沼地の館、沈む影
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I 沼の縁
山影が低く崩れ、平野に広がる黒い鏡――いや、鏡と呼ぶには濁りが深すぎた。
沼は息をしている。夜霧が水面の上でうねり、葦の間から泡がぼこりと上がっては、腐った卵の匂いを放った。
「羽音が……“呼んでる”」
ナディアが笛を握ったまま、肩をすくめた。霧の奥でざわざわと、無数の小さな喉が震える。
ボミエの耳がぴんと立つ。
「ニャ……名前の粒が混じってるニャ。『おいで』『こちら』……誰かの“名”の屑だニャ」
ルーシアンは瓶の栓を少しだけひねり、湿りを嗅いだ。
「水が古すぎる。乾きも腐りも、どっちも限界だ。何かが“保存”されてる匂いがするぜ」
桟橋が一本、沼へ伸びている。板は朽ち、杭には古い赤布が結わえてあった。
その先、霧を裂いて、半分沈んだ館の屋根が覗いている。黒い瓦の一部が水と同じ光を返し、ひどく冷たい目のように見えた。
ヨハンは逆薔薇の柄を確かめ、短く言う。
「行こう。あれが“口”だ」
レオンハルトは無意識に拳を握った。未経験の重さが指に食い込み、青灰色の瞳にわずかな怯えがよぎる。それでも彼は前に出た。
ヴァレリアが視線で合図を送る。わずかな頷きが返り、二人は並んだ。
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II 桟橋と舟
桟橋を踏むと、水が板の隙間からにじみ出た。
舟が一艘、繋がれている。水を吸った木は重く、底に泥が詰まっていた。
「乗るしかないな」
ルーシアンが舳先を押す。瓶のひとつを舷側に固定し、湿りを均す。
舟が沼に解けるように進み始めると、羽音が近づいた。
最初は遠い海鳴りのようだったものが、次第に粒立ち、耳の内側に文字の形をなぞってくる。
――ヨ……ハ……ン
――ナ……ディ……ア
――レ……オ……ン
ナディアが息をひと筋だけ笛に通す。
音は低く、輪が小さい。それでも羽音の輪郭を撫でて、名の輪郭から外へ追い払った。
「近づくなら、いっそ来いニャ」
ボミエが杖を小さく回す。星の粉が舟の周りに散り、沼水の上に薄い光の膜を張った。
館が大きくなる。半壊したひさし、斜めに沈んだ玄関。扉は水を飲んでは吐き、まるで呼吸しているように見えた。
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III 沈む館、濡れた敷居
玄関の段に舟が擦れ、鈍い音を立てて止まる。
板戸は半分外れ、隙間から黒い水が流れ出している。館の中は薄闇で、壁紙は湿りに膨れ、床はところどころ水面になっていた。
「足を取られるな。床は“沼”だ」
ヨハンが靴底で確かめる。板の下で何かが泡を吐き、ぬらりと動いた。
ヴァレリアが盾を前に、水を蹴るように進む。
レオンハルトは大剣を肩に、彼女の半歩後ろ。視線はずっと彼女の左肩の角度と、足元の深さを追っていた。
彼の動きはまだぎこちない。だが“誰かの背を守る”ことだけは、体が覚えようとしていた。
ミレイユが名録を開き、余白に短く記す。
沼は喉
館は口
名は遠く
ミナが風紙を水面に近づける。紙は湿りの流れを示し、廊下の先――沈んだ中庭へ矢印を描いた。
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IV 蠅男の羽音
中庭は水鉢のように深く沈んでいた。
四方の回廊の柱が歪んで傾き、水面には黒い円が幾つもゆっくり広がっている。
その中心で、何かがゆっくり起き上がった。
最初は柱の影かと思った。
だがそれは、無数の蠅が群がって形作った人型だった。
顔にあたる部分は空洞で、奥で長い吻のような影が蠢く。
羽音が、言葉の形になって溢れ出した。
――ナ マ エ
――ナ マ エ ヲ
ヨハンが刃をわずかに傾けた。
蠅男は水面を歩くようにこちらへ迫る。足元に黒い輪が生まれ、それが呼吸のたびに増えていく。
「湿りを切り替える」
ルーシアンが瓶を捻り、館の空気を“重く”した。羽音が一瞬だけ鈍る。
ナディアが輪を二重に重ねる音を置く。
音の輪の内側では羽音が言葉にならず、ただの雑音に戻って弾けた。
「ここで止めるニャ!」
ボミエが星杖を突き出す。杖先で“星喉”の印を結び、羽音の喉に点を打った。
蠅男の顔の空洞が、ぎし、と軋む。名を呼ぶ形が崩れ、群れの何割かが水へ落ちた。
