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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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――凍河編―― 第2話 凍土の村、灰の帳簿

I 灰の里


 渡しを終えた先の台地は、風が地を削って鳴っていた。家は低く、戸口は内側へ二重に折れている。広場の中央に長机が一本、机の上には大きな帳簿と、灰を量るための木升。脇に樽が三つ――ひとつは薪、ひとつは糧、もうひとつは灰。


 人々は列を作り、各家で出た灰を小袋に入れて持ってくる。机の後ろには痩せた役人が座り、灰袋を受け取っては、帳簿の右か左に印を付けた。右の欄に名が記されると、薪と糧が配られる。左に落ちた名は、灰をひと掴み返されて終わる。


 ヨハンは近づき、帳の紙と筆先の匂いを鼻の奥に留めた。墨の匂いに混じって、わずかな骨の匂い。


 ルーシアンが低く言う。「灰インクだな。煤に膠を混ぜた、乾きの早いやつ……ただ、骨の粉が入ってる」


 ミナは風紙をひらりと揺らし、机の上の目に見えない流れを撫でた。「風が言う。右は暖、左は凍。紙が風向きを決めてる」


 ヴァレリアは広場の縁へ目を巡らせ、樽の底の高さを測る。「薪と糧は片側に寄せられている。最初から偏らせるつもりだ」


 ナディアは息を整え、輪を胸の内側に落とした。「子どもの名まで、左にある……」


 ボミエが机に近づき、役人の指先をにらんだニャ。「灰は畑に戻すものニャ。人の口を塞ぐ道具じゃないニャ」


 ミレイユは名録に点をひとつ置く。


  灰は跡

  紙は風

  名は息



II 計る手


 役人は淡々と作業を続ける。女が灰袋を差し出し、彼は木升に半分入れてからふるいで落とす。軽い灰は舞い、重い灰は残る。残った灰が多ければ「よく燃やした」と右に、少なければ「怠けた」と左に。理屈は単純、だが冬ではそれが命取りだ。


「つぎ」役人が顔も上げずに言う。


 老人が前へ出る。袋は小さく、手は痩せている。ふるいを通った灰は軽く、升の底が見える。


 役人は筆を取り、左の欄に名を書いた。「——返灰」


 老人が震える口で言う。「薪がなければ、灰も出ぬ」


「規定だ」役人は朱で右上の角に小さく印をつける。「上の紙だ」


 ヨハンは帳の余白に目を留める。右と左の間に、細い線が一本引いてある。その細い線こそが、村の温度を決めている。


 ミレイユが短句。


  細い線

  冬を割る

  息が凍る



III 「影の火」の匂い


 灰樽のそばに、子どもが寄ってきた。煤で黒くなった指を舐め、苦い顔をする。


「舐めるな」ヨハンは子の手を軽く払った。指先に残った粉を親指で擦ると、冷たいしびれが皮膚を這う。


 ルーシアンが眉をしかめる。「燃えぬ火の粉だ。“影の火”。焚きつけなくても息で燻る。名の線を舐めて細くする」


 ミナが風紙で灰の流れを測り、視線で祠の方角を示した。「奥の倉に溜めてる。灰の山の中に、火の核が眠ってる」


 ヴァレリアは盾を握り直し、机の役人を正面から見据える。「灰に火を仕込む意味は」


「人心の統制だ」役人は笑わない笑みを口に浮かべた。「怠ければ家が冷える。勤めれば家が温まる。紙は簡潔だ」


 ボミエが耳を伏せるニャ。「紙が灰より冷たいニャ」



IV 右の朱、左の雪


 広場の掲示板には小札が二段に貼られていた。上段には「右にある者、三日分の薪と糧」。下段には「左にある者、返灰ののち奉仕」。奉仕の欄には雪かきや荷運びの符が並んでいる。寒さの深い日ほど、符は増える。


 ナディアが札の角に触れた。「この札、風で鳴る。読まなくても、目がそこへ行くように作ってある」


 ミナが頷く。「上段の紙は厚い。下段は薄い。風がめくるのは、いつも薄いほう」


 ルーシアンが掲示板の縁を嗅ぎ、「膠に香を入れてるな。読む前に体が覚える匂いだ」


 ミレイユが短句。


  厚い紙

  薄い紙

  めくられるのは薄



V 灰役の笑い


 役人の背後に、深緑の外套。襟に毛皮。影の仲買人が立っていた。鍵束は鳴らず、目だけが笑っている。彼は樽の縁に指を添え、ほんの少しだけ傾けた。灰の山がわずかに崩れ、軽い粉が机の方へ流れる。


