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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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英雄の影、甘い赦し




I 祝祭の皮膜


 満潮の門が閉じられてから三日。

 港の表面には、ささやかな祝祭の皮膜が張った。市場には小さな旗が吊られ、子どもたちは塩の袋に絵を描き、パン屋はタコの形のパンを焼いた。鐘は軽やかに鳴り、廃屋の窓には灯りが戻る。だが、ヨハンの耳には、祝祭の下でなお眠らない音が聴こえていた。潮の底で、薄く、長く、誰かが息を止め続けている音だ。


 エステラはアーチの上で風を嗅ぎ、扇の骨で自分の踝を軽く叩いた。


「御坊。甘い匂いが混ざったわ。砂糖じゃない、血に混ぜた薔薇。……祝祭は、いつだって誰かの“顔”のために開かれる」


「誰の顔じゃ?」


「街が忘れたがっている顔。あるいは、街が憧れる顔」


 答えは昼下がりに海から来た。



II 金の帆と歓呼


 金糸で縫われた紋章旗が風を裂き、白い帆に路上の歓声が映った。

 船首に立つ男は、太陽をその身に貼り付けたように眩しかった。青い外套に銀の留め具、剣帯の金具は磨かれ、髪は潮に揺れ、瞳だけが深い井戸の底のように静かだった。


 勇者――イーサン・ローグフェルト。


 港に舷梯が降ろされ、男が最初の一歩を石畳に刻むと、歓呼は屋根瓦まで震わせた。彼は手を上げ、人々の声を受け止め、穏やかな微笑みを浮かべた。


「遠くの街で吸血鬼の災いを退けた英雄さまだって!」

「マリナ・デル・ベーラを守りに来てくれたんだ!」


 イーサンの背後で、二つの影が軽やかに飛び降りた。ひとりは丸太を容易に片手で担げそうな巨躯、肩に据えた大槌が太陽を叩くように光る。


「ジュロム・バルセロ。ハンマーこそ正義! オラオラオラオラ喰らえー俺様の一撃!!」


 もうひとりは細身で、指先に微かな火花を遊ばせている。目は狐のように鋭く、口元に炎の色の悪戯が宿る。


「ザードル・アシャー。火の扱いは手慣れたものだ。火炎球ファイアーボールで充分だが……この街は潮が強い。面白い“素材”だな」


 アメリアは群衆の端で腕を組み、横目でヨハンを見た。ルシアンは水路に片膝をつき、潮の匂いの層を嗅ぎ分けるように目を細める。ナディアは笛を噛み、笑う代わりに唇の端をわずかに上げただけだった。


 イーサンはまっすぐにヨハンの前に歩み出た。英雄は祈り手の手を包み、適切な重さで握る。


「神父殿。あなた方の働きは聞き及んでいます。満潮の門を閉じ、人々を守った。――見事です」


「ワシらは“間”に鍵を挿しただけじゃ。街が守ったのだ」


「謙遜も美徳です。しかし、次の夜はより深い。どうか、我らにも働かせてください」


 英雄の目は穏やかだった。穏やかすぎた。深さはあるが、波は立たない。ヨハンは胸の奥の銀に触れ、視線だけでエステラを探した。彼女はアーチの上から扇を半分閉じ、鼻先で“薔薇”の匂いを追っていた。



III 猫の子と黄金の言葉


 夕刻、礼拝所に人の波が引いたあと、イーサンは一人で戻ってきた。扉を叩く音は静かで、敷居を跨ぐ足取りは軽い。彼は周囲を値踏みするように見るのではなく、棚の埃の厚みと、祈祷書の手垢の濃さを一瞥で理解するように視線を滑らせた。


