――外縁の里編―― 第9話 灯の数え方、祠の値段
I 祠の里
凍橋を越えた先は、川霧に包まれた小さな里だった。
家は低く、石の壁に藁屋根をかぶせただけの粗末なもの。窓は小さく、どこも厚布で塞がれている。
里の中央には祠があった。高さは人の背丈ほど。木で組まれ、白灰の土で塗られた壁の中に、小さな灯が並んでいた。
灯といっても、火ではない。小瓶に油を入れ、芯を差しただけの淡い光。それが十本、祠の中でかすかに揺れていた。
ヨハンは祠の前で立ち止まり、眉をひそめる。
「灯の数を……掲げているのか」
木札が祠の壁にびっしりと並んでいた。墨で名前と数が記されている。右には「配給を受ける者」、左には「削られた者」。
ボミエは耳を倒し、鼻をひくつかせたニャ。
「油の匂いが薄すぎるニャ……灯が消えかかってるニャ」
ナディアは笛に指を置き、低く吐息を漏らす。
「……これ、子どもの名まで書いてある」
ルーシアンが札を指で叩き、乾いた音を響かせる。
「右にあれば冬を越せる。左に落ちれば、灯を削られて凍える。……そういう帳面だな」
ミナは風紙をめくり、眉を寄せる。
「風が言う……『減らされた分は、誰かが買った』」
ヴァレリアは盾を撫で、吐き捨てた。
「護りを灯で量るなど……」
ミレイユは名録を開き、余白に短句を置く。
灯は数
右は命
左は凍
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II 数を読む者
祠の前に机があり、その後ろに痩せた役人が座っていた。
薄い髪を油で撫でつけ、胸には「城」の印。
机の上には大きな帳簿。墨壺と朱印。
役人は声を張り上げた。
「——次! **ランメル一家、右の二灯。だが一灯は返納とする!」
群衆の中から痩せた女が進み出て、子どもの手を強く握り締めている。
机の役人は朱で右の札を塗りつぶし、左に「一」と書いた。
「返納は任意、と言ったろうが!」ヨハンが一歩踏み出す。
役人は細い目を上げ、冷たい声で答える。
「任意だ。だが“礼”を払えぬなら、左に落ちる。それが規則」
群衆は息をひそめる。誰も声を上げない。
その沈黙こそが、灯の値段を決めていた。
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III 帳の裏
ルーシアンが鼻で笑い、声を落とす。
「油は買われてるな。減らされた灯の分だけ、影の仲買人が懐に入れてる」
ミナが紙に矢印を書き、祠の屋根を指した。
「風が囁く……上で“見てる”目がある」
ヴァレリアは盾を床に置き、群衆を遮った。
「護りの札を、裏返す時だ」
ナディアは笛に輪を描き、声を低くした。
「……灯は命。消させない」
ボミエは星杖を掲げ、尻尾を膨らませるニャ。
「紙を破らず、書き足すニャ!」
ヨハンは帳簿の余白を指差し、役人に近づいた。
「ここに書き足せ。『礼は先、銭は後。右は命、左は空』」
役人の顔が強張る。「貴様……規則を乱す気か」
「規則は人を守るためのものだ。命を削るためではない」ヨハンの声は低く響いた。
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IV 灯を盗む声
その時、祠の中の灯が一つ、ふっと揺れた。
火ではないのに、風もないのに、灯が細く縮む。
ミレイユの名録が震え、文字が黒く滲む。
「……名が削られている」
氷の下で聞いた叩き音が、今度は祠の裏から響いた。
右、右、左。
灯を食う影の手の合図。
群衆がざわめき、誰かが叫んだ。「また灯が減った!」
ルーシアンが瓶を叩き、湿気を爆ぜさせた。
「影が灯を飲んでる。——見えるか?」
祠の裏に、黒い指が伸びていた。油に触れ、芯を引き抜く。
それは人の手ではなかった。痩せ細り、長すぎる指。
鍵穴の焼き痕が手の甲に刻まれていた。
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V 祠の戦い
ヴァレリアが盾を構え、祠の前に立つ。
「灯は渡さぬ!」
ボミエが星杖を突き出し、青白い光で影の指を撃つニャ。
ミナは風紙を広げ、祠の屋根から流れる囁きを切る。
ルーシアンが瓶を開き、湿りを灯の芯に注ぎ、火を守る。
ナディアは笛を吹き、音で祠の輪を閉じる。
ヨハンは逆薔薇を抜き、影の指に刃を当てた。
「……灯を奪うなら、お前の名を吐け」
指はうねり、祠の奥に引いた。
代わりに、声だけが響いた。
> 「灯は銭。銭は命。命は札。札は面子。面子は上。上は影」
群衆の顔が青ざめる。誰も、その鎖を断つ言葉を知らない。
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VI 紙に書き足す
ミレイユが名録を強く押さえ、声を張った。
「名は奪えぬ。名は在。灯は数えぬ!」
彼女の言葉に、ミナが短句を重ねる。
灯は在
数は外
命は息
ボミエが杖を叩き、祠の壁に星点を打つニャ。
ナディアが笛で輪を描き、灯の揺れを抑える。
ヴァレリアが盾で机を押し退け、帳簿を群衆の前に広げた。
ヨハンは墨を指に取り、帳の余白へ大きく書き足した。
「灯は数えず。命は削らず。礼は先、銭は後」
墨の文字が、祠の灯に映った。
灯は揺れず、影の指は退いた。
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VII 影の仲買人
群衆がざわめく中、祠の裏に立つ影の仲買人がひとり。
深緑の外套、襟に毛皮。
鍵束を振り、笑わぬ目でこちらを見ていた。
「……紙を破らずに書き足すか。面白い。だが、灯の値は変わらん」
ヨハンは目を細める。
「値を決めるのは札ではない。息だ」
仲買人は鍵束を鳴らし、霧に消えた。
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VIII 群衆の声
女が子の手を握り直し、声を上げた。
「灯は……命だ。削らせない!」
老人が頷き、若者が続ける。
「礼は払う。だが銭は後だ!」
群衆の声が重なり、祠の灯がひとつ、ふたつと強まった。
油は減っていないのに、光は増えた。
ボミエが尻尾を揺らし、安堵の息を漏らすニャ。
「やっと……灯が“息”を思い出したニャ」
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IX 去り際
ヨハンは筆を置き、祠に向かって一礼した。
「ここで止めた灯は、次へ繋がる」
ヴァレリアは盾を背負い直し、ミナとミレイユは祠を振り返りつつ歩き出す。
ルーシアンは瓶を揺らし、低く呟いた。
「灯を数えるなら、影の腹も数えるべきだな」
ナディアは笛を胸に抱き、静かに言った。
「……命の数え方を変えられるなら、夜の律も変えられる」
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X 冬の道
凍橋の向こうへ振り返ると、群衆が祠を囲み、灯を守っていた。
札は破られず、余白に書き足された文だけが残っている。
ヨハンは逆薔薇を肩にかけ、低く言った。
「灯の値は……もう人の手に戻った」
その言葉に、冷たい風が吹き抜けた。
冬はまだ長い。
だが、祠の灯は消えなかった。
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次回予告
第171話 村の影芝居、火刑の幻
次の村では、広場に作られた舞台で「魔女狩りの芝居」が繰り返されていた。
それはただの見世物ではなく、見た者の「名」を燃やし、恐怖を記憶として刻む儀式。
芝居の裏で糸を操る黒い手が、仲間を舞台に引きずり込もうとする。
炎と声と影の交錯の中、ヨハンたちは“幻の火刑”をどう断ち切るのか――。




