沼地の村、生贄の手順
I 水脈
谷を抜けると、土の匂いは次第に湿りに沈んだ。草むらの根が濃い泥を吸い、足首のところで温度が一段下がる。薄い霧が地面から生まれ、膝までの高さで絡み合っては、ゆっくりほどけた。遠くで蛙が鳴く。鳴き声は一本の糸のように続き、耳よりも胸の裏へ届く。
ヨハンは肩の革紐を締め、袋の重みを改めて測る。灰の市から取り返した灰袋のひとつはミレイユが抱え、もうひとつはルーシアンの背。残るひとつは、梅の塩の匂いの少女――名を呼ばない少女が両腕でしっかりと抱いていた。セルマは荷を持たせてもらえず、代わりに両手で裾をつまみ、足もとを確かめて歩く。
ミナが風紙を顔の前にかざし、霧の流れを読む。紙の目に薄い湿りが滲むたび、彼女は指先で小さな句点を挟み込んで風の渦を分けた。霧は嗅ぐための器であり、隠すための幕でもある。どちらにもなる。
ヴァレリアは盾を背に回し、角の先で泥の固さを探った。押せば沈み、離せばゆっくり戻る。人の足跡が残っているところは、戻らない。
ルーシアンは乾と曇を爪の腹で弾いて鼻を鳴らす。
「湿りが甘ってやがる。腐り始めの匂いだ。――先で水脈が割れてる」
ボミエは耳をぴんと立て、潮封珠を胸に当てたニャ。
「右手から“息じゃない息”が来るニャ。水が息をしてるみたいニャ」
ナディアは笛を懐にしまったまま、息の高さを低く保つ。音は出さない。輪は出す。輪は霧の中で音より遠くへ届き、湿りの高さを揃えてくれる。
ミレイユは油瓶を掌にのせ、在の円を薄く保った。水気が紙を腐らせるように、湿りは「在」をぼやけさせる。ぼやける前に、縁をつける。
ヨハンは短く息を吐き、前方の濃い霧に視線を据えた。水脈の割れ目――沼の入り口が、そこにある。
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II 灯りのない灯台
最初の目印は、背の低い石塔だった。灯りはない。塔の上部は苔で覆われ、潮でもないのに塩の粉が薄く付着している。塔の根元には歯の抜けた輪が彫られ、輪から真っ直ぐに伸びる溝が沼の方へ続いていた。溝には黒い泥。乾きかけては崩れ、崩れてはまた満ちる。
塔に寄ると、鼻の奥に古い煙の匂いが残っているのがわかった。火を焚いた痕跡ではない。人が息で灯を真似た匂い――輪で灯りを置こうとして置けなかった、失敗の匂いだ。
ミナが塔の溝を指でなぞる。
「ここ、“帰り道”のしるし。……けど、戻った人は少ない」
ヴァレリアが角で輪の欠けを軽く叩く。
「当てるべき角がない。礼の位置が曖昧にされてる」
ルーシアンが塔の苔を爪で削り、鼻で笑う。
「塩は海の塩じゃねぇ。人の汗だ。ここで祈って、怖がって、汗を拭ったやつが沢山いたって匂いだ」
ボミエは塔のてっぺんを見上げ、しっぽをひと振りしたニャ。
「灯りがなければ、“匂いの灯”を置くニャ。戻るとき、鼻で拾えるニャ」
ナディアは笛の管に指を添え、音のない輪郭で塔の上に薄い輪を残した。輪は夜風を呼ばず、霧の高さに溶け、灯りのない灯台に小さな「戻りの匂い」を宿らせる。
ミレイユが名録ではなく、油の表面に塔の位置を在で写す。書かない。匂いで覚える。匂いを忘れさせない。
セルマが小さく息をのみ、塔から目を離した。
「この先に……“村”がある。沼の上に浮かぶ、板道の村。――そこでは、夜になると“座”を一つ沈める」
梅の塩の少女が灰袋を抱え直し、目を上げた。声はない。けれど、握る指の白さが、今の重みを教えている。
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III 板道
板道は、沼の草に隠れるように始まっていた。板は幅が狭く、濡れている。上を歩く人の数が決まっているらしく、足形の跡はひとつの幅だけ磨かれて滑り、他は苔むして沈む。左右はすぐ水。水面は鏡ではない。黒い紙のように見え、近づくと小さな泡がいくつも開いて、すぐ閉じた。
