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亡国の老騎士と夜の律に抗う者たち——  作者: 和泉發仙


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心臓室、命脈の鼓動

I 脈の口


 扉の縁に触れると、皮膚のような感触が指先を這った。呼吸を吸い込むと、全員の胸の裏で鼓動が一瞬だけ同期する。床の下で――巨大なものが「生きている」。


 ヨハンは逆薔薇を肩に掛け、短く言う。

「掴め。列はこのまま。ミナ、先の風の向きは?」

 

 ミナは風紙を片手に、薄い紙上のさざ波を読む。

「……風は奥へ吸われてる。吐き出しはない。――中は“喉”じゃなく“心臓”。往路だけがある」


 ヴァレリアが盾の革紐を締め、角をゆっくり磨いた。

「護句、掴め、礼。――戻る想定は盾で作る」


 ルーシアンは乾と曇の瓶を両腰で鳴らし、鼻で笑う。

「湿りは重い。心臓は乾きに弱い。こいつは“曇”で詰まる」


 ボミエが潮封珠を胸に当て、耳をぴんと立てる。

「わたしは……ニャ、音がないのに“脈”の匂いがするニャ。血じゃない、“名の脈”ニャ」


 ナディアは唇に笛を触れて、息だけを通した。

「嫌い……でも、輪の高さをここで合わせる」


 ミレイユは名録の余白に、句点をひとつ置く。


ここから鼓

名はあと

息は先


 ヨハンは頷き、足を踏み入れた。



II 鼓室


 室内は、円環が幾重にも噛み合った構造だった。縁と縁を縫うように、赤黒い索が空間を斜めに走る。索は鼓動に合わせて縮み、膨らむ。壁は内側から淡く明滅し、床の紋が微かに浮沈する。


