――外縁の里編―― 第3話 門の影、静かな来訪
I 余韻の火
夜はやわらぎ、広場の火は低く、湯気は甘く立ち上っていた。
蜂蜜酒の壺は空になりかけ、鍋ではタラとジャガがほろほろ崩れる。酸っぱいキャベツの香りが、今日だけは“守り”の匂いに戻っている。
ヨハンは杯を置いて、火の輪の外から里の顔を見ていた。笑いと安堵が半分ずつ。
ルーシアンは鍋の縁で湯の温度を計り、「このくらいが腹に落ちやすい」と満足げだ。
ミナは風紙を広げ、子どもたちに紙飛行の折り方を教える。矢印は使わない——今はただ遊ぶために。
ヴァレリアは編み紐で子の手首に小さな輪を結び、「これは“帰る合図”」と説明した。
ボミエは長机に鎮座し、ニシンの酢漬けと燻製マスを前に目を細める。「今夜は最高ニャ。骨までうまいニャ」
ナディアは笛箱を閉じ、輪を胸の内にだけ置いた。
ミレイユは名録の端に一点を置く。
焚く火は
歌に戻る
夜は一息
火の書記は祠の陰で人々のやりとりを眺め、黒外套の女は印章を帯の深いところにしまい込んだ。小僧は鉄筆の先を布で拭き、静かに目を閉じている。
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II 風向き
北の方角から風が一度だけ向きを変えた。軽い匂い。油、革、雪に濡れた馬の体温。
ルーシアンが鼻先で夜を切る。「来客だ」
ミナが耳を澄ます。紙の端が勝手に揺れ、矢印になりかけて、すぐに彼女の指で押さえられた。
ヴァレリアの視線が城門へ滑る。
ボミエの尻尾が緩やかに沈む。「いい匂いじゃないニャ……」
ナディアは息を低く整えた。
ミレイユが名録に短句。
風は言う
足音二
車は一
ヨハンは火の輪から半歩抜け、城門の方へ目をやった。白く塗られた石灰の門が、夜の中でぼんやり浮かび上がる。門外の雪面に黒い塊——馬車の影が滲んだ。
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III 黒い馬車
車輪が雪を割る音は小さく、しかしためらいがない。
門の前で止まり、御者が一度だけ鞭を鳴らした。
馬の吐息が白く散り、側面の扉が静かに開く。
最初に見えたのは白い手袋。
次に黒い外套の裾。
最後に降り立った靴は、泥のない革。机の火の匂いが足元から立った。
降りた人物は背が高く、痩せている。フードは深く、顔の半分を影が覆う。胸元でわずかに金属が光った——印章でも徽章でもない、鍵束の頭。
門の兵が小声で合図を送り、御用札の鎖が一度だけ鳴った。
ルーシアンが低く笑う。「上は“話し合い”が好きだな」
ミナが紙の角で口許を隠す。「匂いは城。でも、足裏は旅の土じゃない」
ヴァレリアは盾を立て、角を布で拭った。
ボミエが机の下で爪先を石に当てる。「嫌な足音ニャ」
ナディアは視線だけで祠、広場、門の三点を結ぶ。
ミレイユは短句。
白い手袋
黒い夜
鍵は胸
ヨハンは一度だけ息を浅くした。交渉の人間の歩き方だ。力で脅すのではなく、場を編むことを知っている足並み。
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IV 見ている者
黒外套の“客人”は広場の賑わいを遠くから眺めた。
火の書記が祠の前に姿を現すと、客人は軽く顎を下げる。上下関係の線は引かない。ただ、観察する者の礼儀で距離を取る。
「城から?」ヨハンが問う。
客人は返さない。代わりに、見る。里の火、人の輪、鍋の湯気、酒の杯。
そして、子どもの影。
ルーシアンがぼそり。「嫌な目だ」
ミナが目を細める。「大きい音を出さない目」
ヴァレリアは盾の位置を半歩動かし、視線の線上から子どもを外した。
ボミエはスープの椀をそっと子に押し付ける。「見られてる時は、温かいものを持つニャ。手が震えにくいニャ」
ナディアは杯を傾ける。輪は出さない。
ミレイユは短句。
声ではなく
視線で縫う
冬の糸
客人は祠の灯へ歩み寄り、火の書記に低く何かを告げた。書記は一度も首を振らず、黙って聞いた。女は印章に触れず、目だけで祠の周りの人の数を数えている。
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V 静かな合図
鐘は鳴らない。笛もない。
代わりに、花火の筒が一つだけ、城の中庭で乾いた音を立てた。光は上がらない——濡れた芯に火が走って、すぐに消えた音だ。
ルーシアンが顔を上げる。「合図が失敗した」
ミナの紙がざわりと鳴り、彼女は手で押さえ込む。「上と下の段取りがずれてる」
ヴァレリアの手が盾の縁で止まる。
ボミエは尻尾で机の足をとん、と叩く。「今なら押さずに動けるニャ」
ナディアは目を伏せ、息をひとつ合わせた。
ミレイユは短句。
鳴らぬ花
合図ずれ
