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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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――塩の市編―― 第1話 塩の市、秤の舌

I 谷の出口、塩の匂い


 山を抜けた先、白い丘が幾重にも波打っていた。

 遠目には雪か砂に見えるが、近づけばそれがすべて塩だとわかる。風が舌先を刺すようにしょっぱい。

 広場には屋台がびっしり並び、樽と袋が山のように積まれていた。各所に秤が据えられ、商人たちは金貨ではなく札と言葉をやり取りする。


 ヨハンは足をとめ、最も大きな秤の前に立つ。

 片皿には朱の札。もう片皿には丸い石が数個。

 札には「正しさ」、石には「噂」と微かな刻印がある。


 ルーシアンが鼻で笑う。「面白いじゃないか。分銅の代わりに“言い分”を載せてる」


 ミナは風紙を半折にし、秤盤の上を撫でた。「……言葉の重さが風にのってる。舌の湿りで重くなる」


 ヴァレリアは周囲の柱に目を巡らせる。「秤の足が不揃いだ。誰かが意図的に傾けている」


 ナディアは笛箱に指を置き、胸の輪を落ち着かせた。「笑い声はないのに、みんな口角だけ上がってる」


 ボミエは耳を伏せ、尻尾を膨らませるニャ。「塩の市なのに、口が乾きすぎて言葉が刺さるニャ」


 ミレイユは名録を開き、余白に短句。


  塩の風

  秤は舌

  札は影



II 舌商


 最大の秤の背後に、痩せた男が立っていた。黒革の前掛け、薄い唇、笑っていない目。

 人々は彼を舌商したしょうと呼ぶらしい。

 男は客の言葉を最後まで聞かず、指先で札を撫でる。それだけで皿は沈み、塩の値が変わる。


「——次」

 舌商は乾いた声で呼ぶ。

 若い母親が一歩踏み出す。腕に幼子、籠に小麦。

「塩を少し……病の子に必要で」

 舌商は朱の札をひとつ、石をふたつ乗せ、低く言った。

「噂がある。お前の家は“左”の帳に落ちたと。石が勝つ」

 皿は石の側へ沈み、塩は目減りした。


 ボミエのひげが逆立つニャ。「ひどいニャ。言葉だけで重くなるなんて」


 ヨハンは秤の足元を見た。台座の裏に薄板が差し込まれ、僅かに傾けてある。

 言葉が分銅なら、傾きは地の嘘だ。



III 札の向き


 市場の端には札貼りの壁があり、「正しさ(朱)」と「噂(石)」の札が二段に分かれていた。

 上段は厚い紙、下段は薄い紙。風が吹くと薄い方だけはためく。

 目は勝手にそこへ吸われ、石の噂は増し重りになる。


 ミナが風紙で角を押さえ、低く囁く。「並びを横に変えれば、風は選べなくなる」

 ヴァレリアがうなずく。「柱を一本抜き、壁のたわみを減らせば、はためきが止まる」

 ルーシアンが掲示の縁を嗅いだ。「膠に香料。嗅ぎたくないのに体が覚える匂い……舌が勝手に重くなる」


 ミレイユは短句。


  縦を横

  角を折る

  風を止める



IV 塩の音


 台車で運ばれてくる塩は、袋の中でさらさらと音を立てる。

 だが一部の袋はざらりと重い音を出した。

 ルーシアンが指を突っ込み、ひとかけらを舌に当てる。「……塩に灰が混ざってる。燃えない“影の火”の粉だ」


 ナディアが眉を寄せる。「食べたら喉が削れる」


 ヨハンは舌商へ目を向けた。「混ぜ物を止めろ。秤の前に清水を置け。舌で確かめられるように」


 舌商は首を傾げた。「確かめる舌が、信じられるとでも?」


 ボミエが即座に言い返すニャ。「信じられないのは、お前の舌のほうニャ!」



V 舌の儀


 舌商は指を上げ、広場の中央に小さな壇を作らせた。

 壇の上に三つの器——清水、粗塩、混ざり物。

 「ここで“舌の儀”を行う」

 舌商の声に、人々は喉を鳴らす。

 儀が見世物に化ける瞬間。言葉に熱が宿り、秤は群衆の舌で傾く。


 ヴァレリアが盾を軽く叩き、距離を測る。「ここからなら、乱れを押さえられる」


 ミナが風紙を広げ、矢印を三つ描く。「視線を分ける。一箇所に集めない」


 ナディアが笛に触れ、音の出ない輪を胸に置く。「呼吸を長く」


 ボミエが壇の足に星点を置くニャ。「揺れを止めるニャ」


 ルーシアンが水器に布をかけ、滴りを一定にする。「口直しは平等に」


 ミレイユが短句。


  見せ方で

  舌は変わる

  儀は軽く



VI 秤の足


 ヨハンは秤の台座に膝をつき、差し込まれた薄板を見せるように引き抜いた。

 「傾けるなら、公にやれ。陰でやるな」

 台座は水平を取り戻し、皿の揺れが正直になる。

 人々の顔に「いまさら」という不安が走った。

 ——今までの値は何だったのか、と。


 舌商の目が細くなる。笑っていない笑顔だ。

 「水平が正しいと、誰が決めた? ここでは舌が決める」


 ヨハンは首を振る。「舌は確かめるために使う。傾けるためじゃない」



VII 言い分の重さ


 舌の儀が始まる。

