表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

162/323

――外縁の里編―― 第3話 門の影、静かな来訪

I 余韻の火


 夜はやわらぎ、広場の火は低く、湯気は甘く立ち上っていた。

 蜂蜜酒の壺は空になりかけ、鍋ではタラとジャガがほろほろ崩れる。酸っぱいキャベツの香りが、今日だけは“守り”の匂いに戻っている。


 ヨハンは杯を置いて、火の輪の外から里の顔を見ていた。笑いと安堵が半分ずつ。

 ルーシアンは鍋の縁で湯の温度を計り、「このくらいが腹に落ちやすい」と満足げだ。

 ミナは風紙を広げ、子どもたちに紙飛行の折り方を教える。矢印は使わない——今はただ遊ぶために。

 ヴァレリアは編み紐で子の手首に小さな輪を結び、「これは“帰る合図”」と説明した。

 ボミエは長机に鎮座し、ニシンの酢漬けと燻製マスを前に目を細める。「今夜は最高ニャ。骨までうまいニャ」

 ナディアは笛箱を閉じ、輪を胸の内にだけ置いた。

 ミレイユは名録の端に一点を置く。


  焚く火は

  歌に戻る

  夜は一息


 火の書記は祠の陰で人々のやりとりを眺め、黒外套の女は印章を帯の深いところにしまい込んだ。小僧は鉄筆の先を布で拭き、静かに目を閉じている。



II 風向き


 北の方角から風が一度だけ向きを変えた。軽い匂い。油、革、雪に濡れた馬の体温。

 ルーシアンが鼻先で夜を切る。「来客だ」

 ミナが耳を澄ます。紙の端が勝手に揺れ、矢印になりかけて、すぐに彼女の指で押さえられた。

 ヴァレリアの視線が城門へ滑る。

 ボミエの尻尾が緩やかに沈む。「いい匂いじゃないニャ……」

 ナディアは息を低く整えた。

 ミレイユが名録に短句。


  風は言う

  足音二

  車は一


 ヨハンは火の輪から半歩抜け、城門の方へ目をやった。白く塗られた石灰の門が、夜の中でぼんやり浮かび上がる。門外の雪面に黒い塊——馬車の影が滲んだ。



III 黒い馬車


 車輪が雪を割る音は小さく、しかしためらいがない。

 門の前で止まり、御者が一度だけ鞭を鳴らした。

 馬の吐息が白く散り、側面の扉が静かに開く。


 最初に見えたのは白い手袋。

 次に黒い外套の裾。

 最後に降り立った靴は、泥のない革。机の火の匂いが足元から立った。


 降りた人物は背が高く、痩せている。フードは深く、顔の半分を影が覆う。胸元でわずかに金属が光った——印章でも徽章でもない、鍵束の頭。


 門の兵が小声で合図を送り、御用札の鎖が一度だけ鳴った。

 ルーシアンが低く笑う。「上は“話し合い”が好きだな」

 ミナが紙の角で口許を隠す。「匂いは城。でも、足裏は旅の土じゃない」

 ヴァレリアは盾を立て、角を布で拭った。

 ボミエが机の下で爪先を石に当てる。「嫌な足音ニャ」

 ナディアは視線だけで祠、広場、門の三点を結ぶ。

 ミレイユは短句。


  白い手袋

  黒い夜

  鍵は胸


 ヨハンは一度だけ息を浅くした。交渉の人間の歩き方だ。力で脅すのではなく、場を編むことを知っている足並み。



IV 見ている者


 黒外套の“客人”は広場の賑わいを遠くから眺めた。

 火の書記が祠の前に姿を現すと、客人は軽く顎を下げる。上下関係の線は引かない。ただ、観察する者の礼儀で距離を取る。


 「城から?」ヨハンが問う。

 客人は返さない。代わりに、見る。里の火、人の輪、鍋の湯気、酒の杯。

 そして、子どもの影。


 ルーシアンがぼそり。「嫌な目だ」

 ミナが目を細める。「大きい音を出さない目」

 ヴァレリアは盾の位置を半歩動かし、視線の線上から子どもを外した。

 ボミエはスープの椀をそっと子に押し付ける。「見られてる時は、温かいものを持つニャ。手が震えにくいニャ」

 ナディアは杯を傾ける。輪は出さない。

 ミレイユは短句。


  声ではなく

  視線で縫う

  冬の糸


 客人は祠の灯へ歩み寄り、火の書記に低く何かを告げた。書記は一度も首を振らず、黙って聞いた。女は印章に触れず、目だけで祠の周りの人の数を数えている。



V 静かな合図


 鐘は鳴らない。笛もない。

 代わりに、花火の筒が一つだけ、城の中庭で乾いた音を立てた。光は上がらない——濡れた芯に火が走って、すぐに消えた音だ。


 ルーシアンが顔を上げる。「合図が失敗した」

 ミナの紙がざわりと鳴り、彼女は手で押さえ込む。「上と下の段取りがずれてる」

 ヴァレリアの手が盾の縁で止まる。

 ボミエは尻尾で机の足をとん、と叩く。「今なら押さずに動けるニャ」