 中央に、器のようなものがあった。碗にも見える巨大な凹み。覗きこめば底が見えない。碗の縁には角度の刻まれた鍵口が十二。書庫で見つけた「角度の鍵」が脳裏に重なる。


 ルーシアンが縁を指で弾いた。

「響きは低い。鳴らすと“誰か”が起きる」


 ヴァレリアが盾の角度を碗の縁に合わせ、鍵刻のひとつにぴたりと当てる。

「護句、掴め、礼――鍵は“角”で回す。……いける」


 ミナが風紙で十二の鍵口の並びを写し、ゆっくり頷く。

「順序がある。東南西北じゃない。……“脈路”の順」


 ボミエが星杖で空に点を打ち、簡単な星図を描く。

「わたしは……ニャ、“鼓図”に合わせるニャ。星の並びを“脈”に重ねるニャ」


 ナディアは輪の音をひとつ置き、室の明滅と同期させた。

「嫌い……でも、呼吸をこちらに寄せる」


 ミレイユが名録に短句を刻む。


角を回せば

脈は返る

名はあと


 ヨハンは逆薔薇の鍔で、ヴァレリアの盾の角を支えた。

「掴め。ひとつ目、合わせる」


 盾が押し回され、鍵刻が低く鳴いた。碗の縁の紋がひとつだけ緩み、室の鼓動が半拍ズレる。その瞬間、床の紋から細い黒い糸が数本、わずかに浮き上がった。


 黒糸は、誰かの名前の筋のようだった。



III 鼓取り


 黒糸はすぐに床へ戻ろうとした。ナディアが笛で引き留め、ボミエが星喉で“今”へ縫い止める。ミレイユが名録でその糸に仮の記号を与える。


「嫌い……でも、これ、誰かの“呼び名の端”」


「わたしは……ニャ、逃がさないニャ!」


 ルーシアンが曇を碗の縁に霧状に吹き付ける。

「乾きを奪って、粘るようにする。――ほら、糸が重くなった」


 ヴァレリアの盾が二刻目の角に触れ、鍵を回す。二度目の低音が、室の隅へ沈んだ。碗の底、見えない深さから、泡のようにいくつもの糸が浮いた。


 そのうちの一本が、ボミエの指先に触れた刹那、幼い笑い声がした。


 ――ただいま。


 ボミエの耳が震え、喉の奥で声が詰まる。けれど彼は頷き、笑わずに言った。

「わたしは……ニャ、いまは泣かないニャ。帰るのは“あと”ニャ。順番、守るニャ」


 ヨハンは逆薔薇の刃裏で糸を傷つけず持ち上げ、ミレイユの記号と結ぶ。

「掴め。三刻目へ。――急ぐな。速いほど、罠は深くなる」



IV 鼓守こもり


 第三の鍵が鳴った瞬間、碗の縁から何かが立ち上がった。形は鎧武者に似るが、胸の中央が空洞で、そこだけが脈動している。顔は無い。代わりに、胸の空洞の縁で薄い唇の形が「礼」を形作った。


 > 「鼓を守る。礼を尽くせ」


 ヴァレリアが一歩前へ出る。

「護句、掴め、礼。――まずは“出方”を見せて」


 鼓守は頷いた。“礼”に反応したのだ。

 次には、盾と盾が触れるように右腕を差し出す。空洞の脈が速まった。


 ミナが小声で言う。

「……“礼”と“角度”を試されてる。無礼なら、こちらの脈を取られる」


 ルーシアンが乾を指で弾き、眉をしかめる。

「内圧が上がってる。長居はできねぇ」


 ヨハンは逆薔薇を下げ、空の掌を胸の前で合わせた。

「掴め。礼は、こちらから出す。――“座”を守る礼だ」


 ヨハンは一礼し、胸の前の空間に見えない角を置くように指を折る。村々で受け継がれた最小限の祈り――誰も傷つけないための礼。ヴァレリアが盾の角を軽く打ち鳴らし、その角度を「同意」で固定する。


 鼓守の空洞がわずかに開いた。胸から、古い呼び名の切れ端がふっと零れる。


 ミレイユが素早く拾い、名録へ仮置きする。

「……古い方言。ここに暮らした“呼び”」


 ボミエが息をつき、星喉の糸でそれを“今”へ繋ぐ。

「わたしは……ニャ、喉が“返す時”を逃さないニャ」



V 鼓縫い


 第四、第五、六刻……鍵は重く、角は迷い、鼓動は速くなる。碗の底から浮く糸は増えた。中には色の薄れたもの、触れただけで灰になりそうなものもある。


 ナディアの頬が白くなっていた。笛で糸を引き留めるたび、彼女の喉の縫い跡が疼く。

「嫌い……でも、止めない」


 ヨハンは彼女の背に短く言葉を落とす。

「掴め。息は先だ。痛みは“あと”で払う」


 言い切った瞬間、碗の縁が裂け、音にならない悲鳴が室を満たした。鼓守が膝を折る。室の脈がひと跳ね、落ちる。


 ルーシアンが顔をしかめる。

「来るぞ。……“圧し”が」


 床の紋が浮き、天井が沈んだ。部屋全体が握りこまれるように狭まり、全員の耳に「自分の鼓動」が戻ってくる。その鼓動に、別の拍が重なる――心臓室の拍が仲間の拍へ「ズレ」を噛ませ、座をずらそうとする。


