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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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 薔薇の契約、蝶番の軋み




I 皮膜の下の針


 祝祭の皮膜は四日目に入っても破れなかった。港の旗は洗いたてのように明るく、通りのハンカチには子どもが描いた星とタコが並び、パン屋は砂糖をまぶした「星の角」パンを並べた。

 だが、朝の匂いには薄く針が混ざった。塩に似て、鉄に似て、薔薇の蜜に似て――エステラはアーチの上で扇の骨で自分の足首を二度、軽く叩く。


「薔薇の“契約”の匂い。昼に撒いた蜜は、夜に牙になる」


 ヨハンは頷き、胸の銀を指で押さえた。鍵は“間”に挿すべきもの――それを今さら疑いはしない。だが、鍵穴の側が“欲”のほうへ滑っていくなら、扉は軋む。蝶番が音を上げる。


 鐘楼の踊り場で、ボミエは星潮の杖を抱いて空を見た。昼でも星はいる。ピックルが教えた言葉を、彼女は小さく繰り返す。


「見えないだけニャ……でも、確かに“いる”ニャ」


 芯が、微かに答えた。柔らかな、しかし芯まで届く振動で。



II 黄金の男、薔薇の影


 勇者イーサン・ローグフェルトは、街路を歩くとき風の道筋まで変えてしまう男だった。彼が通ると洗濯物が早く乾き、犬は吠えやむ。金具は光り、人の心の皺は一時的に伸びる。

 その背に、薄い薔薇の香が残ることに、人はあまり気づかない。


 昼下がり、彼は港の広場で子どもたちに剣帯の留め具を触らせ、ジュロムは大槌を子の背丈に合わせて持たせて歓声を浴び、ザードルは掌で火花を転がして見せた。

 ヨハンは少し離れてそれを見た。人は結果のほうを愛する。傷を忘れるための祝祭――それは否定すべきものではない。ただ、その皮膜の下で動く針の向きだけを、忘れてはならない。


