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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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棘の誓約、英雄狩り

 



I 葬送の余白


 朝の鐘は三度、間を置いて鳴った。

 石段に並ぶ白い野花は露で重く、港の風は塩の匂いに鉄の薄片を混ぜて吹いた。列は短く、言葉は少ない。アメリアの名は声に出されず、しかし胸の裏側で一斉に発音されていた。


 ヨハンは祭壇に掌を置いた。祈りは殴るためでなく、掴むために。掴みきれなかった手は、次の夜のために握り直す。

 ボミエは杖の紐に結んだ小さな布――アメリアの切れ端――を指で撫で、耳を伏せたまま、しかし瞳はまっすぐだった。


「……アメリア、ありがとニャ。次は、わたしが“盾”になる番はつくらないニャ。線で、守るニャ」


 芯が胸で低く鳴り、星潮の杖が短く応じる。

 ジュロムは大槌を壁に立てかけ、「借りは返す」と短く言い、ザードルは火打石を鳴らさずに親指の腹で擦り、ルシアンは水を一杯、石に注ぐ。ライネルは掌を浅く切り、終止符の印を空へ描いて消した。ナディアは笛の穴を布で拭き、エステラは鼻で涙の匂いを嗅ぎ取って目を細めた。


 薔薇の香は、来なかった。ヴァレリアは礼拝所の外の影に留まり、匂いではなく沈黙で悼んだ。



II 英雄の影、街の囁き


 昼、旗は降ろされず、しかし風を受けても音を立てなかった。人々は仕事に戻り、パンは焼かれ、船は出た。祝祭の皮膜は剥がれ、かわりに“用心の皮”が街全体に薄く張られた。


 噂は形をとらない。

 「英雄が――」と誰かが言いかけ、「いや、夜が」と別の誰かが遮る。そのたびに鐘が軽く鳴り、ナディアの笛が呼吸を戻す。街は、言葉の手前で自分の喉を守る術を覚え始めていた。


 ヨハンは窓辺で胸の銀を回し、エステラがアーチの上から鼻で方向を示した。


「薔薇は“低い”。海の縁に沈む香り。――彼女、泣いたわね」

「見ていたか」

「匂いは見える。……英雄の匂いは“から”よ。中身はあるのに、匂いがない。舞台の空隙」


 ヨハンは目を細めた。「ならば、鍵は匂いのするほうへ置けば良い」



III 誓いの綴り直し


 夜の入口、礼拝所の奥で小会議が開かれた。地図の上、赤い線が交差し、塩倉、灯台、市場に“針目”のしるしが付けられる。


「――“星綴錠せいつづりじょう”を試す」ライネルが羊皮紙を繰った。「星の線で祈りの拍を編み、鍵を“間”に縫い付ける仕組みだ。奪えない。――抜こうとすれば街の手が勝手に締まる」


「その糸、わたしが引くニャ」ボミエが前に出る。「震えたまま結ぶのはもう慣れたニャ。今度は“震えを線の中に入れる”ニャ」


「灯りは控える」ザードルが手を挙げる。「炎の役は“見えるため”だけ。燃やさない、焦がさない。――ただ、英雄の刃には煙がいる」


「煙なら俺が出す!」ジュロムが胸を叩く。「粉塵を踏ませねえ床を俺が作る。へっ、舞台装置は任せとけ!」


 ルシアンは水路の図に指を這わせた。「次の満潮は“はす”に歪む。扉同士が直に向かい合わない。英雄は曲がった蝶番を“まっすぐ”にしようとするはず。――そこを縫う」


 ナディアが笛を回し、「合図は短く。鐘は三度、笛は二度、そして一度。縫って、締めて、抜かない」


 ヨハンは頷き、銀を掌に移す。「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。――祈りは殴るためでなく、掴むために」



IV 薔薇の影、棘の告解


 会議が散じたあと、礼拝所の裏口に薄い香が立った。ヴァレリアが影に佇み、葡萄色の外套の裾を握っていた。瞳の下の影は浅くない。


「祈り手。――嫌い。でも、話に来た」


「聞こう」


「イーサンは“自分で決めた”。わたしのせいじゃない。均衡は運営されるべき、彼はそう信じてる。舞台の裏で汚れる役を引き受けるのは、いつも彼。彼は、その『礼儀』を美徳だと誤解してる」


