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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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――火刑の街編―― 7 沼の支辺(しへん)



I 外れの風


 街の外れ、畑が終わると、土は水を含んで沈み始めた。葦は背丈を越え、風は鳴らずに濁った。夜の雲は低く、星の位置は葦の穂で隠れる。足を出すたび、地面がひとつ遅れて付いてきて、靴の裏に冷たい皮膚が張り付く。


「ここが“支辺”か」ヨハンは葦の切れ目を見渡した。「灰下会の外の手。街の火と灰を、沼で洗う」


 ルーシアンが小さな瓶を開け、湿りを嗅ぐ。「古い泥、葦の汁、魚の脂……それに、布袋の腐り。ここから“声の袋”が出入りしてる」


 ヴァレリアは盾を横に、葦の刃を押し分けた。「視界が狭い。列を長くせず、三と四に分ける」


 ミナが風紙の端を湿らせ、矢印を針で刺すように描いた。「此方、桟橋。風が“袋の匂い”を運ぶ」


 ミレイユは名録の余白に点を置く。〈市の外=今〉

 ナディアは笛に息を通さず、孔だけを確かめて頷く。輪は鳴らさない。水の上では反響が獣になる。


 ボミエが葦の穂を鼻で押し分け、尻尾を低く揺らした。「足元、穴があるニャ。葦の根っこが切れて、泥が沈んでるニャ。踏むならここニャ」


 カイルが裾を結び上げ、膝まで泥を上げながら言う。「大丈夫、俺、川沿い育ちだ。こういう足の取り方、知ってる」


「落ちるなよ」ヨハンは短く、それだけ言った。



II 桟橋


 葦の海が急に途切れ、黒い水面が現れた。桟橋は三本。一本は古く、一本は新しく、一本は途中で折れている。杭には縄。縄には布袋。袋の口は革紐で固く縛られ、表面には白い粉がまぶしてある。塩でも灰でもない。舌の上で鈍く広がる、石灰に似た味。