「ヨハンさん」


 耳を立てて近づいてきたボミエが囁く。

「イーサンさん、やさしい匂いがするけど、奥に冷たいのがあるニャ。……それが薔薇みたいに甘いニャ」


「甘い匂いは悪い匂いではない。だが、油に混ざると、刃がよく滑る」


「刃、ニャ……」


 ボミエは尻尾を膝に巻き、杖を抱きしめた。震えは、もう線を乱さない種類の震えだ。



III 赤い招待状ふたたび


 夕刻、鐘楼の扉にまた赤い封蝋が挟まっていた。蔓薔薇の紋、甘い香。

 紙には、流麗な文。


 ――《心ある祈り手へ。甘い赦しの“配分”について、灯台の踊り場で“今夜”。わたしたちは都市まちの平衡を願う者》

 ――《ヴァレリア》


 アメリアは封を裂いた指先を布でぬぐい、低く呟く。「舞台が気に入ってるらしい」


 ライネルは目を伏せ、短く吐息を漏らした。「血ではなく薔薇で結ぶ契約――聞こえは良い。だが、甘いのは“味”だけだ」


 ヨハンは頷いた。「行く。甘さの比率を、こちらで決めるためにな」


「護衛は私が」アメリア。

「潮の拍は俺が合わせる」ルシアン。

「火は控えるが、灯りは要るだろう?」ザードル。

「オラオラ、舞台の床が弱けりゃ俺様が補強してやる!」ジュロム。


 ナディアは笛を唇に当て、短く鳴らした。合図――“動く”。



IV 灯台の踊り場、蝶番の対話


 夜の灯台は、潮と風で磨かれた骨のようだった。踊り場に蜜蝋の灯りが三つ、等間隔に置かれ、香は薔薇と海藻の中間で揺れる。

 ヴァレリアは葡萄色の外套で月を肩に掛け、灯りの縁に指を滑らせた。イーサンは半歩離れて立ち、視線は遠く、耳は近い。


「祈り手。――あなたの『間の鍵』、すばらしいわ。あれなら扉は静かに開閉する。夜は、飢えずに済む」


「昼は、血を吸われずに済む、というわけか」


「そう。等しく甘く。等しく少しずつ」


 ヴァレリアは笑い、ボミエを見た。

「猫の子。あなたの線は震えていない。美しい」


「ピックルが、助けてくれるニャ。……甘い匂いは、苦手ニャ」


「ええ。あなたは甘さに弱く、正直で、強い」


 イーサンが口を開いた。「均衡のために、鍵は“共有”すべきだ。街のために」


「鍵は、所有するものではない。“間”に置くものだ」


 ヨハンの声は静かで、灯りの炎をわずかに低くさせる重みがあった。

 イーサンは唇を閉じ、視線だけで頷く。ヴァレリアは扇ほどの薄布で自分の手を包み、灯りにかざした。


「では取引を。――満潮の夜、わたしたちは“港外”で飲む。あなたたちは港内で祈る。扉はあなたが閉じる。鍵は“間”に。……ただし、儀礼として“供宴”をひとつ」


 アメリアの肩がぴくりと跳ねた。「供宴?」


 ヴァレリアは首を傾げる。「甘い夜の“見せ物”。血ではなく、香だけ。人は噂を欲しがる。噂で“空腹”は紛れるの」


「空腹は紛れても、匂いは残る」エステラの声が風に紛れて落ちる。「鼻は、ごまかせない」


 ルシアンが潮の拍を確かめ、低く言った。「風向きが変わる。満潮前の“歪み”が来る」


 その瞬間、灯台の足元で石が鳴り、踊り場の縁に薄い亀裂が走った。陸と海の“扉”が、まだ開く前に身じろぎをしたのだ。蝶番が音を上げる。


「――間に、鍵を」


 ヨハンが銀を掌に取り、ボミエが杖で星の線を引く。ザードルは火を灯りに移し、ジュロムは踊り場の床板を大槌の柄で押さえる。アメリアが外周を回り、ルシアンが水の道を引く。