「お主は止めぬのか」


「止めたい。――でも、止めるなら、わたしが“最初”にする。棘は飾りじゃない」


 ヴァレリアは小瓶を取り出し、ヨハンの前に置いた。中には無色の液体が揺れる。


「“薔薇抜きのくん”。夜霧草も砂糖も混ぜない。灯りの炎に一滴垂らすと、香りは消え、炎の“音”だけが強くなる。歌に混ぜれば……英雄の“礼儀”が遅れる」


「彼の刃を、鈍らせる薬か」


「わたしはあなたを助けたくない。――でも、アメリアを殺した礼儀は、嫌い」


 ヴァレリアは踵を返し、海のほうへ消えた。生温い風が外套の裾を掬い、薔薇の香を薄めていく。


 エステラが奥から出てきて、鼻を鳴らした。「匂いが少ないほど、嘘が少ない」


「使おう」ヨハンは小瓶を袖に入れた。「今夜は香りに頼らぬ。音で縫う」



V 罠の庭――星綴錠の仕込み


 夜半、塩倉に星の細い針の音が続いた。ボミエが杖先で空に糸を掛け、梁と梁の間に“見えない紐”を渡していく。

 糸は祈りの拍にだけ反応する。間違った手で引けば、街のほうが締める。


「左、拍が走ってる」ルシアンが囁く。

「反歌で遅らせるニャ」ボミエの指は迷いなく輪を重ね、震えを糸の“節”に落とし込む。


 ザードルは灯りの皿を整え、ヴァレリアから受け取った無臭の液を一滴ずつ垂らして炎の音を少しだけ高くした。

 ジュロムは床板の下に砂袋を仕込み、一定以上の荷重がかかった瞬間に“鳴らない沈み”が生まれるよう調整した。


「これで英雄サマの足は“次の一歩”を迷うぜ」


 ライネルは磐座の周りに反句の印を刻み、契約の尾の逃げ道を塞ぐ。ナディアは鐘楼と笛の位置を確認し、エステラは鼻で倉全体の“甘さ”を嗅ぐ。


「……いい。甘くない夜」



VI 英雄狩り――蝶番を外す


 その夜、イーサンは独りで来た。剣帯は正しく、外套は清潔、歩みは真っ直ぐ。接吻印の上に薄く包帯が巻かれ、ライネルの逆句はまだ赤く縁取っている。


「御坊。鍵を」


「渡さん。――今夜は“止める”ために祈る」


 言葉は短く、準備は長い。

 ナディアの笛が一度、鐘がひとつ。それだけで街の呼吸が倉の周囲に集まる。

 ボミエが杖を上げ、星綴錠の最初の輪を締めた。


「始めるニャ」


 イーサンは一歩踏み込む。足元の砂袋が静かに沈み、次の一歩の“層”がずれる。ザードルの灯りは炎の音だけを高くし、彼の耳に“拍”を強く叩き込む。

 彼は剣を上げ、しかし振らない。蝶番を探す目で空間を測り、反射の角度を読んだ。


「巧い」ライネルが小さく呟く。「だが“糸”が見えていない」


 ボミエの線が、イーサンの踝と肘の“次”を縫う。踏み出す瞬間に一瞬だけ“躊躇”が生まれ、刃の起こしが半拍遅れる。

 その半拍を、ジュロムの大槌が取る。


「オラァッ!」


 床が唸り、梁が鳴る。剣と槌が正面からぶつからないよう、ヨハンの祈りが二人の軌道をずらす。殴るためでなく、掴むために。

 ザードルの灯りは影の輪郭を濃くし、ルシアンの水が足元の“空滑り”を作る。

 イーサンは何度も選び直す。刃の角度、身の捌き、視線の高さ。正しい。どれも正しい。――だからこそ、遅れる。


「……遅いな、俺は」


 彼が呟いた瞬間、ボミエの指が震え、星綴錠の輪が一つ“鳴った”。

 イーサンの目がそこへ向き、薄く笑う。


「見えた」


 剣が低く走る。糸は切れない。祈りの拍に縫い付けられているからだ。だが、音は鳴る。彼は音で“糸の在り処”を覚えた。

 ナディアの笛が二度、短く切り返す。合図――“締めろ”。


「締めるニャ!」


 ボミエが輪を重ね、ヨハンが鍵を“間”に触れ、街の掌が一斉に糸を引いた。

 イーサンの剣腕が“次の一振り”を失い、ジュロムの槌が彼の足元の砂袋を潰す。

 ライネルの反句が接吻印に痛みを走らせ、ザードルの炎が音だけで耳を刺し、ルシアンの水が呼吸を奪う高さで冷える。


「――今だ!」


