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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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――火刑の街編――11 昼の倉、混ぜ場

I 南路の集積所


 丘を越えると、低い屋根がいくつも並んでいた。

 塀はなく、畑と水路に囲まれた穏やかな村のように見える。だが、屋根の下からは荷車の軋む音と帳付けの声が重なり合い、まるで市のように騒がしい。


 ヨハンは逆薔薇を肩に掛け、低く息を吐いた。

「見ろ。――“倉”は、笑い声で溢れている」


 ナディアは笛箱に手を置き、顔をしかめる。

「……声が重ねられてる。子どもの笑いも、大人の笑いも。どれも同じ調子」


 ボミエは耳をぴんと立て、潮封珠を胸に寄せた。

「ニャ、乾いた袋の匂いと……瓶の蝋の匂いが一緒ニャ。まるで同じ棚に並んでるニャ」


 ルーシアンが鼻を鳴らし、瓶をひとつ取り出す。

「血と麦の匂いを混ぜやがって。これじゃ“日用品”に化けちまう」


 ヴァレリアは盾を構え、低く言う。

「昼の顔は穏やかすぎる。だが、角度を間違えれば即座に夜になる」



II 帳付けの声


 倉の中は明るかった。

 窓から陽が差し込み、床に白い帯を作っている。

 袋に詰められた小麦、木箱に積まれた布地、樽に入った酒。

 そして――その隙間に、声の瓶が並んでいた。


 帳付けをしている男たちは、皆、笑顔を浮かべている。

 筆を走らせる音と同時に、「ありがたいことですな」「皆のために」と同じ言葉を繰り返す。

 笑い声は柔らかいが、目の奥には冷たい石が沈んでいた。


 ミレイユが名録を開き、震える声で書きつける。

「〈袋=声/樽=夜/帳=偽〉……全部、“皆のため”と括られてる」


 ミナが風紙をひらめかせ、矢印を描いた。

「北の庁舎から、ここへ。ここから西の市場へ。声は“物”に混ぜられて流れていく」


 ヨハンは低くうなずいた。

「俺が仕えていた国でも同じだ。銅貨と声を秤にかけ、帳簿で順番を決めた。――それが“秩序”と呼ばれていた」



III 子どもの荷運び


 倉の奥で、二人の子どもが袋を担いでいた。

 十にも満たぬ年頃。腕は細く、背中は重さに沈んでいる。

 彼らは息を切らせながらも、笑顔を浮かべていた。大人に「笑え」と言われている笑顔だ。


 ナディアの顔がこわばる。

「……あの子たち、声を“運ばされてる”。瓶より軽いのに、重そうに」


 ボミエが尻尾を震わせた。

「ニャ、あれは“笑い”を荷に混ぜてるニャ。子どもの声は軽いから、混ぜやすいニャ」


 ルーシアンは瓶を握りしめ、吐き捨てる。

「利用の仕方がえげつねぇ。昼の顔は、夜より腹が黒い」


 ヨハンは逆薔薇を杖のように突き、子どもに歩み寄った。

「……置け。荷はお前たちのものじゃない」


 子どもたちは一瞬、目を見開き、それから恐る恐る袋を下ろした。

 帳付けの男が振り返り、笑顔で近づいてくる。

「困りますねぇ。お手伝いがなければ、順番が崩れる」


「崩せ」ヨハンは低く言った。「崩れなければ、人は潰れる」



IV 紙の秩序


 帳付けの男は笑顔を崩さず、帳簿を掲げた。

「見てください。ここに“皆のため”と書いてある。紙に記されれば、それが秩序。火を使うより穏やかでしょう?」


 ヨハンは帳簿をじっと見た。

 墨は濃く、字は整っている。だが、その行間には「声」の字が透けていた。

「紙が秩序を作るのではない。秩序を名乗る手が紙を使うのだ」


