところまで」
アドラステアの指先が窯の縁に触れた。熱も冷えも持たない指。
ボミエの線が窯の内側で緊張する。「来るニャ……!」
アドラステアが低く歌った。
言葉にならない言葉。口腔の奥で鳴らす母音の影。名を直接呼ばないまま、名の器だけを叩く歌。
イーサンの喉が、内側から応えそうになる。
「いけないニャ!」ボミエが反歌で喉に“あいだ”を挟み、ミレイユが撚名の束をさらに重くした。
ヨハンは祈りの拍を底に敷き直す。「Ex voco… Misericordia… inter manus.」
窯の天井で星がひとつ、鳴った。
アドラステアのまつ毛が微かに震え、薄い笑みが深まる。
「綺麗ね。……でも、綺麗なものほど、割り甲斐がある」
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XI 霧犬と大槌、槍の礼儀
外でイリダの霧犬が輪から飛び出し、広場の石段を駆け上がる。影ではない。嗅覚にだけ噛みつく獣。
エステラの膝がわずかに折れた。「鼻が、攫われる」
「任せろォ!」ジュロムが身をひねり、見えない獣の“重さ”を肩で受け止める。
槍騎士ヴァスコが間隙を突いて踏み込み、槍の石突でジュロムの足を絡める。礼儀の速度。
ザードルの炎が音で槍先を“焼き”、ルーシアンの水が霧犬の輪郭を一枚剥がす。
ライネルは床に反句の網を広げ、骨拍の遅延に楔を打つ。
「ナディア、三つ――!」
笛が鳴り、人の呼吸が戻る。ミレイユの囁きがそれを文字にして留める。
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XII 第三楽章――暮鐘の沈め
アドラステアは指をひとつ鳴らし、夜を沈めた。周囲の音が半段落ちる。
灯りの炎は消えない。ただ、色を失う。
ヴァレリアの棘が色のない空気に絡まり、切っ先が迷う。薔薇の女は歯を見せ、血で唇を湿らせた。
「色がないなら、匂いで斬る」
棘が走り、アドラステアの頬に一筋だけ“温度”を置く。
黄昏公は目を細め、微笑んだ。「順番は守られた」
その瞬間、窯の中でイーサンのまぶたがぴくりと動いた。
危い。
ボミエは即座に星の“手”を増やし、イーサンの手首にもう一つの指輪を置く。星名は“間”の像――無名でも働く者に与えられる名。
「Stellae manus… inter manus.」
星の指輪がしまり、イーサンの脈が一つ抜ける。
ヨハンは銀を押し付け、返名を底に沈めた。
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XIII 名の橋
アドラステアは棘の温度を親指で拭い、血の味を確かめた。
「わたしの名を、橋にすると言ったら?」
ヴァレリアの目が僅かに揺れる。「やめて」
「“恋”は時々、愚かな賭けをするの」
アドラステアは小さな黒真珠に歯を当て、自分の名の一部を分けた。
名は匂いを持たない。だが、温度がある。
窯の石がその温度を覚え、内側でイーサンの喉がわずかに鳴った。
「ヨハンさん――!」ボミエが呼ぶ。
ヨハンは迷わず、短く告げる。
「返す」
「Nomen reddo… inter manus.」
街の囁きが合流し、仮名《風切》と、ヴァレリアが棘で守った“恋の呼び声”と、アドラステアが橋にした“名の温度”が一瞬だけ交わる。
ミレイユは羽根筆を叩きつけ、撚名をさらに重くした。「貼り付ける!」
星の網が震え、潮窯の天井で一音が鳴る。
イーサンの呼吸は浅いまま、逃げ道だけが塞がれた。
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XIV 崩しかけの綴り、持ちこたえる指
ネリナが狙いを変え、ミレイユの羽根を狙って筆を走らせる。
「書記の手を止めれば、噂はほどける」
ボミエが半歩滑り込み、星の針でネリナの筆の“次の運び”を縫う。
ヴァスコの槍が横合いから走り、ボミエの耳先を風が裂く。
ジュロムが飛び込み、槌の柄で槍をはじいた。「オラァッ!」
ザードルの炎が音で槍のしなりを奪い、ルーシアンが水で床の摩擦を奪う。ライネルはネリナの足元に“迷いの印”を置き、ナディアが笛で迷いの拍を増幅する。
エステラは鼻で一言。「右頬、甘い」
ヴァレリアの棘がそこを正確に裂いた。
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XV しなる棘、沈む黄昏
