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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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仮名の綴り、無名の罠




I 名のない風


 港の風は、塩と鉄と、言い淀んだ言葉の匂いを運んでいた。

 英雄イーサン・ローグフェルトが自分の“名”を夜へ返した夜から、街の鼻は彼を嗅ぎ分けられない。呼ぶべき音節が抜け落ち、祈りの針が縫い損なう。エステラはアーチの上で鼻をすっと上げ、扇の骨で自分の踝を二度叩いた。


「匂いがしない。……それ自体が“匂い”になってる」


 ヨハンは胸の銀を指先で押さえ、短く頷いた。

「名は語の骨じゃ。骨を抜いた魚は掴みにくい。――ならば、こちらが“骨”を編み直す」


 ボミエは星潮の杖を抱き、耳を立てる。尻尾は膝に巻きついているが、杖先は震えない。震えは線のなかに入れるもの。ピックルに教わり、アメリアに背中を押され、彼女はそのやり方を自分の指の記憶にしたばかりだ。


「……“仮の名”を、つくるニャ?」


「そうだ」

 ヨハンは窓辺の海を見やった。「呼び名でも、渾名でもよい。多くの舌で同じ音を呼ぶ。街が“名の皮”を貼れば、無名は裸足になる」



II 名録官ミレイユ


 昼下がり、鐘楼の踊り場に灰銀の髪をひとつに結った女が現れた。肩には革の巻物筒、腰には鈴と羽根の束。名録官――ミレイユ・サンティーニ。出生や洗礼、屋号や小名を記し、街の“呼び”を守る役目。


「“返名”に穴を開けられたと聞いたわ、御坊」

「ミレイユ、力を借りたい。無名に“仮名”を与える術はあるか」


 ミレイユは細い指で巻物を解き、古い図と儀礼の隙間に目を走らせた。「あるにはある。撚名よりな――多くの舌でねじり合わせる名。祈りを芯に、噂を糸に、呼吸を撚る。……ただ、危ういわ。名を寄せる夜は、別のものまで呼ぶ」