ヴァレリアが先に歩き、盾の角で板の継ぎ目を押す。ぐらりとしたところには角を当てて沈みを止め、固いところには角を滑らせて輪郭を覚える。
ミナは風紙を息のかわりに使い、霧の薄いところと濃いところを見分けた。濃い霧の下は冷たく、薄い霧の下は温かい。冷たい下には、きっと“手”がある。温かい下は、まだ息がある。
ルーシアンは曇を板に薄くまき、乾で靴の底をわずかに粗くした。
「滑るな。滑らすのは俺が決める」
ナディアは輪を足首の高さに置き、踏むと同時に板道の揺れが吸い込まれるように調整した。音を殺す輪ではなく、揺れを殺す輪。板道が起こす音は、沼の「耳」に届く。
ボミエは星喉の針を両手で包み、板道と板道の隙間に“今”を縫っていくニャ。縫いは深くない。けれど、抜けかけた板の息が踏むたびに折れないよう、数呼吸ぶんの寿命を延ばしたニャ。
ミレイユは油で在の円を足うらにひとつずつ描き、湿りに溶けない歩幅を皆に渡す。セルマと少女の足には、特に丁寧に。
ヨハンは後ろから二人の歩幅を合わせ、杖の代わりに逆薔薇の柄を貸した。刃は抜かない。柄は暖かい。冷たいものに囲まれるほど、手の中の温度は言葉になる。
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IV 沼の村
霧の口から、屋根がいくつか現れた。屋根は地面に生えていない。丸太の束の上に板を渡した“浮き台”の上に、家が乗っている。家と家の間は板道で繋がれ、板道の下では泥色の水が微妙な速さで流れていた。流れに乗って、小さなランタンが端から端へすべり、途中でふっと消える。火はない。灯りはない。けれど、灯の振る舞いをしていた。
村の入り口に、背の曲がった老人がひとり。片手に棒、片手に鈴。鈴は鳴らない。代わりに老人は息を吸い、吐き、吐く息を鈴に触れさせて「合図」を作った。音のない鈴の音。村の中から、人々が現れる。鼻は布で覆われ、目は濡れた石のようだった。
「旅」
老人の声は、喉で絞ったのではなく、胸の奥の水に揺れていた。
「昼の客は沈む。夜の客は浮く。――お前たちは、どちらだ」
ヨハンは一歩前に出た。
「沈まない。――浮くために、座を持ってきた」
老人の目が、ヨハンの肩と背の袋を順に見た。袋の札は見えない。灰の市の文字はこの村では“読まれない”。鼻だけが読む。
「息の袋。……灰の市の客か」
ルーシアンが口を開きかけ、笑わずに閉じる。代わりにボミエがしっぽを揺らし、顔を少しだけ上げたニャ。
「通るだけニャ。村に火は落とさないニャ。代わりに、“沈め”をひとつ止めるニャ」
老人は鈴に息を触れさせ、鳴らない鈴の音で村へ合図を送った。板道の奥から、女たちが現れ、子どもは陰へ消え、男たちは鈍い棒を手に立つ。誰も叫ばず、誰も笑わない。ここでは、声そのものが沼の餌になるのだと、鼻でわかった。
「今日の“手順”は済んだ。――夜の沈めは、明日」
セルマが腕に力を入れ、梅の塩の少女が袋を抱き直した。ヨハンは老人を見、短く言う。
「見せてもらう。止めるべきものか、見極めたい」
老人の目の奥で、わずかな波が立った。怒りでも恐れでもない。諦めに似た、習い性の波。
「泊まるなら、板三列目。沈まない床。――息は低く。名は置くな」
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V 沼の食卓
板三列目の家は、広い一室でできていた。壁は薄く、外の霧がときおり縁から息を入れてくる。床の隅に低い竈。火は焚かない。代わりに、ぬるい石が湯気を吐いている。鍋には白い芋と、淡水の魚の薄い身。香りは強くない。鼻で追えば、泥の甘さがほのかに混ざる。
