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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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沼の声、沈む影

I 眼の下の静寂


 風が止まった。

 鳥の声も、葦の擦れ合う音も、すべて水の皮に吸われていく。

 鏡沼の中央で開かれた“月の眼”は、瞼を持たない。見つづけることだけがその呼吸で、見られたものから順に輪郭が削がれていく。


 縁の杭で縛られた若者の顔が、塗り消しの絵のように薄くなった。

 ヨハンは沼に沈む視線の角度を見定め、仲間へ短く合図した。

「額だ。額の窪みで見ている。正面は避けろ。斜めに入る」


 ヴァレリアが盾の角度を半歩寝かせ、斜反射で視線を散らす。

 ルーシアンは瓶の口をひとつひねり、湿りを薄く霧にして広げた。

 ミナは風紙に句点を散らし、沼面の“目配り”を乱す。

 ミレイユは掌の在を細く伸ばし、若者の膝に座の縁を置く。

 ナディアは笛に布を巻いたまま、喉で輪の骨を一つ立てる。

 ボミエは星喉の針を指の腹に隠し、しっぽを大きく膨らませたニャ。


 水面の目が、ゆっくりと縮瞳した。

 “気づいた”。



II 視線の罠


 最初に削られたのは足跡だった。

 葦の泥に残したはずの踏み跡が、一瞬で“平”になり、足がどこから来たのかが奪われる。次に、影の縁がほどけ、輪郭が水の黒に混じりはじめた。


 > ——見られたものは、見られた順に“あと”へ回れ。


 声はない。だが、胸腔の内側の骨へ、冷たい爪で字を引っかくように、その律が書き込まれていく。


 ヴァレリアが短く息を吐く。

「足を止めるな。止まれば“あと”に落ちる」


 ルーシアンが湿りの厚みを増し、視線の刃を“鈍”に換える。

「霧を濃くすると、今度は喉が詰まる。……均す」


 ミナの紙が震えた。風は上がらない。水面が風を“読んで”しまうからだ。

 ミレイユの在が、若者の膝でわずかに滑った。座が剥がれる前触れ。


 ナディアが喉で輪を二重にした。

「今を押さえる。名はあと」


 ボミエが針で若者の“今”へ点を刺すニャ。

「縫い留めるニャ!」


 若者の輪郭が止まり、声がひと滴、喉から零れた。

「……寒い」



III 灰札


 ヨハンは懐から、灰目の司から受け取った小さな札を取り出し、額の汗に貼りつけた。

 灰の冷たさが皮膚の上で眠り、額の窪みへ薄く蓋をする。

 “火に見られない札”は、“眼にも見られない札”だった。


「順番を狂わせる。おまえたちも額に」


 札を受け取った仲間は額へ貼り、目を伏せるように視線を落とした。

 正面を作らない。見られる面を増やさない。額の窪みに“眠り”を置く。


 村の者たちはそれを見て、ざわめきもしない。ただ祈りの姿勢のまま、沼へ額を向けつづける。見られたいのか、見られるしかないのか、その差は匂いでは判じ難い。


 ボミエが小さく舌打ちしたニャ。

「灰札、猫の額だとちょっとずれるニャ。……でも効いてるニャ」


 ナディアの喉がわずかに軽くなる。輪がきしまず、息が前へ出る。



IV 沈む声


 沼の目がわずかに瞼を狭め、次に“声”を沈めはじめた。

 広場で母が叫ぶ。声が出ない。音が喉で泡になって弾け、空気へ上がらない。


 ミレイユが母の足もとに在を置く。

「“座”はここ。声は先に」


 ミナが風紙に句点を打ち、母の口元へ貼る。

 音のない句点。言葉の前に置く“開き”。


 ナディアが笛を口へ持ち上げ、布の上から低く鳴らした。

 音ではない。輪の骨だけが空気に立ち、母の喉の前で“道”を作る。


 母の声がかすかに出た。

「……返して」


 沼面に黒い皺が走った。

 月の眼が“こちらを見直す”。



V 水の鏡、陸の鏡


 沼は鏡だ。だが、陸の鏡と違って“写ったものに触る”。

 写った額の窪みに、沼の眼は自分の指を入れようとする。

 額の窪みは“名の座”。触らせれば、名が“あと”になる。


 ヴァレリアが盾の縁を低く寝かせ、沼面の反射を“横”へずらした。

「反射を正面に出すな。横へ流せ」


 ルーシアンが瓶をすげ替え、乾を一滴、湿りへ混ぜる。

「水の鏡は乾きを嫌う。うっすら乾かすと、視線が滑る」


 ミナが沼の縁に句点を帯のように並べ、風の“目”を多重にする。

 ミレイユが在の薄膜を沼の皮に伸ばす。