「呼ばんよう、鼻で弾く」エステラが鼻先をすっと動かす。「甘さも、腐れも、薔薇も、骨も」


「笛の合図を増やす」ナディアが指を折る。「鐘は三つ、笛二つに一つ返し……人の呼吸を迷わせない」


「星の網は私が張る」ボミエが杖を掲げる。「噂の糸は“星綴錠せいつづりじょう”に絡ませるニャ。震えは節に入れるニャ」


 ミレイユは笑い、短く頷いた。「なら、やってみましょう。“名寄せのいち”を開く。――みんなに、小さな声で同じ呼び名を言ってもらうの」


「何と呼ぶ?」ジュロムが腕を組む。「“裏切り野郎”でいいか?」


「それは罵りであって、名じゃない」ザードルが肩をすくめる。「名には“向き”がある」


 ルシアンが水面をなぞって呟いた。「足跡のない男。……“空歩からあゆ”」


 ヨハンは首を横に振った。「空疎は空疎を呼ぶ。呼び寄せる骨にならん」

 エステラが目を細める。「鼻で嗅げる“空白”の匂いがあった。――“風切かざき”。風だけ切って、匂いを残さない」


 ミレイユは羽根筆を取った。「“風切かざき”。いいわ。舌に乗る。噂に混ざる。……呼びやすい」


「決まりニャ。“風切”にゃ」



III 鐘守ロッコの死


 準備の最中、悪い知らせが走った。

 鐘楼の中段で、鐘守ロッコが喉に薄い線をつけて倒れていた。声は出ず、目は開いたまま、合図の綱を握った手に力が残っていた。血は少なく、傷は浅い。――礼儀の刃。


 ヨハンは膝をつき、ロッコの冷えを指でなぞる。

 エステラは鼻で“空白の匂い”を嗅ぎ、低く吐息を漏らした。「名のない男。……“風切”は、鐘を狙ってる」


「合図を止めれば、市は散る」ナディアの指が微かに震え、すぐに止まる。「代わりを立てる。息は続ける」


「ロッコの名は、返す」ヨハンは胸に銀を押し当て、短く祈った。「Nomen reddo… inter manus.」


 鐘は鳴らず、しかし街の胸骨はヨハンの指先で確かに鳴った。

 ボミエは杖の紐の布を指で摘み、じっと見つめる。「……ごめんニャ。ぜったい、守るニャ」



IV 名寄せの市


 夜、広場に小さな屋台が並び、売り子は声を張らない。囁くことが礼儀の市。

 ミレイユは中央の台で羊皮紙を広げ、羽根筆を持った。人々は一人ずつ近づき、口を手で覆って囁く。


 ――“風切かざき


 ナディアの笛が遠くで短く、三度。その“音の網”の内側で、ボミエの星の線がゆっくりと巡る。

 ライネルは地に反句を刻み、ザードルは灯りを“音”だけにし、ジュロムは舞台の梁を肩で支え、ルシアンは水路から静かな拍を合わせる。エステラは鼻で甘さを払い、ヨハンは返名を“底”に敷いた。


「揺れる……けど、きれいニャ」


 ボミエは震えを節に変え、節を線に、線を網に変え続ける。噂の糸が名の芯をねじり、街がひとつの“呼び名”を持つ。

 ミレイユの羽根筆が紙面に響きを写し取り、彼女は囁いた。


「よし。――“風切”が、街に“貼られた”」



V 無名の介入


 そのとき、灯りが一つ、ふっと消えた。風ではない。

 “風切”が来た。


 音が遅れ、影が早まる。足音は無く、だが床板が“期待しない沈み”を作る。ボミエは反射で線を低く引き、ザードルが炎の音を高くする。

 ミレイユが息を呑み、ヨハンは銀を握る。


「見えぬなら、呼べ」

「――“風切”!」


 市全体の囁きが一度、同じ向きに揃った。名は軽い。しかし軽いものほど、最初の針目を取りやすい。

 星の線が空中に“空白の人型”を縁取り、そこに微細な粉塵が吸い寄せられる。形は曖昧、輪郭は不安定――それでも、在る。


 “風切”は彼だった。無名の英雄。イーサン。

 剣を抜かず、手の形だけを刃にした男。


「……御坊。やめろ」


 声は舞台のものではない。夜の板の隙間に落ちる声。

 ヨハンは首を振る。「やめぬ。――止める」


 “風切”は半歩進み、目だけでボミエを探す。

 その探す眼差しを、ヴァレリアの棘が横から遮った。


「見ないで」


 葡萄色の外套は風になびかず、薔薇の香は薄い。棘だけが、夜に立っていた。イーサンはその棘を見て、短く笑った。


「最初に斬るのは、君か」


「ええ。最初に止めるのは、わたし」



VI 仮名の綴り


 ミレイユが羽根筆を握り直す。「御坊、今!」


 ヨハンは息を合わせ、胸の銀を掌で温めた。

「Nomen figo… inter voces… inter manus.」

(名を留める――声と声のあいだに――手と手のあいだに)


 市の囁きが波のように回り、ボミエの線が“呼び名”を縫う。

 “風切”の輪郭がわずかに重くなる。彼の無名は完全ではなくなる。街が貼った皮。噂の仮名。それは粗いが、引っかかる。


「……やるな」


 イーサン――“風切”が手を上げる。礼儀の刃が光り、線の節を、音ではなく“選択”で外していく。

 ジュロムが梁を押さえ、ザードルが灯りを一段絞る。ルシアンが水の高さを下げ、ライネルが反句で縫い目を増やす。ナディアの笛が、囁きを束にまとめる。


「“風切”――止まれニャ!」


 ボミエが杖を突き出す。星の針が一本、彼の“次の一歩”に刺さる。刺すといっても、肉にではない。未来の筋に。

 イーサンの足が、ほんの一瞬止まる。ヴァレリアの棘がその喉に届く距離。


「イーサン」


 彼女は“名”で呼んだ。恋人の声。舞台の外で、二人だけが知る呼び方の音。


 名が、彼の胸に戻ろうとした。

 彼は奥歯でその名を噛み、首を横に振る。

「それは、返した」


「じゃあ――」ヴァレリアの棘が震えた。「もう一度、受け取って」


 棘の先に一滴、彼女の血が宿り、夜の光を受けた。血は名を運ぶ器。彼女は自分の“名”の一部を棘に渡し、イーサンの喉に触れさせる。

 名が橋を渡る。

 イーサンの目が、わずかに開く。彼の胸に、“イーサン”の音が戻ろうとする。


 ヨハンは躊躇わなかった。

「Nomen reddo… inter manus.」


 返名。

 街の囁きが合流し、仮名“風切”と、本名“イーサン”が一瞬重なり、彼の輪郭は強く――“掴める”ものになった。


「今だァァァ!」ジュロムが吠え、大槌を肩から振り下ろす。


 石畳が泣き、空気が裂け、イーサンの肩が地に押しつけられる。ザードルの灯りは影を太くし、ルシアンの水が肘の“振り抜き”を重くする。ライネルの反句が接吻印に火を走らせ、エステラの鼻が「右足!」と叫ぶ。ナディアの笛が“締め”の合図を短く二度。