 ナディアは目を伏せ、息をひとつ合わせた。

 ミレイユは短句。


  鳴らぬ花

  合図ずれ

  影はほどける


 ヨハンは火の書記の横へ歩み寄り、客人と向き合う位置に立った。

 客人の白い手袋がわずかに動き、胸の鍵束が静かに鳴った。



VI 鍵束の言葉


 客人の声は低く、凍った川の底を流れるようだった。

「冬祭りの“運用”が変わったと聞いた。——見に来た」


「見て、どうする」ヨハン。


「数える。数えない。どちらも利になる。里の暖と、城の面子。——今日は、面子を下げる」


 火の書記が目を瞬いた。黒外套の女は一瞬だけ肩の力を抜き、小僧はわけがわからず鉄筆を握りしめた。

 ルーシアンが苦笑する。「白い手袋の癖に、言葉は意外と血生臭いな」

 ミナは唇を噛む。「面子を下げるのは、明日のため」

 ヴァレリアが低く問いかける。「何と引き換えに」

 客人は鍵束を軽く鳴らした。「見返りは、春」


 ボミエの耳が動く。「先の季節を言う奴は、冬に手を出すニャ」

 ナディアは短く目を閉じた。

 ミレイユは短句。


  春を餌に

  冬の火を

  撫でる手


 ヨハンは一歩だけ近づく。「お前は誰に鍵をかけ、誰に鍵を渡す」


 客人は微笑みもしない。「鍵は、人の数にかかる。——今夜は減らさない」



VII 続ける灯、続かない腹


 広場の鍋は音を立て、杯はまた満たされる。

 しかし、火の輪の外で皿のない手が三つ、四つ、寒さに指を擦っているのが見えた。

 ルーシアンが店主に目配せし、干しパンを持たせる。「足りねぇ」

 ミナが矢印で屋台から湯気の道を作り、客が余分に持ち帰らないように列を整える。

 ヴァレリアは鍋の前に立って順番を守らせ、子どもが先に椀を持てるように肩で人の流れを変えた。

 ボミエは魚の切り身を薄く広く分け、「誰も骨まで噛んでいいニャ」と笑わせる。

 ナディアは小さな輪で手を温める。音は出さないが、冷えを鈍らせる。

 ミレイユが短句。


  火は十分

  皿は足りず

  腹は今


 ヨハンは客人に視線を戻した。「春を言う前に、今夜の腹を見ろ」


 客人は広場の端を見やり、短く頷いた。「帳面は後に回す」



VIII 黒外套の女、立つ


 女は印章を帯から外し、祠の注連縄に掛けた。

「今日の印は、私の手から離す。——明日、里の手に返す」


 火の書記がほんの少しだけ目を見開いた。

 ルーシアンがぼそり。「腹を決めたな」

 ミナが微笑む。「押す手が、押さないことを覚えた」

 ヴァレリアは女と視線を交わし、うなずく。

 ボミエが胸を張る。「いい選択ニャ」

 ナディアは目尻を細くする。

 ミレイユは短句。


  押す手よ

  離すこと

  それも守り


 客人は祠の灯を一度だけ見下ろした。「見届けるだけだ」



IX 静かな裂け目


 そのとき、門の外で短い悲鳴が上がった。

 群衆のざわめきが引き、火の音がやけに大きく聞こえる。

 門番の影が倒れ、雪に黒が広がる。

 馬車の御者台。そこに残っていた影が、ゆっくりと立ち上がった。


 白い手袋はここにある。では、あれは何だ。

 ——もう一台。


 ルーシアンが舌打ち。「二重底かよ」

 ミナが紙を叩く。矢印が一斉に四方へ散る。

 ヴァレリアが盾を構え、前へ出る。

 ボミエが星杖を取るニャ。

 ナディアが輪をひとつ、呼吸の奥に沈める。

 ミレイユは短句。


  白は見せ

  黒は刺す

  門の影


 門の向こうから、ゆらゆらと灯りが現れた。

 灯りではない。頭蓋に火を詰めた提灯——骨のランタン。

 その光に照らされて、皮手袋の束がぶら下がる。指先は全部、右。



X 右手だけの行列


 行列は無言で門をくぐった。

 皮手袋の束は乾いて、雪より軽く鳴る。

 先頭の影が古びたラムの面を被り、提げる骨のランタンに里の火を移そうと差し出した。


 「やめろ」ヨハンの声は低い。

 客人の白い手袋が動く。鍵束が鳴る。

 火の書記が一歩前に出る。「ここは里の火だ」


 影は首を傾げ、面の奥から空洞の声を漏らした。

「祭は揃えるためにある。右手を揃えよ。右へ。右へ。——右だけが、正しい」


 ルーシアンが鼻で笑う。「安っぽいスローガンだ」

 ミナが息を詰める。「でも、効く」

 ヴァレリアは盾の角で骨のランタンを押し返し、火が触れない距離を保った。

 ボミエは足元に星点を撒き、誰も転ばないように路面を“滑らなく”するニャ。

 ナディアは輪を深くし、声の角度を鈍らせた。

 ミレイユは短句。


  右へ右へ

  揃えの呪い

