欠け月の市、影の露店
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I 夜市の兆し
雪原を抜け、谷を渡り、夜の草地を歩んでいたときだった。
月は欠け、弓のように細く沈みかけていた。
にもかかわらず、丘の向こうに灯が並んでいる。火ではない。
それは蒼白く、影のような光だった。
ボミエの耳がぴんと立ち、しっぽが膨らむ。
「ニャ……おかしいニャ。灯なのに、匂いがしないニャ。煙もないニャ」
ナディアが笛を胸に抱き、囁いた。
「音もしない。……でも、胸の奥だけざわざわしてる」
ヨハンは逆薔薇の柄を握り、静かに言った。
「市だな。だが、人の市ではない」
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II 影の品
丘を越えた先にあったのは、広場に並んだ無数の露店だった。
屋台は木ではなく、墨で塗り固めたような黒い骨組みでできている。
並んでいるのは、果物や本や硬貨――しかしすべて「影」だった。
果物は実体がなく、黒い輪郭だけ。
本をめくろうとすれば、指が空を掻く。
硬貨は落ちても音を立てない。
ルーシアンが瓶を振り、湿りを探った。
「……実物じゃねぇ。けど、“質量”だけはある。持てば自分の重さが薄くなる」
ヴァレリアが盾を軽く叩く。
「つまり、影を買えば自分が影になる。……そんな商いか」
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III 影売りの女
露店のひとつに、女がいた。
歳はわからない。顔の輪郭は整っているが、目だけが黒く沈んでいる。
口元には常に笑みが浮かんでいた。
彼女は卓の上に黒い布を広げ、その上に「影の果物」を並べていた。
「ようこそ、欠け月の市へ。買うもよし、売るもよし。影は誰にでもついてくる。重たいでしょう? 軽くしてあげますよ」
声は甘いが、冷たかった。
彼女の背後には、無数の影が吊るされていた。人の影、獣の影、子どもの影。
どれも微かに動いている。
ボミエが星杖を握り、低く唸る。
「ニャ……この女、影を“在庫”にしてるニャ」
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IV 影を値札に
市を歩くうちに、異変が起こった。
仲間の一人――ミナの足元から、影がすうっと伸び、露店の卓に吸い寄せられていったのだ。
そこには値札が置かれた。
> 「声ひとつ、影ひとつ」
ミナは蒼ざめ、風紙を握りしめる。
「……わたしの影が、売りに出されてる」
ナディアが笛を構え、低く震えた声を吐く。
「こんなの……許せない」
女は笑った。
「心配いりません。影を売れば、軽くなれる。息も楽になる。ほら、旅は辛いでしょう?」
ヨハンは逆薔薇を構え、露店を睨んだ。
「影を奪って軽くする? ……それは死だ」
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V 囁きの市場
露店の周りに、群衆の声が集まり始めた。
実体のない人影たちが、囁き声だけを発している。
「売れ」「買え」「軽くなれ」
その声が市場を満たし、仲間たちの意志を削っていく。
ヴァレリアが盾を叩く。
「耳を塞げ! 聞けば削られる!」
だが囁きは耳ではなく、胸に入り込んでくる。
ミレイユが名録を開き、頁に短く刻む。
影は品
名はあと
息は座
文字が光り、囁きがわずかに遠ざかった。
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VI 偽りの取引
影売りの女は、黒い果物をひとつ差し出した。
「これを食べれば、影と同じになれる。もう誰にも傷つけられない。……買いなさい」
ボミエがしっぽを震わせ、杖で果物を払った。
「ニャ。そんなの、ただの“無”ニャ!」
果物は宙で弾け、黒い霧となって仲間の影にまとわりつく。
影は苦しげに蠢き、声をあげた。
> 「わたしを返せ」
> 「名を売れ」
> 「軽くなれ」
ルーシアンが瓶を投げ、湿りで霧を裂いた。
「――影は重くていい。だから足跡になるんだ!」
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VII 返す市
ヨハンは逆薔薇を地に突き、声を張った。
「市は商いで回る。買うか売るかだけじゃない――“返す”ことも取引だ!」
ミナが風紙に記し、ミレイユが名録を広げ、ボミエが星杖を掲げる。
それぞれが自分の「影の在り処」を呼び、輪を結んだ。
ナディアの笛が低く響き、失われた声を「返す」旋律を作る。
露店に並んだ影がひとつ、またひとつと持ち主の足元へ戻っていく。
吊るされていた影たちも、鎖を外れ、地に落ちた。
影売りの女の笑顔が消えた。
「返す……? そんな取引は、この市にはない!」
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VIII 崩れる市
広場の灯が揺れ、露店が崩れ始める。
黒い骨組みは砂のように崩れ、影の果物は地に溶けた。
囁いていた群衆も消え、残ったのは冷たい風だけだった。
女は最後まで笑わず、黒い瞳だけを光らせて言った。
「また会いましょう。影はどこにでもついてくる。……欠け月が満ちる夜に」
そう告げて、彼女の姿も霧の中に消えた。
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IX 月下の静けさ
市が跡形もなく消えると、空には再び欠けた月だけが残った。
雪原は静かで、ただ冷気だけが身を刺した。
仲間たちは互いの影を確かめ合った。
足元に伸びる影はひとつずつ、確かに揺れている。
ナディアが笛を下ろし、かすかな笑みを見せた。
「……音が戻った」
ボミエは胸の潮封珠を撫で、尾をゆっくり振った。
「ニャ。重いけど、それでいいニャ。影は、歩いた証ニャ」
ヨハンは逆薔薇を肩に掛け、夜空を見上げた。
「影は消さずに背負う。それが、生きているということだ」
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次回予告
第180話 氷壁の鐘、名なき僧房
欠け月の市を抜けた一行の前に現れるのは、氷で築かれた巨大な僧房。
中には鐘が並び、鳴らすたびに「名」が削られていく。
名を持たぬ僧たちが無言で歩く中、仲間の一人が鐘の音に引き寄せられる――。