「――締めるニャ!」


 ボミエは星綴錠の輪を重ねた。噂の糸、祈りの芯、仮名の皮。三本撚りの“仮名縄”がイーサンの両手両足、喉、胸の五箇所に落ちる。


 無名は、結ばれた。



VII 無名の反撃


 一拍。

 イーサンは呼吸を外し、腹の底から息を押し出した。名のない息。

 仮名縄が緩む。噂は揺らぎやすい。囁きはほどけやすい。


「甘い」彼は静かに言い、ヴァレリアを見ずに続けた。「君の血は甘い。だから橋になる。――橋は、折れる」


 棘が弾かれ、ヴァレリアの掌が浅く裂けた。彼女は眉ひとつ動かさず、その血を舐め取り、匂いを消す。

 イーサンの眼差しは澄んでいる。憎しみも嘲りもない。ただ、役目の冷たさ。


「御坊。鍵を」


「渡さぬ。……“仮名”は甘い。なら“星名ほしな”を重ねる」


 ヨハンが銀を掲げ、ボミエが頷く。

「星の名は、からじゃないニャ」


 星は昼でもいる。見えないだけだ。

 ボミエは杖で空に細い点を打ち、それらを線で結んだ。星座は“獣”でも“船”でもない。“手”。――手と手。

 星名は“間”の像。無名でも、そこで働く者には“手の名”が付く。


「Stellae manus… inter manus.」

 ボミエの声は小さいが、芯に届く。イーサンの手の周りに、星の指輪がかかった。仮名縄より深く、祈りより低く、噂より重い。


 イーサンが初めて、息を殺した。


「やる」


 短い称賛。

 しかし、彼は笑わない。夜の上で身をひねり、肩を外すように、星の指輪から“名だけ”を抜いた。

 無名の技。名の部分を滑らせ、肉の部分だけを残す。

 指輪は締まる。だが、彼は“役”の身で逃げる。


 ジュロムが前に出て、受け止める。「逃がすかよ!」


 大槌が火花を散らし、ザードルの炎が音を上げ、ルシアンの水が足元の摩擦を奪い、ライネルの反句が接吻印に針を立て、エステラの鼻が「背中!」と叫ぶ。ナディアの笛が急の三連を打ち、市の囁きがもう一度「風切」を呼ぶ。


 “イーサン”は、再び“風切”になろうとした。

 ヴァレリアが一歩、彼より先に進み、その喉に棘を置く。


「なら、わたしの“名”で留める」


 彼女は自分の名を短く、誰にも聞こえないように発音した。

 港の風だけが、それを知った。

 棘が彼の皮膚に触れ、名と名がやり取りをする。その間に、ヨハンの祈りが“板”を差し込み、ボミエが“綴じ”を打つ。


「――いま!」


 星綴錠が最後の輪を閉じた。

 イーサンは倒れない。膝をつき、両手を広げ、目だけで夜を見た。


「負けではない。――幕間だ」


 彼はそう言って、静かに目を閉じた。

 仮名縄と星の指輪と祈りの板が、無名を包む。

 港の風が塩の匂いだけを運び、薔薇は香らない。鐘は二度、短く鳴った。



VIII 塩と薔薇の檻


 イーサンは“潮窯しおがま”へ運ばれた。港外の岩に穿たれた古い窯。塩を炙って塊にする場所。今は“祈りの牢”に転じた。

 ザードルが炎を低く保ち、ルシアンが湿りを一定にし、ライネルが印を四方に刻み、ジュロムが入口の石を肩で支える。エステラは鼻で香りを遮断し、ナディアは笛で拍を維持する。ミレイユは囁きの束を窯の縁に掛け、ボミエは星の糸を弱めずに整え続ける。