 ヨハンは見逃さなかった。指が傾きを決めるのなら、指を無効にする手がある。


「紙は破らない」彼は静かに言う。「書き足す」


 役人が眉をひそめる。「規定の文を汚す気か」


「汚さない。増やすだけだ」



VI 倉の奥、眠る火


 まずは火の核を眠らせる。ヨハンたちは倉へ向かった。壁は土と石、内側に乾いた棚。中央に灰の山。灰の山の底から、ときおりちいさな呼吸が漏れる。火の色はないのに、周囲の空気だけが乾く。


 ルーシアンが瓶の口を開き、湿りを霧にして落とす。「火じゃない。火の癖だ。乾きに寄ってくる」


 ミナが風紙を曲げ、倉の四隅から中央へ向けて矢印を折る。「息の向きを逆さに。外から内じゃなく、内から外へ」


 ボミエが星杖を掲げ、灰の斜面に星点を刻むニャ。「焦げ筋を眠らせるニャ。燃える道を思い出さないようにニャ」


 ナディアは笛を唇に添え、音にしない輪を広げる。輪は灰の上を滑り、乾きの拍を——遅くする。


 ヴァレリアが戸口を半分だけ開け、盾で風を受ける。「外へ吸い出す」


 ミレイユが名録に短句。


  火の癖

  輪で遅らせ

  灰で眠らす


 灰の息が細くなり、倉の温度が人の温度へ下がった。



VII 机の前、余白の一行


 広場に戻る。役人はまだ灰をふるっている。影の仲買人は変わらず樽の傾きを指で測っている。


 ヨハンは机の前に立ち、帳簿の余白を指で叩いた。「ここに書け。『礼は先、銭は後。右は配り、左は戻す』」


 役人が鼻で笑う。「戻す?」


「灰は畑へ戻す。薪は家へ戻す。——あるいは、紙に戻す。『右』にも『左』にも、二つの印を」


 ルーシアンが朱と墨の印を並べて置く。「右の朱だけでは机に乗る。二つ並ぶと、上の机から落ちる」


 ミナが札の並びを二段から左右に変える。「風が縦ではなく横を読む」


 ヴァレリアが群衆の前へ一足出る。盾の縁で列を整え、押しを止める。


 ナディアが輪でざわめきを低くする。「息を長く」


 ボミエが掲示板の薄い札の角を折るニャ。「角で読む場所が変わるニャ」


 ミレイユが短句。


  角を折る

  並び替える

  読まれ方が変わる


 役人の筆が止まった。影の仲買人の目が細くなる。風の向きが、紙に刻まれていく。



VIII 灰が語るもの


 群衆の中の若い女が、一歩前に出た。頬は赤く、指はひび割れ、灰袋は軽い。「……家の炉は冷えたまま。薪は来ない。灰は出ない。左のまま」


 ヨハンは灰袋を受け取り、指で粉をひとつまみ。舌には乗せない。粉の重さだけを測る。「灰が出ないのは怠けではない。薪がないだけだ」


 ルーシアンが灰を水に落とし、瓶の中の沈みを見る。「燃えぬ火の粉が多い。薪の代わりに影の粉を混ぜられている」


 影の仲買人は口を開かない。鍵束が鳴らないのに、風が一回だけ回った。


 ミナが掲示板の下段に紙を書き足す。「『灰に粉を混ぜる行き先、倉で検分』」


 ヴァレリアが倉の鍵を目で示し、役人に言う。「鍵は村のものだ」


 役人の薄い唇が、音にならない言葉を形づくる。上。


 ナディアの輪がその形を溶かす。「上は紙。紙は人」


 ミレイユが短句。


  上の口

  紙の顔

  人の息



IX 灰の山、骨の粉


 倉の検分で、灰の山の底から白い粉が出た。灰とは違う、冷たい白。骨の匂いが強い。昨日の広場の火の幻が、頭の奥でうすく鳴る。


 ルーシアンが瓶を閉じ、低い声で言う。「これは……人骨だ。火の前に名を削られた者の」


 ボミエが怒りで尻尾を膨らませたニャ。「そんなものを混ぜて“よく燃えた”って判定するの、頭がおかしいニャ!」


 役人は青ざめた。「私は……知らなかった。倉の納品書には『重し』とだけ」


 影の仲買人は笑わなかった。ただ、倉口の影からこちらを見て、鍵束を一度だけ鳴らさずに上げた。**“見た”**という合図。


