街道の宿、首なき騎手
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I 霧の街道
沼を離れてから、街道は白い息を吐くばかりだった。
昼の名残りはすでに薄く、夕闇が霧にほどけていく。轍は湿り、木々の梢には見えない指がかすかに触れているように揺れた。
「前に灯り」
ヴァレリアが短く告げる。丘の下、宿場の外れに三角屋根の建物がひとつ、暖色の明かりを滲ませていた。
「助かる。笛が湿気で鳴りにくいの」
ナディアは袋から柔らかい布を出して、手の中で温める。
「腹も減ったニャ。パンとスープ、あと魚は……今日は遠慮したいニャ」
ボミエのしっぽは、まだ沼の名残りでふくらんだままだった。
レオンハルトは黙って頷き、装具の紐を確かめた。霧中の彼の横顔はまだ若い。青灰色の瞳には疲れと、それでも前に進む固い意志が灯っている。
宿の前には揺れる看板が出ていた。
〈夜半の客は静けさで支払う宿〉――小洒落た文句だが、どこか凍えるような含みがある。
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II 宿の扉、奇妙な規則
扉を押すと、乾いた鈴が鳴らずに鳴った。
暖炉がひとつ、控えめに火を入れている。カウンターの奥に、細身の宿主と、灰色の髪を後ろで束ねた年老いた女房が立っていた。
「旅の方。ようこそ」
宿主は穏やかに笑ったが、その笑みは頬で止まって目に届かなかった。
「二部屋頼みたい」
ヨハンが言うと、女房がすっと紙片を差し出した。そこには大きな字で、二行の守りが記されている。
夜は灯を消せ
名を呼ぶな
ルーシアンが眉を上げる。
「いい規則だ。趣味じゃねえが、理由は?」
宿主は答えず、壁の古い騎馬の絵に目をやった。
絵の中の騎手の顔は、塗り潰されている。
「首なしの護衛が夜ごと街道を見回るのです」
女房の声は薪の火より低かった。
「灯がついている家は“生者の座が弱い”と見なされる。扉を叩かれたら、だまってやり過ごすのです。名を呼ばれても、けっして返事をしてはなりません」
「名を呼ぶ?」
ナディアが眉をひそめる。
「ええ。“誰かが”あなたの名を置いていくのです。拾えば、そのまま振り向く」
女房は紙片を指でとん、と叩いた。
「灯を消せ。名を呼ぶな。ひと晩が過ぎれば、蹄は遠ざかる」
その時、カウンターの陰から小さな影が顔を出した。
薄い麻の服、埃のついた頬、瞳だけがやけに大きい。十一、二だろうか。
「この子は?」
ヴァレリアの視線に、宿主が答える。
「テオ。下働きです。部屋へご案内します」
テオは一行をちらりと見て、すぐに視線を落とした。
その耳元で、誰にもわからないほどかすかに、「……ぼくの名は」と唇だけが動いた。
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III 通された部屋
二階の廊下は、板のきしみがこちらの足音より半拍早く鳴った。
テオは二つ並んだ部屋の扉を開け、ぺこりと頭を下げる。
「水とタオルはすぐ持ってくる。夜更け前に灯は消してね」
小声だが、言い終えると一瞬だけ勇気をだして顔を上げた。
「……あなたたち、強そうだ。なら、見ても、叫ばないで」
そして走り去った。
「見ても?」
レオンハルトが問い返す暇もなく、廊下の向こうで戸口がひとつ、音もなく閉まった。
部屋は質素だが清潔だった。ベッドが二つ、机、椅子。壁には街道の簡単な地図と、騎馬の絵――ここでも顔は、塗り潰されている。
「灯は消せ、名を呼ぶな、か」
ルーシアンが笑い、瓶を窓辺に並べた。
「便利な言い訳にもなるが、ここは本当に理由がありそうだ」
「羽音はしない。蹄の音がする街道――つまり“在”を叩く音が主だ」
ミナが風紙を撫でる。紙面に薄い線が現れ、外の舗装石の列を示した。線は夜に向かって濃くなる。
ボミエがベッドの下と戸棚を覗き、しっぽを膨らませる。