 ヨハンは窯口に膝をつき、静かに十字を切った。

「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――赦しは殴るためでなく、掴むために」


 ヴァレリアは離れて見ていた。棘は外套に戻り、唇は血の味を忘れない。彼女は小さく囁いた。


「ごめん。……今は、これしかできない」


 窯の中で、イーサンは目を閉じたまま、わずかに笑った。「礼は言う」



IX 夜の余白


 市は静かに解け、噂は潮に濡れて重くなった。

 ミレイユは巻物を巻きながら、ヨハンに頭を下げる。「“風切”の仮名は、街に残る。薄く、しかし確かに」


「感謝する」

「次に必要なのは、“人の名”の手当て。……ロッコの代わりが要る」


 ナディアが口笛で短く返し、少年を一人、前に出した。鐘守見習いのトマス。目は怯えているが、足は震えない。


「ロッコの名は、返してある。……鐘は鳴る」ヨハンは少年の肩に手を置く。「鳴らすのは、お前だ」


「は、はい!」


 ジュロムは大槌を担ぎ直し、ザードルは火打石を握って空を見た。ルシアンは水の拍を胸に当て、ライネルは刃をしまう。エステラは鼻で新しい朝の匂いを探り、ナディアは笛の穴を布で拭いた。

 ボミエは杖の紐の布を指で撫で、星の糸を胸で数える。


「ピックル、アメリア。……とりあえず、ひとつ、できたニャ」


 芯が静かに歌って応える。



X 檻の中の会話


 夜更け、潮窯に薄い灯りが落ちた。ヨハンが一人で入ると、イーサンは壁に背を預け、目を開けた。檻の紐は緩まない。祈りと星と仮名――三本撚りはしぶとい。


「御坊。……礼を言う」


「礼?」


「君たちのやり方は、美しい。俺はそれを好きになれないが、嫌いにもなりきれない」


「お主が“名”を返したとき、ワシは怒りを覚えた。祈りは“主語のない赦し”だが、怒りには主語がある。――イーサン、お主だ」


 イーサンは頷く。「怒れ。止めろ。そうしてから、赦せ」


「赦しは“後に”置く。今は止める。お主が舞台のために人を背から刺す限り、ワシはお主の手を掴む」


「掴めるうちは、な」


 彼は目を細め、外の夜の音を聞く。笛、鐘、潮、星の糸。それらが彼の耳に“舞台の音響”として入っているのがわかる。

 ヨハンは立ち上がった。「明日も“締める”。鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に」


「楽しみにしている」



XI 棘の血


 窯から離れた岩場で、ヴァレリアが掌を見つめていた。浅い傷はすでに閉じ、血の匂いは残らない。それでも、棘に残った“甘さ”が彼女の舌の裏で消えずにいる。


 エステラが隣に立ち、鼻で潮と彼女のあいだの匂いを嗅ぎ分けた。

「嫌い、なんでしょう?」


「嫌い。――なのに、好き。棘は、いつも矛盾の味がする」


「矛盾は匂いが強い」


 ヴァレリアは笑わない。「次、彼が刃になったら、私が最初に斬る。約束したもの」


「守れる?」


「守る。棘は飾りじゃない」



XII 朝の鐘、名の皮


 朝、鐘が三度、間を置いて鳴った。少年トマスの手は震えず、音は街の胸に届いた。

 人々は市場で囁く――声は小さい。だが、同じ方向を向く。

 ミレイユは名録に小さく一行を足した。


 ――《“風切かざき”――仮名、街に貼り付く》


 ヨハンは胸の銀を押し、海を見た。

 ボミエは杖を胸に抱き、耳を立てて言った。


「次も、逃さないニャ」


 芯が、しっかりと鳴る。

 ジュロムは大槌で地面を二度叩き、ザードルは火を掌に灯し、すぐに消した。ルシアンは水を掌で受け、ライネルは印の刃を布で包む。ナディアは笛を口にし、エステラは鼻で新しい甘さを探す。


 潮窯の中で、イーサンは目を閉じたまま、ほとんど聞こえないほど小さく笑った。

 無名の男は、仮名の縄で留められた。だが、舞台は終わっていない。

 満潮はまた来る。

 そのとき、誰の口が“名”を呼び、誰の手が“名”を返すのか。

 鍵は胸に、鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために――そして、“仮名”は、街の手に貼られたまま、次の夜を待っている。

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