 ルーシアンが指で粉を擦った。「腐り止めと臭い消し。中身を“声”として運ぶための化粧」


 ナディアが袋の側面に指の腹を当てる。音は鳴らない。けれど、指の内側が痺れる。袋の繊維に細かい刺繍があり、「息」を縫って閉じ込めているのが分かった。


「開けるなら、音じゃなくて針だよ。糸の節をほどく」


 ボミエが杖先に小さな星を一つだけ点して、袋の結び目に触れた。「節はここニャ。名を縫ってる方じゃないニャ。息の節ニャ」


 ミレイユは名録の端を袋の表面に軽く押し当て、余白に短句を置く。


  袋は息

  名はあと

  水は座


 ミナが風紙の端を袋と袋の間に滑り込ませ、空気の抜け道を作る。

 ヴァレリアが盾で袋の影を受けた。影は人の顔に似ていた。頬も口も輪郭だけ。穴から覗くのではなく、布に浮かぶ顔。


 ヨハンは袋を一つ、膝の上へ持ち上げた。重さは銀袋より少し軽い。だが、重みの質が違う。金属の重さではなく、眠りの重さだ。


「ほどくぞ」


 ナディアが頷き、ボミエが節を撫で、ミナが風を止め、ミレイユが〈今在〉を一点だけ置く。

 結び目がゆっくり緩む。ふわり、と白い息が夜に溶けた。泣き声ではない。礼でもない。ただの呼気。


 袋はひとつ、またひとつ、開いていった。中身は草や藁や古布の屑で、声を吸わせるための芯だ。

 ルーシアンが芯を摘んで鼻に寄せる。「夜と、祈りと、噂を吸ってる。これを煮る。油と混ぜて、灰の座に送る」


「戻してやろう」ヨハンは囁き、袋の口を水面に向けた。

 白い息は水に触れ、泡になって消えた。消えた先の水底から、小さな泡が逆に上がった。外へ吐き出されていた息が、内へ戻るように。



III 迎え


 桟橋の奥で、水がひとすじ持ち上がった。波ではない。体だ。

 葦の隙間を縫って、舟が滑り出る。舟には灯がない。船尾に一本、白木の棒――輪を巻いた合図用の印。

 舟頭は仮面ではない。袋頭巾。口だけが出ていて、声を持たないように、布で縫ってある。


 ヴァレリアが盾を前に出る。

 舟頭は舟を桟橋に寄せず、少し離れた水面に止めた。舟底の影が水と一緒にぬるりと動く。人の影ではない。袋をたくさん積めば、人の形は船底に広がって、別の背になる。


 舟頭は棒を軽く揺らし、葦の向こうへ合図を送った。

 葦の奥から、二艘の小舟が応える。

 合計三艘。袋の受け取り、袋の持ち出し、そして見張り。支辺は静かな顔で、いつも通りの手続きを始めた。


「声の袋は渡さない」ヨハンは言い、ボミエに目配せする。


「星喉、張るニャ」


 杖先から細い、見えない糸が水面に落ちた。糸は葦と葦の間を渡り、桟橋の杭に絡み、舟の側面にふわりと触れる。紐ではない。喉だ。

 ナディアが孔に指を掛け、短いリズムで無音の音を置く。糸は輪を思い出して震え、舟の進みが鈍る。


 ミナが風紙に尖った矢印を描き、舟頭の棒の動きの先に点を置いた。「合図を遅らせる」


 ルーシアンが瓶の口を水に浸し、沼の温度と合わせて返す。水は水へ帰ると落ち着く。舟の下の影は足を見失い、動きが滞る。


 舟頭の口の縫い目がかすかに震えた。声は出ない。代わりに、舟頭は棒の輪を両手で引き伸ばし、音のない鐘を鳴らす仕草をした。

 葦が低くざわめき、桟橋の横から別の影が立つ。人影。袋頭巾。手に長い鉤。


「来るぞ」ヴァレリアの声は小さい。



IV 袋の手


 鉤を持つ二人が桟橋に上がる。

 足取りは沼の者のものだった。地面に重心を乗せない。水の上に立つみたいに、音を落とさない。

 ミレイユが名録に〈足=今〉を置く。足の動きが少しだけ現実になる。

 ボミエが杖で桟橋の板を軽く叩き、星喉を板の隙間に落とす。「ここを踏むと座が崩れるニャ」

 鉤の先に結んだ紐が、水を切ってこちらへ伸びた。袋の口を縛るように、喉を縫うように。


 ナディアの輪が紐の節に触れ、節が一瞬眠る。

 ヴァレリアがその上から盾を当て、紐の向きを変えた。鉤は板に噛み、相手の手首が引かれる。

 ルーシアンが滑りを与え、相手は膝を落とす。

 ミナが風紙で息の方向を変え、ボミエが点で足の順番を入れ替え、ミレイユが〈今在〉で板の角度を固定した。


 ヨハンは剣を抜かない。柄で、鉤の柄を押す。

 力ではない。角度で、相手の肘の向きを変える。肘が自分の胸に当たり、呼吸が乱れる。鉤は落ちた。


 落ちた音が、沼の底で反響した。

 泡が一つ、二つ、三つ、舟の周りで弾ける。

 舟頭が棒の輪を膝まで下げ、舟底の影が立ち上がった。


 人の背ではない。袋の背。

 袋は空だ。中身は芯と息。だが、縫い糸が輪郭を作る。人の肩、腕、首の無い頭。

 風が袋の縫い目をなぞるたび、見えない顔が袋の面に浮かぶ。


「ルーシアン」


「わかってる」


 瓶の口から、灰に強い湿りが広がった。袋の繊維が重くなり、縫い目が膨らむ。形は立つのをやめ、舟底に滑った。



V 渡しの歌


 そのとき、反対側の葦の影から歌が来た。