「少しだけ、お時間を」


 ヨハンが頷く前に、ピックルの芯を宿した杖を抱えたボミエが奥から現れた。耳が立ち、尻尾が膝に巻き付いて、瞳は海の縁のように揺れている。


「あなたが、星を引いた猫の魔法使いだね。――見事だった」


「……ありがとニャ」


 イーサンは鞄から小さな包みを取り出した。薄い布に包まれた草――夜霧草。香りは甘く、舌の奥に薄い痺れを残す。彼は布ごとボミエの掌に置き、手を重ねる。


「緊張で指がこわばるときに、少しだけ噛むといい。声が迷いなく出る。星の線は声の呼吸で安定するから」


 ボミエの耳が微かに震えた。杖の芯が、息を止めた。冷たい花の匂いが祈りの部屋の闇に一筋の傷をつける。ヨハンは一歩前に出た。


「気遣いはありがたいが、薬草はワシの許で管理する。……猫の子の指は、震えたままでも結べるようになった」


 イーサンはあっさりと手を引き、微笑んだ。その笑みは、拒絶を咎めない。拒絶すら、彼の構図の中に最初から据えられているようだった。


「頼もしい。“震えたまま結ぶ”――それは勇気ですね」


 彼は短く礼をして、夜の薄明に溶けた。扉が閉まる前、エステラの香の糸が敷居をひと撫でしていった。


「薔薇の匂いは“人の血”にしか残らない。……彼の衣に移っていたわ」



IV 英雄の狩り、舞台の血


 翌夜、イーサンは人々の前で狩りを始めた。舞台は倉庫街の外れ、まだ完全には乾いていない潮の檻の跡。彼は群衆の前で金具を鳴らし、剣を抜いて見せ、ザードルは火炎球を灯り代わりに空へ放った。ジュロムは大槌を肩に担ぎ、喉の底から獣のような笑い声を零す。


「――潜む吸血鬼どもはこの辺りに巣を作る。生者の匂いが濃いからな」


 イーサンは指で壁の一点を示した。板を剥ぐと、そこには血の瓶がいくつも並んでいた。乾いた血、凍らせた血、砂糖でとろみをつけた血。観衆がどよめき、誰かが短く悲鳴を上げた。


「見ろ! 証拠だ!」


 ザードルは火を強め、ジュロムは大槌で壁を打ち抜いた。塩の粉が舞い、火花が散り、海風が吹き込み、瞬間、甘い焦げの匂いが街路を満たす。塩に混じった古い油――倉庫の梁に染み込んだ鯨脂が火を吸い、赤い舌をはためかせた。


「下がれ!」


 アメリアが叫ぶより早く、ザードルが笑った。


「火は征服の言葉だ」


 火炎球が一本、梁に沿って走る。次の瞬間、ルシアンが顔をしかめた。


「待て、塩気が濃い。煙が“咽る”」


 潮の霧が火に舐められ、白い煙が粘つく。肺に入った者が咳き込み、目を押さえる。ヨハンは祈りの声で群衆の呼吸を揃え、ナディアが笛のリズムで退避の合図を刻んだ。ボミエは星の線で煙の流れを割る小さな天蓋を張る。耳が震え、尻尾が足に巻き付く。


「お、俺様の出番だなァ!」


 ジュロムが咆哮し、大槌で梁を叩き落とす。火の行き場が変わり、煙が上方へ抜け、辛うじて被害は広がらなかった。群衆は咳き込みながら拍手をし、イーサンは剣先の血を布で拭った。


「小さな巣は焼けた。――だが、根は別にある」


 彼は人々に背を向けずに歩き、視線の端だけでヨハンを見た。そこに責めも嘲りもない。ただ、計算の薄い光がある。


 夜の屋根の上で、エステラは囁いた。


「舞台を作るのが上手い男だ。……でも、血の瓶が“新しすぎる”。薔薇の匂いがする」


「誰が?」


「それを嗅ぎ分けるのが、私の仕事」



V 赤い封蝋


 翌朝、ナディアの宿の扉に、赤い封蝋の手紙が挟まっていた。封蝋には蔓薔薇の紋。開けると、上等な香の匂いが鼻腔をくすぐる。紙には流麗な筆致で短い文。


 ――《満潮の夜、灯台の下で。鍵の所在について“話し合い”たい。甘い赦しの方法を》

 ――《ヴァレリアより》


 ヨハンは即座に顔を上げた。「セラフィナか」


 エステラは首を振る。「違う。薔薇は“別の庭”の匂い。ヴァレリア……夜の別派。彼女はセラフィナと同盟したり、競ったりする。……イーサンの衣についた薔薇は、この匂い」