「Ex voco… Misericordia… inter manus.」


 鍵は扉ではなく、亀裂の“空白”へ。炎が一息、低くなり、潮の歪みが静まる。ヴァレリアは目を細め、イーサンは短く息を吐いた。


「すばらしい」ヴァレリア。「だからこそ、欲しいの」


「欲しい、という言葉を口にした時点で、契約の“配分”が割れた」


 ヨハンが言い切ると、灯りが一つ、ふっと消えた。風ではない。下から、黒い指が伸びたのだ。



V 骨の海、薔薇の庭


 階段の陰から、冷たい笑いが立ち上がった。

 セラフィナ・ノクティファー。黒をまとい、目の奥に乾いた砂の音を閉じ込め、唇は花ではなく“骨”の色をしていた。


「甘いことを。薔薇の女、あなたはいつも香りで飢えをごまかす。――わたしは正直でいたい」


 ヴァレリアの笑みが薄くなる。「あなたはいつも、香りを“壊す”。だから嫌い」


「嫌ってくれてかまわない。飢えは香りでは消えない。血は血として飲めばいい」


 セラフィナが手を広げると、灯台の真下で石畳が裂け、塩の亡者が肩を出した。夜風が鳴り、薔薇の香と骨の匂いがぶつかって渦を巻く。

 イーサンは半歩前へ出た。剣の柄に触れ、しかし抜かない。ヴァレリアは目だけで彼を制した。


「ここで剣は舞台を壊すわ」


「舞台は、もう壊れている」


 アメリアが低く言い、刃を抜いた。

 ルシアンが水を呼び、ザードルが小さな火を灯して煙の向きを見極める。ジュロムが大槌を肩に担ぎ、喉の奥で笑う。


「オラオラオラオラ喰らえー俺様の一撃!!」


 彼が踏み込んだ先、塩の亡者の胸郭が粉になって弾けた。だが、骨の海は減らない。セラフィナは飢えのまま、夜を増殖させる。


「ボミエ!」


「わ、わかってるニャ!」


 ボミエは星の線で踊り場と港と鐘楼を繋ぎ、“反歌”で結び目を逆位相に重ねた。線は震えず、芯は歌う。ピックルの癖が、彼女の指の記憶になっている。


「そこ!」アメリアが叫ぶ。

「押す!」ルシアン。

「灯り、上げる!」ザードル。

「床は任せろォ!」ジュロム。


 ヨハンは胸の鍵を“空白”に触れ続け、祈りの拍で街の呼吸を揃えた。ナディアの笛が遠くで合図を刻み、鐘がつぶてに鳴る。人々の手は繋がり、名は返り、涙は分けられる。


 ヴァレリアは薔薇の香を薄めるように息を吐いた。「あなたの祈りは本当に“美味”。セラフィナ、負けを認めなさい」


「負け? 夜は終わらない。――あなたの甘さが、いつかあなた自身を腐らせる」


 セラフィナが踊り場の縁に指をかけ、身を起こした瞬間、ボミエの視界に白い横顔がよぎった。ピックル。

 呼吸が一瞬、止まりかける。芯が悲鳴の手前で震え、線が薄く滲む。


「ボミエ!」


 ヨハンの掌が彼女の手を覆う。「それは影じゃ。約束は影を連れては来ぬ」


「……う、うんニャ!」


 ボミエは涙で星を濡らし、それでも結び目を締め直した。線は生き、踊り場は砕けなかった。



VI 英雄の軋み


 混線のただなか、イーサンは静かに身の位置をずらした。薔薇と骨のあいだ、祈りと飢えのあいだ――蝶番の場所。

 ヴァレリアの指が袖をかすめる。セラフィナの影が足元を舐める。アメリアの刃が光り、ジュロムの大槌が地鳴りを打ち、ザードルの火が薔薇の香を焦がし、ルシアンの水が骨の粉を流す。