 ヴァレリアが盾を地へ押し当て、角で拍を切った。

「護句、掴め、礼! ――拍は“こちら”が決める!」


 ミナが風紙に大きな句点を描き、床へ貼りつけた。

「……足場、固定!」


 ボミエが星喉で“今”を貫き、ナディアが輪で拍を再配置する。ミレイユは名録の余白を切り落とし、紙片を灯と見做して置いた。そこだけ時間の皺が伸びる。


 ヨハンは逆薔薇を碗の縁へ斜めに掛け、角の鍵を二刻ぶんまとめて「押し回した」。

「掴め――一気にいく!」


 重い音。室の拍が逆らい、しかし折れた。碗の底から、太い糸が一本――生まれたての蔓のような勢いで――吐き出された。


 その糸は、誰かの“真名”に触れていた。



VI 名の芽


 糸が空に弧を描き、ナディアの輪の中を通ってミレイユの名録へ滑り込む。名録の頁が一瞬だけ眩しく光り、書かれていない言葉が一画ずつ浮かび、消えた。


 ミレイユが震える声で囁く。

「……“館の初代”。ここを“館にした者”の呼び名の芽」


 ボミエの耳が震え、尻尾が細くなる。

「わたしは……ニャ、芽はまだ弱いニャ。強く引いたら折れるニャ」


 ルーシアンが乾を垂らし、糸の表面張力を調整する。

「張りすぎず、たるませすぎず。――息で運べ」


 ナディアが小さく息を吐く。輪は低く、深い。糸はその息へ乗り、ゆっくりと碗の底から「こちら側」へ移る。


 ヴァレリアが盾で視線を遮り、鼓守の空洞をこちらから隠す。

「護句、掴め、礼。――“礼”は見せない。見せるのは“結果”だけ」


 ヨハンは逆薔薇を刃裏に返し、糸を切らずに“重さ”だけを受けた。

「掴め。――あと二刻だ。崩すな」



VII 鼓鬼


 その時、碗の底で何かが笑った。

 喉とも舌ともつかない音。乾いた爪で内側から自分の胎をひっかくようなざらつき。


 > 「――まだ、足りない」


 碗の底から、白い手が二本、三本と生えた。指先はやたらと細く、関節が逆に曲がっている。手は碗の縁を掴み、からだ半分をのし上げた。


 頭はなかった。胸の中央に「口」だけがある。縫い合わせた心の傷口を無理やり開い たような、赤い口。そこから風が吹き、名の匂いが流れた。


 ミナが風紙を握り締める。

「……“鼓鬼”。心臓が自分を守るために作った食いしろ」


 ルーシアンが舌打ちした。

「手数が多い。曇で滑らせる!」


 ナディアの輪が高く、短く鳴る。鼓鬼の手が一瞬止まり、ヴァレリアの盾が横から打ち込み、関節を「礼の角度」でひねり折る。


 ボミエが星喉で口の縁へ星の針を置いた。

「わたしは……ニャ、口を閉じさせるニャ!」


 針は鳴らずに鳴り、鼓鬼の口が一瞬だけ狭まる。その隙に、ヨハンが踏み込んだ。


「掴め!」


 逆薔薇の刃先が、胸口の“縫い目”に沿って差し入れられる。斬るのではなく、「ほどく」。喰名侯の銀糸を思い出し、言葉の節だけを狙う。


 ――ぷつ。


 音はほんの糸の音。それでも、室全体の拍がひと拍、遅れた。


 ミレイユが名録へ走り書きする。


口は節

鼓は座

名はあと


 鼓鬼の手が崩れ、碗の底へ落ちた。だが笑いは消えない。底の更に底で、別の拍が芽吹こうとしている。



VIII 十二刻


 鍵口は残り二つ。室の拍は落ち着きを取り戻しつつあるが、碗の底の「気配」は増すばかりだ。


 ヴァレリアが額の汗を拭う。

「護句、掴め、礼。――最後の二刻、同時に回す」


 ルーシアンが眉を上げた。

「無茶を言う。だが、やれる。乾と曇、両方使う」


 ミナが風紙に並べた十二の角度を指でなぞり、句点を二つ「同時」に置く。

「……息を合わせる」