ナディアは笛を濡らさないように離し、膝の上に置いた。喉はもう熱くない。輪も、ここでは深く置きすぎない。深く置けば、床が呼吸を止める。
ミナは風紙を丸めて枕のようにし、子どもたちの座る隅へ置いてやる。紙の下では板の揺れが軽くなり、子どもが座りやすくなる。
ヴァレリアは盾を柱に立てかけ、角で床の角に小さな円を刻む。円は重みに耐える「座」。家の主が頷き、板の下の音が半分だけ静かになった。
ルーシアンは瓶の栓を外さず、曇を舌で溶かした。湿りの高さが合っているか、確かめるためだ。沼の湿りは、瓶の曇に近いが、少し重たい。
ミレイユは油の表面に在の円を広げ、霧が「中」のものを腐らせないよう、円を屋根裏に一つ、床の下に一つ置いた。目には見えない。けれど、匂いが知っている。
ボミエは皿を受け取り、少しだけ口に入れたニャ。
「塩は少ないニャ。――敵意も少ないニャ」
女主人が頷いた。顔は疲れている。鼻は働き者だ。
「塩は沼が飲む。火は沼が嫌う。――だから、祈りは静かにする」
セルマは膝の上で両手を組み、女主人の言葉を聞いた。梅の塩の少女は袋を手放さず、食べる真似だけをした。匂いを胃へ落とさない。落とせば、沼は“名を拾う”。
「“沈めの手順”を、教えてくれ」
ヨハンの言葉に、女主人は目を伏せて頷いた。
「夕刻、鈴は鳴らない。代わりに、霧が鳴る。沼の真ん中の“枕板”に、村の“座”をひとつ置く。名ではない。息でもない。――在を、ひとつ。板は沈み、また浮かぶ。そのたびに、沼は機嫌を保つ。……そう教わった」
ヴァレリアが角で柱を軽く叩く。
「“在”を誰が選ぶ」
「選ばない。順だ。家ごとに順があって、去年の次は、今年。座を分ける。――子も、病も、旅も、全部“順”の中に入ってる」
ミレイユの指から油の円が一滴だけ震えた。誰かの“在”が順で沈む場所。沼の律。村の律。
ルーシアンが鼻で笑い、笑わずに目を細めた。
「“順”は誰が決めた。沼か。村長か。昔の誰かか」
女主人は答えず、鍋の蓋を閉めた。湯気が一度だけ高く揺れ、すぐ低くなった。
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VI 枕板
夕の色が霧の裏で変わると、村は音のない支度を始めた。板道の端に人が立ち、鈴を持たない手で合図の息を送り合う。浮き台の中央に、他より厚い板――枕板――があり、その四隅に縄が結ばれている。縄の先は、水の下。どこへ繋がっているか、見えない。
枕板には、皿がひとつ置かれていた。皿は透明。中には、何もない。何もないのに、重かった。鼻がそう言った。
老人が現れ、鳴らない鈴を胸の前に掲げる。女主人と同じ目。男たちも女たちも、子どもも、息を揃える。誰も泣かない。誰も叫ばない。泣けば、叫べば、沼が覚える。
ヨハンは枕板の縁まで行き、足裏で板の厚みを感じた。厚い。けれど、水はもっと重い。ミレイユが油の円を板の片側に薄く置き、ヴァレリアが角で反対側の「礼の角度」を探す。ミナは風紙で霧の渦を切って枕板の上だけを穏やかにし、ナディアは輪を地の高さで結んで枕板の揺れを沼へ渡さない。ルーシアンは曇の瓶を両手で支え、曇を板の下へ薄く溶かす。ボミエは星喉の針を袖口に忍ばせ、しっぽを低くしたニャ。
皿の前に一人の男が進み出た。痩せている。目は焼けた木のよう。男は皿の前で膝をつき、手を皿の上に置こうとして、やめた。息を吐き、両手を膝へ戻した。
「座を置く」
老人の声が、沼の耳に負けない高さで短く響いた。
そのとき、霧の裏から声がした。声、と呼ぶには柔らかい。匂い、と呼ぶには重い。――リュシア。
「座は置かない。置くのは“代価”。――座はあと」
老人の目が揺れ、村人たちの鼻が一斉に霧へ向いた。リュシアはどこにも立っていない。沼の息の高さで言葉だけを落とす。
ルーシアンが鼻で笑い、喉の奥で息を押さえた。
