――凍霧の沼編―― 第1話 凍霧の沼、声を返す葦
I 濃い白
谷を離れて半日、地面は次第に柔らいだ。足裏が沈むたび、冷たい水気が草の間から吸い上がる。陽は出ているのに、目の前は夜みたいに白い。霧が濃すぎて遠近が消え、音が近づくのか遠ざかるのかも判らない。
葦が鳴っていた。風ではない。誰かが低く囁いているような、こすれる拍。ひとつが鳴れば、別のひとつが真似をし、別のひとつがそれを否定する。
ヨハンは杖先で地を探り、ぬかるみに細い橋を描く。「列、崩すな。間を空けて歩く」
ヴァレリアが頷き、盾を半身に斜めて角を前に出す。ミナは風紙を胸の高さで広げ、矢印を細く刻んでは空へ放った。ルーシアンが瓶の口を閉めたり開けたりして、湿りと乾きを調え続ける。
ナディアは笛箱に指を置き、息だけを輪にした。音は出さない。出せば、ここでは容易に「偽」に拾われそうだったから。
ボミエは耳をぴんと立てて、尻尾を腰に巻きつけたニャ。「水の匂いの中に、ひとの匂いが混じってるニャ。新しいのと古いの、両方ニャ」
ミレイユは名録に点をひとつ置いた。
白い息
葦は口
名は濡れる
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II 返ってくる名前
霧の奥で、ヨハンは小さく名を呼んだ。「ナディア」
すぐ脇の葦が、柔らかく答えた。「……ヨハン?」
振り向いたナディアは首を振る。「今のは私じゃない」
続けて、別の葦がボミエの声を真似る。「なにしてるニャ、はやく来いニャ」
「そんな言い方しないニャ」と当のボミエがむっとする。「語尾は似てるけど、間が違うニャ」
ミナが風紙の角で葦をそっと撫で、紙面に落ちる湿りの形を見た。「音が“返り”になってる。呼ばれていない名を返す」
ルーシアンが手を耳にやり、霧の向こうへ目を細める。「呼ぶたびに“別の者”が返ってくる……やな葦だな」
ヨハンは低く息を吐き、呼ぶ順を変えた。「ヴァレリア——間を一拍置いて、ミレイユ——それからミナ」
返ってきたのは「ルーシアン」「ナディア」「ボミエ」。誰も呼んでいない順。葦は嘲るように鳴き、霧の白に黒い影が細く走った。
ミレイユが短句。
呼べば他
返りは嘲り
名は裂ける
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III 影の二足
足もとで、ヨハンの影が二重になった。外側の影がわずかに遅れ、内側の影が先に出る。遅れた影は、ふいに別の足を持ったかのように動き、葦のほうへ歩き出した。
ヴァレリアの影も割れた。内の影は盾を持ち、外の影は素手で、まるで別の意志で歩く。ミナの影は紙を持たず、ルーシアンの影は瓶を持たない。ボミエの影は尻尾が二本に見え、ナディアの影は輪を持たずに口だけを開けた。
ヨハンは自分の足元に逆薔薇の影を重ねて踏み、「止まれ」と言った。影は止まらない。葦が呼んでいる。返し声が影の筋を引っ張る。
ナディアが短く息を吐く。「輪、行きすぎると割れる。ここでは小さく」
ミナが矢印を——いつもは空へ投げるそれを——足もとの泥に描いた。「影の向き、こっち」
ボミエが杖先で自分の影の尾を軽く叩く。「ついてこいニャ。離れたら引っ張るニャ」
ルーシアンが乾の瓶を開き、足もとの泥をわずかに固める。ヴァレリアが盾の角で影の鼻先を押さえた。うすい痛みが足首に来る——それは自分ではなく、影の痛み。
ミレイユの短句。
二つ足
片方は葦へ
片方は手へ
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IV 葦の礼拝
開けたところに出た。葦が輪になって立ち、中央は黒い水。輪の内側だけ、霧が薄い。そこだけがきれいすぎる。
輪の縁から声がした。「手を合わせて。名を置いて」——親切な声。優しい声。だからこそ、危ない声。
ヨハンは輪の中央に足を踏み入れなかった。代わりに靴の先だけを黒い水へ触れ、冷たさの厚みを量った。水は極端に冷たくない。ここは、沈めるためではなく——撮るための場所だ。
「置くのは名じゃない」ヨハンは言う。「拍だ」
ナディアが頷き、笛を取り出した。音は出さない。唇と舌だけで拍を刻み、輪の外へ渡す。渡された拍は、葦の葉をわずかに震わせ、返し声の門をくぐらずに流れていく。
ミナが風紙に点を置いて順番を作る。「右から左へ。上から下へではなく」
