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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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――火刑の街編―― 4 孤児院の火種



I 告示


 焔の上に紙が掲げられ、書記の喉が太く鳴った。


「次の火刑者、告示——孤児院より、リコ、エメ、タツ、……」


 名が読まれるたび、空気が痛む。

 群衆は息を吸い、吐き、また吸う。もう歓声ではない。吸い込んだ空気の重みを測っている。


 上の席で、領主代理が指を弾いた。「急げ。輪が緩む前に、火を移せ」

 商人が頷く。「孤児院の敷地は陽当たりが良い。倉にする。——“皆のため”に」


 ヨハンは階段を降りきり、広場の縁で仲間に目を配った。

 ナディアが笛箱の留め具を外す。ヴァレリアが盾を斜めにして歩幅を作る。ミナが風紙に短い矢印を重ね、ルーシアンが瓶の栓を歯で抜いた。

 ボミエが星杖を胸に抱き、うなずいた。「孤児院へ先着するニャ」

 カイルが拳を握る。「俺も行く。俺、あそこの子どもたちと遊んだことがある」


「走れ」

 老騎士の短い声が出る。鐘の四拍が胸の奥で揃った。



II 灰色の家


 孤児院は広場から二筋下った路地の突き当たり、灰色の壁に囲まれた低い家だった。

 門には木の魚と小さな風鈴。歪んだ窓枠の下に、子どもたちの描いた白い線——背丈の印。


 門前には、もう兵と市吏がいた。縄束、札、鉄の留め金。

 扉の陰から、痩せた院長の女が現れ、両手を広げて立ちはだかる。指の節が大きく、爪に灰が詰まっている。


「待って。子どもたちに何の罪が」

 市吏は札を突きつけた。「夜の律への加担。祈りの形が異端」

 女は首を振る。「彼らは祈り方も知らない。腹の鳴り方しか知らない」


 カイルが前に出た。「やめろよ。ここは……ただの家だ」

 兵が少年を押し返す。

 ヴァレリアが一歩で間合いを詰め、盾の縁で兵の手首を払った。「退け。子に触れるな」


 門の内側から、小さな影が覗いた。リコ、エメ、タツ——名前を奪われかけた子ら。

 ボミエはしゃがみ込み、しっぽをゆっくり振った。「怖がらなくていいニャ。ここで離さないニャ」


 ナディアが笛を口元に添え、低い輪をひとつ。音は鳴らない。だが、扉の蝶番の声だけが柔らかく鳴いた。家が息を吐いたように感じられた。



III 札と札の間


 市吏が札で門柱を打ち、印を貼ろうとした瞬間、ミナの風紙が札と木の間にするりと滑り込んだ。

 紙と木の隙間に“句点”が置かれ、印の膠が乾かない。

 市吏は苛立ってもう一枚を取り出した。

 ルーシアンが瓶の口を門柱に押し当て、見えない湿りを流した。膠が泣いて、印の角が落ちる。


「邪魔をするな」兵が唸る。

 ヨハンは門の前に立った。剣ではない。手のひらを門に当て、木の冷たさを確かめる。

 そのまま、兵に向かって言う。


「お前は命令を守っている。だが、ここに“仕事”はない。火も秩序も、ここにはない。あるのは家だ」


 兵の喉が上下した。

 広場の火の音はまだ遠い。だが、鐘はここでも鳴っている。

 ぽん。ちり。こ。く。

 順番が兵の視線をほどき、札の角を鈍らせる。



IV 部屋の音


 院長の女が扉を開いた。中は狭く、床に敷いた古毛布と、欠けた茶碗と、木の箱。

 壁際に、断ち切った縄が束ねてある。

 ナディアが小さく笑った。「……あなたも、ほどいてきたんだね」

「ほどいてばかりよ。結んだら、動けなくなるから」


 子どもたちの目は濁っていない。腹が鳴る音と、名前を呼ぶ声の方向を、まだ覚えている目。

 ボミエが星杖の先で、床に小さな点を等間隔に置いた。「座を置くニャ。ここから外へ、順番につなぐニャ」


 ミレイユは名録を開き、子らの名を短く書いた。

 書いた名は、紙の上ではなく部屋の空気に浮かび、音の置き場になった。