「皿が勝手に移動する痕があるニャ。粉の跡が細い二本線で続いてるニャ」
「二本線?」
ミレイユが名録を開いて近づく。
床の粉は、誰かが指でなぞったように読めない字を描き、最後の二本線で止まっていた。
「“イ”の未完……いや、名の苗字にかかった最初の二画かもしれない」
ヨハンは床に膝をつき、指先で粉を拭う。
「いずれにせよ、ここでは“名”を綴る者がいる」
「灯を消せ、か。なら逆に、灯をつけていると――寄ってくる」
ヴァレリアが窓のカーテンを確かめた。
「扉の閂は内から固い。だが、見えないものに叩かれたら……」
「叩かれる前に、こちらで叩き返したらどうだ」
ルーシアンがからかう口ぶりで、しかし真面目な顔を崩さない。
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IV 小さなアクシデント集
夜支度を整える間にも、宿は小さな癇癪を繰り返した。
机の上の灯火台が、ひとりでに回る。
椅子がきゅ、と音を立てて、二歩ぶん右へずれる。
ナディアの笛袋が棚から落ち、床でころりと転がる。
「ちょっ……!」
ナディアが思わず声を上げかけて、唇を噛んだ。笛を拾い、胸に当てると、安堵の息が漏れる。
ボミエは身軽に棚へ飛び乗ろうとして、障子の桟にしっぽを引っ掛けた。
ばさ、と障子が一枚落ちて、猫のような影が半分外へ。
「わ、わざとじゃないニャ……!」
レオンハルトは慌てて障子を支えようとして、逆に手を挟んだ。
「っ……大丈夫、です」
真っ赤な耳。ヴァレリアが一歩寄り、桟を押し上げて抜いてやる。
「落ち着いて。急ぐと怪我をする」
その一言で、レオンハルトの胸の鼓動が少しだけまっすぐになった。
ルーシアンはと言えば、窓辺の瓶を一本、そっと傾けていた。
空気中の湿りを集め、見えない“手”に露を纏わせるつもりだ。
「ほら、輪郭だけでも――」
ごつん。
棚の上の土器がひとりでに転がり、ルーシアンの後頭部に当たった。
「いってぇな!」
ナディアが吹き出し、すぐ口を押さえる。
宿のどこかで、くす、と子どもの笑いに似た音がした。
だが、その笑いはすぐに、遠い蹄の残響にかき消された。
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V 首なし騎手の噂
食堂に降りると、数卓だけ客がいた。
誰も声を張らない。匙の音も、布の擦れる音も、どこか遠慮深い。
テオが湯気の立つスープを運んでくる。
「これ、豆とベーコン。パンはまだ焼けてる」
彼は一行の傍へ皿をならべ、落ち着きなく周囲を見回した。
「夜更け過ぎると、ほんとうに来るんだ。蹄の音。宿の前で止まる夜もある」
「その時、何が起きる?」
ヨハンが静かに問う。
「扉を叩いて、“いるか”って。返事をすると、ドアノブがゆっくり回る」
テオの指先が、スープ皿の縁をなぞるように震えた。
「返事しなくても、時々、名前を言う。“テオ”って。……ぼくの、名前」
ナディアが息を吸う。
「返事、しないでね。たとえ、その声が誰かに似てても」
「してない。……してないよ」
少年は唇を固く結んだ。その目は、泣きそうな強がりの光で濡れていた。
「でも、呼ばれるたびに、胸の中に穴が空く。返したくなるの、名前。返せば、楽になれる気がする」
「名はあと。息は先」
ミレイユが短く言い、名録の端に点を置いた。
「まず食べる。眠る。灯は消す。朝に名を整える」
テオはこくんと頷いた。
その瞬間、食堂の壁に掛かった騎馬の絵が、きぃ、と縦に歪んだ。見えない指が、塗り潰された顔の上を優しく撫でていく。
宿主がすぐさま布をかぶせ、壁の絵から視線を外した。
「……二階へお戻りを。間もなく、街道がお通りになります」
女房の声は、焚き火の下で燃える炭のように低く安定していた。
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VI 灯を消して
部屋に戻り、灯を消す。
