――外縁の里編―― 第7話 逆光の荷車、市場の影
I 逆光の列
朝を背にして、荷車の列が東からやって来た。冬の陽は低く、輪の影を長く伸ばす。御者の顔は逆光に沈み、荷の輪郭だけが黒くはっきりしている。麻袋の山、木箱、樽。麻袋の一部は湿って重く、箱の隙間からは乾いた茎がのぞいた。——薬草だ。
ヨハンは街道の端に立ち、列の速度と間合いを測った。雪は固く締まり、車輪は沈まない。御者たちは声を潜め、鞭の音さえ惜しむ。
ルーシアンが鼻を鳴らす。「草と骨の匂いが混ざってる」
ミナは風紙を少し開き、光を受けない側の輪郭だけを写した。「麻袋は草。樽は塩か灰。木箱の底は……骨の粉」
ヴァレリアは盾紐を締め直し、視線を低くする。「護衛は少ない。用心の仕方が“内部向け”」
ボミエは尻尾を膨らませたニャ。「骨を粉にして持ち歩くなんて、縁起でもないニャ」
ナディアは笛箱に手を添え、輪を胸の内で浅く刻む。音にはしない。喉が霜を嫌う朝だ。
ミレイユは名録に短句。
逆光の列
草と骨
影は軽い
⸻
II 荷受けの広場
列は街道からわずかに外れ、森の端に設けられた荷受けの広場へ入った。丸太で囲われ、粗末な櫓と計り台。柱には帳面が吊られており、その表紙の端に「右」の朱が押されている。
男たちが麻袋を肩から落とし、女たちが束をほどいて分類する。乾ききった根、茎、葉。そこへ木箱が運び込まれると、男は手慣れた手つきで蓋を開けた。灰に埋められた細いものが見える。白い棒——骨。節ごとに切られ、印が墨で書かれている。
ヨハンは一歩だけ近づき、声を低くした。「それはどこから来た」
男は振り向きもしない。「北の市場。春の薬は骨を求める。乾きは値段だ」
ルーシアンが吐き捨てる。「人の手で練る薬に、人の骨とは気前がいい」
男は肩をすくめた。「骨は“誰の”でもいい。右で削れば、左の器用は要らない」
ボミエの爪が雪を掻いたニャ。「右ばかりで鍋を混ぜると、味はひとつしか残らないニャ」
ミナは帳面の朱に目を落とす。「“右”の印は——計上の印。同時に、削った“左”の痕跡を消す印」
ヴァレリアの眼差しが黒くなる。「削る台はどこだ」
女が顎で示した。広場の隅、雪に半ば埋もれた木の台。表には溝が何本も並び、片側に薄い刃が沈めてある。刃は鈍いのに、溝だけが生々しく新しい。
ミレイユが名録に刻む。
右を押し
左を削る
台は黙る
⸻
III 仲買人の影
荷受けの奥、櫓の陰から“仲買人”が出てきた。黒い外套、白い手袋。昨夜の鍵束の客人とは違う。胸に鍵はない。代わりに短い印刀が差してある。髭は薄く、目は笑わず、口だけが笑う。
「旅の方。ここは“市”だ。見物は構わないが、買うか売るかをはっきりしてくれ」
ヨハンは言葉を選ぶ。「買いは里が決める。売りは、お前が決めている」
「正確には“決めさせられてる”」仲買人は指で印刀を軽く叩いた。「上に帳面が出る。右の印がないと、誰も通れない。左の話は、裏だ」
ルーシアンが片眉を上げる。「裏をやめさせりゃいいが、右が蓋になってる」
ミナは矢印で帳面の紙目を追い、朱の押し場所を指先でなぞった。「押す位置が全部同じ。署名より先に、印を押す」
「順番をひっくり返している」ヴァレリアの声が低くなる。
ボミエが尻尾で地面を叩いたニャ。「お皿を配る前に勘定する店は、腹を壊すニャ」
ナディアの視線が木の台に落ちる。彼女は唇を噛み、笛箱の蓋を撫でた。
ミレイユが短句。
押すのが先
名はあと
順番の病
⸻
IV “手”で払う
「払うのは“数”だ」仲買人は笑った。「何束、何樽。手は関係ない」
「関係ある」ヨハンは静かに返す。「春の薬は手で練られる。手を数に変えれば、人が消える」