 リコ。エメ。タツ。

 名はあと。息は先。


 ルーシアンが棚の上の空瓶に水を注ぎ、小さな杯を並べる。

 ミナが風紙で戸口の風を整え、ヴァレリアが扉の外の影を見張る。


「来る」

 盾の女の首筋が、外の足音を先に聞いた。



V 火の使者


 通りの奥から、角笛と太鼓。

 **“清めの隊”**が来る。松明、長柄の鉤、鉤縄。火を移す道具。

 先頭に、広場の説教者の弟子らしき若い男。白布の襟、澄んだ眼。信じている目だ。


「孤児院は“皆のため”に清められる!」

 若者が叫ぶ。

 ナディアの輪が、その声の背に回り込んで、ほんの半拍、重さを変えた。

 若者は言い継げなかった言葉を、喉で探した。


 ヨハンは一歩、前に出る。

「お前は、何を信じる?」

 若者はまばたきした。「“聖”を」

「“聖”は火を求めるか?」

「……秩序を」

「秩序は、子を火に入れるか?」

 若者は初めて目を伏せた。

 その一瞬に、ボミエの点が門から路地へとつながり、子どもたちの足に「出る道」を教えた。


「道はここニャ。順番に、手を離さないで進むニャ」


 リコが先に、エメが次に、タツがその手の温度を追って、列を作る。

 ナディアの呼吸が、戸と戸の間に輪を置いて、声の矢が飛んでこないように鈍らせた。



VI 石を投げる者


 路地の口に、群衆の端が現れた。

 さっき“疑念”を持ったはずの目が、また熱を帯びている。

 群れは方向を欲しがる。新しい理由が欲しければ、古い理由に似た形を与えればいい。

 上の席から、見えない手が目に糸を通している。


「孤児は魔女の手先だ!」

「夜の律は弱いところから入る!」

 声は若い父親の口から出た。昼間、ヨハンと肩を並べた男だ。

 彼の目は濁っていない。ただ、焦りが言葉を選んでしまう。


 ヴァレリアが一歩踏み込んだ。「退け。子に石を投げるなら、私が受ける」

 石は投がれた。盾に当たって砕け、路地に白い粉を散らした。

 ルーシアンが瓶を弾き、粉の上に水を落とした。石は泥に変わり、足を鈍らせる。


 ミナの風紙が、群衆の胸の前で風を曲げた。言葉が喉に戻る。

 ナディアの輪が、耳の後ろでおとなしく座る。誰かが自分の子の名を呼ぶ声だけが、はっきりと残った。



VII 院長の手


 院長の女が背を伸ばした。

 彼女は子の列の最後尾につき、自分の胸の前で指を組んだ。「お願いだよ、道を空けて」

 彼女の声は強くない。けれど、家の音がした。朝一番の湯気、濡れた布、焼けた粥の匂い。

 群衆の中の何人かが、肩をずらした。


 説教者の弟子が迷っていた。

 ボミエがそっと近づき、小さな声で告げた。「皆のためって言葉は、軽いニャ。誰か一人の厚い手のひらと、同じ重さにはならないニャ」


 若者の喉仏が上下し、松明の火がわずかに揺れた。

 彼は竿を下ろし、道に寄った。

 その行為は小さい。けれど“形”になった。


 形は伝う。

 群衆の足が半歩退き、路地の真ん中に細い風の筋ができた。



VIII 抜け道


 ミレイユが名録に指を走らせる。〈風の筋——今〉

 ミナが風紙で筋を太くし、ナディアが輪で縁を縫い、ルーシアンが湿りで埃を寝かせ、ヴァレリアが盾で入口の角を守った。

 ヨハンは先頭のリコの頭に手を置き、背を押した。「前だけ見ろ」


 列は動く。

 子どもたちの足音は軽い。だが、地面は重い。灰が薄い靄になって足首にまとわりつく。

 ボミエが杖先で点を置くたび、灰が割れて、石畳の色が顔を出す。「ここ、踏んで進むニャ」


「止めろ!」

 上の席から命じられ、横から兵が回り込む。

 ヴァレリアがその前に立ちはだかった。盾と盾がぶつかる。音は大きいのに、響かない。ナディアが余韻を奪っているからだ。


「退けと言っている!」

「仕事なら、他をあたれ。ここには“仕事”はない」


 兵は歯を食いしばった。

 ルーシアンの瓶が足元で爆ぜ、泥が跳ねた。兵の脛を伝う冷たさが、火の命令を鈍らせる。



