――古街道編―― 第2話 古街道、噛む祈り
I 石の端
葦の橋を渡りきった先に、それはあった。
沼の水に半ば沈んだ石畳。三つ並んだ石は、昼の光ではただの苔に覆われて見える。だが、夜になると、その苔の下から薄い文字が浮かびあがった。
ヨハンが膝を折り、石を撫でる。
指先に伝わるのは冷たさだけでなく、歯で噛まれるような抵抗感。
「……祈りの文だ。だが、読もうとすると噛まれる」
ルーシアンが瓶を石の上に置き、湿りを吸わせる。
「噛むのは石じゃねえ。刻まれた“祈り”そのものが牙になってる」
ミナは風紙を近づけ、浮かんだ線をなぞった。
「矢印が……全部逆を指してる。進むな、戻れ、沈め、って」
ヴァレリアが盾を前に出す。「歩幅を狭く。間違えれば、足を噛まれる」
ボミエは尻尾を丸め、星杖を握った。
「星で点を置けば、牙は避けられるニャ」
ナディアは笛をそっと構え、音を鳴らさずに輪を描いた。
「息で刻むなら……ここに眠らせられる」
ミレイユは名録を開き、短句を置いた。
噛む文
読むなかれ
名はあと
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II 夜の里程
古街道の両脇には、ところどころに石柱が立っていた。
昼はただの苔柱。だが夜が深まるにつれ、石肌に黒い線が浮かび、文様が犬の牙のように見えてきた。
子どもが柱に触れようとした瞬間、ヴァレリアが盾でその手を遮った。
「触るな」
ルーシアンが低く言った。「柱は距離じゃなく“代価”を刻んでる。進むほどに何かを差し出せって仕組みだ」
ヨハンは目を細める。
「これは……聖教国で使われていた“鎖の祈り”の残滓だ。名を数え、代価を結ぶ」
ミナが風紙を押し当て、震える矢印を記す。
「……数えるたびに、影が減る」
ボミエが尻尾を逆立てる。
「数を取られると、名も奪われるニャ」
ナディアは唇を固く結び、笛を胸に抱いた。
「輪で……守る」
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III 名喰いの犬
その時、石柱の影から低い唸り声が響いた。
黒い犬だった。
だがその顔は歪み、目の位置が揺れ、口の中にもう一つ口があった。
噛むたびに、影が削れる。
「……名喰いの犬だ」ヨハンが呟く。
犬は数を数えるように舌を鳴らし、仲間の足元を順に見回した。
その舌の音が、かつてヨハンが聖教国で唱えさせていた祈りのリズムと同じだった。
心臓の裏で、冷たい針が突き立つ。
ヴァレリアが前へ出て盾を構える。「来る」
ルーシアンが瓶を振り、湿りを犬の足元へ撒く。「影を鈍らせる」
ミナが風紙で犬の進路に矢印を描く。「流れを反らす!」
ボミエが星喉を杖に灯し、犬の牙に点を打つ。「名は渡さないニャ!」
ナディアが笛で輪を張り、息を守る。
ミレイユは名録に刻む。
犬は影
噛むは名
座は守る
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IV 鎖の祈り
犬の影は裂けても消えない。
ヨハンの目に、かつての自分の罪が重なった。
祈りを鎖に変え、名を束ね、亜人たちを縛った日々。
その残骸が、今も道を塞いでいる。
「……俺がやったことだ」
低く呟き、逆薔薇を握り直す。
犬が飛びかかる。
ヨハンは刃を正面に振り下ろさず、鎖を断つように横へ薙いだ。
祈りの文様が裂け、犬の影が一瞬だけ痩せた。
ルーシアンが瓶を叩き割り、湿りの霧を噛む祈りへ浴びせる。
ミナが矢印で裂け目を広げ、ボミエが星喉を点にして結び、ナディアが輪を眠らせ、ヴァレリアが盾で押し返し、ミレイユが名録で縫い留める。
犬は最後に一声だけ吠えた。
その声はヨハン自身の声に酷似していた。
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V 沈黙の石
犬が消えると、石柱の文様は崩れ、ただの苔柱に戻った。
道の先には、まだ闇が続いている。
ヨハンは逆薔薇を肩にかけ、深く息を吐いた。
「鎖の祈りはまだ残っている。……この街道は、俺の過去そのものだ」
ボミエがしっぽを揺らし、星喉を杖先に宿す。
「でも、今は一緒に切れるニャ」
ナディアが笛を抱き、微かに笑った。
「まだ歌える。だから、大丈夫」
ヴァレリアが盾を構え直し、ルーシアンが新しい瓶を腰に下げ、ミナとミレイユが頷き合う。
古街道は沈黙したまま、次の影を待っていた。
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次回予告
第155話 影の群れ、石の歯
古街道のさらに奥、石畳の隙間から噛む祈りの群れが芽吹き、
無数の犬影が仲間たちを包囲する。
ヨハンの過去と向き合う戦いは、まだ終わらない——。