 ヴァレリアが盾を叩き、短く言う。

「紙は道具。守るのは人。礼は人が決める」


 帳付けの男は笑いを崩さず、だがその目は怒りに濡れていた。

「ならば、あなた方が秩序を壊すのですか? “皆のため”を?」


 ミレイユが震える手で名録に書いた。

〈秩序=利〉〈皆=隠〉。

「……“皆のため”は、いつも誰かの口座に吸い込まれていく」



V 混ざる棚


 倉の奥では、女が布を畳んでいた。

 畳んだ布の間に、小さな瓶を挟んでいる。

 布を広げれば夜の囁きが漏れ、畳めば昼の沈黙に戻る。


 ボミエが星杖を構えた。

「ニャ、棚が“昼と夜”を混ぜてるニャ。声を布で隠して、街へ送るニャ」


 ルーシアンは唇を歪めた。

「これじゃ、夜を買った覚えのない連中まで“律”を持ち帰ることになる」


 ミナが風紙で矢印を重ねる。

「……全部、街へ流れてる。広場で火が消えても、別の街でまた火が点く」


 ヨハンは静かに言った。

「火は消せる。だが、帳と倉は消えない。――それを知っていて、俺たちは歩いている」



VI 囁き


 その時、昼の光の中に声が落ちた。

 どこからともなく、柔らかく、それでいて冷たい響き。


 > 「ようやく見たな、旅人。

 >  昼の顔を覗き込むとは、勇気がある」


 一同は息を呑み、辺りを見渡す。

 帳付けの男も、子どもも、女も動かない。声は彼らの口からではない。


 ナディアが笛を胸に抱え、震えながら囁く。

「……白昼なのに、“仮面の主”の声がする」


 ヨハンは逆薔薇を強く握りしめた。

「顔を見せろ。――昼に隠れるのは、夜より醜い」


 声は笑った。

 > 「醜いか、美しいかは、秤が決める。

 >  名はあと。座は裏。

 >  お前たちが踏み込むなら、倉ごと秤にかけよう」


 倉の空気が一気に冷えた。

 昼の光は変わらないのに、影だけが濃くなった。

 瓶の封蝋が一つ、ぱきりと音を立てて割れる。



VII 崩れる秩序


 瓶から漏れたのは、叫び声だった。

 女の悲鳴、男の怒号、子どもの泣き声。すべてが一斉に押し寄せ、倉の壁を震わせた。


 帳付けの男たちは笑いを崩さない。

 だが、その目からは血の涙が流れ落ちていた。


 ヴァレリアが盾を掲げ、仲間を庇う。

 「礼を忘れるな。ここは座を守る場だ!」


 ボミエが星杖を掲げ、潮封珠を光らせる。

「ニャ、“混ぜ場”を裂くニャ!」


 ナディアが笛を吹き、輪を倉全体に響かせる。

 ミナが風紙で叫びを封じ、ルーシアンが瓶に湿りを落とす。

 ミレイユが名録に新しい頁を開き、強く書いた。

〈昼は顔/夜は声/名はあと〉。



VIII 白昼の影


 声が再び囁く。

 > 「良い。壊せ、混ぜろ。

 >  だが忘れるな。昼も夜も、同じ帳に記されている。

 >  ――我らが“主”の帳にな」


 ヨハンは胸の奥で鐘を鳴らした。

 ぽん。

 ちり。

 こ。

 く。

 その拍は、声の波に切り込み、影の濃さを裂いた。


「俺たちは“帳”を返す」ヨハンは言った。

「秩序は利のためにあるのではない。人のためにある。――その違いを、昼に見せる」


 声は沈黙した。

 だが、倉の奥の帳簿がひとりでにめくれ、紙の隙間から仮面の影が覗いた。



次回予告


第150話 帳の影、仮面の囁き

南路の倉の奥、紙に記された“秩序”の中から、

仮面の主が姿を現そうとしていた。

秩序とは何か、皆のためとは誰のためか。

紙と順番で支配する影を前に、

ヨハンたちは真昼の秤に挑む――。


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