表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

175/323

――凍霧の沼編―― 第1話 凍霧の沼、声を返す葦

I 濃い白


 谷を離れて半日、地面は次第に柔らいだ。足裏が沈むたび、冷たい水気が草の間から吸い上がる。陽は出ているのに、目の前は夜みたいに白い。霧が濃すぎて遠近が消え、音が近づくのか遠ざかるのかも判らない。


 葦が鳴っていた。風ではない。誰かが低く囁いているような、こすれる拍。ひとつが鳴れば、別のひとつが真似をし、別のひとつがそれを否定する。


 ヨハンは杖先で地を探り、ぬかるみに細い橋を描く。「列、崩すな。間を空けて歩く」


 ヴァレリアが頷き、盾を半身に斜めて角を前に出す。ミナは風紙を胸の高さで広げ、矢印を細く刻んでは空へ放った。ルーシアンが瓶の口を閉めたり開けたりして、湿りと乾きを調え続ける。


 ナディアは笛箱に指を置き、息だけを輪にした。音は出さない。出せば、ここでは容易に「偽」に拾われそうだったから。


 ボミエは耳をぴんと立てて、尻尾を腰に巻きつけたニャ。「水の匂いの中に、ひとの匂いが混じってるニャ。新しいのと古いの、両方ニャ」


 ミレイユは名録に点をひとつ置いた。


  白い息

  葦は口

  名は濡れる



II 返ってくる名前


 霧の奥で、ヨハンは小さく名を呼んだ。「ナディア」


 すぐ脇の葦が、柔らかく答えた。「……ヨハン?」


 振り向いたナディアは首を振る。「今のは私じゃない」


 続けて、別の葦がボミエの声を真似る。「なにしてるニャ、はやく来いニャ」


「そんな言い方しないニャ」と当のボミエがむっとする。「語尾は似てるけど、間が違うニャ」


 ミナが風紙の角で葦をそっと撫で、紙面に落ちる湿りの形を見た。「音が“返り”になってる。呼ばれていない名を返す」


 ルーシアンが手を耳にやり、霧の向こうへ目を細める。「呼ぶたびに“別の者”が返ってくる……やな葦だな」


 ヨハンは低く息を吐き、呼ぶ順を変えた。「ヴァレリア——間を一拍置いて、ミレイユ——それからミナ」


 返ってきたのは「ルーシアン」「ナディア」「ボミエ」。誰も呼んでいない順。葦は嘲るように鳴き、霧の白に黒い影が細く走った。


 ミレイユが短句。


  呼べば他

  返りは嘲り

  名は裂ける



III 影の二足


 足もとで、ヨハンの影が二重になった。外側の影がわずかに遅れ、内側の影が先に出る。遅れた影は、ふいに別の足を持ったかのように動き、葦のほうへ歩き出した。


 ヴァレリアの影も割れた。内の影は盾を持ち、外の影は素手で、まるで別の意志で歩く。ミナの影は紙を持たず、ルーシアンの影は瓶を持たない。ボミエの影は尻尾が二本に見え、ナディアの影は輪を持たずに口だけを開けた。


 ヨハンは自分の足元に逆薔薇の影を重ねて踏み、「止まれ」と言った。影は止まらない。葦が呼んでいる。返し声が影の筋を引っ張る。


 ナディアが短く息を吐く。「輪、行きすぎると割れる。ここでは小さく」


 ミナが矢印を——いつもは空へ投げるそれを——足もとの泥に描いた。「影の向き、こっち」


 ボミエが杖先で自分の影の尾を軽く叩く。「ついてこいニャ。離れたら引っ張るニャ」


 ルーシアンが乾の瓶を開き、足もとの泥をわずかに固める。ヴァレリアが盾の角で影の鼻先を押さえた。うすい痛みが足首に来る——それは自分ではなく、影の痛み。


 ミレイユの短句。


  二つ足

  片方は葦へ

  片方は手へ



IV 葦の礼拝


 開けたところに出た。葦が輪になって立ち、中央は黒い水。輪の内側だけ、霧が薄い。そこだけがきれいすぎる。


 輪の縁から声がした。「手を合わせて。名を置いて」——親切な声。優しい声。だからこそ、危ない声。


 ヨハンは輪の中央に足を踏み入れなかった。代わりに靴の先だけを黒い水へ触れ、冷たさの厚みを量った。水は極端に冷たくない。ここは、沈めるためではなく——撮るための場所だ。