 歌と言っても旋律はない。舟歌に似ているのに、漕ぐためではなく、縫うための歌。

 音節の角度が、袋の縫い目と一致して、遠く離れた袋と袋を繋ぐ。

 歌声の主は見えない。葦が壁のように立ち、声だけが水面を走ってくる。


 ナディアが笛を握り、低く息を通した。輪は歌を切らない。歌の角度を寝かせる。縫い目の上に、別の縫い目を重ねないように。

 ボミエが星喉を声の手前に張った。声は星を越えられない。光は縫い目の上で眠る。


 ミナの風紙が葦の面を撫で、声の反射を散らす。

 ミレイユが名録に短句を置く。


  縫いは声

  声は水

 名はあと


 ヨハンは桟橋の杭に手を置いた。木の座は揺れない。杭を通して、歌の重みが指に伝わる。

 歌の主は、沼の奥だ。舟を出す者でも、袋を縫う者でもない。渡す者。

 “支辺”を仕切る骨。街と沼を繋ぎ、灰下会と夜を繋ぐ節。


「出てこい」


 声は葦の向こうで笑った。

 笑いは若い女のものにも、老人のものにも、少年のものにも聞こえた。

 でも、人の温度ではない。


『出て行くのは、あなたたちの方よ』


 葦が一斉に左右へ割れた。

 そこには舟が一艘。舟には灯がない。舳先に白い布の旗。旗には細い文字。〈支辺〉

 舟の中央に、女が立っていた。

 顔の上半分に白い仮面、下半分は素顔。仮面の下の口元は笑い、唇の色は冷たい。

 女の足首に煤がついている。ここへ来る前に、火のそばに立っていたのだ。



VI 支辺女しへんめ


 女は舟を寄せず、こちらの桟橋と並走するように滑った。

 語る声は、誰かの借り声ではなく、自分の声。

「火は薄くなったそうね。おめでとう。灰は濃くなる。私たちの仕事は“秩序”。火が揺れれば、灰で固める。火が消えれば、灰で塗る」


「秩序と呼ぶなら、名を出せ」ヨハンは言った。「顔を隠したまま秩序は名乗れない」


 女は仮面に指をかける素振りを見せ、外さなかった。「名前。好きなのをつけていいわ。“支辺女”で足りるなら、それで」


 ヴァレリアが半歩前へ。「孤児院の子らに袋をかけたのはお前か」


「袋は、町のためよ。夜の律は感染する。弱いところから入る。弱いところを袋で覆っておけば、強いところは助かる」


 ボミエの毛が逆立つ。「弱いところを人って呼ぶニャ。袋じゃないニャ」


 女は一瞬だけ目を細め、すぐに笑顔に戻した。「あなたの毛が立つのは、可愛いわね。星が走ってる」


 ナディアが笛を構えた。「歌で縫ったね。遠くの袋と袋を、声で結んだ。あなたの歌は“渡し”の歌。戻すための歌じゃない」


「戻す必要がどこにあるの?」女は首を傾げた。「声は軽い。袋に入れて運べば、街の火は静かになる。皆、安心して眠れる」


「皆の中に、誰が入る?」ヨハンの声は低い。「孤児院は? 祈り屋は? パン屋は?」


 女は答えなかった。答えないかわりに、舟を桟橋にぶつけた。

 音は小さいのに、桟橋全体が一度だけ沈んだ。杭の下の泥が咳をし、泡が立ち、袋が揺れた。

 揺れの中から、手が出た。水の底から。袋の手でも、人の手でもない。泥の手。

 指に爪はなく、表皮は藻で、関節は葦だ。

 それが桟橋の板を掴み、ヨハンの足首へ伸びた。


 ヴァレリアの盾がその手を叩き、ルーシアンの瓶が泥の関節に冷たい水を打ち、ミナの風紙が水の皮膚を剥がし、ミレイユが〈今在〉を落とす。

 手はほどけ、泥と葦とに戻った。

 女は笑った。「夜の律は止まらないわ。火で止まらないなら、袋で流す。あなたたちは、流れをどうする?」


「流れは岸を決める」ヨハンは言う。「岸は人だ。岸からはがすな」



VII 袋開き


 女は合図もなく、舟の上で踊るように踏み鳴らした。

 桟橋の両側で吊られていた袋のいくつかが、いっせいに開いた。結びは固いはずだった。だが、縫い糸に歌が入れば、結びは思い出のようにほどける。


 袋の中から、風が出た。

 風は声になりたがる。泣き声でも叫びでもない。名前を呼ぶ直前の息。

 それが一斉に桟橋の上を撫で、こちらの胸の奥に入ってくる。


 ナディアが笛を握り直す。目を閉じ、低い輪を三つ置いた。

 輪は声に壁を作らない。代わりに座を作る。声は座に腰掛けると、追い出されなくなる。

 ボミエが星喉で座の背もたれを作る。

 ミナが風紙で座に句点を付け、ミレイユが名録に今を置く。

 ルーシアンが湿りで座の足元を冷やし、ヴァレリアが盾で座の前に影を作る。


 ヨハンは声に向かって言った。「戻っていい。お前の座はここだ」


 風は座った。袋に戻らない。舟にも、女にも戻らない。

 女の口元の笑みが、半分だけ薄れた。


「戻してどうするの? 街は騒がしくなる。火がまた——」


「火は言葉で薄くなる」ヨハンは遮った。「もう、一度見ただろう」


 女は仮面の目穴を細くした。「あなた、火を消したつもり? 火を薄くすれば、灰が濃くなるのよ。灰は座。座は秩序。秩序は街。街は生きる。あなたの言葉は、街の飯になる?」