 ナディアが笛で輪の芯に静かな“眠り”を置く。

 ボミエが星喉で沼の“今”を針で浅く縫うニャ。


 水面に白い泡が生まれ、弾けた。

 月の眼が、ごく短く、眠気を見せた。



VI 引かれる


 眠りは長く続かなかった。

 沼の眼はすぐに見開き、今度は“仲間”を狙った。

 ミナの足首に、見えない糸が絡んだ。影ではない。紙の端を濡らすような、淡い引き。


 ミナの風紙が波打ち、句点が滲む。

 「……ちょっと、持っていかれてる」


 ヴァレリアが間に入り、盾の角で足首の高さの空気を押し戻す。

 ルーシアンが湿りを刃に変え、引き糸を“切る”。

 ミレイユが座の円を足首に巻く。

 ナディアが輪で“引きの逆”を作る。

 ボミエが星喉で糸の根元を刺すニャ。


 糸がはじけ、ミナが膝をついた。

 呼吸を整えると、紙の端から水が一滴、地に落ちた。

 地は飲んだ。沼は舌打ちのように波を立てた。



VII 沼唄


 村の老人がすすり泣きながら、低い唄を口にした。

 声ではない。喉の内側で擦った音が、沼へ向けて出ていく。

 > 「名は沈め、息は寄越せ、月は見よ」

 伝わってきた唄の骨は、律そのものだった。


 ヨハンは老人の肩を軽く押さえ、短く尋ねる。

「その唄は誰が教えた」


 老人は震えながら、沼の中央を指した。

 「……夜に、女が立つ。水の上で。目がない。唄だけをくれる」


 リュシアの影が一瞬、胸に過ぎる。だが、目がない女は彼女ではない。これは“沼の口”についた仮の顔。


 ナディアが唄の律を崩すように、輪の骨を一つ抜いた。

 唄は続くが、沼の響きが少しずれる。

 ミナがそのずれに句点を差し込み、ミレイユが在で“別の道”を細く作る。



VIII 星喉の格子


 ボミエが杖を横に寝かせ、星喉の結びを早く組むニャ。

 「沼の上に“天井”を作るニャ。星は水に写らないニャ」


 杖先から走る淡い線が、水面に直接触れず、空気に細かい格子を編む。

 格子は視線の行き先を増やし、真っ直ぐに“額”へ落ちる道を散らす。


 ヴァレリアが格子の節に角をそっと当て、強度を与える。

 ルーシアンが湿りを格子の間へ薄く塗る。

 ミナの句点が格子の交点に乗り、ミレイユの在が糸の節を太らせる。

 ナディアの輪が格子全体に“眠り”の重さを置いた。


 月の眼が、初めて“まぶた”のように光を曇らせた。

 見つづける呼吸が、ひと拍だけ浅くなる。



IX 吐かれる影


 眠りの拍の間に、ヨハンは杭の若者の縄を断ち、地へ引いた。

 若者の喉が咳き込み、影の端から黒い水が吐き出された。

 吐かれたのは水ではない。飲み込まれたまま“名前になれなかった輪郭”たち。


 ミレイユが掌に在を満たし、その輪郭を撫でる。

「……戻る場所がある者から、返す」


 ミナが句点で輪郭に“行き先”をつけ、ナディアが息の道へ乗せる。

 村の人々の足元で、影が一つずつ“立ち上がる”。

 呼び声がやっと上がった。名はまだ“あと”。だが、息は“今”に戻った。



X 眼の怒り


 沼が唸った。

 水際の葦が根ごと引き抜かれ、泥が泡を吹く。

 月の眼が光を走らせ、格子の隙間へ鋭い“視線の針”を突き立てた。


「分かってたニャ」


 ボミエが針に針で応じ、節目節目を縫い替える。

 ヴァレリアの角が折れぬように、しかし“しなる”ように力を受ける。

 ルーシアンが乾を一滴、空気の層へ混ぜ、針に滑りを与える。

 ミナの句点が刺し込まれるたび、視線の針はそこで“息切れ”した。

 ミレイユの在が崩れた節を太らせ、ナディアの輪が全体へ眠りを延ばす。


 視線の針が一本、二本と落ち、水へ戻るたび、沼の眼はさらに深い黒を見せた。

 > ——見よ。見られよ。沈め。


 広場の隅、古い石の祠がひとつ、泥に半ば埋もれていた。

 ヨハンはその祠へ目を止め、そっと近づく。

 祠の中の石板に、爪で彫った浅い線があった。

 > 目は閉じない。だから眠らせる。

 > 名はあと。息は先。


 古い祠に刻まれたそれは、この谷の昔の手順だったのかもしれない。



XI 目覆い


 ヨハンは祠から石板を取り出し、泥を拭った。

 石板の面は黒いが、油の在を薄く塗ると、僅かに光を返す。

「“目覆い”にする。正面に掲げるな。斜め、低く」


 ヴァレリアが盾と石板の角度を合わせ、二重の斜面をつくる。

 ルーシアンが石板の面に曇を薄く引き、光の道を鈍らせる。

 ミナが句点を石板の縁に立て、視線の入口をいくつか“迷わせる”。

 ミレイユが石板の裏に在を敷き、重さを“座”へつなぐ。