「またひょっこり顔出しやがった」
リュシアの“匂いの笑み”が霧の横でひとつ、ふたつとほどけた。
「見届けに来ただけよ。あなたたちの“輪”が、沼の“順”にどこまで触れるか」
老人は鈴を胸に戻し、皿を見下ろした。その皿の縁には、誰のものでもない「平ら」が薄く張っているのが、ヨハンの鼻にもわかった。無名の粉の平らに似ているが、もっと冷たい。
ミレイユが囁く。
「沼自身が張っている“平ら”。これが順を作る」
ヴァレリアが角を皿の縁に当て、弾かれない角度を探る。
「ここで板をひっくり返せば、村がこちらへ落ちる」
ナディアは笛に指を置き、輪の高さをほんの少しだけ上げた。板の上に、眠りの輪。風を呼ばない輪。
ボミエがヨハンの袖を引くニャ。
「“座”は置かせないニャ。――代わりに、別のものを置くニャ」
ヨハンは頷き、肩の革紐を外した。逆薔薇の柄ではない。灰袋だ。梅の塩の少女が抱えていた袋を、少女の合図で受け取り、皿の縁へそっと近づける。
村の鼻がいっせいに高くなった。嫌悪でも欲でもない。驚き。灰の市の「証言」の匂いが、沼の「順」の上に重なったとき、順の平らは一瞬だけ、波になった。
ルーシアンが低く言う。
「置くのは名じゃない。証言の“重み”だけだ。――沈むなら、灰袋が沈め」
ミレイユの掌の在の円が袋の外皮に重なり、ミナの句点が皿の縁に綴じ目を作る。ヴァレリアの角は外へ向けられ、ナディアの輪が皿の上に落ちる。ボミエの針は袋の紐に“今”を縫い、ヨハンは袋を皿の上へ――置かなかった。
皿の上には、何も乗っていない。だが、重さが増えた。灰袋の息は開かない。開けない。匂いは漏れない。重さだけが、皿へ渡った。
沼が息をひとつ吸い、ひとつ吐いた。枕板の四隅の縄が沈み、板が一寸だけ沈んで、また浮いた。村の鼻がわずかに下がる。老人の肩が、ひと呼吸ぶんだけ落ちた。
「座は、沈まない」
ヨハンは老人に向き直り、短く言った。
老人は鈴を胸に当て、今度は自分の息で鳴らした。鳴らない鈴が、はっきり鳴った。
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VII 沼底の手
儀が終わったわけではなかった。平らは波になり、波は揺り戻しを呼ぶ。霧の下、水の上――沼の底から、白いものがいくつも立ち上がった。指。腕。骨ではない。水の形をした手。水でできた手が、板の縁を掴もうとする。
ヴァレリアが盾を前に出し、角で水の手をはらう。角は濡れない。触ったところだけ、水が形を忘れる。ミナが風紙で水の指の間へ句点を置く。指はそこで止まり、形を維持できない。ルーシアンが曇を水面すれすれに吹き、乾で輪郭をぼかす。ボミエが星喉の針を水の手の“今”に刺す――刺さらない。だから、縫う。縫うふりで「今」をずらすニャ。
ナディアの輪が沼の耳に触れ、音なき音で「眠れ」を繰り返す。輪は深くない。浅く、広く。ミレイユは油で在の円を板の裏に貼り、家の“在”が足元から抜けないよう支える。
老人が鈴を掲げ、村人たちが息を揃えた。声は出ない。けれど、息が声の役割を果たす。沼は人の息を嗅ぎ、息の棚が眠るまでの間だけ、手を引っ込めた。
枕板の皿は空のまま。重みだけが残っている。灰袋は開かない。開けない。――沼は、重さに礼をした。
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VIII 沈まない夜
夜は、沈まなかった。村は火を焚かず、歌を歌わず、それでも、沈まなかった。子どもたちは板三列目の家々の床で静かに寝息を立て、女たちは鍋で湯を温め、男たちは鈍い棒で板道の継ぎ目を叩いて緩みを見つけては直した。
女主人がヨハンの前に座り、掌をそっと床に置いた。
「沼が怒っていない。――でも、わたしたちは“順”を壊した。明日、別のところで“揺り戻し”が来る」
