―氷の僧房編― 氷壁の鐘、名なき僧房
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I 凍る回廊
風は弱いのに、音だけが肌を刺した。
谷の出口、湖面を跨いで伸びる氷の回廊。左右を囲む氷壁は乳白で、内側に無数の筋が走っている。筋は蔓ではない、亀裂だ。そこを細い光が滑り、遠くで金属が触れ合うような微かな響きが続いていた。
ヨハンは杖先で氷の目を確かめる。硬い。だが、深いところで息をしている。
「前だ。歩幅を揃えすぎるな。凍った床は同じ拍を嫌う」
ボミエは耳を立て、尻尾で腰を締めたニャ。「鐘の匂いが薄いニャ。金属じゃない、氷が鳴ってるニャ」
ナディアは笛箱に指を置き、胸の奥で輪を一つだけ整える。「ここでは大きな音は出さない。鳴らない息で合わせる」
ヴァレリアは盾を半身に構え、角を前へ。氷壁の揺れに合わせて、体の重心を移した。
ミナは風紙を低く掲げ、矢印を薄く刻んで床へ落とす。
ルーシアンは瓶の口を開け閉めして、湿りが凍りに与える重さを測り続ける。
ミレイユは名録の端に点を置いた。
氷が息
亀裂は拍
名は固まる
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II 僧房の門
回廊を抜けると、氷で組まれた四角な建物が現れた。塔ではない。僧房だ。
外壁に窓はなく、格子状に穿たれた穴から冷たい呼気がゆっくり吐き出される。
正面の門は半ば開いている。中から、低い鐘の音。けれど金属の響きではなかった。
門番はいない。だが門の内側に、薄灰の布が一枚垂れていた。布には簡素な文。
> 入れ。鳴らすな。
> 鳴らすなら、名を置け。
ヨハンは布に触れず、端の余白を見た。そこに、誰かの爪で刻んだ短い線が並ぶ。
——斜めに四本、縦に一本。数える癖の残り。
ルーシアンが薄く吐息する。「“名の切りくず”でやってきた者が、ここでも数えてたか」
ミナが布の端を折り、「風は『鳴らすな』のほうに流れてる。——でも奥からは鳴ってる」
ナディアが頷いた。「中で誰かが、ずっと鳴らされてる」
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III 無名の列
僧房の中央には大きな回廊があり、そこに鐘が整然と並んでいた。
鐘はすべて氷で作られている。縄は氷に埋まり、舌は見えない。それでも、鳴る。
列の合間を、灰衣の僧たちが無言で歩いていた。顔に表情はない。目は空を見ず、足は音に合わせて運ばれる。
彼らの胸元には、小さな札。札には名がない。代わりに、白い紙に削り跡だけが残されていた。
ボミエが目を伏せるニャ。「……名が削られてるニャ。字の跡だけで、もう読めないニャ」
ヴァレリアは僧の歩調から外れ、列の圧を盾で切る。「ぶつかるな。彼らの拍に混ざると、戻れなくなる」
ミレイユが名録の余白に短句。
鳴らぬ舌
鳴る氷
名の削り跡
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IV 鐘の削り
僧の一人が小さな棒で氷鐘の縁に触れた。
鳴らしていない。ただ、触れただけ。
それでも鐘は低く響き、その響きが空気の底で角を作った。角は僧の胸元に走り、札の白の片がひとつ、剥がれた。
ミナが息を呑む。「鳴らさずに響かせる鐘……逆だ」
ナディアが笛に指を置き、息の温度を落とす。「触れるだけで名が剥がれる」
ルーシアンが瓶を揺らす。「湿りを吸う素材だ。鳴らせば溶ける、触れれば削れる。厄介だな」
ヨハンは僧の動きを見つめた。彼らは同じ動作を繰り返す。削るための歩み。
門の布の文は——『鳴らすなら、名を置け』
つまり鳴らせば名が減る。鳴らさなくても、触れれば減る。
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V 誘う鐘