火が眠る音、燃える匂いの名残り。闇は黒ではない。薄い灰色の波が、窓から床へ、床から寝台の脚へ這ってくる。
「見張りは私が」
ヴァレリアが窓際に座る。盾は壁にもたせ、左手は自然に柄へ。
レオンハルトは反対側の壁に立ち、目を闇に慣らそうとした。
ナディアは笛を膝に置き、指先で管をそっと撫でる。
ボミエはベッドの脇、絨毯の上に丸く座って耳を立てた。
「階下の炊事場、音がやんだニャ。宿全体が息を潜めてるニャ」
ミナが風紙を床に滑らせる。紙はスッと廊下の方へ吸い寄せられ、そこでぴたりと止まった。
ミレイユは名録を閉じ、手の下に置く。その掌に、見えない脈がとく、とく、と伝わる。
ルーシアンは窓に近づき、ほんの指一本ぶんだけ隙間を作って外気を嗅いだ。
「乾いた石。遠くに鉄の匂い。……蹄の鉄だ。来るぞ」
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VII 蹄の音
最初は遠かった。石を叩く節度あるリズム。
やがてそれは街道の曲がり角に差し掛かり、宿場の並びへ入ってきた。
――カン
――カン
――カン
音がひとつ、ひとつ、扉の前を数えながら近づいてくる。
誰かが寝返りを打つ音も、布が擦れる音も、宿の中から消えた。
ただ蹄が“在”だけを鳴らす。
廊下の端で止まり、次の瞬間――廊下の中程へ“跳ねた”。
音の距離が、一度で二十歩ぶん詰まる。
ボミエの毛が一斉に逆立つ。
「今、飛んだニャ」
扉の外で蹄が止まる。
静寂。
ドアノブが、ぎり、とわずかに回り、すぐに戻った。
試すように、呼吸を読むように。
そして、声。
――テオ
ナディアの指が笛を握り締める。だが吹かない。
ヴァレリアの肩がわずかに硬くなる。
レオンハルトの喉が、勝手に返事を作りそうになる。
ヨハンは闇の中で目を閉じ、胸の裏で言葉を正順に並べた。
声はもう一度、やさしく、しかしはっきりと。
――テオ。灯を貸して
床の下を、何かがそっと通り抜けた気配がした。
ミナの紙が、すっと机の上に滑り上がり、止まる。紙の上に粉が降り、ゆっくり――テの形を描いた。
ドアノブが、今度は大きく回る。
閂が震え、木が軋む。
外の蹄が、もうひとつぶん近づく。
テオの寝息は、向かいの空き部屋で浅く速い。
呼ばれているのは、ここではない。だが、声は“宿そのもの”を這い、すべての扉の鍵穴へ同じ息を吹きかけていく。
「……灯は消えている。返事をしなければ――」
ヴァレリアが囁く。声は刃の裏のように静かだ。
外の声が、今度は別の名を囁いた。
――レオン
レオンハルトの指が、無意識に柄へ行きかける。
ナディアがそっと手を伸ばし、袖をつまんだ。
暗がりで、彼女の目が「大丈夫」と言う。
ルーシアンが空気の湿りを固め、鍵穴に息を詰まらせるように瓶の口を向けた。
――ナディア
――ヴァレリア
――ヨハン
ひとつずつ、扉の外に「在」が積もる。
呼ばれた名は扉の木地に沁み、そのたびに木がわずかに膨らむ。
ミレイユが掌で名録を押さえ、短句を落とす。
灯は眠る
名はあと
息は先
そのとき――廊下のずっと奥、別の扉が、内側から開いた。
かすかな軋み。靴の底が板を踏む音。軽い、子どもの重さ。
誰かが誘われ、立ち上がった。
テオの部屋だ。
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VIII 廊下
扉が半分だけ開き、細い影が顔を覗かせた。
テオだ。
目は閉じている。眠っているのに、体だけが立ち上がっている。
ヨハンが立ち上がる間もなく、レオンハルトの体が先に動いた。
扉を開け放たないよう、足音を殺して廊下へ。
ヴァレリアは盾を持たず、しかしすぐ背で続く。
ナディアは笛を持ち、音を出さずに呼吸を整えた。
廊下は暗い。
角を曲がる風はないのに、髪がひと筋だけ持ち上がる。
テオの足が板を踏むたび、蹄の音がそれに重なって聞こえた。
――テオ
――ここだ
廊下の端、階段の下。
燭台は消えているのに、影だけが燃えている。
ゆっくり、とてもゆっくり、階段を上る何かの影。