影はほどける
ヨハンは火の書記の横へ歩み寄り、客人と向き合う位置に立った。
客人の白い手袋がわずかに動き、胸の鍵束が静かに鳴った。
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VI 鍵束の言葉
客人の声は低く、凍った川の底を流れるようだった。
「冬祭りの“運用”が変わったと聞いた。——見に来た」
「見て、どうする」ヨハン。
「数える。数えない。どちらも利になる。里の暖と、城の面子。——今日は、面子を下げる」
火の書記が目を瞬いた。黒外套の女は一瞬だけ肩の力を抜き、小僧はわけがわからず鉄筆を握りしめた。
ルーシアンが苦笑する。「白い手袋の癖に、言葉は意外と血生臭いな」
ミナは唇を噛む。「面子を下げるのは、明日のため」
ヴァレリアが低く問いかける。「何と引き換えに」
客人は鍵束を軽く鳴らした。「見返りは、春」
ボミエの耳が動く。「先の季節を言う奴は、冬に手を出すニャ」
ナディアは短く目を閉じた。
ミレイユは短句。
春を餌に
冬の火を
撫でる手
ヨハンは一歩だけ近づく。「お前は誰に鍵をかけ、誰に鍵を渡す」
客人は微笑みもしない。「鍵は、人の数にかかる。——今夜は減らさない」
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VII 続ける灯、続かない腹
広場の鍋は音を立て、杯はまた満たされる。
しかし、火の輪の外で皿のない手が三つ、四つ、寒さに指を擦っているのが見えた。
ルーシアンが店主に目配せし、干しパンを持たせる。「足りねぇ」
ミナが矢印で屋台から湯気の道を作り、客が余分に持ち帰らないように列を整える。
ヴァレリアは鍋の前に立って順番を守らせ、子どもが先に椀を持てるように肩で人の流れを変えた。
ボミエは魚の切り身を薄く広く分け、「誰も骨まで噛んでいいニャ」と笑わせる。
ナディアは小さな輪で手を温める。音は出さないが、冷えを鈍らせる。
ミレイユが短句。
火は十分
皿は足りず
腹は今
ヨハンは客人に視線を戻した。「春を言う前に、今夜の腹を見ろ」
客人は広場の端を見やり、短く頷いた。「帳面は後に回す」
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VIII 黒外套の女、立つ
女は印章を帯から外し、祠の注連縄に掛けた。
「今日の印は、私の手から離す。——明日、里の手に返す」
火の書記がほんの少しだけ目を見開いた。
ルーシアンがぼそり。「腹を決めたな」
ミナが微笑む。「押す手が、押さないことを覚えた」
ヴァレリアは女と視線を交わし、うなずく。
ボミエが胸を張る。「いい選択ニャ」
ナディアは目尻を細くする。
ミレイユは短句。
押す手よ
離すこと
それも守り
客人は祠の灯を一度だけ見下ろした。「見届けるだけだ」
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IX 静かな裂け目
そのとき、門の外で短い悲鳴が上がった。
群衆のざわめきが引き、火の音がやけに大きく聞こえる。
門番の影が倒れ、雪に黒が広がる。
馬車の御者台。そこに残っていた影が、ゆっくりと立ち上がった。
白い手袋はここにある。では、あれは何だ。
——もう一台。
ルーシアンが舌打ち。「二重底かよ」
ミナが紙を叩く。矢印が一斉に四方へ散る。
ヴァレリアが盾を構え、前へ出る。
ボミエが星杖を取るニャ。
ナディアが輪をひとつ、呼吸の奥に沈める。
ミレイユは短句。
白は見せ
黒は刺す
門の影
門の向こうから、ゆらゆらと灯りが現れた。
灯りではない。頭蓋に火を詰めた提灯——骨のランタン。
その光に照らされて、皮手袋の束がぶら下がる。指先は全部、右。
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X 右手だけの行列
行列は無言で門をくぐった。
皮手袋の束は乾いて、雪より軽く鳴る。
先頭の影が古びたラムの面を被り、提げる骨のランタンに里の火を移そうと差し出した。
「やめろ」ヨハンの声は低い。
客人の白い手袋が動く。鍵束が鳴る。
火の書記が一歩前に出る。「ここは里の火だ」
影は首を傾げ、面の奥から空洞の声を漏らした。
「祭は揃えるためにある。右手を揃えよ。右へ。右へ。——右だけが、正しい」
ルーシアンが鼻で笑う。「安っぽいスローガンだ」
ミナが息を詰める。「でも、効く」
ヴァレリアは盾の角で骨のランタンを押し返し、火が触れない距離を保った。
ボミエは足元に星点を撒き、誰も転ばないように路面を“滑らなく”するニャ。
ナディアは輪を深くし、声の角度を鈍らせた。
ミレイユは短句。
右へ右へ
揃えの呪い
灯を汚すな