「人が消えたほうが、計算が楽だ」仲買人の口だけが笑う。「それに、春は病を連れてくる。死ぬのはいつも左だ。右は押す側に回る」
ルーシアンが前に出かけて、ヨハンの視線で止まる。
ミナは小さく息を飲んだ。
ヴァレリアの手が盾の縁に落ち、力が入る。
ボミエの耳が伏せられ、尻尾がぴくりと跳ねたニャ。
ナディアは胸に輪を重ね、息を冷たく整える。
ヨハンは一歩だけ踏み込み、台の刃の上に手袋の指を置いた。「払うのは“手”にしよう。——“右の印”を押す前に、“左の仕事”を見せろ」
仲買人の目が細くなる。「仕事?」
「草の配合、灰の水、熱の間。左が動くところから金を出せ。右は帳面に押すだけで良い」
広場の空気がわずかに揺れた。
女が一人、手を止める。男が一人、目を逸らす。
——“数”ではなく“手”で支払う。
それは誰かにとって、面倒で、遅い。だが、誤魔化しがきかない。
ミレイユが短句。
数ではなく
手で払う
遅さが盾
⸻
V 試しの小鍋
ルーシアンが荷の中から湿りの少ない草を選び、灰を瓶で割る。「市の見本をやる」
ミナが矢印で湯の温度の道を作り、沸き立つ寸前で留める。
ナディアが輪で泡の拍を揃え、音が立つ前に沈めた。
ボミエが星杖の先で小鍋の縁に点を打ち、こぼれない線を作るニャ。
ヴァレリアは盾で風を切り、火の揺れを鈍らせる。
ヨハンは小鍋の柄を押さえ、左を意識して力を均した。
仲買人は腕を組み、笑わずに見た。
しばらくして、湯の色が薄い金へ変わる。焦げ臭はない。甘い草の舌先が出て、灰の鋭さが丸く収まる。
「こうじゃない」ルーシアンは鼻で笑う。「お前らの“右”だけの配合は、こっちだ」
彼は別の瓶を取り、湯に直で流し込んだ。泡がバラバラに立ち、香りはすぐ上へ逃げる。灰の角だけが舌に残る匂いを出し、すぐに冷えた。
女が顔をしかめた。「それ、昨日買った瓶だ……高かったのに」
「右で作るとそうなる。速い。揃う。薄い」
ルーシアンは踵で雪を払った。「腹には入る。命は伸びない」
仲買人の口の笑みが消えた。奥歯の位置に力が入る。「何が言いたい」
「“手”に値をつけろ」ヨハンは淡々と返す。「“右の印”ではなく、“左の手”に」
広場の数人が、互いに顔を見た。
やがて一人が、古い皮袋から小さな銀貨を取り出して置いた。
「——この手の分だ」
ミレイユが短句。
薄い湯
遅い金
息は残る
⸻
VI 帳面の崩れ
帳場で朱の印が押される音が、一度止まった。
男が躊躇い、印刀を持つ手を宙で止める。
女は麻袋の数ではなく、草の束の仕上がりを見て小銭を渡した。
右の朱は表紙にだけ残り、内側の行は白く空く。
仲買人の目つきが変わる。「手に銭を出すと、帳面が合わない。——上にどう言う」
「『春のため』と言えばいい」ルーシアンが毒を含んで笑う。「いつもお前たちが言ってる文句だ」
ミナは紙に矢印を短く刻んだ。「“上”は面子を下げ始めてる。昨夜の札の文言を見た」
仲買人の口角が下がる。「札だと?」
ヨハンは道標に吊ってあった木札を懐から出し、仲買人の目の高さに示した。遅延の許は辻にも及ぶ。返納の語は、破りとする。
広場の空気が変わった。
仲買人が一歩引いた。
右の朱が、色だけで力をなくす。
ミレイユが短句。
札ひとつ
右の朱
色だけになる
⸻
VII 影の仲買人
そのとき、荷車の一番奥で布が一枚ふわりとめくれた。誰かが、覗いている。
目だけが見えた。薄い灰色。瞳孔は細く、光を嫌う獣の目だ。だが、その目は人に似ている。右と左を素早く行き来し、数え、重ね、引いていた。
目の持ち主が布の下から出てきた。外套は深緑、襟は毛皮。年の頃はヨハンより若く、肩は薄い。指は長いが、左の親指に薄い傷。治りかけだ。