「置くのは名じゃない」ヨハンは言う。「拍だ」


 ナディアが頷き、笛を取り出した。音は出さない。唇と舌だけで拍を刻み、輪の外へ渡す。渡された拍は、葦の葉をわずかに震わせ、返し声の門をくぐらずに流れていく。


 ミナが風紙に点を置いて順番を作る。「右から左へ。上から下へではなく」


 ヴァレリアが盾を地に当て、角で弱い拍を受ける。ルーシアンが湿りの重さを微調整し、ボミエが星点を周りの泥へ落として、足場の浮きを止めるニャ。


 葦は「礼」を求め続ける。「手を合わせて。名を置いて」


「礼は払う。だが、名は払わない」ヨハンは輪を睨んだ。


 ミレイユの短句。


  礼は拍

  名は置かず

  息だけ渡す



V 偽の呼び声


 霧の奥から、レオンの声がした。拳の音、笑い声。ピックルの声も、谷都の鈴の音も、森番の無言も——全部。


 ボミエの耳が震え、瞳に涙がたまる。「ピックル……」


「違う」ヨハンは即座に遮った。「ここでは“懐かしさ”が一番の罠だ」


 ナディアが笛を胸に当て、声の高さを測る。「少し高い。懐かしさは声を薄くする」


 ルーシアンが瓶を傾け、「湿りが足りない懐かしさだな」と吐く。「本物はもっと、重い」


 ミナが風紙で懐かしさを折り、角を鈍らせる。ヴァレリアが盾を掲げ、躰の前で懐かしさを受け流す。ボミエは涙を拭い、尻尾をきゅっと締めるニャ。「……ありがとニャ。行くニャ」


 葦がひときわ高く鳴いた。輪の内の水面に、見えない天井の影が揺れる。


 ミレイユの短句。


  薄い懐

  喉に刺さる

  息で抜く



VI 影が引く


 足首に冷たい指。外側の影が、内側の足を引きにかかった。泥は柔らかく、しかし沈まない。沈ませるのは「声」だ。声が足を重くする。


 ヨハンは逆薔薇の鍔を影の手首に当て、道具ではなく約束として押しあてた。「お前は“先”ではない。“あと”だ」


 ナディアが輪を小さく二つ重ね、影の腕の関節に息を通す。ミナが矢印を逆に折り、ルーシアンが乾で泥の粘りを落とす。ヴァレリアが肩でヨハンの肘を支え、ボミエが星点で影の踵を床へ縫うニャ。


 影の手がほどけた。外の影は外のまま、内の影が躰に戻る。戻るとき、足首の奥がひどく軽くなった。


 ミレイユの短句。


  先とあと

  影はあと

  足は先



VII 葦の根


 輪の外側で、葦の根が絡まり合っているのが見えた。根は太く、泥の中で白く光る。そこから噴き上がる細い泡。泡は声の素。


 ルーシアンが瓶を構え、「泡を鈍らせる」と言って曇を落とした。泡は小さくなり、弾ける拍が遅れる。ミナが風紙を水面に置き、泡の出口に句点を一つずつ捺す。ボミエが星点を根の節に置き、節から先の張りを眠らせるニャ。


 ナディアが笛を湿らせ、短い音を真下へ落とした。音は水に吸われ、葦の内側の管に触れ、返り声の鍵を外す。


 ヨハンは杖先で根を軽く叩き、数えた。返り声の根は七。七つすべてに句点が置かれ、星点が眠りを与え、湿りが拍を遅らせた時——葦の輪はふっと沈黙した。


 ミレイユの短句。


  根に点

  泡を遅らせ

  返り眠る



VIII 誰かが呼ぶ


 黙ったはずの輪の向こうから、今度は正しい声がした。ナディアの声でナディアを呼ぶ。ボミエの声でボミエを呼ぶ。ヨハンの声でヨハンを呼ぶ。


「ここだよ」「こっちだニャ」「早く来い」


 ルーシアンが舌打ちする。「反撃が早いな」


 ミナは風紙を胸に当て、静かに言った。「“正しい呼び”ほど危険。心が先に行くから」


 ヨハンは頷き、あえて名を呼ばない。「ここにいる」


 ナディアも呼ばない。「見えてる」


 ヴァレリアも呼ばない。「守っている」


 ボミエも呼ばない。「聞こえてるニャ」


 ルーシアンも呼ばない。「濡れてる」


 ミナも呼ばない。「風がある」


 ミレイユが短句。


  名を呼ばず

  在ると言う

 息が通る


 葦は拍を失い、ふたたび沈黙した。呼ばないという呼び方——それはここでは最も強い。



IX 拾われた名


 泥の上に、文字の欠片が落ちていた。誰かの名の破片。曲がって濡れて、紙なのか皮なのかも分からない。拾いあげると、指に冷たさが順番に染みた——ぽん/ちり/こ/く。遠い村の鐘の名残が、ここでも順番を作る。