列の中ほど、ひとつだけ青白く光る鐘があった。
他より澄んだ輪郭、張りつめた影。そこから細い音がミナの耳を探り当て、彼女の靴底を引いた。
ミナの足が一歩、音の方へ出る。紙が揺れ、矢印が余白へこぼれる。
ナディアが彼女の肘を掴んだ。「駄目」
ミナは瞬きし、薄く笑った。「ごめん。呼ばれた」
ボミエが前へ出て、青い鐘とミナの間に杖先を置くニャ。「鐘、猫は嫌いニャ?」
青い鐘の内側で、小さな舌が一度だけ震えた。氷の舌ではない。名の舌だ。
その一震えで、ミナの名の一画が胸の方で冷たくほどける。
ミレイユが急いで名録に短句。
呼ぶ青
一画が冷える
風で戻す
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VI 鳴らさずに止める
ヨハンは青い鐘の縁に逆薔薇の影だけを落とした。刃は触れない。影だけを触れさせる。
「鳴らさない。触れない。だが、在ることだけ知らせる」
ナディアが輪を紙の厚み一枚分だけ作り、鐘とミナの間に挟む。音は輪で寝て、拍は遅くなる。
ミナが風紙に句点を打ち、句点ごとに矢印の向きを変え、青い鐘の外周へ軽い風を回す。
ルーシアンが瓶から曇を出し、鐘の縁だけを濡らす。「氷は湿ると鳴らない。乾くと鳴る」
ヴァレリアが盾で僧の列の流れを切り、ボミエが星点で床の振動を綴じるニャ。
青い鐘は沈黙した。だが、僧房全体の響きは収まらない。別の鐘がすぐ呼応する。
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VII 名を外に置く
僧の胸の札から剥がれ落ちた片が、床で薄く光る。それにミレイユが息をかけ、名録の余白に貼る。「ここは名を外に置かないと、戻せない」
ヨハンは回廊の柱の影に、短く書き足した。
『名は鐘に置かず。名は紙に置く』
ナディアが輪でその文を湿らせ、ミナが矢印で辿る。
ルーシアンが柱の根元に曇を落とし、ヴァレリアが盾で近づく僧の肘を逸らせる。
ボミエは札片を集め、杖先の星点で順番を忘れないように留めるニャ。
僧の胸に、剥がれた分の空白が生まれた。空白は冷たく、しかしそこに息を通せる。
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VIII 鐘楼の上
僧房の奥に、ひとつ高い鐘楼があった。
その上には、他の鐘とは形の違う大きな氷鐘。下の鐘が鳴らなくても、上の鐘は鳴っている。
鳴らす者は見えなかった。だが氷壁の亀裂が、上から下へ順々に光っている。
ヨハンは階段を上る前に言った。「ここで待て。上で鳴りの根を切る」
ヴァレリアが首を振る。「一人で行かせない。盾は上でも役に立つ」
ナディアも短く頷いた。「輪は薄くても届く」
ミナは紙束を胸に抱え、「上なら風が回る」
ボミエは尻尾を強く巻き、「猫は高いとこが得意ニャ」
ルーシアンは瓶を背に移し、「湿りは上ほど効く」
ミレイユは名録を握り、「下に残る僧たちは私が見る」
ヨハンは短く頷いた。「行こう」
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IX 氷の舌
鐘楼の階段は狭く滑り、息が近い。
上に着くと、氷鐘の内側がわずかに暗いのが分かった。そこには、細い——舌。
氷ではない。薄い影のような舌が、氷の内側で微かに震えている。震えるたび、遠くの名が削れる。
「これか」ルーシアンが息で呟く。「名の舌」
ナディアが輪を舌の根元にそっと置いた。輪は鳴らない。鳴らさないまま、舌の震えの拍だけを奪う。
ミナが風紙で舌の長さを測り、矢印を逆へ貼る。「打つんじゃない。戻す」
ヴァレリアが盾の角で鐘の外を押さえ、振動の逃げ道を別へ作る。
ボミエが星点で階段の蹴込みを縫い、足音が共鳴しないように留めるニャ。