 ナディアが輪を二重にし、外輪と内輪をずらして鳴らした。外輪は室、内輪は仲間。ズレが鍵の回転に「余裕」を生む。


 ボミエが星喉の糸を二本に分け、左右の鍵口へ同時に掛ける。

「わたしは……ニャ、二つの“今”を一本の“座”に縫うニャ!」


 ヨハンは逆薔薇の鍔でヴァレリアの盾角を押さえ、もう片方の角を自らの肘で回す。体は一本の針、呼吸は一本の糸。言葉は、短い。


「掴め――回せ」


 重い二音が、室の低みに吸い込まれた。次の瞬間、碗の縁に刻まれた十二の鍵が一斉に光を失い、碗の底から吹き上がっていた名の風が、すっと止まる。


 静寂。心臓室の巨大な拍が、ひとつ――、ふたつ――、三つ目で、こちらの拍と「同じ」になった。



IX 返礼


 床から持ち上げた黒糸、拾った呼び名の切れ端、芽生えた真名の芽――それらが室の中央で渦になり、ひとつの「礼」へと結ばれる。誰かの跪き方。誰かの扉の開け閉め。誰かの火の分け方――名は無い。だが、座はある。


 鼓守が静かに胸の空洞を閉じ、背を伸ばした。空洞はもう「穴」ではない。薄い膜――声を通す喉になった。


 > 「礼、受け取った」


 ミレイユが名録を閉じる。

「“館の初代”の呼び名の芽は、もうこちら側。芽のまま保存する」


 ボミエが両腕で空を抱くようにして、星喉の糸を胸に収めた。

「わたしは……ニャ、預かったニャ。ちゃんと“あと”に返すニャ」


 ルーシアンが瓶の栓をねじ緩め、肩を回す。

「内圧、落ちた。――今なら、奥へ行ける」


 ナディアが輪をほどき、喉の縫い跡を指で撫でる。

「嫌い……でも、歌える」


 ヨハンは逆薔薇を納め、短く言った。

「掴め。――“心臓”は通った。次は“血路”だ」



X 血路の扉


 心臓室の奥、壁に細い竪穴が一本走っている。人がひとり、横向きでやっと通れる幅。竪穴の四辺に、肖像画の額縁と同じ細工が刻まれていた。首を塗り潰した絵。歌を縫い止める黒。だがここには、黒の代わりに「空白」があった。


 ミナが指でなぞる。

「……ここ、“首のない歌”で封じてた。扉は“歌の欠片”で開く」


 ナディアが頷き、低い音で三音だけ置く。肖像画の間で補った欠けた旋律――あの三音。穴の縁の空白が薄く震え、白い粉がはらはらと剥がれ落ちる。


 ヴァレリアが盾の角を軽く入れ、角度を確かめた。

「護句、掴め、礼。――角度は……“鏡の額の逆”」


 ルーシアンが笑う。

「やっぱりな。裏は表の鏡。乾と曇も、今日は仲直りだ」


 ボミエが星杖で軽く叩き、星喉の針を一本だけ差し込む。

「わたしは……ニャ、扉に“今”の穴を開けるニャ」


 穴は、音もなく開いた。冷たい空気が息を奪い――同時に、遠いところで音楽が鳴った。


 ――肖像画の間で聞いた、あの“首のない歌”。


 ミレイユが名録を開き、頁の端へ指を置く。

「……呼ばれてる。額縁の向こうに、まだ“主”がいる」


 ヨハンは頷き、仲間を見た。

「掴め。続行だ。――“夜の律”は、まだ続いてる」



XI 血路の降下


 竪穴は思ったより深い。壁の四辺に刻まれた細工は、降りるほどに「首のある肖像」に変わっていく。だが顔は白紙。髪の束だけ、眼窩の影だけ――名を書かれるのを待つ紙のようだ。


 ボミエが小声で言う。

「わたしは……ニャ、これ、誰かが“首”を返す準備ニャ。……でも、誰の首を?」


 ルーシアンが肩を竦める。

「良い予感はしねぇ」


 やがて竪穴が終わり、横の回廊へ出た。そこは先ほどの肖像画の間より狭く長い。両壁に額がびっしり。額縁の内側、黒ではない。赤でもない。――色がない。完全な空白。だが額の外から、歌だけが漏れている。