  灯を汚すな


 客人は一歩、影の側へ寄る。白い手袋が骨のランタンの柄を掴み、下へ向けた。

「ここは、“上”の火を下へ降ろした夜だ。上げるな」



XI 冷える瞬間


 空気がひやりと変わった。

 行列の後方で、別の影が短い笛を鳴らす。鳥の声のよう——合図。

 門の上に潜んでいた誰かが細い弩を引き、広場の中心へ向けて放った。

 狙いは、火の書記か、客人か、誰かの胸か。


 矢は見えない。雪の白に紛れ、音も薄い。

 ルーシアンの霧が矢の皮を重くし、ミナの指先の矢印がほんの少しだけ空気の流れを曲げた。

 ヴァレリアの盾がそこにあった。金属が鳴り、矢は甲高い音を残して石畳に跳ねた。

 ボミエが子どもを抱き寄せるニャ。「大丈夫ニャ!」

 ナディアの輪が震え、叫び声を短く落とす。

 ミレイユは短句。


  矢は曲がり

  盾は鳴り

  火は守られた


 ヨハンは一歩、前へ。「ここで終わりにしろ。足並みは里が決める」



XII 骨の撤退


 客人の白い手袋が骨のランタンを離し、鍵束を胸で鳴らした。

 その音は小さいのに、行列の足が止まる。

 影は面の奥で舌打ちし、右手の束を一つ捨てた。雪面に指先が散る。

 門の上で弩を持つ影が姿を消し、馬車の御者台は空っぽに見えた——見えるだけだ。

 骨のランタンはひるがえり、行列は引いた。

 白い手袋は追わない。

 火の書記は灯に背を向けず、ただ位置を変え、祠の影が広場を覆わないように立ち直った。


 ルーシアンが低く吐息を漏らす。「二手目を食わずに済んだ」

 ミナは紙の端で汗を拭う。

 ヴァレリアは盾の縁を見て、矢傷を親指で撫でた。

 ボミエは尻尾で子の背をとん、と叩き、笑わせるニャ。

 ナディアは輪を静かに胸の奥に沈める。

 ミレイユは短句。


  右手散り

  骨は退き

  灯は座る


 ヨハンは客人に目を向けた。「この里は、今夜を越えた。——次は何だ」



XIII 交渉の顔


 客人はフードを少しだけ上げた。顔の輪郭は細く、目は眠らない色をしていた。

「春の“徴税”を遅らせる。祭の火が歌に戻るなら、帳面の火は後に回せる」


「見返りは?」ヨハン。


「里の道を一つ、城の荷に貸してほしい。兵ではなく、薬を通す」


 ルーシアンの眉がぴくり。「薬、ね」

 ミナが反射的に紙へ矢印を書きかけて、やめる。「どんな」

 客人は首を振った。「春になればわかる。——疫を待つより、備える」


 ヴァレリアはヨハンを見た。

 ボミエが尻尾を揺らす。「薬なら、通っていいニャ。ただし、子どもの皿が先ニャ」

 ナディアは短く頷く。

 ミレイユは短句。


  薬の道

  皿の先

  春の口


 ヨハンは杯を持ち、火の光で中身を見た。「春を餌に冬を壊すな。約束を文にして残せ」


 客人は白い手袋を外した。素手の指で鍵束を外し、中から薄い木札を取り出す。

 そこには既に文字が刻まれていた。

 ——遅延の許。

 ——道の貸与。

 ——祭の不介入。


「名前はあとで良い」客人は木札を祠の柱に掛け、白い手袋を戻した。「今夜は、火だけ見に来た」



XIV 灯の脈


 広場の火が一度だけ大きく揺れ、すぐに静まった。

 子どもが眠り、鍋は空に近づき、杯は軽くなる。

 門の影は深いが、さっきまでの冷たさはない。


 火の書記は里の老人と話し、黒外套の女は印章の代わりに木杓子を手にした。小僧は鉄筆を袋から出し、子どもの描いた紙と並べて笑っている。


 ルーシアンが肩を回す。「腹は落ち着いた」

 ミナが紙飛行を一つ、火の上に飛ばして、火の熱でふわりと上げる。

 ヴァレリアは盾を外に立てかけ、雪で冷やして矢傷を洗った。

 ボミエは鍋の底をさらい、タラのほぐれを子と半分こするニャ。

 ナディアは笛箱に触れ、音を出さずに輪の重さだけ確かめる。

 ミレイユは名録に最後の短句。


  門は影

  灯は脈

  今を守る


 ヨハンは客人の背が門の闇に溶けていくのを見送り、ゆっくりと息を吐いた。

 足並みは揃った——今は。

 春は先だ。だが、冬の夜は、ひとつ分だけ長くなった。



次回予告


第165話 凍土の馬市、薬の道

春の“備え”を名目に、城は馬と薬を集め始める。

外縁の里から北へ伸びる細い街道に、凍った土を叩く蹄の音。

買い叩かれる農民、横行する偽薬、そして“右手”の影の再来。

ヨハンたちは、道と約束を守れるのか。

——足並みではなく、刻みで揃える旅が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