ヴァレリアが踏み込む。盾の角が群れの芯を押し潰し、レオンハルトの大剣が横から払う。
刃は重く遅い。だが、確かに裂け目をつくり、蠅男の体が割れて水へ崩れた。
――ナ
――マ
――エ
羽音がばらけ、館の奥へ退いた。
水面の黒い輪は消えない。むしろ濃くなり、どこかへ通じる“気道”のように、ゆっくり脈を打ち始めた。
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V 沈んだ祠
中庭の端に、沈んだ小さな祠があった。半分泥に埋まり、鳥居も傾いている。
近づくほど、言葉にならないざわめきが喉の奥に絡みついてきた。
祠の前に、小さな石の箱。
ルーシアンが泥を拭い、蓋を持ち上げる。中には濡れた布に巻かれた古い巻物が一本、じわりと黒い水を吸っていた。
「読まないほうが――」
ミナが紙を押さえようとした瞬間、館が低く鳴いた。
巻物が自分でほどけ、紙魚のように薄い文字が水の表に浮かび上がる。
――座を先に
――名は裂け
――息を縫え
ミレイユの指が止まった。
それは“偽写”だ。誰かが正しい順をねじ曲げて、読み手の舌に逆順を刻もうとしている。
「口に乗せるな」
ヨハンの声が低く落ちる。
だが、祠そのものが読み上げ始めた。
水の泡が音になり、床下の空洞が舌になり、館全体が“声”になって、逆順の祈りを垂れ流した。
沼が応えた。
床の水鏡が破れ、沈んだ廊下や部屋から、白いものがはい上がってくる。
皮膚に泥と蠅が貼りついた手。
名を忘れた口が、開いては閉じる。
死霊のはらわたが、館の喉から逆流してくる。
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VI 沼の手、名の呻き
最初の腕がナディアの足首を掴んだ。
冷たい。骨と泥の力は、意外なほど強い。
彼女が息を引き、音を低く置く。それでも手は離れず、逆順のざわめきが音を汚そうとした。
「離れろ!」
レオンハルトが飛び込む。大剣を捨て、両手で梁を押し上げて、沈む床とナディアの間に隙間を作った。
背中に水がはね、顔に泥がかかる。青灰色の瞳が恐怖で大きくなり、それでも彼は離さなかった。
ヴァレリアが盾で手を叩き落とす。
「立て!」
声は短い。だが、その言葉の重みは、沈んだ床を持ち上げる槓桿のように、確かに仲間の足を支えた。
ボミエが鎮声珠を掌に転がす。
「逆を寝かせるニャ!」
鳴らずに鳴る珠が、逆順のざわめきの角を丸く撫でる。
ミレイユが素早く筆を走らせ、祠の偽写の上に短句を重ねた。
息は先
名はあと
座は今
ミナが風紙の句点を祠の口に貼る。
「ここで止まれ」
館の喉がひとつ分だけ黙り、逆順の流れが途切れた。
その隙に、ヨハンが逆薔薇の刃裏で巻物を押さえ、布で包み直す。
文字はなおじゅくじゅくと滲み、布の内側で息をしているようだった。
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VII 蠅男、再び
中庭の奥から、羽音が戻ってきた。
さきほどよりも濃く、重く、名に飢えている。
蠅男は二つに分かれ、回廊の左右から同時に迫ってきた。
一体はミレイユとミナを狙い、もう一体はレオンハルトとヴァレリアの方へ。
「右は押さえる。左を頼む」
ヨハンの声に、ルーシアンが頷き、湿りを切り替える。
空気中の水分がひとところに集まり、羽音の中に重石が落ちた。群れがたわむ。
ナディアが輪を三重に重ねる。
音は細いが、芯が強い。輪の内側で羽音は言葉にならず、ただの“虫の音”へと退行していく。
ヴァレリアが一歩踏み込み、盾で群れの芯を押し潰す。
レオンハルトが横へ回り込み、体当たり気味に斬り払う。
刃はまだ遅い。だが、彼の動きには“誰かと連携する”という意思が生まれていた。
ルーシアンが乾を、ボミエが星喉を、ミナが風の止めを、ミレイユが「句点」を――
それぞれがわずかな仕事を重ねるうち、左右の蠅男は形を保てなくなり、羽蟲の雨になって沼へ落ちた。
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VIII 祠の心臓
祠の中に、さらに小さな空洞があった。
そこには蠅の塊――女王の巣のような黒い心臓が、ずくん、ずくん、と弱い脈を打っている。
巻物の文字はそこから滲み出て、館じゅうの水へ溶けていた。
「心臓を止めれば、声が静まる」
ヨハンが短く告げる。
「湿りは任せろ。乾かして、割る」