ルーシアンは曇の瓶を舌の根に近づけ、極小の滴を落とす。「湿りで眠れ」
ヨハンは逆薔薇の影を舌の影へ重ねた。「お前はここじゃない。あとだ」
舌は一度だけ強く震え——それきり止まった。
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X 静の鐘
上の鐘が沈黙すると、下の列の鐘の呼応が遅れた。遅れたまま、音は戻らない。
氷壁の亀裂の光がひとつずつ消え、僧の歩幅が乱れる。
胸の札の空白から、細い温が漏れた。
ミレイユは下から声を上げる。「戻せる。名の片、今なら入る」
ヨハンは名録に貼った札片を受け取り、鐘楼の風に晒した。
ナディアが輪で温を通し、ミナが矢印で向きをつける。
ルーシアンが湿りで紙を柔らかくし、ヴァレリアが盾で時間を守る。
ボミエが星点で紙の座を作るニャ。
札片は僧の胸へ吸い込まれていき、白かった札に薄い字が戻る。
全部ではない。だが、一画、また一画。
ミレイユの短句。
一画ずつ
白に戻る
息の道
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XI 名の鐘を鳴らす
僧の列の中に、こちらを見ないまま立ち止まった男がいた。胸の札にはかつての名の形。
彼は口を開かず、手で小さな礼を作った。
音はない。けれど、その礼が鐘を鳴らした。
——鳴らしたのは氷の鐘ではない。名の鐘だ。
鳴らさないのに、響く。鳴らせないのに、届く。
ナディアがほんの一息だけ笛を湿らせ、輪を添える。
ミナが風紙に句点を捺し、向きを正す。
ルーシアンが湿りを引き、ヴァレリアが盾を下ろした。
ボミエが尾をほどき、小さく笑うニャ。「それでいいニャ」
ヨハンは静かに頷いた。「鳴らさずに響かせる——それは奪うためじゃない。返すためだ」
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XII 撤ける影
僧房の天窓に、深緑の外套が一度だけ影を落とした。
毛皮の襟は見えない。鍵束も鳴らない。ただ、見るためだけにそこにいた。
ルーシアンが肩で笑う。「今日は観客か」
ヨハンは追わない。影は見物を好む。こちらが道を作れば、向こうは利を数えるだろう。
だが紙は増えた。札には一画が戻った。氷の鐘は眠っている。
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XIII 名を呼ぶ前
僧房を出る時、門の布の裏に新しい罫が一本増えていた。
そこにヨハンは短く書く。
『鳴らさず響き、削らず戻す。名は紙へ、息は胸へ』
ナディアが輪で文を濡らし、ミナが矢印で辿った。
ヴァレリアは盾を背に戻し、ボミエが門前の氷に星点を置くニャ。
ルーシアンは瓶を一度だけ鳴らし、中の湿りが静であることを確かめる。
ミレイユが最後の短句。
鐘は静
名は温
歩く前
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XIV 白の外
僧房の外は、風のない白だった。
遠くの氷原の向こうに、低い灯が幾つか揺れている。町か、村か。
呼ばれもしないが、呼ばないで届く距離。
ヨハンは背を伸ばし、短く言った。「行こう」
名を呼ばない呼びかけ。
呼ばないから、誰にも届く。
足元の氷は固く、影はひとつ。
鐘は鳴らずに息だけが続いていた。
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次回予告
第181話 煤の礼拝堂、灰に眠る祈り
氷の僧房を離れた一行が辿り着くのは、雪明かりの丘に半ば埋もれた煤まみれの礼拝堂。
祭壇は灰で満ち、祈るたびに灰が「別の祈り」に書き換わる。
——紙を破らず、礼を壊さず、灰を正しい土へ返す夜が始まる。




