――凍河編―― 第1話 凍河の舟、沈む税
I 氷の渡し場
冬の川は厚い氷に覆われていた。だが中央だけが黒く口を開き、冷たい水が渦を巻いている。
渡し場には舟が並び、舟底には朱で大きく「右」と書かれていた。舟守は短く告げる。
「右の者は浮く。左の者は……沈む」
人々は札を渡され、朱の「右」か墨の「左」を記された。右を持つ者は舟に乗れる。左を持つ者は、足首に石を結ばれた。
ヨハンは目を細めた。
「……これは渡しではない。裁きだ」
ボミエの耳が立ち、尻尾が怒りで波打ったニャ。
「こんなの税じゃないニャ! 沈めるなんて!」
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II 舟に乗る
一行は小舟に乗せられた。舟底は薄氷を敷いたように冷たい。
渡し守が櫂を動かすと、黒い流れに舟が滑り込む。
ナディアは笛を握り、吐息で囁く。
「……水が泣いてる。沈んだ声が呼んでる」
氷下から、拳で叩くような鈍い音が響いた。
“ドン……ドン……”
ミナが風紙を広げ、震えを写し取った。
「下から……名が叩いてる」
ヴァレリアが盾を握り、低く呟いた。
「護りを……沈めの札にするとは」
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III 重さの税
舟は不自然に傾いていた。
朱で「右」と書かれた荷は浮き、墨で「左」と書かれた荷は石と一緒に沈もうとする。
ルーシアンが瓶を転がし、苦く笑う。
「なるほどな。“重さ”で税を取る仕組みだ。浮いた者は払わされ、沈んだ者は名ごと消える」
ヨハンは杖で舟底を突き、氷下を睨んだ。
「これは裁きではない。帳簿の戯れだ」
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IV 仲間への札
舟守が札を一行に配った。
ヨハンの札は「右」、ナディアも「右」。
だが、ボミエの札だけが墨で「左」と記されていた。
「にゃ……」
足首に石が結ばれ、冷たい水気が伝う。
ボミエは歯を食いしばり、尻尾を膨らませた。
「わたしは……沈められるニャ……?」
ナディアがすぐに抱き寄せる。
「大丈夫、絶対に沈ませない」
ヨハンは札を睨み、声を低く落とした。
「……ならば、この舟の“傾き”を書き換える」
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V 舟の傾き
舟が大きく傾き、氷下から腕が伸びた。
水に爛れた“右だけの手”が、ボミエの足を掴もうとする。
ミレイユが名録を広げ、震える文字を抑えた。
「名が……消されようとしてる!」
ヴァレリアが盾を突き出し、ルーシアンが瓶を叩いて黒い水を散らした。
ミナが風紙を舟に貼り、囁く。
「舟は……傾きで動く。紙を添えれば、重さを変えられる」
ヨハンは杖で舟底を叩き、宣言した。
「沈める名はない。この舟は——浮く舟だ!」
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VI 氷下の叫び
舟がぐらりと揺れ、氷下から無数の声が上がった。
「浮かせろ……名を返せ……沈めるな……」
ボミエの足を掴んでいた手が、力を失って沈んでいく。
舟は水平に戻り、石の重さが消えた。
ボミエは涙目で尻尾を揺らした。
「……生きてるニャ。沈められなかったニャ」
ナディアが微笑み、笛を短く吹いた。
「うん、生きてる」
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VII 舟守の声
舟守が櫂を止め、こちらを見た。
顔は影に覆われ、声だけが響いた。
「……傾きを変える者。帳簿を破らぬ者。
名を沈めず、舟を浮かす者。
いずれ“川そのもの”がお前らを呼ぶ」
そして舟は氷の縁に着いた。
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VIII 渡り終えて
舟を降りたとき、夜明けの光が雪を赤く照らしていた。
ヨハンは杖を握り、短く呟いた。
「沈む税は……裁きではなく、欲の帳だ」
ルーシアンが肩で笑った。
「欲は必ず、氷を割る。……そのときは沈むのは誰だ?」
ボミエは震える足をさすり、ナディアに抱き寄せられた。
ヴァレリアは盾を背に、ミレイユは名録を閉じ、ミナは風紙を胸にしまった。
雪原の風が吹き抜け、氷の川は低く呻いていた。
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次回予告
第175話 凍土の村、灰の帳簿
渡り着いた先の村には、氷よりも冷たい帳簿があった。
「右」に書かれた者は糧を受け、「左」に書かれた者は薪を奪われる。
灰を数える役人が笑うとき、
一行は再び——帳を破らずに傾きを変える術を探る。




