――隣の家は吸血鬼?編―― 1 疑惑の隣人
疑惑の隣人
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I 夕映えの塀
その村は、街道の曲がり角にぴたりと寄り添うように建っていた。
白い塀、葡萄棚、焼いた土の屋根。井戸には花の蔓がかかり、夕餉の香りが谷を満たす。
小さな鐘がひとつ、遠くで二度鳴って、夜の入口に印をつけた。
カイルは、父が置きっぱなしにした木箱に腰をかけ、隣家の塀を眺めていた。
風が変わるたびに、蔦が壁を撫でる。その奥――黒い外套の男が、窓に背を向けたまま立っているのが見えた。
男の名はヴァルター。
一月ほど前に越してきたばかりの、笑顔の静かな隣人だ。
昼のあいだはほとんど姿を見せず、夜になるとふいに現れては、果物を分け、薬草の話をし、病気の子に薄いスープを届けた。
村の大人たちは「良い人が来た」と口々に言った。
母は、門扉に干した白布を取り込みながら、さらりと言った。
「礼儀正しい方よ。あなたも見習いなさい」
礼儀。
そう言われるたび、カイルの背中には小さな棘が一本、立った。
――目が合わない。
笑っているのに、目が、誰の目とも重ならない。
「おーい、カイル!」
背中から軽い声。振り向く前に、首にうしろから腕が回った。
エリナだ。幼なじみの、八重歯がのぞく笑顔。
「あした川行く? 浅瀬に丸い石が出てるって。投げっこしよう、ね?」
「……うん」
返事をしながら、カイルは隣家の窓からすこしだけ視線を外さなかった。
窓の内側に、細く長い影がわずかに動いた気がした。
「また見てるの、あっちの家」
エリナが半眼になって、頬をつつく。
「引っ越してきたばかりだから心配? 大丈夫よ、ママも言ってた。良い人だって」
「良い人、ね」
カイルは笑ってみせた。
どう言えばいいのか分からない。言葉にした瞬間に、自分の方が嘘つきに見える種類の違和感だ。
「ほら、ほら、笑って。明日の約束、忘れないでね」
エリナはぴょんと石段を降り、夕焼けの中へ消えた。
カイルはひとりになり、塀の向こうの窓を、もう一度見る。
影は動かない。
風が止み、村が息を潜めた。
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II 手鏡
夜。
父は葡萄酒を二杯で寝入り、母は糸巻きをしながら椅子でうとうとした。
カイルは板床の軋みに足を合わせ、ぎし、と鳴るたびに同じ調子で鳴らして、部屋から忍び出た。
二階の自室。
窓際に置いた木箱を静かにどかし、窓を指の幅ほどだけ開ける。
隣家の庭が見える。蔦のアーチ。黒い石の鳥の彫り物。
雨除けの庇の下に、細長い箱が立てかけてあった。
――棺。
そう断言するには早い。ただ、形がそう言っている。
カイルは机から母の古い手鏡を取り出した。
端が欠け、銀の裏は黒ずんでいる。だが、鏡面はまだよく映る。
鏡を窓辺に立て、隣家の窓に向けて角度を探る。
鏡の中の景色が、外の景色の逆を拾う。
そして――
映らなかった。
外の窓には、黒い外套の男――ヴァルターが確かに立っている。
なのに鏡の中だけ、人ひとり分の形でぽっかりと空白。
カイルの喉が勝手に鳴った。
「え、ええええええ――ッ!?」
叫びは窓の木枠に吸われ、母の寝息が椅子で揺れた。
隣家の男が、ふ、と顔をこちらに向けた。
目が合った。
いや――合わなかった。
黒い目は、こちらの肩越しのどこかを真っ直ぐ見て、微笑んだ。
鏡の中の空白は、微笑まない。
空白は口も目もなく、空白のまま、そこに立ちつくしていた。
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III 信じてもらえない