 ヨハンは桟橋の板の上に手を置いた。「なるさ。ここは“支辺”。飯は岸で食べる」



VIII 袋人ふくろびと


 舟の上で、袋がひとつ、人になった。

 今度は湿りを吸っても崩れない。芯が太く、縫いが深い。両腕が長く、指が袋の紐。

 袋人は桟橋に飛び移り、ヴァレリアの盾を両手で掴んだ。紙の手とは思えない力。盾の革紐が鳴る。


「重いな」ヴァレリアは足を下げ、盾の角度を変える。

 ルーシアンが瓶から細い水糸を袋人の肩へ。水は布に沁みて重みになる。

 ボミエが杖先で縫い目の節を叩く。

 ミレイユが〈節=今〉と置き、ミナが風紙で節の開きを広げる。

 ナディアの輪が節の音を眠らせ、袋人の腕から力が溶けた。


 ヨハンは柄尻で袋人の胸を押し、角度で舟へ返す。舟は少し沈み、女は足で舟を弾んだ。「あなたたち、上手ね。私たちに足りないものを持ってる」


「何が足りないんだ」カイルが叫んだ。


「ためらい」女は笑った。「それがなければ、もっと速く町は綺麗になる」


 ヨハンは首を振る。「ためらいは座だ。座がない足は、どこへでも行く。沼の底にも」



IX 杭の下


 桟橋の杭が、ひとつだけ短い。

 ミナが気づいた。「ここ、根がない。浮いてる」


 支辺女はその杭を足で軽く蹴った。

 桟橋全体が軋み、束ねられた袋が数珠つなぎに揺れ、杭の足元の泥が泡を吐いた。

 泡は白く、甘い匂い。瓶に詰めた赦の息に似ている。

 ヨハンは杭を手で掴み、体重をかけて押し戻した。「杭を座に戻せ」


 ヴァレリアが盾の底で杭の側面を打つ。

 ルーシアンが泥の密度を上げ、ミレイユが〈今在〉を杭の足元へ、ミナが風紙で泡の出口を塞ぐ。

 ボミエが星喉を杭の周りに張り、ナディアが輪で縛る。

 杭は沈みかけて、止まった。


「やめて」支辺女が初めて、声を硬くした。「順番を乱さないで。ここは“渡す”ための場所。渡す側にも“座”が要る」


「座を求めるなら、人の上に置くな」ヨハンは杭から手を離した。「岸に置け」



X 割り目


 女は仮面を少しだけ傾けた。月のない夜でも、仮面の白は形を持つ。

「岸は、どこ?」


「ここだ」ヨハンは足元の板を示した。「家の床。粥の匂い。名前の呼び間違いを笑って直す朝」


 女は笑い、仮面の下の口元で唇の色が少し濃くなった。「やさしい。嫌いじゃない。だからこそ、値がつく」


 合図もなく、舟の船底から音が上がった。

 舟の中板が少し開き、下から白い泡が出る。泡は音になりたがる。袋ではなく、舟そのものが声を吐き始めた。

 支辺女は舟の上で踵を鳴らし、泡に「形」を与える。

 泡は子どもの背丈になり、石の硬さになり、すぐに背になった。袋ではない。泡の背。

 泡の背は音でできているのに、押せば重い。


 ナディアが輪を二つ重ね、泡の背の輪郭を鈍らせる。

 ボミエが星喉で泡の喉を閉じる。

 ミレイユが〈今在〉で泡の足に点を打ち、ミナが風紙で泡の目を裏返す。

 ルーシアンが瓶から少しだけ乾を吹き、泡の表面を割る。

 ヴァレリアの盾が割れ目を狙い、押す。

 泡の背は崩れ、舟へと落ちていった。


 女は仮面の下で笑みをほどき、指先で白旗の端を切り取った。

 白旗の布は水を吸わず、風も受けず、夜の闇の方へ逃げるように揺れた。

「ねえ、老騎士。あなたが火を薄くしたのは見事。灰を掻き混ぜたのも悪くない。でも、沼は、あなたの言葉を吸わない」


「沼には沼の順番がある。そこに足を入れるなら、岸を持って行く」


「岸は沈む」女は肩をすくめた。「でも、また立てばいい。そのたびに、私たちの仕事は増える」



XI 断ち切り


 桟橋の縄に、ヨハンの手が伸びた。

 縄は強い。太い。布袋を支える重みを長いあいだ学んだ縄。

 刃を使わず、角度で切る。

 縄のねじれに指を入れ、回す。

 繊維が音もなく解けた。


 袋は水に落ち、袋の口から吐息が出た。

 吐息は水に溶け、泡になり、内へ戻った。

 ボミエが星喉で水面に点を置く。

 ナディアが輪で点に座を与える。

 ヴァレリアが盾で舟を押し戻し、ルーシアンが舟底の影を軽くする。