 アメリアが低く唸る。「英雄さまは、夜と踊ってやがる」


 ライネルは壁に額を当て、目を閉じた。「恋文だ。ヴァレリアはイーサンの“恋人”だろう。二人で均衡を“演出”してきた。……街を救う英雄の影の上に、夜の花が咲く」


 ナディアは封筒の内側を指で払った。「砂糖。ほんの少し」


 ヨハンはペンダントに触れた。「鍵は渡さぬ。だが、話は聞く。――罠なら、街で受ける」


 ボミエは杖を抱きしめ、耳を伏せた。「こ、こわいニャ。でも、行くニャ」



VI 灯台の下の“甘い赦し”


 夕暮れ、灯台の根本に淡い灯りが置かれた。風に消えない、蜜蝋の厚い炎。香の匂いは甘く、海の塩を柔らかく舌に溶かす。ヴァンパイア――ヴァレリアは黒より少し薄い葡萄色の外套を纏い、月を目元に置いた。笑うと、夜が少しだけ足りなくなる。


「歓迎するわ、祈り手。可愛い猫の子も」


 ヨハンは短く十字を切った。「鍵は渡さぬ。ただ、話を」


「ええ。――わたしたちは、あなた方の“赦し”を愛しているのよ」


 ヴァレリアは微笑み、指先で灯りの縁をなぞる。「赦しは分配できる。痛みは割れる。だから、夜は飢えないで済む。あなたは扉を閉じた。わたしたちは“間”で飲む。……それで均衡が取れる」


「お前たちの均衡は、人の血の上に立つ」


「もちろん。人も海も星も、誰かの上に立っている。罪ではないわ。――あの男は言った。『街はたくましく、痛みを分け合える。だから少しだけ、夜にくれてやっても平気だ』って」


 イーサン、だ。

 ボミエの耳がぎゅっと縮む。杖の芯が低く鳴る。


「イーサンは、あなたの?」


「恋人。とても上手に踊る。昼の顔でも、夜の顔でも。あなた方が“英雄”と呼ぶとき、彼はわたしを抱き、わたしが“怪物”と囁かれるとき、彼はあなたの側に立つ。どちらも本当。どちらも甘い」


 アメリアが半歩踏み出す。「吐き気がする」


 ヴァレリアは肩をすくめ、ヨハンに視線を戻す。「鍵の話に戻りましょう。あなたの“間の鍵”。あれがあれば、満潮の門は静かに開閉できる。赦しは夜にも届く。――差し出せば、わたしたちはこの街を守るわ」


「信じろと?」


「信じなくていい。契約よ。血ではなく“薔薇”で結ぶ。香は人を食べない」


 彼女は懐から小瓶を取り出し、ボミエの前に置いた。夜霧草を混ぜた薔薇油。イーサンが差し出した草の“正体”。ボミエは一歩下がり、首を振る。


「い、いらないニャ。ピックルが、そういう匂いをきらいだったニャ」


 ヴァレリアの目が一瞬だけ柔らかくなった。「可愛い子。……あの子の芯は、まだ歌う?」


「歌うニャ。わたしの中で」


「なら、急がないで。満潮はまだ来る。あなたが鍵を“間”に挿すたび、夜はあなたの祈りの味を覚える。――そうして、いつか、どちらの痛みも等しく甘くなる」


 ヴァレリアは灯りを指で吹き消し、暗闇に溶けた。海の上で、遠い笛が一度鳴った。ナディアの合図――“戻れ”。



VII 勇者の背の“接吻印”