 ヨハンが叫び、ジュロムが渾身の一撃で剣を弾き飛ばした。鉄が梁に当たって乾いた音を立て、イーサンの手に“空白”が生まれる。

 その空白へ、星の針が一本、ボミエの手から飛んだ。針は肉を裂かない。“選択の筋”だけを縫い止める魔法の針。


 イーサンの肩が止まり、目だけがボミエを見る。英雄の顔のまま、夜の目で。


「強いな。――いや、賢い」


「逃がさないニャ」


「逃げるとは言ってない」


 彼は足を半歩引き、正面にいるジュロムへではなく、左の梁――誰もいない“空”へ体を投げた。砂袋がひとつ弾け、床が沈む。

 落ちる――はずの身体が、落ちない。

 薔薇の香が一瞬だけ満ち、薄い糸がイーサンの腰を掬い上げる。


 ヴァレリアの“棘”。

 彼女は姿を見せず、ただ一度だけ薔薇の匂いを濃くした。助けではない。落下の角度を“変える”だけ。

 イーサンは床に転げ、すぐに起き上がり、拾った短剣を握った。刃は短い。礼儀の刃。


「鍵を」


「渡さぬ!」


 ヨハンが胸に銀を押し付け、祈りを強くする。

 イーサンは短剣を下げ、やがてそれも捨てた。肩で息をしながら、薄く笑う。


「今夜は負けだ。――でも、舞台は続く」


 彼は背を見せずに後退し、倉口から夜へ溶けた。



VII 傷と息


 静寂が塩倉に落ちた。灯りの炎は小さく、しかし音は高い。

 ジュロムは肩で息をし、「生きてる」と笑った。ザードルは唇を噛み、「火は灯りになれた」と独り言。ルシアンは水で床の砂を集め、ライネルは印の刃を布で拭う。ナディアは笛をそっと置き、エステラは鼻で英雄の残り香の“空白”を嗅いだ。


 ボミエは杖を抱え、膝をついた。汗が耳を濡らし、尻尾が痺れる。だが、指は震えていなかった。

 ヨハンがそっとその肩に手を置く。


「ようやった」


「……うんニャ。――でも、アメリアがいたら、もっと巧くできた気がするニャ」


「おる。線のなかに」


 ボミエは小さく頷き、杖の紐の布を指で確かめた。「いるニャ」



VIII 潮間の提案――夜の停戦


 塩倉の外、港の風に薔薇の薄皮が混ざった。ヴァレリアが姿を現し、掌を見せた。武器はない、という古い合図。


「停戦を。三夜。――街も、わたしも、あなたたちも疲れてる」


「英雄は」


「彼は止まらない。だから、わたしが止める。……できるだけ」


 エステラが鼻で笑う。「棘、出すわけね」


「ええ。わたしにも棘はある」


 ヨハンは短く考え、頷いた。「停戦は受ける。だが、その三夜で“星綴錠”を街じゅうに張る。鍵は“あいだ”に縫い付ける。――英雄が刃を出せぬように」


「好きにして。わたしも“香を抜く夜”をつくる」


 ヴァレリアは踵を返し、ふっと香を薄めて消えた。

 エステラは鼻で潮の匂いを嗅ぎ、「……本当に香りが薄い夜になりそう」と呟く。



IX 縫いの三夜


 一夜目。

 ボミエは鐘楼から市場へ、星綴錠の主幹を引いた。子どもが寝静まり、猫が屋根で丸くなる時刻、彼女の線は石畳を優しくなぞる。ジュロムが足場を組み、ザードルが灯りを“音”だけで保ち、ルシアンが水の道を静かに這わせる。

 ヨハンは各所で返名の祈りを短く落とし、ナディアは路地ごとに合図の笛の“約束”を決めた。ライネルは契約の古いくぼみを反句で埋め、エステラは鼻で甘さを探しては払った。


 二夜目。

 灯台から海門へ、星の綴りは伸びた。潮の喉に絡まないよう、線は“呼吸”に合わせて緩み、締まる。

 ボミエは震えを節に変え、節を拍に、拍を線に変え続けた。耳は風の高さを測り、尻尾は足に巻き、目は一度も閉じない。――ピックルの芯が歌い、アメリアの布が脈を合わせる。


 三夜目。

 塩倉の天井に最後の針目が打たれ、街は“縫い終わり”を得た。

 ヨハンは祭壇に銀を置き、静かに十字を切った。「鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために」