客人は一歩、影の側へ寄る。白い手袋が骨のランタンの柄を掴み、下へ向けた。
「ここは、“上”の火を下へ降ろした夜だ。上げるな」
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XI 冷える瞬間
空気がひやりと変わった。
行列の後方で、別の影が短い笛を鳴らす。鳥の声のよう——合図。
門の上に潜んでいた誰かが細い弩を引き、広場の中心へ向けて放った。
狙いは、火の書記か、客人か、誰かの胸か。
矢は見えない。雪の白に紛れ、音も薄い。
ルーシアンの霧が矢の皮を重くし、ミナの指先の矢印がほんの少しだけ空気の流れを曲げた。
ヴァレリアの盾がそこにあった。金属が鳴り、矢は甲高い音を残して石畳に跳ねた。
ボミエが子どもを抱き寄せるニャ。「大丈夫ニャ!」
ナディアの輪が震え、叫び声を短く落とす。
ミレイユは短句。
矢は曲がり
盾は鳴り
火は守られた
ヨハンは一歩、前へ。「ここで終わりにしろ。足並みは里が決める」
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XII 骨の撤退
客人の白い手袋が骨のランタンを離し、鍵束を胸で鳴らした。
その音は小さいのに、行列の足が止まる。
影は面の奥で舌打ちし、右手の束を一つ捨てた。雪面に指先が散る。
門の上で弩を持つ影が姿を消し、馬車の御者台は空っぽに見えた——見えるだけだ。
骨のランタンはひるがえり、行列は引いた。
白い手袋は追わない。
火の書記は灯に背を向けず、ただ位置を変え、祠の影が広場を覆わないように立ち直った。
ルーシアンが低く吐息を漏らす。「二手目を食わずに済んだ」
ミナは紙の端で汗を拭う。
ヴァレリアは盾の縁を見て、矢傷を親指で撫でた。
ボミエは尻尾で子の背をとん、と叩き、笑わせるニャ。
ナディアは輪を静かに胸の奥に沈める。
ミレイユは短句。
右手散り
骨は退き
灯は座る
ヨハンは客人に目を向けた。「この里は、今夜を越えた。——次は何だ」
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XIII 交渉の顔
客人はフードを少しだけ上げた。顔の輪郭は細く、目は眠らない色をしていた。
「春の“徴税”を遅らせる。祭の火が歌に戻るなら、帳面の火は後に回せる」
「見返りは?」ヨハン。
「里の道を一つ、城の荷に貸してほしい。兵ではなく、薬を通す」
ルーシアンの眉がぴくり。「薬、ね」
ミナが反射的に紙へ矢印を書きかけて、やめる。「どんな」
客人は首を振った。「春になればわかる。——疫を待つより、備える」
ヴァレリアはヨハンを見た。
ボミエが尻尾を揺らす。「薬なら、通っていいニャ。ただし、子どもの皿が先ニャ」
ナディアは短く頷く。
ミレイユは短句。
薬の道
皿の先
春の口
ヨハンは杯を持ち、火の光で中身を見た。「春を餌に冬を壊すな。約束を文にして残せ」
客人は白い手袋を外した。素手の指で鍵束を外し、中から薄い木札を取り出す。
そこには既に文字が刻まれていた。
——遅延の許。
——道の貸与。
——祭の不介入。
「名前はあとで良い」客人は木札を祠の柱に掛け、白い手袋を戻した。「今夜は、火だけ見に来た」
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XIV 灯の脈
広場の火が一度だけ大きく揺れ、すぐに静まった。
子どもが眠り、鍋は空に近づき、杯は軽くなる。
門の影は深いが、さっきまでの冷たさはない。
火の書記は里の老人と話し、黒外套の女は印章の代わりに木杓子を手にした。小僧は鉄筆を袋から出し、子どもの描いた紙と並べて笑っている。
ルーシアンが肩を回す。「腹は落ち着いた」
ミナが紙飛行を一つ、火の上に飛ばして、火の熱でふわりと上げる。
ヴァレリアは盾を外に立てかけ、雪で冷やして矢傷を洗った。
ボミエは鍋の底をさらい、タラのほぐれを子と半分こするニャ。
ナディアは笛箱に触れ、音を出さずに輪の重さだけ確かめる。
ミレイユは名録に最後の短句。
門は影
灯は脈
今を守る
ヨハンは客人の背が門の闇に溶けていくのを見送り、ゆっくりと息を吐いた。
足並みは揃った——今は。
春は先だ。だが、冬の夜は、ひとつ分だけ長くなった。
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次回予告
第165話 凍土の馬市、薬の道
春の“備え”を名目に、城は馬と薬を集め始める。
外縁の里から北へ伸びる細い街道に、凍った土を叩く蹄の音。
買い叩かれる農民、横行する偽薬、そして“右手”の影の再来。
ヨハンたちは、道と約束を守れるのか。
——足並みではなく、刻みで揃える旅が始まる。