「何をしているんだ、夜中に! 馬鹿な声を上げて!」
父の手が戸を開け、寝巻の裾を踏みながら入ってきた。
カイルは振り返りざまに鏡を差し出す。
「父さん、見て! 隣の――隣の人が、鏡に、映らない!」
父は鏡越しの景色を見る前に、外の窓を見た。
おりしも、隣家の窓辺にランプが灯った。
ヴァルターが手を上げ、穏やかな笑みで会釈をする。
父は慌てて会釈を返し、窓を半分閉めた。
「……ばかげてる。失礼だろう、隣人に」
「映らなかったんだ、本当に! 鏡で、空白に――!」
母が椅子から身を起こして、指を唇に当てる。
「声が大きい。夜よ。……あなた、気のせい。ほら、ランプが反射して、鏡が眩んだだけ」
「違う! 違うんだ、本当に――」
カイルは鏡を抱きしめたまま、言葉が崩れていくのを感じた。
おかしな子だ、という空気が家の隅々から立ち上り、肩にかかって重くなる。
父は溜息をつき、母は鏡を取り上げ、戸棚にしまった。
「明日、隣に葡萄を持っていくわ。失礼がないように。……わかったね?」
「わかった、じゃない!」
叫びは小さく、泣き声は喉で引っかかった。
廊下の暗がりで、何かがコトンと鳴った。
母の糸巻きが床に落ちただけ――と言い聞かせるには、音の角度が違った。
カイルは自室の扉を閉じ、背を預けた。
鏡は戸棚にしまわれ、夜は長く、布団の上で目を閉じると、空白の微笑まない顔が、何度も眼裏を流れた。
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IV 昼の仮面
翌昼。
父と母は葡萄の籠を抱え、隣家の門を叩いた。
ヴァルターは上等の布の手袋を外し、ゆったりと門を開けた。
「まあ。これはご親切に。――昨夜は驚かせてしまいましたかな? 若い方は、夜更かしをすると少しばかり、影が過敏になる」
声はやわらかい。
母は頬を赤くして笑い、父は帽子を胸に押し当てる。
「うちの子が失礼を。本当に申し訳ない」
「いいえ。若さは美徳です。……ただ、夜は目が、余計なものまで拾う。昼のうちに、見て、触れて、笑って。――そうすれば夜は、静かです」
ヴァルターの視線は、カイルの肩の後ろを通過した。
誰かを見て微笑む角度で、誰でもない空間を見た。
母はそのことに気づかない。父も。
カイルだけが、喉の裏に小さな棘を覚えた。
「葡萄、素晴らしい香りだ。夜にワインを少し……いえ、失礼、私は夜、弱くて。花水と蜂蜜で十分です」
「まぁ、健康志向!」と母が笑った。
ヴァルターは穏やかに会釈し、籠を受け取り、門を閉めながら、母の影を足でそっと踏んだ。
影は笑わなかった。
だが踏まれた場所だけが、黒く濃くなった。
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V 彼女の笑い
エリナは昼の市場で笑っていた。
蜜を塗った菓子を紙で包み、カイルの頬の横からひょいと口へ押し込む。
「ほら、甘い? ね、甘いでしょ?」
甘すぎて、涙が出そうだった。
カイルは皿の蜂蜜を舐める犬のような顔で頷き、咳き込んだ。
「げほっ……なにすんだよ……!」
「昨日から顔が暗いから。甘いのは正義」
エリナは笑い、指先でカイルのほおをつついた。
「川は明日ね。今日は家の手伝いがあるの。あ、そうだ――隣の人、会った? ママがね、葡萄を持って行ったらとっても丁寧だったって。あなた、変な噂流してないでしょ?」
「噂じゃない」
喉が詰まる。言葉が太くならない。
「鏡で、映らなかったんだ」
「鏡?」
エリナはほんの少しだけ真顔になって、すぐに笑いなおした。
「またそういうこと言う。平気よ、私が聞いてあげる。えーと……映らないって、どんな風に?」
「空白だった」
カイルは手振りで説明した。