ヨハンは頷いた。壊すのではなく、眠らせた。けれど、眠りは夜明けで終わる。終われば、別のところで起きる。
ルーシアンが口の端で笑い、瓶の栓を撫でた。
「揺り戻しが“灰の市”なら、都合がいいがな」
ミレイユが油瓶に掌をかけ、在の円を薄く保ちながら言った。
「灰袋を沼に沈める流れは、沼地と灰の市を繋ぐ“律”。……あの流れを寝かせれば、両方いっぺんに浅くなる」
ミナは風紙を折り、紙片を二つにして村の入り口と枕板の上に置いた。句点の印は軽いが、風が教えてくれる。
ナディアは笛の穴を指で覆い、喉で短い息をひとつ。
「朝まで眠ってくれれば、村を離れられる」
ボミエがしっぽを膝に巻き、ニャと笑ったニャ。
「ここで一晩寝るニャ。沼の枕は硬いけど、悪くないニャ」
ヴァレリアが盾の角を布で拭き、目だけを閉じた。
「番はする。順番に」
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IX 夜鳴き
夜半、霧の密度が一段増した。外では誰かの足音がした。板道がきしむ音ではない。水の上を誰かが歩くときの、腹で感じる音。扉が叩かれた。叩く音はない。叩いたという「在」だけが、鼻の奥に落ちてくる。
女主人が立ち上がり、扉へ向かおうとするのを、ヨハンが手で制した。
「俺が」
扉を開けると、霧の中に一家族が立っていた。父、母、子。子は眠っている。父の肩には灰袋。母の鼻には布。父の目は乾いているのに、濡れている。
「順が来た。――けれど、今夜は沼が座を飲まない。……明日、順が二つになる」
母の声は、水で磨かれた石のようだった。
「袋を借りたい。……“証言”の重さがあれば、沼は“代価”を飲む」
ヨハンは振り向き、仲間の顔を見た。誰も首を横に振らなかった。ミレイユが油の円を細く細く伸ばし、男の抱える灰袋の外皮に重なる。「在」を汚さない「在」。
ルーシアンが無名の平らを爪の裏に少しだけつけ、袋の紐に触れた。
「開けるなよ。匂いは出すな。重さだけを、置け」
ボミエが星喉の針を男の肩に軽く当てたニャ。
「“今”をほどけにくくするニャ。板まで持つニャ」
ミナは風紙を母の手に渡し、句点を二つ描いた紙を持たせる。枕板で紙を皿の脇に置けば、風の渦が皿を冷やす。
ナディアは笛を懐にしまい、女主人に視線で合図を送った。女主人は頷き、一家を外へ連れ出した。
ヴァレリアは盾を扉の陰に立て、角を下にして板道の揺れを止めた。
ヨハンは扉の縁に手を置き、霧の中へ短く息を送った。言葉ではなく、輪でもなく、ただ息の高さだけ。――戻れ。
足音は、水の上で遠ざかり、やがて消えた。
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X 朝の白
霧は夜明け前、白くなった。白いといっても光ではない。冷たい水の粒が増え、鼻の中が凍える白さだ。沼地の村は、沈んでいない。枕板の皿は空のまま。代価だけが、そこに置かれている。
老人が鳴らない鈴を掲げ、息で鳴らした。今度も鳴った。鳴ったのに、沼は怒らない。
「順は、今日の夜へ“繰り下げ”る」
老人は低く言い、ヨハンへ目を向けた。
「旅の者。――沼が礼を言っている。だが、沼は腹を空かせている。次の夜には、また“座”を求める」
ヨハンは頷いた。
「わかっている。ここを離れる。……だが、沼だけの話ではない。灰の市からの流れも寝かせないと、どこかで“順”が歪む」
ルーシアンが肩で笑い、瓶を腰で鳴らす。
「沼地の先に、荷車の辻がある。灰袋を捨てる沼穴の入口。――そこを潰せば、二つの街道が軽くなる」
ミナは風紙に丸を三つ描き、矢印を辻へ向けた。
「風もそう言ってる。まだ“目”は起きてない。今なら間に合う」
ミレイユは油瓶を胸に抱え、在の円を薄く保ちながら言う。