 ミレイユは名録の余白にその順をそのまま写し、「これは“戻る名”の拍」と記した。ミナが矢印で向きを添える。ルーシアンが湿りをほんのわずかに足し、乾を引く。ナディアが輪で温度を与え、ヴァレリアが盾で時間を守る。ボミエが星点で位置を留めたニャ。


 破片は文字の形へ戻り、泥から離れた。声の返しが奪った名が、一つだけ戻る。


「まだ足りない」ヨハンは泥に目を落とした。「名の破片は、あちこちに散ってる」


 葦の奥に、細い影が静かに立つ。深緑、毛皮の襟、鍵束。影の仲買人は——今日はやはり笑わない。鍵束も鳴らさない。ただ、こちらを見た。



X 道の作り方


 霧は相変わらず白い。だが、葦はもう返さない。輪の内の水は静まり、足元の影は一つのまま。


 ミナが小さく言う。「ここで道を作る。道は紙。泥の上でも、紙は道」


 彼女は風紙を広げ、矢印を等間隔に刻んで置く。ルーシアンが湿りで紙の下を固める。ヴァレリアが盾で紙の端を守り、ナディアが輪で紙を浮かせすぎないように見張る。ボミエが星点を紙の継ぎ目に置いて、二枚がずれないように縫うニャ。


 ヨハンは先頭に立ち、逆薔薇の影を真下に置いて歩いた。「紙は道。道は人。——ここを抜ける」


 ミレイユの短句。


  紙を敷く

  矢印は歩幅

  息で渡る



XI 置き土産


 輪の跡のそばに、小さな杭が一本だけ打ってあった。そこに札が結わえてある。表は白。裏に、かすれた文字。


 『声は返す。名は返さない』


 ルーシアンが鼻で笑う。「やっぱり置いてったか」


 ヨハンは札の余白に短く書き足す。


 『名は返す。声は眠らせる』


 札は風に揺れ、霧に濡れ、やがて泥と同じ色に落ち着いた。


 ミレイユが短句。


  札の裏

  書き足して

  霧に伏す



XII 沼の端


 紙の道は葦を抜け、硬い土へ出た。霧はまだ濃いが、空気の重さが違う。背中で判る。


 ボミエが肩をまわし、尻尾を解いたニャ。「やっと——音が“寝た”ニャ。耳が痛くないニャ」


 ナディアが笛箱に手を置き、「輪、残ってる。誰かの声、返って来ないまま。……でも、道はできた」


 ヴァレリアは包帯を確かめ、盾を背に戻す。ミナは風紙の余白を数え、次の分を用意する。ルーシアンは瓶の口を布で拭き、灰粉を落とす。ヨハンは杖を土に突き、霧の向こうを見た。


 ミレイユの短句。


  返らない声

  返る道

  息は前へ



XIII 短い焚き火


 硬い土の上で、小さな焚き火を起こした。湿りは控えめ、火は低い。沼の中では焚けない火も、ここでは寝付く。灰は灰の匂いがし、薪は薪の音を立てる。


 ボミエが手をこすり、「本物の火は落ち着くニャ」と笑うニャ。ナディアが湯を温め、皆に回す。ヴァレリアは盾を立てかけ、影を一つに集めて座った。ミナは紙を乾かし、ルーシアンは瓶をならべ、ミレイユは名録に今日の頁を閉じる印を置く。


 焚き火の向こう、霧の壁が静かに波打った。深緑の影はもういない。鍵も鳴らない。ただ、何本かの葦が、風でない動きで微かに揺れた。



XIV あしたの白


 火を消し、灰を畑の方角へ撒く。沼ではなく、土へ。息を静かに合わせる。霧は依然として白いが、その白は道を隠しきれない。


 ヨハンは立ち上がり、短く言う。「行こう」


 その一言は、名を呼ばない呼びかけだった。呼ばないから、誰にでも届く。葦はもう返さない。影は足の下に一つ。紙は丸めれば杖の中に収まる。


 ミレイユが最後の短句。


  呼ばず呼ぶ

  白の中

  歩幅ひとつ


 霧の奥で、未だ返らぬ声が眠り続けている。いつか拾えるかもしれないし、拾えないかもしれない。それでも、道は前に伸びていた。



次回予告


第178話 雪片の門、口を持たぬ宿

霧を抜けた先にあるのは、雪片が積み上がってできた奇妙な「門」と、客を迎えるのに入口のない宿。

玄関がないのに鍵だけが配られ、部屋の中から笑いが漏れる。

——鍵は紙、門は雪。入らずに“開く”方法を見つけなければ、

宿は客の名を預金に変えて取り崩していく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