 夜半、イーサンはひとりで礼拝所に現れた。ヨハンは待っていた。扉の外の影にアメリア、窓辺にルシアン、柱の陰にライネル。ボミエは聖具棚の影で杖を抱き、耳を伏せ、尻尾で足を巻く。


「ヴァレリアと会ったな」


「お主は“夜”と昼の両方の鍵を回しておる」


「誰かがやらねばならない。街は結果だけを愛する。誰がどの手で何を支えたか、最後には関係ない」


「そうやって、血を甘くするのか」


「甘くするためじゃない。苦いまま飲めば、誰も続かない。赦しも、犠牲も」


 イーサンは外套を一瞬だけ外した。首筋、肩甲骨の下――薄い白い印。唇の形。接吻印。血の契約でも、焼印でもない。選んだ者だけが持つ、夜の“合図”。


 ライネルの目が細くなる。「見届け人の血が言う。お前は、扉の蝶番だ。閉めも開けもする。ただし、軋む」


「俺が軋むなら構わない」


 ヨハンは胸の銀に触れた。「鍵は渡さん。だが“間”に挿すのは続ける。――お主が夜に手を貸す間は、ワシも昼に夜の名を呼ぶ」


「それでいい。……ただし、一つだけ頼む。猫の子を“盾”にするな」


 イーサンの声は珍しく低く、熱があった。ヨハンは目を細める。


「誰の願いじゃ。お主のか、ヴァレリアのか」


「俺のだ」


 扉の外で、アメリアが剣の柄を握りしめる音が小さく鳴った。ルシアンは水を吸い、吐き、潮の拍を整える。ボミエは影の中で、杖をより強く抱きしめた。



VIII 踊る火、壊れる線


 翌夜、ザードルが港の外れで見世物のように火を弄んだ。火炎球が海面すれすれを滑り、波の上で花を咲かせる。人々は歓声を上げ、ジュロムは大槌を振り回して古い杭を打ち砕いた。


「オラオラオラオラ喰らえー俺様の一撃!!」


 杭は古い星の結び目の“杭”だった。ピックルが、最初の夜に仮で打った釘。その一本が抜け、路地の角で空気が弱く鳴いた。ヨハンは即座に鐘の人へ合図を送り、ナディアが二度、短く吹いた。ボミエが全力で走り、星の粉を手で掬うように結び直す。


「や、やめてニャ! そこ、外すと――」


 言い終わる前に、海の底から古い息が上がってきた。塩で固まった亡者の肩がひとつ、石畳の隙間に出て、乾いた指で空を掻いた。アメリアが即座に刃を落とし、ルシアンが水の低い道で肩を押し戻す。ザードルは口笛を吹き、火を指に巻き付ける。


「楽しいじゃないか」


 ヨハンの祈りが響き、ボミエの線が結び目を締め、亡者はひとつ、またひとつと塩に戻った。ジュロムは頭を掻き、「悪かったな!」と豪快に笑ったが、アメリアの目は笑わなかった。


「英雄の仲間が、街の“縫い目”を破るな」


 ザードルは肩をすくめ、イーサンのほうを見た。イーサンは小さく頷き、群衆に向き直った。


「すまない。――ここは、触れてはならない場所だ」


 群衆は彼の言葉に従い、散った。残ったのは、焦げた杭、星の粉、甘い薔薇の匂い。


 エステラが低く囁く。「舞台の整地。……次は“幕”が降りる」



IX 潮騒と血唱


 その夜半、灯台の下で二つの歌が重なった。

 ひとつはナディアの笛と鐘の律。もうひとつは、ヴァレリアの低い歌。血を甘くするための、古い夜の子守歌。海がそれに和し、潮が静かに持ち上がる。


 イーサンは灯台の中ほどに立ち、街を見下ろした。隣にヴァレリア。金と葡萄色の二人は、風の中で秘密の踊りを交わすようにわずかに身を揺らす。


「鍵は挿さないの?」ヴァレリアが甘く問う。


「挿すのは祈り手だ。俺ではない」


「あなたが挿してもいいのに」


「俺の指では、鍵穴が“間”から“欲”にずれる」


 ヴァレリアは笑い、頬に口づけの形を残した。「だから好き」


 下では、ヨハンが羊皮紙の断片を開いていた。‘主語のない赦し’。‘痛みの分配’。‘間の呼び出し’。ボミエは杖を掲げ、星の線で灯台と港、塩倉と鐘楼、海門とアーチ――街の“手と手”を結んだ。