 最初の客は旅の男。粗塩を舐め、清水で口を清める。「普通だ」

 二人目は老女。混ざり物を舐め、苦い顔をする。「喉が痛い」

 三人目は商団の若者。混ざり物を舐め、わざとらしく笑った。「旨い」

 笑い声が皿に乗り、噂の石がひとつ重くなる。


 ミナが風紙の角で若者の肩をかすめ、視線を壇から市の外へ逸らす。

 ナディアの輪が笑いをほどく。

 ヴァレリアが盾で人垣の圧を散らし、ボミエが壇の足の揺れを止めるニャ。

 ルーシアンが水器を回し、舌の休みを整える。


 ミレイユの短句。


  笑い石

  重くなる

  輪で軽く



VIII 札の書き換え


 掲示の壁の札が、風でまたはためこうとした瞬間、ミナが角を折って横一列に並べ替えた。

 「正しさ」と「噂」を同じ高さに。

 紙は破らない。ただ配置を変える。

 風はどちらも同じように吹き、目は片方だけに吸われない。


 舌商の指が空をつかみ、ほんのわずかに止まった。


 ヨハンは秤の前に立ち、人々に向かって短く言う。

 「札は口ではない。紙だ。紙で終わる」


 ボミエが尻尾を揺らすニャ。「人で終わらせないニャ」



IX 塩の歌


 ナディアが笛を唇に寄せ、ひと息だけ低く鳴らした。

 音は細く、塩の粒に吸われ、広場の角へと散る。

 誰も曲名を知らない。

 それでも、その一息で舌が落ち着く。


 ルーシアンが笑う。「塩の歌ってやつだな」


 ヴァレリアが頷く。「乱れが減った」


 ミレイユの短句。


  塩の歌

  舌が静

  秤が正



X 舌商の掌


 舌商は壇から降り、秤の皿に自分の掌をそっと載せた。

 掌は軽い。だが、皿は確かに沈む。

 「これが“信用”の重さだ」


 ヨハンはその手を見せるように掴み、裏を返した。

 掌には薄い鉛の板が貼られている。皮の下に滑り込んだ、貼り重り。

 群衆がどよめき、舌商の目が初めて揺れた。


 「信用は貼るものじゃない。積むものだ」


 彼は言葉を失い、指が小刻みに震えた。

 震えは癖だ。長く同じ手つきを続けた者の残り。



XI 影の客


 市の外縁、深緑の外套。襟に毛皮。

 影の仲買人は鍵束を鳴らさず、秤の皿の揺れを見ていた。

 彼は笑わない目で舌商の背を一瞬だけあやしむ。

 ——お前は使えるのか、捨てるのか。


 ルーシアンが低く吐き捨てる。「来てるな。今日は前に出ない」


 ヨハンは追わない。秤を紙に返し、舌を人に返すほうが先だ。



XII 塩を“確かめる”場


 ヨハンは市の中央に小さな机を置かせ、紙に一行ずつ書き足す。

 『混ざり物は“確かめ場”へ』

 『秤の足は公開する』

 『掌の貼り重りは禁ずる』

 『札は横並び。角を折る』

 『言い分は紙へ。人へではない』


 ヴァレリアは机の周囲に空きを作り、ミナが順路の矢印を描く。

 ナディアは短く笛を鳴らし、列の息を揃え、ボミエが揺れる足場へ星点を置くニャ。

 ルーシアンは清水の器を増やし、舌をやすませる場所を用意した。


 ミレイユが短句。


  紙に載せ

  舌で確かめ

  人を傷つけず



XIII 塩の子


 屋台の影で、細い腕の子が塩の袋を抱えていた。

 袋は重く、肩に食い込む。

 子は目を伏せ、誰かに呼ばれるのを待つ顔をしている。


 ヨハンがしゃがみこみ、視線を合わせた。「どこの家だ」


「……ない」

 短い返事。

 袋の口をわずかに開けると、塩の下から小石がざらりと転げ出た。

 誰かが子に混ぜ物をやらせている。


 ボミエが子の肩にそっと手を置くニャ。「ここはもう大丈夫ニャ。塩は塩、石は石。確かめる場ができたニャ」


 ナディアが輪の温度を手首に残し、「しばらく一緒においで」


 ヴァレリアは屋台の主たちに目だけで合図する。「この子を使うな」


 ミナが札の端に小さく書き足す。「子の労働は塩ではなく、銭で払う」


 ルーシアンが肩で笑う。「いい市になりそうだ」



XIV 終いの秤


 夕刻、風が弱まり、塩の丘が赤く染まった。

 秤の皿は静かで、札は風に踊らない。

 舌商は壇に立ち、浅く頭を下げた。

 「——秤は今日から紙に従う。重くするのは、俺の舌ではない」


 彼の掌から鉛の板は外され、釘に掛けられた。

 人々はそれをしばらく見たのち、誰も取らなかった。

 貼り重りは、物語としてそこに残された。


 ヨハンは秤の台座に軽く手を置き、夜の気配を確かめる。

 塩の市に、ようやく静かな味が戻っていた。


 ミレイユは名録を閉じ、最後の短句。


  舌は確かめ

  秤は紙

  塩は味



次回予告


第177話 凍霧の沼、声を返す葦

塩の市を後にして進む先は、低い葦が鳴く凍霧の沼地。

ここでは、夜に失くした声だけが葦の間から返ってくる。

名を呼べば、別の名が返る。

足を踏み入れた者の影は、二つに裂けて歩き出す。

——沼の「裏声」を眠らせ、行き場を作る夜が始まる。

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