「初めまして」彼は目だけで笑い、口は笑わない。「影の仲買人って呼ばれてる」
「影はどちらに立つ」ヨハンは問う。
「光の反対に決まってる」
“影の仲買人”は祭壇でほどいた紅い糸を指に巻き、軽く引いた。糸は切れない。「俺は市場を回す。右の帳面が止まれば、別の帳面を用意する」
ルーシアンが鼻で笑う。「裏帳か。机が二段になっただけだ」
「机が三段でも四段でも、春は来る」影の仲買人はささやく。「問題は、春の腹を何で満たすか。手か、骨か」
ミナの目が曇る。「骨は、数えるために便利」
「手は、面倒」
影の仲買人は薄い笑みを浮かべ、印刀を持たない指をひらひら振った。「面倒を買って出る奴は少ない。だから俺は稼げる」
ヴァレリアの拳がゆっくり握られた。「稼いだ金で、何をする」
「霧を育てる。辻を増やす。道を曲げる。——春の病が流行れば、市場は大きくなる」
ボミエの尻尾がのしかかるように重く垂れたニャ。「そういうやつが一番嫌いニャ」
ナディアの輪が胸で深くなる。
ミレイユが短句。
影は笑う
面倒の裏
春の病
⸻
VIII 約束の角
「取引だ」影の仲買人が言った。「お前たちの“手”を、市場に入れてやる。その代わり、道の角をひとつ。——辻を俺のほうへ曲げる」
「角?」ヨハンの眉が動く。
「道の角度は鍵穴だ。城は角で開く。昨夜の白い手袋の鍵束、あれは角度で音を出す。俺は角を集めてる」
ルーシアンの視線が鋭くなる。「角を集めて道を曲げれば、人も曲がる」
「人は曲がる。腹が曲がれば、声も曲がる」
影の仲買人の目が愉快そうに細まる。「だから“手”を使うお前たちは、珍しい。——高く買う」
ミナは風紙を胸に押し当て、紙の端を折った。「安く売らない」
ヴァレリアは盾を半歩上げた。「角は渡さない」
ボミエが肩を張るニャ。「“面倒”の代金は高いニャ。霧で値切るなニャ」
ナディアは視線を落とし、息の輪をひとつだけ重ねた。——断りの輪。
ミレイユの短句。
角で開く
道の鍵
値切らせない
⸻
IX 押し問答の間
広場の空気が凍り、車輪が軋む音だけが遠くに細く続いた。
仲買人の口に笑いが戻り、影の仲買人は笑わず、目だけが笑った。
ルーシアンは瓶を回して温度を確かめ、ミナは矢印を折り曲げ、ヴァレリアは盾の角を布で拭い、ボミエは星杖の柄を握り、ナディアは輪を薄くして喉を守った。
ヨハンはゆっくりと言葉を置く。「角は渡さない。だが、“手”は市場に入れる。——“数”ではなく、“手”で払う場をひとつ開け」
「それで帳面が合うか?」影の仲買人は肩をすくめた。
「合うまで待て」
ヨハンの声は低い。「遅さが、盾だ。春の病は、速さで燃える」
仲買人の目が揺れ、影の仲買人の指が紅い糸を軽く弾く。糸は切れない。
ミレイユが短句。
遅い盾
速い火
春の匙加減
⸻
X 封ぜられた台
その時、広場の隅で子どもが一人、木の台の前に立っていた。
痩せた両手。右の指先に墨。左の親指は包帯。
彼は削る台の溝に布を詰めていた。古い布切れ。色はまちまち。重ねられ、喉に詰められる布のよう。
「何をしてる」仲買人が怒鳴る。
子どもはびくりとし、しかし布を手放さなかった。「削れないようにしてるだけだよ」
影の仲買人の目が笑い、口は笑わない。「面白い」
ヴァレリアが子どもの前に立ち、盾で影の視線を遮る。
ルーシアンが台の刃を抜き、腹の布で包んだ。「預かる」
ミナは子どもの指の包帯を新しく巻き直し、矢印で薬指から順に動かす練習を示した。
ボミエは尻尾で子どもの背をとんと叩くニャ。「いい仕事ニャ」
ナディアは輪を子の掌にそっと置き、冷えを溶かす。
ミレイユは短句。
詰める布
止まる溝
手は覚える
ヨハンは影の仲買人に視線を戻す。「台を封じた。——“角”の代わりに、これを渡す」