IX 切札


 角笛がふたつ重なった。

 上の席から、別の指示。火勢の移動。

 広場の焔を、孤児院の屋根へ。


 木の梯子が運ばれ、長い竿に油布が括られた。

 路地の向こうで、見上げた空が赤くなった。


 ヨハンは顔を上げた。目に映るのは火ではない。梯子の角度、屋根の勾配、風の向き、灰の重さ、子どもの背の高さ。

 鐘が鳴る。

 ぽん。ちり。こ。く。

 順番が刀身の角度を決める。


「ナディア」

「わかってる」

 彼女は笛を高く掲げ、口ではなく指で音を作った。穴を二つ開け、三つ目を塞ぎ、四つ目に触れ、五つ目を撫でる。

 音は出ない。けれど、風が音の形を覚えた。


「ボミエ」

「星喉を引くニャ」

 杖先の点が一直線に並び、屋根の縁に沿って細い星の溝ができる。油布がそれに触れれば、火の舌は鈍る。


「ルーシアン」

「湿りは充分だ」

 瓶から出た水は冷たくない。今の温度だ。布を濡らし、風に乗せ、屋根の縁を重くする。


 ミナが風紙で梯子の足に句点を置き、ミレイユが名録で角度の数字に点を落とす。

 ヴァレリアが盾で子どもたちの頭上を覆い、カイルが最後尾のタツの手を強く握った。


 火の舌が屋根に触れた。

 だが、滑った。

 油布は星の溝をなぞり、湿りの重みで落ち、梯子の足は句点で滑らず、風は笛の形を思い出して流れを変えた。


 群衆が息を呑む音が、ひとつになった。

 火は、家を食わなかった。



X 背中の言葉


 子どもたちは路地を抜け、広場の裏へ出た。

 そこは焔の陰で、風がまだ冷たい。

 院長の女が膝をつき、子の頬に手を当てた。「よかった……生きてる」

 カイルは肩で息をしながら笑った。「ほら、言っただろ。ここ、ただの家だ」


 ヨハンは振り返り、路地の口に立つ群衆に言った。

 声は熱くない。灰の上に置く水のように、静かに落ちる。


「俺は見てきた。“聖を教える”と名乗りながら、恐怖を教え、金を回し、最後は燃え尽きた国を。

 “皆のため”は、お前たちの背中に乗るこの手より軽い。

 火を見たいなら、炉に行け。家の粥を温めろ。ここで燃やすのは理性だ」


 若い父親が石を落とした。

 説教者の弟子は松明を下げ、院長の女を見た。

 上の席にいる者たちは、冷たく見下ろす。だが、その額の皮膚には、汗の薄い膜が張りつき始めていた。



XI 焼け残り


 孤児院の囲いの内側、古い板の間に、焼け残った板切れが一枚あった。

 そこには鉛筆で小さく書かれている。

 〈ここは家〉

 〈ここでねる〉

 〈ここでたべる〉

 〈なまえは、あと〉


 ミレイユがそれを拾い、名録の余白にそっと貼った。

 ナディアが指で触れ、音のない歌を口の形で作る。

 ボミエがうなずく。「うん。ここは家ニャ」



XII 広場の風


 広場の火はまだ消えていない。

 だが、輪は小さくなった。

 演壇の声は大きい。けれど、隙がある。

 上の席の男たちは喉を湿らせ、次の命令を探している。


 ルーシアンが言う。「帳場は押さえた。声も返した。次は……」

「見せる」ヨハンが短く答えた。「裏帳を広場で、見せる」


 ヴァレリアが頷く。「盾で道を開ける」

 ミナが風紙を束ね、ミレイユが名録の紐を締める。

 ナディアが笛を握り直し、ボミエが星杖を肩に乗せる。

 カイルが息を整えて、紙束を胸に抱えた。**“次の候補”**の名と、裏帳の配当。

 院長の女が子を抱き、背中から小さく押し出す。「行きな。見ているだけで、家は守れない」


 鐘が鳴る。

 ぽん。ちり。こ。く。

 順番が、広場へ戻る足を揃えた。



次回予告


第143話 裏帳の晒し場

広場の真ん中で、銀と紙をひっくり返せ。

“清め”の名で塗られた配当と没収の列——火は言葉で薄くなり、

見世物は帳尻で崩れる。

“聖を教える”という名の仮面を、灰の前で外す時が来た。

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