 ミナの指が震える。「風が怒ってる」


 ナディアが笛を胸に抱え、目を閉じた。「……名前を返す手がかり、探す」


 ミレイユが名録の余白に、強く短句を置く。


  白い粉

  名の冷たさ

  息で溶かす



X 書き足す夜


 日は傾き、風が強くなる。掲示板の札は横並びになり、角は折られ、右と左の間に余白の帯が通った。帯には新しい文が並ぶ。


 『礼は先、銭は後』

 『右は配り、左は戻す』

『灰は畑、薪は家』

 『灰に粉を混ぜる者、倉で検分』

 『紙の鍵は村の手へ』


 ヨハンは最後の一行を足した。


 『名は数えず。名は在り。灰は跡』


 群衆のざわめきに、熱が混ざる。誰かが雪靴で土をならし、誰かが倉の鍵を持ち、誰かが灰を畑へ試しに撒いた。灰は土に沈み、白い粉だけは沈まない。沈まない粉は、拾える。


 ヴァレリアが盾で風の角度を遮り、ミナが矢印で撒く順を示す。ルーシアンが湿りで粉を結わせ、ボミエが星点で畑の踏み線を残すニャ。ナディアが笛で呼吸の長さを揃え、ミレイユが名録に「戻る在」を書き留める。


 広場の温度が、紙の向きに従って変わっていった。



XI 影の退き際


 影の仲買人は倉口から一歩だけ出て、掲示板を一瞥した。鍵束は鳴らない。彼は笑わない目で紙の角を見、風向きを読んだあと、毛皮の襟を整えて霧へ消えた。


 ルーシアンが肩をすくめる。「今日は引いたな。明日は別の市で待ってるって顔だ」


 ヨハンは影の跡を追わない。灰は残り、紙は増え、息は広場に戻っている。追うべきものは、人の手のほうだ。



XII 灰役の机


 役人は帳簿の前に座り直し、筆を取り上げた。手は少し震えている。震えの先で、右と左の間に印が押される。二つの印が、同じ行に。


「……規定の書き方を変える」


 彼は誰にともなく言った。「紙は人を冷やすためじゃない。温めるために置く」


 ヨハンは小さく頷く。「終いは紙にさせろ。人にさせるな」


 ミレイユが短句。


  紙に終い

  人は出る

  灰は畑



XIII 灯と灰


 夜が落ちた。家の煙突から細い煙が立ちはじめる。幾つかの家は、久しぶりの温度を取り戻した。広場の端では、畑に撒いた灰の上に薄い霜が降り、それが朝になれば土に入るだろう。


 ボミエが焚き口の前で尻尾を丸め、「やっと……火の匂いが“食べもの”のほうに寄ってきたニャ」と息を吐いたニャ。


 ナディアは笛箱を抱え、子どもたちの額に輪の温かさを少しだけ残した。「眠って。息が短くならないように」


 ヴァレリアは倉の扉を再び確かめ、鍵を村の手に渡した。ミナは掲示の札に指を沿え、風でめくられない重しを紙の角につける。ルーシアンは白い粉の瓶に布を被せ、ミレイユは名録の今日の頁を閉じる。


 ヨハンは帳の横に短く書き足した。


 「紙は道。道は人。右で配り、左で戻す。息で渡る」



XIV 雪の中で


 外に出ると、雪が弱く降り始めていた。星は低い。世界は白く、冷たいが、静かだ。


 遠くの丘の縁に、深緑の外套が一度だけ立った。鍵束は……鳴らない。風が向きを変えただけだ。彼らはもう、ここを舞台にはしない。


 ヨハンは杖を握り直し、仲間たちの顔を見る。凍土の村の上を、紙より重い息の道が細く続いている。


 ミレイユが最後の短句。


  灰の頁

  角を折り

  冬を渡る


 その夜、村の炉は冷え切らなかった。



次回予告


第176話 塩の市、秤の舌

谷の出口にひらく「塩の市」。

秤は言葉で傾き、舌は値に化ける。

右の皿に朱の札、左の皿に石の噂。

——紙を破らず、秤そのものの文を組み替える一日が始まる。

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