「封じた台?」影の仲買人が細く笑う。「使えない台に何の値がある」
「使わせない値だ」ヨハンは一歩踏み出し、台を肩で持ち上げた。「角よりも、早い」
影の仲買人は目だけで笑い、「——取引成立。お前が今日、ここで台を運び出したことを上に報せる。右の朱は、面子を下げる」
仲買人が歯を食いしばり、しかし何も言えなかった。
⸻
XI 骨の粉の行方
荷車の箱から、骨の粉が一袋、地面に落ちた。
粉は乾き、風がないのに、少しだけ煙のように立った。
ルーシアンは瓶の口を小さく開き、粉に霧を吸わせた。「固める。散らせない」
ミナが矢印で粉の端を丸く集め、ナディアが輪で風の通り道に蓋をする。
ボミエは星杖で粉の周りに点を打ち、踏み散らす足を滑らせないようにするニャ。
ヴァレリアは盾で雪を寄せ、粉の周囲に白い壁を作る。
ヨハンは仲買人に向き直った。「骨は人だ。数えではなく、名で扱え」
仲買人の目が揺れる。「名は……書けない」
「なら、在を書け」ミレイユがそっと言った。「塩の匂い、焚火の癖、笑い皺。名がない夜にも、在は残る」
彼女は名録の余白に静かに短句を置く。
在を書く
名はあと
粉は人
⸻
XII 荷車の去る音
影の仲買人が指を鳴らし、荷車の列が動き出した。
逆光はもう背に回り、車輪は西へ影を伸ばす。
広場に残ったのは封じた台、固めた粉、そして“手”に払われた小さな音。
「春までは長い」影の仲買人は去り際に言った。「遅さが盾なら、長さは鎧だ。——また会うよ、老騎士」
ヨハンは頷きもしなかった。目だけで道を見た。
ルーシアンが肩で笑う。「歩きながら腹を決める奴は嫌いじゃない」
ミナは風紙を畳み、矢印の端で空をなぞる。「霧は薄い。今日は行ける」
ヴァレリアは台の刃を包んだ布を固く結び直し、盾の裏に括りつけた。「重いが、運べる」
ボミエは封じた台を指で叩くニャ。「いい音ニャ。削る音じゃない。止める音ニャ」
ナディアは笛箱を抱え、輪の重さを減らす。
ミレイユは短句。
遅い鎧
長い道
手で進む
⸻
XIII 帰り途、子どもの影
広場を離れると、さっきの子が後ろを少しついてきた。
包帯の左親指を胸に押し当て、右の指で裾を掴む。
「帰る場所は」ヨハンが問う。
「あるよ。でも、あっちの大人は、台を空に戻せって言う。台が空だと、左が減る」
ルーシアンは肩で息を吐いた。「帰り道だけ、一緒に来い」
ヴァレリアが子の歩幅に合わせ、盾を外側へ向けた。
ボミエが尻尾で子の手首をとんと叩いたニャ。「今日は魚のスープの話をするニャ」
ナディアは輪を薄くして子の耳沿いに置き、冷えを鈍らせる。
ミレイユは名録に短句。
空の台
埋めた布
子は歩く
⸻
XIV 逆光の消える頃
太陽が雲薄くにじみ、影が短くなる。
道の先で、昨夜の白い手袋の鍵束が一度だけ鳴った。短く、均整の整った音。
——面子より下に置く、という札の続きの合図。
ヨハンは短く息を吐き、足取りを変えない。「今日のところは、これで十分だ」
ルーシアンが口の端で笑う。「老いぼれ、腹は?」
「腹は今夜満たす」
ミナが紙の端で小さな矢印を描く。「宿の鍋は機嫌がいい」
ヴァレリアはうなずき、「刃は預かっている」
ボミエは尻尾で雪を払ったニャ。「魚が待ってるニャ」
ナディアは笛箱を軽く指で叩き、輪を胸に戻す。
ミレイユは最後の短句。
右の朱
薄くなり
息は濃い
⸻
次回予告
第169話 凍橋の上、面子の札
川を跨ぐ凍橋に、城からの札が並ぶ。
「遅延の許」を巡って、上と下の文言が食い違い、
橋の下からは右だけの手が氷に叩きつけられる音。
——札は文、橋は角、息は道。
今度は紙を破るか、書き足すか。
老騎士の決断が、春の入口をひらく。