「御坊」ルシアンが囁く。「潮が、いまなら“呼吸”に合わせられる」


「いくぞ」


 ヨハンは胸の銀を外し、掌で温め、空白に――扉と扉の隙間に――そっと触れた。


「Ex voco… Misericordia… inter manus.」


 祈りが街に落ち、星の線が柔らかく光り、潮が一度だけ深く息を吐く。ヴァレリアの歌が半音だけ揺れ、イーサンの瞳が一瞬だけ波立った。ジュロムが大槌を胸に当て、ザードルが指先の火を消す。アメリアは刃を下げ、ナディアの笛がほどける。


 海は飲まず、抱いた。夜は食わず、眺めた。

 ――“間”が勝った。


 ヴァレリアは低くため息をつき、イーサンに軽く寄りかかった。「甘い夜。あなたは、やっぱり上手」


「お前もな」


 イーサンはほとんど誰にも見えないほど小さく、灯台の縁に刻まれた古い“薔薇”の印に触れた。そこには、彼の接吻印と重なる位置があった。



X 残響と針


 夜が引き、朝の端が海の縁を淡く染めた。人々は眠り、街は一枚、薄い皮を新しくした。だが、薄皮の下の針は抜かれていない。イーサンは日向で笑い、子どもを抱き、パン屋と握手を交わす。ジュロムは子らに大槌を持たせる真似をして喝采を浴び、ザードルは小さな火花であやとりを作って見せる。


 アメリアは剣を磨き、刃に映る自分の目と向き合った。「英雄を斬る刃は、誰が研ぐ?」


 ライネルは港の外れで血の乾きを嗅ぎ、エステラは薔薇の匂いの濃淡を鼻で地図にした。ルシアンは潮の拍を数え、ナディアは笛の穴を拭いた。


 ヨハンは礼拝所の奥で、鍵を掌の中で転がした。鍵は熱を覚えている。“間”の温度。ボミエは杖を膝に置き、耳を撫で、空を見た。星は昼でもいる。見えないだけだ。


「……ヨハンさん」


「なんじゃ、ボミエ」


「イーサンさん、こわいニャ。やさしい顔が、こわいニャ。……でも、あの人、ちょっとだけ、さみしい匂いがするニャ」


「そうじゃな。蝶番は、軋む。――それでも扉が動くなら、油を差す“誰か”が要る。だが油が薔薇なら、香りに酔って落ちる者もおる」


 ボミエは小さく頷き、杖の芯に頬を寄せた。「ピックル。わたし、酔わないニャ。……こわいけど、逃げないニャ」


 杖が、朝の端で微かに鳴いた。ピックルの芯は、まだ歌う。

 鐘が一度、低く鳴り、港にパンの香りが広がる。猫が背を伸ばし、子が笑い、遠くの海で薄い霧がほどける。


 祝祭の皮膜は、今日も張られる。

 その下で針が動き、薔薇が香り、英雄が踊る。

 鍵は胸に、鍵穴は“間”に。祈りは殴るためではなく、掴むために。

 そして、夜は――甘くなるふりをして、牙を噛む。


 イーサン・ローグフェルトは、日の光に目を細め、広場の子に手を振った。その背の接吻印は外套に隠れ、彼の指先には、まだ知られざる“次の幕”の糸が絡みついていた。

 ヴァレリアの薔薇は、風に笑い、セラフィナの影は水底で瞼を開ける。均衡は傾き、また戻り、また傾く。


 ――満潮はまた来る。

 その時、誰の手が鍵を取り、誰の口が赦しを呼ぶのか。

 街は、いま、試され続けている。

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