X 英雄の手紙


 停戦の最後の朝、礼拝所の扉に一通の手紙が挟まっていた。封蝋は薔薇ではない。無地。匂いは塩。

 文は短かった。


 ――《三夜、礼を言う。あなた方はよく縫った。舞台は美しくなった。》

 ――《今夜、港外で“均衡”の宣告をする。鍵は“間”にある。ならば、間ごと管理する。》

 ――《イーサン・ローグフェルト》


 ジュロムが唸り、ザードルが舌打ちし、ルシアンは目を細め、ライネルは刃を握り直す。ナディアは笛を唇に当て、エステラは鼻で紙の“空白の匂い”を嗅いだ。


「……からだわ。やっぱり」


 ヨハンは手紙を折り、袖にしまった。「今夜、決める」


「決めるニャ」



XI 港外の宣告――棘と祈り


 夜、港外の岩礁に小さな舞台が作られていた。灯りは三つ、炎は細く、音は高い。薔薇の匂いは薄い。

 イーサンが中央に立ち、剣は下げたまま、接吻印は包帯の下でまだ赤い。ヴァレリアは遠く、潮の影に立ち、見るとも見ないともつかない姿勢で彼の背を見ていた。


「マリナ・デル・ベーラ。――均衡の宣告をする」


 声はよく通った。舞台の技で通す声ではなく、夜の上に置く声。

 その瞬間、港内の星綴錠が柔らかく鳴り、街の呼吸が揃う。ヨハンは胸に銀を押し、返名の祈りを落とした。

 ボミエは杖を掲げ、港と灯台、鐘楼と市場、塩倉と海門――全ての“手と手”をもう一度、結ぶ。


「御坊」ルシアン。「拍、合ってる」


「――Ex voco… Misericordia… inter manus.」


 鍵は“間”に、深く入った。

 イーサンはその音を聞いた。わずかに目を細め、剣を上げず、言葉を続けた。


「鍵は“間”にある。ならば“間”を――」


 その言葉に、ヴァレリアが一歩、前に出た。薔薇の香は薄い。棘の匂いだけがあった。


「やめて」


 イーサンは彼女を見ず、しかし確かに声だけで応じた。「やめない。――それが俺の役だ」


「役を降りて」


「降りない」


 沈黙のなか、ナディアの笛が一度、鐘が三度。合図――“締め”。

 星綴錠が街じゅうで一斉に締まり、港外の舞台へ向かって“引く”。

 イーサンの足がわずかに沈み、剣の起こしが遅れる。ジュロムの槌は届かない距離。ザードルの火も、ルシアンの水も――届かない。


 届くのは、線だけだ。

 ボミエは杖先で“反歌”の輪を重ね、イーサンの“選ぶ筋”をひとつ、封じた。


「……ボミエ」


 英雄の唇が、彼女の名を正しく呼んだ。

 ボミエは震えず、ただ答えた。


「渡さないニャ」


 イーサンは一度、目を閉じ、薄く笑った。諦念でも、侮りでもない。――別れの笑い。


「そうか」


 彼は剣を地に落とし、外套を脱ぎ捨て、接吻印の上の包帯を剥がした。印は赤く、ライネルの反句がまだ刺さっている。

 彼は胸に手を当て、低く告げた。


「なら、俺は“名”を返す」


 ヨハンの背に冷たいものが走る。

 イーサンは自分の名を、ゆっくりと、最初の一音から最後の一音まで、正しく発音した。

 ――イーサン・ローグフェルト。

 その名を、彼は夜へ、海へ、そして街へ――“返した”。


 返名の祈りが一瞬、揺れる。

 名を返す権利は持ち主にある。彼は自分の名を“間”から外へ押し出し、無名になる。蝶番は、名のない金具になった。


「ずるい」エステラが鼻で呟く。「匂いが消える」


 イーサンは両手を広げ、夜風を胸に入れた。英雄の顔はどこにも貼られていない。目だけが、静かに笑っている。


「――さあ、続けよう」


 ヨハンは銀を握り直し、ボミエは線を強くした。

 ヴァレリアは潮の影から一歩進み、棘を掌に出した。


「なら、最初に斬るのは、わたし」


 薔薇の棘と祈りの鍵、星の線と無名の男。

 満潮は、また来る。

 その夜、港の風は塩の匂いだけを運び、鐘は二度、短く鳴った。


 鍵は胸に。鍵穴は“あいだ”に。祈りは殴るためでなく、掴むために。

 そして、英雄は――止めねばならない。

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