 ナディアが喉で輪を浅く重ね、石板全体に眠りの骨を渡す。


 石板を水面へ向けると、月の眼は自分の“灰”を見た。

 ほんの短い瞬間だった。だが、その瞬間だけ、眼は自分を“見ない”ことを覚えた。


 沼が、自分でひとつ、まばたきをした。



XII 沈む眼


 まばたきの間に、ボミエの格子が一段、深く編み込まれる。

 ヴァレリアの角が“膝”の高さで視線をすべらせる。

 ルーシアンの湿りが均され、ミナの句点が沼の縁を“眠らせ”ていく。

 ミレイユの在が村の家々の敷居へ座を配り、ナディアの輪が息の道を町中につなぐ。


 月の眼が、ゆっくりと沼の中へ沈んでいく。

 完全ではない。中心の黒は残り、虹彩は水皮の下でまだこちらを睨んでいる。

 けれど、夜じゅう見張り続ける力は奪われた。


 若者の足首から糸が外れ、母が泣き笑いの声を上げる。

 広場の人々が、初めて互いの名を“呼ぼうと”した。

 呼ぶ声はまだ途切れ途切れ。名はあと。――それでいい。



XIII 残響


 沼は静かになった。

 葦は立ち戻り、泥は泡をやめた。

 村長がヨロヨロと立ち上がり、深く頭を下げる。


「……ありがとう。だが、夜はまた来る。月はまた開くのか」


 ヨハンは短く頷いた。

「開く。だが、見張り続けるだけの力は、もうない。

 おまえたちは額を地に擦らなくていい。額の窪みには眠りを置け」


 ミレイユが在で小さな“眠りの輪”を祠の前へ置き、ミナが句点を重ねる。

 ナディアが輪の芯を祠の中にひとつ立て、ボミエが星喉で印を刻むニャ。

 ヴァレリアは盾の角で祠の足元を軽く打ち、ルーシアンは湿りを薄く撒いた。


 村の空気が、ごくわずかに“昼”へ寄った。



XIV 夜を待つ影


 沼の向こう、葦の影がふたつ、瞬いて消えた。

 人の歩幅ではない。

 リュシアの歩みは、昼と夜の境をひと跨ぎする。

 彼女はまだ遠い。けれど、どこかで“見ている”。


 ヨハンは石板を祠へ戻し、泥で手を拭った。

「一晩は持つ。次は、沼の下へ行く道を探る」


 ヴァレリアが頷き、盾の紐を締め直す。

 ルーシアンが割れた瓶を拾い、欠片を袋に入れる。

 ミナは湿った紙を干し、ミレイユは在を薄く畳む。

 ナディアは笛を布ごと懐に仕舞い、ボミエはしっぽを高く掲げたニャ。

「腹が空いたニャ。……でも夜の前に食べる匂いじゃないニャ。甘くない粥がいいニャ」


 村の女たちが素朴な粥を差し出した。

 沼の匂いはしない。

 粥は温かく、息の温度と同じだった。



XV 水底への道


 宵の口、村長が古い箱を持ってきた。

 中には錆びた鍵と、木札が三枚。

 木札には文字はない。代わりに角度が刻まれていた。

 > 風の角度/月の角度/底の角度


「昔、上の村から降りてきた者が置いていった。

 “底の扉は角度で開く”と、そう言って」


 ヴァレリアが木札を盾の角に当て、角度を覚える。

 ミナが風紙で角度の線を写し、ミレイユが在で裏をなぞる。

 ルーシアンが錆びた鍵に湿りを与え、動くかどうかを確かめる。

 ナディアが輪の骨で角度を舌に覚え、ボミエが星喉で印を重ねるニャ。


 ヨハンは木札を懐へしまい、短く言った。

「夜明け前に、底へ降りる」


 村長は頷き、震える声で付け加えた。

「夜明け前、沼は一度だけ“黒い息”を吐く。そのあとが静かだ。……そのときなら」


 沼面の月は、今夜は薄く見えるだけだった。

 眠りを覚えた眼は、眠り方を忘れない。



XVI 灯の輪


 村の片隅、小さな灯がともった。

 火ではない。灯り。

 石の皿に油が薄く引かれ、芯はないのに光っている。

 読火の堂で見た“火のない灯”と、同じ温度。


 ミレイユが微笑み、掌の在を灯の縁へ添えた。

「ここを“座”にする。戻る場所を作る」


 ミナが句点を二つ、灯の前に置く。

 ナディアが輪の骨を一つ立て、ヴァレリアが角で灯の高さを守る。

 ルーシアンが湿りを遠ざけ、ボミエが星喉で灯の“今”を小さく縫うニャ。

 ヨハンは逆薔薇を灯の脇へ立てかけ、短く息を吐いた。


 沼の夜が深くなる。

 だが、灯の輪は崩れない。



次回予告


第103話 底の扉、黒い息の間

夜明け前のわずかな静けさに、一行は沼の底へ降りる。

角度で開く扉の先は、“息を逆にする間”。

名はあと、息は先。

その一行が、いよいよ沼の核に届く――。

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