アドラステアは頬の温度を指で広げ、薄く笑った。「……嫌い。好き」
「うん、わたしも」ヴァレリアは息を吐き、棘を下から返す。
黄昏公は暮鐘で夜を一段落とし、棘の速度を削る。
双方の“最初の約束”は守られた。次は、街の約束。
「締め」ヨハン。
ナディアの笛が二度、短く鳴り、鐘が三度で応える。
ボミエは星綴錠の輪を重ね、噂と祈りと星の三本撚りを締め上げた。
潮窯が低く唸り、イーサンの肩が石に預けられる。
アドラステアの指が窯の縁から離れ、黒真珠がひとつ、乾いた音を立てた。
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XVI 撤兵の礼、次の幕
アドラステアは随従へ顎をわずかに動かした。
イリダの霧犬が輪へ戻り、ヴァスコが槍を撫で、ネリナが筆を拭い、クローヴィスが骨太鼓を布で包む。
黄昏公は潮窯に背を向ける前に、ごく短く言った。
「――幕間よ。三日」
ヴァレリアが棘を下ろす。「“停戦”? 甘い」
「糖衣は嫌い。でも、礼は好む」
彼女はふっと笑みを深くし、付け加えた。「三日後、黄昏の法廷。そこで、彼の主語を決める」
エステラが鼻で低く鳴らす。「匂いが残った。また来る」
アドラステアは靄へ歩み、影の幕に身を溶かした。随従が無音で続き、骨太鼓の余韻だけが港の底に残る。
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XVII 血の拭い、棘の手当て
静寂が戻ると、街は一斉に息を吐いた。
ヴァレリアは頬の血を袖で拭い、ヨハンのほうを見ずに言った。
「あなたの祈りは、やっぱり嫌い。――でも、綺麗」
「嫌われる祈りで良い。掴むためのものじゃ」
ボミエが駆け寄り、棘の根元に布を巻いた。「動かすと、ほどけるニャ」
ヴァレリアは珍しく素直に頷く。「あなたの手は正直。だから、好き」
ジュロムは大槌を床に立てかけ、肩で笑った。「派手にやったが、誰も折れてねえ。上等だ」
ザードルは火打石を親指で弾き、「火は灯りでいられた」と呟く。
ルーシアンは水を静かに流し、ライネルは印の刃を拭い、ナディアは笛の穴を布で拭う。ミレイユは名録に小さく一行書き足した。
――《黄昏公アドラステア・ヴェスパー、来訪。三日後、法廷の予告。》
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XVIII 窯の中の影
夜更け、ヨハンは潮窯に入り、石の床へ膝をついた。イーサンは目を閉じたまま、首だけわずかにこちらを向ける。
「黄昏公、来たぞ」
「聞こえた。……彼女は来る。恋は、ずるい」
「縄は三重、結び目は増し、仮名は貼った。――それでも来る」
「来る。だから、掴め」
ヨハンは銀を胸の骨に押し当て、短く、静かに言った。「掴む」
ボミエは窯の外、星糸の張りを整え、杖の紐の小さな布――アメリアの切れ端を指でなでた。「……次も、逃さないニャ。ピックル、アメリア」
芯が確かに歌う。
海は低く呼吸し、港はその拍に合わせて胸を上下させた。
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XIX 薄明の予告
翌朝、港の鐘が三度、間を置いて鳴った。少年トマスの手は震えず、音は街の胸骨を軽く叩く。
エステラは鼻で空を嗅ぎ、短く告げた。
「三日。――夜の色が、少しずつ“黄”に寄る」
ナディアが笛で短い合図を返す。「法廷の段取り、詰めるわよ」
ライネルは印の型板を広げ、ミレイユは名録の余白に“仮名”の補強式を記し、ザードルは炎の“音階”をひとつ練り、ルーシアンは水路の“逆潮”の筋を拾う。ジュロムは舞台の梁を点検し、ヴァレリアは棘の根元を確かめた。
ヨハンは窓辺の海を見、胸の銀を握り、ただ一言だけ置いた。
「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために。――法廷でこそ、掴む」
ボミエは耳を立て、尻尾を膝に巻き、杖を胸に抱いて頷いた。
「ニャ。三日後、“黄昏”の歌に負けないニャ」
港の風は塩の匂いだけを運び、薔薇は微かに、黄昏は濃く。
満潮はまた来る。
そのとき、誰の口が名を呼び、誰の手が主語を決めるのか。
街は、なお試され続ける。だが今、蝶番の音は、昨夜よりも少し、低く、確かだった。