ヴァレリアが盾を地に当て、角で弱い拍を受ける。ルーシアンが湿りの重さを微調整し、ボミエが星点を周りの泥へ落として、足場の浮きを止めるニャ。
葦は「礼」を求め続ける。「手を合わせて。名を置いて」
「礼は払う。だが、名は払わない」ヨハンは輪を睨んだ。
ミレイユの短句。
礼は拍
名は置かず
息だけ渡す
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V 偽の呼び声
霧の奥から、レオンの声がした。拳の音、笑い声。ピックルの声も、谷都の鈴の音も、森番の無言も——全部。
ボミエの耳が震え、瞳に涙がたまる。「ピックル……」
「違う」ヨハンは即座に遮った。「ここでは“懐かしさ”が一番の罠だ」
ナディアが笛を胸に当て、声の高さを測る。「少し高い。懐かしさは声を薄くする」
ルーシアンが瓶を傾け、「湿りが足りない懐かしさだな」と吐く。「本物はもっと、重い」
ミナが風紙で懐かしさを折り、角を鈍らせる。ヴァレリアが盾を掲げ、躰の前で懐かしさを受け流す。ボミエは涙を拭い、尻尾をきゅっと締めるニャ。「……ありがとニャ。行くニャ」
葦がひときわ高く鳴いた。輪の内の水面に、見えない天井の影が揺れる。
ミレイユの短句。
薄い懐
喉に刺さる
息で抜く
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VI 影が引く
足首に冷たい指。外側の影が、内側の足を引きにかかった。泥は柔らかく、しかし沈まない。沈ませるのは「声」だ。声が足を重くする。
ヨハンは逆薔薇の鍔を影の手首に当て、道具ではなく約束として押しあてた。「お前は“先”ではない。“あと”だ」
ナディアが輪を小さく二つ重ね、影の腕の関節に息を通す。ミナが矢印を逆に折り、ルーシアンが乾で泥の粘りを落とす。ヴァレリアが肩でヨハンの肘を支え、ボミエが星点で影の踵を床へ縫うニャ。
影の手がほどけた。外の影は外のまま、内の影が躰に戻る。戻るとき、足首の奥がひどく軽くなった。
ミレイユの短句。
先とあと
影はあと
足は先
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VII 葦の根
輪の外側で、葦の根が絡まり合っているのが見えた。根は太く、泥の中で白く光る。そこから噴き上がる細い泡。泡は声の素。
ルーシアンが瓶を構え、「泡を鈍らせる」と言って曇を落とした。泡は小さくなり、弾ける拍が遅れる。ミナが風紙を水面に置き、泡の出口に句点を一つずつ捺す。ボミエが星点を根の節に置き、節から先の張りを眠らせるニャ。
ナディアが笛を湿らせ、短い音を真下へ落とした。音は水に吸われ、葦の内側の管に触れ、返り声の鍵を外す。
ヨハンは杖先で根を軽く叩き、数えた。返り声の根は七。七つすべてに句点が置かれ、星点が眠りを与え、湿りが拍を遅らせた時——葦の輪はふっと沈黙した。
ミレイユの短句。
根に点
泡を遅らせ
返り眠る
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VIII 誰かが呼ぶ
黙ったはずの輪の向こうから、今度は正しい声がした。ナディアの声でナディアを呼ぶ。ボミエの声でボミエを呼ぶ。ヨハンの声でヨハンを呼ぶ。
「ここだよ」「こっちだニャ」「早く来い」
ルーシアンが舌打ちする。「反撃が早いな」
ミナは風紙を胸に当て、静かに言った。「“正しい呼び”ほど危険。心が先に行くから」
ヨハンは頷き、あえて名を呼ばない。「ここにいる」
ナディアも呼ばない。「見えてる」
ヴァレリアも呼ばない。「守っている」
ボミエも呼ばない。「聞こえてるニャ」
ルーシアンも呼ばない。「濡れてる」
ミナも呼ばない。「風がある」
ミレイユが短句。
名を呼ばず
在ると言う
息が通る
葦は拍を失い、ふたたび沈黙した。呼ばないという呼び方——それはここでは最も強い。
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IX 拾われた名
泥の上に、文字の欠片が落ちていた。誰かの名の破片。曲がって濡れて、紙なのか皮なのかも分からない。拾いあげると、指に冷たさが順番に染みた——ぽん/ちり/こ/く。遠い村の鐘の名残が、ここでも順番を作る。
ミレイユは名録の余白にその順をそのまま写し、「これは“戻る名”の拍」と記した。ミナが矢印で向きを添える。ルーシアンが湿りをほんのわずかに足し、乾を引く。ナディアが輪で温度を与え、ヴァレリアが盾で時間を守る。ボミエが星点で位置を留めたニャ。