「袋を沈めさせず、座を沈めさせず。――“代価”は別のところへ置いていく」
ナディアは笛を懐に収め、喉の奥で息をひとつ。
「輪は低く。風は乱さない」
ボミエがしっぽを揺らし、ニャと笑ったニャ。
「そして、お腹は空いてるニャ。――出発前に芋をもうひとつもらうニャ」
女主人が笑わずに笑い、鍋の蓋を開けた。湯気の白が朝の白と混ざり、鼻の奥の冷たさが少しだけ和らぐ。
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XI 辻
村を出て板道を戻ると、谷へ続く陸側に小さな辻があった。沼の水脈が集まり、浅い穴へ落ちていく。穴の縁には板と縄が渡され、そこへ荷車の轅をかけて袋を押し入れるのだろう。周囲には灰の粉や札の破れが散らばり、鼻布を失くした誰かの息の匂いがわずかに残っていた。
ヨハンは辺りの匂いを吸い込み、吐き出した。灰の市の匂いは、もう薄い。代わりに、沼の「忘れる匂い」が濃い。忘れさせるための穴。穴は覚えている。ここで捨てられたものを。
ヴァレリアが盾の角で穴の縁を叩き、硬さを測る。
「崩せる。だが音が出る」
ルーシアンが曇を穴の縁へ薄く塗り、乾で縄の繊維をばらけさせる。
「人の力は使いたくねぇ。――沼の力で自分を塞がせる」
ミナは風紙で穴の上に句点を散らし、霧の流れを穴の中へ落とすのではなく、外へ流すように形を作った。穴が「吸う」のを忘れる。
ナディアが笛に薄紙を巻き、音のない輪を穴の内部に置いた。輪は眠りの輪ではない。断ち切る輪。穴の「呼吸」を一度だけ止める。
ミレイユは油の在を穴の縁に薄く塗り、“流れ”がそこを通らない通路を作った。通れないなら、流れは別の道を探す。
ボミエが星喉の針を縄の結び目に触れ、ニャッと声を漏らすニャ。
「“今”をほどくニャ。締まってるようで、結べてない結びニャ」
縄は自らほつれ、板がずれる。穴の縁が、穴の重みを支えられなくなる。泥の壁が崩れ、浅い穴は沼の流れに埋められた。静かな音だった。音というより、匂いの高さが一段下がった。忘れさせる穴が、自分を忘れた。
ヨハンは肩の荷を持ち直し、朝の空気を吸い込んだ。霧の白は薄く、沼の匂いはまだ深い。けれど、道は軽い。
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XII 別れ
板道の入り口まで戻ると、女主人と老人が待っていた。女主人は小さな包みを二つ渡した。ひとつは干した魚。もうひとつは、泥に埋めた塩。わずかな量だが、この土地では貴い。
「返しに来なくていい。――帰るなら、息だけ置いていって」
老人は鳴らない鈴を胸に当て、もう一度鳴らした。鳴った。けれど、その音は沼へ向かなかった。空へ、霧へ、道へ。
「“順”はまだある。――でも、今夜ではない」
セルマが膝を折り、額を床へ近づける代わりに、鼻の奥で息を低くした。
「ありがとう。――いつか、パンを持って来る」
梅の塩の少女は、袋を抱え直し、女主人の掌に自分の掌を重ねた。言葉はない。鼻で笑みを返す。それで十分だった。
ボミエがしっぽで二人の足もとを軽く撫で、ニャと鳴いたニャ。
「名はあとニャ」
ナディアは笛を懐に、ミナは紙を胸に、ヴァレリアは盾を背に、ミレイユは油を掌に、ルーシアンは瓶を腰に。ヨハンは逆薔薇の柄を肩で押さえ、板道の最初の一歩を踏んだ。
霧が開き、灯りのない灯台の匂いが遠くで輪になって待っていた。
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次回予告
第95話 谷の宿、黒い祈祷書
沼地を離れ、谷の宿場町へ。
そこでは黒い祈祷書が回し読みされ、
夜ごとに“名の影”が宿の壁を歩く。
灰袋の重みと沼の眠りを抱えたまま、
一行は「黒の説」と向き合うことになる――。