 そのとき、セラフィナの影が猫の子の背に伸びた。

 イーサンの体が勝手に動いた。剣ではない。腕。彼は自分の外套でボミエの頭を覆い、影を受けた。肩に冷たい痛み。衣の下で、接吻印が熱を持つ。


 ボミエは覆いから顔を出し、息を呑んだ。「イーサンさん……!」


「大丈夫だ」


 短い声。正しい重さ。

 ヴァレリアの目が一瞬、細くなった。喜びか、嫉妬か、どちらでも甘い。


「英雄さま。猫の子は“盾”ではないわ」


「わかっている」


 イーサンは外套を戻し、剣を抜いた。月の光を一度もらい、すぐに下ろす。斬るためではない。押し返すため。


「蝶番は軋む。――だが、折れはしない」


 セラフィナは唇の端を上げた。「折れない蝶番は、いずれ扉をすり減らす」


「扉は学ぶ」ヨハンが応じた。「今夜のように」



VII 薔薇の裏切り、甘い嘘


 戦況が街の呼吸に合ってきた刹那、甘い香がその調子を崩した。ヴァレリアが踊り場の灯りに息を吹きかけ、炎を“ひとつだけ”強くしたのだ。

 灯りが増す。影が薄くなる。――はずだった。

 だが、その炎には微量の夜霧草が混ぜてあった。人の指先の震えを鎮め、声をまっすぐにする薬草。港の風で揺らいだ“配合”は、祈りの拍を半拍ずらした。


 ヨハンの胸で鍵が熱くなる。

 ルシアンが顔を上げる。「拍が崩れる」


 ボミエは歯を食いしばり、星の線を“反歌”で支えた。ピックルの癖、彼女の癖――ふたつの癖が重なって、ずれを半分にする。

 アメリアが一歩踏み込み、ジュロムが床を押さえ、ザードルが炎の成分を嗅ぎ分けて小さく舌打ちした。


「薔薇に混ぜ物。……やるね」


 ヴァレリアは首を傾げ、つぶやく。「油は差した。蝶番は滑らか。――祈りの歌が“甘く”なるのは、悪いこと?」


「悪い」エステラの声が風の陰で冷たい。「甘い歌は、飢えを忘れさせる。忘れることは、赦しではない」


 ヴァレリアは肩をすくめ、「今夜は引くわ」と言って灯りを消した。

 薔薇の香が薄くなり、骨の匂いだけが残る。セラフィナはその匂いを喜ぶように胸を満たし、笑った。


「甘さが去れば、正直になれる」


「なら、これで終わりだ」


 ヨハンは鍵を“空白”に押し当て、ボミエは最後の結び目を打った。

 潮の歪みが落ち着き、骨の海は引いた。セラフィナは舌を打ち、影の裾を持ち上げて踊り場から滑り落ちる。


「夜は、また来る」


「知っている」


 その短い応酬で、今夜の幕は降りた。



VIII 英雄の告解


 灯台を降りた後、イーサンは礼拝所の側面で立ち止まった。夜と昼の境目。薔薇と塩の境目。

 ヨハンが隣に立つ。少し遅れてボミエが来て、耳を伏せ、尻尾で足を巻いた。


「謝ることがある」


 イーサンの声は舞台の声ではなかった。

「薔薇の契約に、俺も署名した。街のためだと信じた。均衡のため――そう言い聞かせた。……だが、今日、俺は自分の外套で猫の子を覆った。理由は均衡じゃない」


「理由は、怖れか、愛か」


「わからない。わからないが、俺は“盾にするな”と言った。なら俺も、盾にならないと嘘になる」


 ヨハンは目だけで頷く。「蝶番が、自らの音を聞いたのだ」


 ボミエは小さく息を吸い、言った。

「ありがとうニャ。でも、わたし、盾じゃないニャ。線を引く“手”ニャ。……逃げないニャ」


 イーサンは笑った。短く、素直に。

「強いな」


「ピックルが、そうさせてくれるニャ。みんなもニャ」


 彼女の語尾の“ニャ”は、今夜ほど確かに鳴ったことがない。芯が応え、星潮の杖が薄く歌う。



IX 裂け目の地図


 夜半、エステラはアーチの上で小さな地図を広げた。鼻で嗅ぎ取り、指でなぞった薔薇の濃淡、骨の匂いの流れ、潮の拍の乱れ――それらが、街の裂け目を示す。


「裂け目は三つ。塩倉の床の下、灯台の影、そして……市場の“祝祭”の真ん中」


 アメリアの眉間に皺が寄る。「祝祭を狙うか」


「狙う、というより“使う”。甘さの皮膜の下は、裂け目が開きやすい」


 ライネルが肩を回し、短く呟く。「火は控える。煙は甘さと混ざると悪い」


 ルシアンは潮の拍を心で数える。「満潮まで、あと二夜。――扉は学んだ。なら、次は“人”が学ぶ番だ」


 ヨハンは頷き、胸の鍵を“間”に預ける手つきを確かめた。

 ボミエは杖の紐を巻き直し、耳を撫で、空を見た。


「ピックル。次も、線を逃さないニャ」


 星は見えないが、いる。昼でも、夜でも。

 鐘が一度、低く鳴った。ナディアの笛がそれに短い尾をつける。ジュロムの笑いが遠くで転げ、ザードルが火打石を指で弾く音が微かに混ざる。



X 朝の端、誰の手に


 夜が薄くなり、朝の端が石畳の縁を白くした。パンの香りが戻り、猫が背を伸ばし、子が泣き止む。

 イーサンは広場で人に手を振り、英雄の顔を正しく貼り直した。背の接吻印は外套に隠れ、薔薇の香は昨日より薄い。――舞台は続く。


 ヨハンは礼拝所の扉に手を置いた。鍵は胸に、鍵穴は“間”に。祈りは殴るためでなく、掴むために。

 アメリアは刃を布で拭き、ルシアンは水の歌を低く口ずさみ、ライネルは古い印をひとつだけ塗りつぶした。ザードルは火を掌に灯し、すぐに消す。ジュロムは大槌の柄で地面を二度叩き、笑った。


 そしてボミエは、星潮の杖を胸に抱いて言った。

「みんな、行くニャ。こわいけど、逃げないニャ。――鍵は、わたしたちの“あいだ”にあるニャ」


 芯が、はっきりと歌った。

 港の風は塩を運び、薔薇の香は遠のき、骨の匂いは海の底へ沈む。満潮はまた来る。

 そのとき、誰の手が鍵を取り、誰の口が赦しを呼ぶのか。

 街はまだ試され続けている――だが今夜、蝶番の音は、昨日より少し、静かだった。

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