破片は文字の形へ戻り、泥から離れた。声の返しが奪った名が、一つだけ戻る。
「まだ足りない」ヨハンは泥に目を落とした。「名の破片は、あちこちに散ってる」
葦の奥に、細い影が静かに立つ。深緑、毛皮の襟、鍵束。影の仲買人は——今日はやはり笑わない。鍵束も鳴らさない。ただ、こちらを見た。
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X 道の作り方
霧は相変わらず白い。だが、葦はもう返さない。輪の内の水は静まり、足元の影は一つのまま。
ミナが小さく言う。「ここで道を作る。道は紙。泥の上でも、紙は道」
彼女は風紙を広げ、矢印を等間隔に刻んで置く。ルーシアンが湿りで紙の下を固める。ヴァレリアが盾で紙の端を守り、ナディアが輪で紙を浮かせすぎないように見張る。ボミエが星点を紙の継ぎ目に置いて、二枚がずれないように縫うニャ。
ヨハンは先頭に立ち、逆薔薇の影を真下に置いて歩いた。「紙は道。道は人。——ここを抜ける」
ミレイユの短句。
紙を敷く
矢印は歩幅
息で渡る
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XI 置き土産
輪の跡のそばに、小さな杭が一本だけ打ってあった。そこに札が結わえてある。表は白。裏に、かすれた文字。
『声は返す。名は返さない』
ルーシアンが鼻で笑う。「やっぱり置いてったか」
ヨハンは札の余白に短く書き足す。
『名は返す。声は眠らせる』
札は風に揺れ、霧に濡れ、やがて泥と同じ色に落ち着いた。
ミレイユが短句。
札の裏
書き足して
霧に伏す
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XII 沼の端
紙の道は葦を抜け、硬い土へ出た。霧はまだ濃いが、空気の重さが違う。背中で判る。
ボミエが肩をまわし、尻尾を解いたニャ。「やっと——音が“寝た”ニャ。耳が痛くないニャ」
ナディアが笛箱に手を置き、「輪、残ってる。誰かの声、返って来ないまま。……でも、道はできた」
ヴァレリアは包帯を確かめ、盾を背に戻す。ミナは風紙の余白を数え、次の分を用意する。ルーシアンは瓶の口を布で拭き、灰粉を落とす。ヨハンは杖を土に突き、霧の向こうを見た。
ミレイユの短句。
返らない声
返る道
息は前へ
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XIII 短い焚き火
硬い土の上で、小さな焚き火を起こした。湿りは控えめ、火は低い。沼の中では焚けない火も、ここでは寝付く。灰は灰の匂いがし、薪は薪の音を立てる。
ボミエが手をこすり、「本物の火は落ち着くニャ」と笑うニャ。ナディアが湯を温め、皆に回す。ヴァレリアは盾を立てかけ、影を一つに集めて座った。ミナは紙を乾かし、ルーシアンは瓶をならべ、ミレイユは名録に今日の頁を閉じる印を置く。
焚き火の向こう、霧の壁が静かに波打った。深緑の影はもういない。鍵も鳴らない。ただ、何本かの葦が、風でない動きで微かに揺れた。
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XIV あしたの白
火を消し、灰を畑の方角へ撒く。沼ではなく、土へ。息を静かに合わせる。霧は依然として白いが、その白は道を隠しきれない。
ヨハンは立ち上がり、短く言う。「行こう」
その一言は、名を呼ばない呼びかけだった。呼ばないから、誰にでも届く。葦はもう返さない。影は足の下に一つ。紙は丸めれば杖の中に収まる。
ミレイユが最後の短句。
呼ばず呼ぶ
白の中
歩幅ひとつ
霧の奥で、未だ返らぬ声が眠り続けている。いつか拾えるかもしれないし、拾えないかもしれない。それでも、道は前に伸びていた。
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次回予告
第178話 雪片の門、口を持たぬ宿
霧を抜けた先にあるのは、雪片が積み上がってできた奇妙な「門」と、客を迎えるのに入口のない宿。
玄関がないのに鍵だけが配られ、部屋の中から笑いが漏れる。
——鍵は紙、門は雪。入らずに“開く”方法を見つけなければ、
宿は客の名を預金に変えて取り崩していく。