ルーシアンが瓶を二本、同時に開く。
片方は乾きを、片方は重い湿りを。
相反する気配が祠の中で渦を巻き、心臓の表面に細かなひびが走った。
「星を喉に置くニャ」
ボミエが杖先で星図を結び、心臓の“声”の起点に点を打つ。
声の源泉に“今”が置かれ、過去と未来の呼び声が一瞬だけ途切れた。
ナディアが笛を鳴らす。輪は小さい。だが、ぴたりと合った。
輪の芯が心臓の拍と逆位相になり、鼓動が鈍った。
ヴァレリアが盾で祠の縁を押さえ、ミナが風紙で裂け目を示す。
ミレイユが短句で角度を記す。
割る角
息の間
名はあと
ヨハンが逆薔薇を振り下ろし、レオンハルトが肩で添えた。
刃がひびに沿って走り、心臓が音もなく割れた。
中から黒い虫のひと塊が飛び出す――が、輪と星と乾きに絡めとられて、ばらばらの塵になった。
館の鳴きが止む。
水面の黒い輪がひとつ、またひとつと消えていく。
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IX 抜けていく息
静けさが戻ると、沼の匂いだけが残った。
床の水がゆっくり引き、沈んでいた廊下が顔を出す。
壁には古い肖像の影。だが、首は塗り潰されていなかった。ただ、色が抜けて“在”だけが残っている。
ミレイユが名録の余白に点を打つ。
息が戻る
名はあと
ここに在
ヴァレリアが盾の革紐を締め直す。
「怪我は?」
彼女の視線が自然にレオンハルトへ落ちる。
レオンハルトは泥だらけの顔で、慌てて首を振った。
「だ、大丈夫……です」
頬が火のように赤い。耳まで。
ルーシアンが肩で笑う。
「若造、泥パックは似合わねえぞ。……いや、意外と様になってるか」
ナディアがくすりと笑い、笛の管を布で拭った。
ヨハンは祠の巻物をもう一度布で包み、館の外へ持ち出した。
それはまだ湿りを孕み、沈黙の下で小さく蠢いている。
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X 水葬と灯
沼の縁に戻ると、夕霧が濃くなっていた。
桟橋の端に火を灯し、祠から取り出した小さな骨片を布に包む。館が吐き出した“在”の欠片だ。
ナディアが低い音で見送りの輪を置く。
ボミエが星をひとつ、水面に落とす。
ミナの紙が風の向きを示し、ミレイユが短句で“ここにいた”を記す。
灯は小
在は薄
息は先
骨片は静かに沈み、輪は水に溶けた。
羽音はもう、ただ湿地の虫の音に戻っていた。
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XI 舟の上のささやき
舟が岸へ戻る間、沼の霧が顔に触れては離れた。
ヴァレリアが隣に立つレオンハルトへ短く言う。
「さっき、よく押し上げた。助かった」
レオンハルトは視線を下げ、泥だらけの手を握りしめたまま、かすかに笑った。
「守りたいと思ったので……その、体が勝手に」
言いながら耳まで赤い。
ルーシアンは舳先から振り返り、押し殺した笑いを喉で切った。
ヨハンは巻物を見ていた。
布の内側で、まだ文字が這う。
ここでは終わったが、どこかで似た“偽写”が息をしているのだろう。
――誰かが、順を逆に縫い付けている。
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XII 岸の灯り
陸に上がると、湿った風が背を押した。
沼の暗がりの向こう、別の村へ続く街道の端に、細い灯がひとつ揺れている。
焚火だ。宿の前だろう。
「今日はそこまで行こう。濡れたまま眠ると、骨まで沼に取られる」
ヨハンの言葉に、皆が頷く。
レオンハルトは最後に館の方を見た。
沈んだ屋根が、もう目を返さなくなっていた。
ボミエが肩の力を抜く。
「腹が空いたニャ。ここは魚も臭そうだし、……パンがいいニャ」
ナディアが笑う。
「パンと温かいスープね。あと、笛を乾かす布」
ヴァレリアが短く「釘も」と言い、盾の縁の小さな欠けを親指で撫でた。
ルーシアンが沼の方へ瓶を一度掲げる。
「じゃ、湿りはここまで。次の村じゃ、乾いた悪意が待ってるかもな」
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次回予告
第115話 街道の宿、首なき騎手
霧を抜けた先の宿場で、夜ごと舗道を叩く蹄の音。
首を抱えた影が「名」を探し、扉を叩く。
灯りを消せ。だが、呼ぶ声に応えれば、首は必ず振り向く――。