 ミナが風紙で葦の向きを変え、ミレイユが名録の余白に短句を置く。


  渡せない

  戻す

  名はあと


 支辺女の仮面が、ほんのわずかにこちらを向いた。

 目穴の奥の目は見えない。だが、数の思考が止まる音がした。

「面倒。けれど、面白い。あなたの“順番”、借りてもいい?」


「借り物は返せ」ヨハンは静かに言った。


 女は笑い、「返すわ。いつか」と、舟の舳先を葦の壁に向けた。

 舟は軽く跳ね、葦の中へ消えた。

 残ったのは、吊られていた袋の破れと、水に溶けた吐息と、夜の冷たさだけ。



XII 沼明け


 風が変わった。東から冷えてくる。夜の端がわずかに薄くなり、葦の穂先が色を取り戻す。

 桟橋の板の上に、濡れた白旗の切れ端が一枚、置かれていた。

 ミレイユが拾い、名録の余白に重ねる。布の縁に細い文字。〈支辺〉の下に、さらに小さな印。〈北沼口・囲〉


 ルーシアンが肩で息をしながら笑う。「まだ入り口がある。北の沼の口。“かこい”だ」


 ミナが風紙を空に翳し、矢印を北へ伸ばした。「風が“壁”って言ってる。沼の真ん中に囲いがある。袋がそこを通る」


 ヴァレリアが盾の革紐を締め直し、桟橋を背にした。「ここはひと区切り。子どもたちを見張る人手を残し、北へ行く」


 カイルが両手を何度も握ったり開いたりして、息を吐いた。「俺も行く。……でも、孤児院の子らに、さっきの袋のこと、伝えなきゃ」


「伝えてくれ」ヨハンは頷いた。「袋は袋。人ではない。座は家にあると」


 ナディアが笛箱を閉じ、ボミエが尻尾を一度だけ高く上げた。「行くニャ」



XIII 岸への帰路


 桟橋を離れ、葦の中を戻る道は行きよりも短かった。

 泥はなお冷たいが、足場の点を体が覚えている。

 街の灯は遠い。灰の匂いはまだするが、粥の匂いも混ざる。

 鐘が一度。朝の最初の拍だ。


 孤児院の前に着くと、院長の女が篝火の残りで湯を温めていた。

 子どもたちは眠り、ひとりだけ起きている。リコだ。

 ボミエがしゃがんで目線を合わせる。「今夜は、家で寝るニャ。袋はもう、ここには来ないニャ」


 リコはうとうとしながら、頷いた。「袋じゃなくて、ふとんで寝る」


 ナディアが微笑み、笛を箱から出さずに口元で温めた。「ふとんの音がする」


 ヨハンは院長の女に言った。「昼に、広場でもう一度、紙を見せる。裏帳と、袋と、支辺の印。名前を皆に返す」


 女は頷き、湯をひとすくい、ヨハンの手に渡した。湯の温度は夜よりも確かだった。



XIV 北を指す


 食器の音がまだ始まらない朝、広場の隅で、一行は短く打ち合わせをした。

 灰下会は“灰の座”で崩れかかった。だが、支辺は外に供給線を持つ。北の沼口——囲い。

 そこを切れば、袋の往来は止まる。夜は、音を抜かれても流れなくなる。


 ミナが風紙に北行の矢印を長く引き、ミレイユが名録の余白に〈北沼口・囲〉を写す。

 ヴァレリアが盾の角を撫で、ルーシアンが瓶の数を二つ減らす。

 ナディアは笛箱の留め具を一つだけ緩め、ボミエは杖先に星の点を三つだけ置いた。


 カイルが少年らしい早口で言う。「孤児院、見てくる。広場には昼に行く。紙は渡す。……頑張って」


「走れ。転ぶな」ヨハンは短く笑い、背嚢を締め直した。

 胸の奥の鐘が四度鳴る。

 ぽん。

 ちり。

 こ。

 く。

 順番は変わらない。角度だけ、北へ。


 街の北門はまだ眠っている。門番は篝火の灰を崩し、朝の角笛が鳴る前の静けさを味わっている。

 空は薄く、風は葦の匂いを運ぶ。

 一行は門を抜け、畦道を過ぎ、沼を指す細い道へ入った。


 背後の街から、遅れて鐘が二つ目、三つ目。

 火は薄れ、灰はまだ残り、沼は待つ。



次回予告


第146話 北沼口の囲い

葦の壁を抜け、沼の中央へ。

袋は舟ではなく、囲いで生まれる。

声を袋に縫い、夜の律を商いに変える手の形。

仮面ではない、素顔の職人たち。

そして、囲いの底で眠る——名を持たない主の呼吸。

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