頭は無い。肩から先の空白が、闇より黒い。
テオの足がひとつ、前へ出た。
レオンハルトが飛びつき、抱きとめる。
その瞬間、見えない手がテオの肩口をふわりと持ち上げた。
少年の体が、宙に浮いた。
「っ……!」
レオンハルトの腕が空を掴む。
彼の指がテオの手首に届いた。だが、重さがない。
少年は眠ったまま、ふわりと天井へ持ち上げられていく。
ボミエの叫びが走る。
「降りてくるニャ!」
彼は杖先を回し、星喉の印を天井に薄く描いた。
見えない“喉”に小さな点が置かれ、浮力の糸が一瞬だけ撓む。
ヴァレリアが跳び、空中の少年の腰を抱え込む。
レオンハルトが下から支えた。
人ふたりと子どもひとり――三人の体が廊下の暗さの中で絡まり、床に戻る。
蹄の音が、階段の三段目で止まった。
頭のない影が、こちらを見ている“感じ”だけが降りてくる。
――灯を
――貸せ
ナディアは笛を口に運び、息だけを通した。
音にならない輪が、三人のまわりに張られる。
輪の中では名の輪郭が固まり、扉の外からの呼び声が“ただの空気”に変わった。
廊下の板が、内側から叩かれた。
一度。二度。三度。
返事を待つ、礼儀正しい訪問者のように。
「灯は……貸さない」
ヨハンの声が闇の中で静かに落ちる。
「名はあとだ。返さない」
影の肩が、わずかに傾いた。
それは“頷き”だったのかもしれない。
だが次の瞬間、影はくるりと身を翻し、別の扉の前へ移動した。
廊下に並ぶ客間の鍵穴が、いっせいに浅く鳴った。
宿全体が、ひとつの大きな喉になって、誰かの名を探した。
――いるか
声は今度、女の声で。
続いて、老人の声で。
最後に、幼い声で。
あらゆる“知っている声”が、昼間あったかもしれない会話の顔をして、扉のこちら側の心を撫でに来る。
テオの睫毛が震えた。
少年の口が、――「はい」と言いかける形に開く。
レオンハルトの手が、彼の口元をそっと塞いだ。
震えているのはレオンハルトの方だった。
「言わなくていい。……言わないで」
テオの目がゆっくり開く。
青い、幼い目。涙が浮かび、でも零れない。
階段の下の影が、一歩だけ後ずさる。
宿の外で、もう一頭の蹄の音がした。
街道に護衛がもう一騎、増えた。
――灯を
――灯を貸せ
声が二重に重なる。鍵穴が、二重に息を吸う。
ミレイユが名録に、爪で素早く点を刻んだ。
ミナの紙が階段の段差を滑り、足のない影の“足場”に穴を描く。
ルーシアンが瓶を投げ、空気の“湿り”を階段の中に急冷する。
ヴァレリアが、レオンハルトとテオを自室の扉内へ押し戻した。
ヨハンは階段に向き直る。逆薔薇の柄にそっと手を置いたが、まだ抜かない。
灯は消えている。名は返さない。息は先に――。
廊下の端の窓が、外から叩かれた。
三度。間を置いて、また三度。
ガラスには、濡れた手の跡。細長い指――首のないものが、持つはずのない手。
宿が、まばたきした。
壁紙がふわりと膨らみ、廊下の空気の“座”が半歩ずれた。
テオの喉から、誰のものでもないため息がもれた。
その吐息の中に、別の名が混じった――宿のどこか、もう一人の子ども。
声が、そちらへ向きを変える。
ヨハンが窓に駆け寄り、ガラスの内側へ掌を当てた。
冷たい。
だが、その冷たさは死の温度ではない。待つ者の温度だ。
「待っていろ。灯は貸さない」
次の瞬間、窓ガラスいっぱいに、馬の目が現れた。
火のない、塗り潰された空洞。
そして、ガラスのこちら側で――蹄が鳴った。
耳の奥で、名の文字がばらばらに崩れる音がした。
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次回予告
第116話 見えぬ手、浮かぶ子ども
見えない指が椅子を引き、皿は“名”を綴り、子どもは宙に。
首なき護衛は礼儀正しく扉を叩き、貸し借りの律で「灯」と「名」を求める。
返すべきは何か。守るべきは誰か。
そして、宿に隠されたもうひとつの“借り”が、まもなく露わになる――。