「誰かが立ってる形で、何も映らない。目も口も、影だけ。なのに、こっちを見て、笑ってた」
エリナの笑みが一瞬、細い皺を生んだ。
ややあって、肩をすくめる。
「こわ。……でも、そんなの旅芸人の作り話でしょ。はいはい、こわいこわい。――ほら、笑って? ね?」
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VI 棺(のような箱)
その夜、カイルは窓辺に座りつづけた。
手鏡は戸棚にしまわれ、鍵がかかった。
代わりに小さな金盤――祖父の形見の磨き皿を取り出し、鏡替わりに角度を調整する。
月は薄く、雲は早い。
隣家の庭に、馬車がひとつ入ってきた。
荷台にしっかりと括りつけた細長い箱。
カイルは喉を押さえ、息を整えた。
胸の奥に――
ぽん/ちり/こ/く。
あの村で鳴っていた四つの鐘の順番が、まだ耳の奥に残っていた。
その順が心を支えてくれる。
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VII 信じる者
(※ラスト部分を加筆修正)
路地に出ると、旅人たちは足を止めていた。
「どうした」
低い声。
見上げた先にいたのは、髭に白を混ぜた老騎士だった。
背筋は真っ直ぐで、肩には旅の疲れを背負っている。
皺の刻まれた顔は厳しいのに、その目は若い兵士よりも澄んで鋭い。
――カイルには、ただただ“カッコいいおじいちゃん”に見えた。
「隣の人が――吸血鬼なんです。鏡に映らない。棺みたいな箱がさっき、運ばれて。あの人、夜にしか、挨拶しない。目が、合わない。誰も信じてくれない。……でも、本当なんです。お願い、助けて」
ヨハンは短く頷き、カイルの肩に手を置いた。
「信じる。案内してくれ」
VIII 塀越しの灯
隣家の塀の影は濃い。
門は閉ざされ、鍵は見えない。
葡萄棚の下に薄い土の道があり、犬が通るほどの隙間が塀際に続いている。
「こちらです」
カイルは身を低くして先に立ち、葡萄の蔓をどかして塀際の隙間へ肩を入れた。
ヨハンたちも無言で続いた。
庭はひどく静だった。
虫の音が一度も重ならない。
蔦は風を嫌うように葉を伏せ、石の鳥の彫り物は目を閉じている。
地下へ降りる小扉の前で、ルーシアンが片膝をついた。
鍵穴はない。代わりに、礼の刻印が円を描いていた。
「貸し借りの鍵だな。灯と名の……」
音がした。
地の下から、薄い爪で木を掻くような、長い音。
次いで、柔らかな女の笑い声。
聞き覚えのある声――
「エリナ……?」
カイルの喉から、空気だけが漏れた。
扉の板がほんの少し膨らみ、内側から誰かが、外を撫でた。
その撫で方は、はじめて手をつなぐときのようにやさしく、そして、ほんの少しだけ冷たかった。
ナディアが笛を握りしめる。
ヴァレリアは盾を上げ、前に出る。
ボミエのしっぽが大きく膨らみ、ミナの紙が胸元で震え、ミレイユの筆先が余白で止まる。
ルーシアンが乾と湿りの瓶を持ち替え、ヨハンが地下扉の礼の円にそっと手を置いた。
円の内側で、礼がひとつ、返礼を待っていた。
カイルは噛みしめた歯を少しだけ緩め、唇の内側を血で濡らさないように気をつけながら、ほんの小さな声を出した。
「……ここに、いるの?」
地下から、同じ声が返った。
「ここに、いるよ」
――しかしその音の角度は、エリナのものではなかった。
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次回予告
第122話 さらわれた彼女
地下の扉は礼で閉じ、礼でしか開かない。
彼女の声は返ってくるのに、在が違う。
棺の箱が運ばれ、鏡は空白を映す夜。
カイルと一行は、隣人の館の奥へ――彼女を取り戻すために。