 ナディアが息を呑んだ。

「嫌い……でも、これ――“誰かのための席”。まだ来てない誰かの」


 ミレイユが名録の端に震える指で一行添える。


額は座

歌は鍵

名はあと



XII 肖像画の主


 回廊の最奥に、ただ一枚だけ“塗られた”肖像があった。他と違って、首はある。顔もある。だが、その顔には「名前の筆致」がない。誰にでもなれる顔。誰でもない顔。


 額のプレートには、刻印が空で「角度」だけが刻まれていた。


 ヴァレリアが盾角をそっと当てる。

「護句、掴め、礼。――角度は“こちら”。……応えない」


 ミナが風紙を額に当て、音を拾う。

「……歌は、ここから出てる。でも、歌ってる“喉”がない」


 ルーシアンが身をかがめ、額縁の裏へ指を入れる。

「空洞だ。中に……」


 指先が、冷たいものに触れた。糸だ。銀でも黒でもない。透明な糸。


 その瞬間、額の中の顔の目が、開いた。


 > 「――遅かったわね」


 リュシアの声だった。だが姿はない。額の中の顔は、彼女の顔になったり、別の誰かの顔になったり、また白紙に戻ったりする。


 ヨハンは一歩踏み出し、逆薔薇をわずかに上げた。

「掴め。話せ。――何を“縫ってる”」


 声は笑って、泣いて、囁いた。

 > 「“誰でもない顔”の座よ。名を塗られずに歌だけを通す額。ここに“主”を招けば、夜の律は止まる。――けれど、それは“夜の律そのもの”の喉も閉じるってこと」


 ナディアが眉を寄せる。

「嫌い……でも、つまり“殺す”ってこと?」


 > 「ええ。夜の律を歌う喉を、ぜんぶ」


 ボミエが震える声で、ただ一言。

「わたしは……ニャ、それは“全部を静かにする”ニャ」


 ミレイユが名録を強く握る。

「記録も、呼び名も、歌も、祈りも。“全部”」


 リュシアの声は、少しだけ優しくなった。

 > 「だから、選びに来た。わたしたちの中で“誰が”主を招くか」


 額縁の中の顔が、ヨハンに、ナディアに、ボミエに、ヴァレリアに、ミナに、ミレイユに、ルーシアンに――順々に変わる。ひとりひとりの顔が、名前のない顔になって額の中へ収まっては、ふっと消えた。


 > 「ここは“座”。名はあと。息は先。――あなたたちの息は、どちらに置く?」



XIII 選びと拒み


 回廊全体が静まり返った。鼓動は遠く。呼吸の高さだけが、各人の胸で出入りする。


 ヴァレリアが盾を置き、低く言った。

「護句、掴め、礼。――“全部を静かにする”礼は、礼じゃない」


 ルーシアンが肩をすくめる。

「オレはうるさい方が好きだ。乾きも湿りも、音がしてるうちが生きてる」


 ミナが風紙に句点を置き、目だけで頷いた。

「……風は“止まるな”って」


 ミレイユは名録に短句を置く。


静は墓

座は息

名はあと


 ボミエは耳をぴんと立て、額縁にそっと手を触れた。

「わたしは……ニャ、“主”を招かないニャ。――でも、主の喉を“眠らせる”方法なら、選ぶニャ」


 ナディアが笛を持ち替え、輪の外側に、もうひとつ小さな輪を添える。

「嫌い……でも、歌は止めない。眠らせる」


 ヨハンは、額縁の透明な糸を指で挟み、真っ直ぐに言った。

「掴め。――“夜の律”を断つのではなく、“夜の律に抗う者の輪”を増やす」


 リュシアの声が、微かに笑った。

 > 「やっぱり、そう来ると思っていた」


 額の中の顔が、まっさらな白紙になった。透明糸がぴんと張り、額の上縁から廊下の天井へ延びる。そこに小さな「鈴のない鈴」がぶら下がった。


 > 「じゃあ、ここを抜けて。――最後の“舌”が待ってる」



XIV 肖像の雨


 進み出ようとした瞬間、回廊の両壁の額が一斉に震えた。額の中の空白から、無数の白い紙片が、雪のように――しかし重さを持って――降り始める。紙片は頬を切り、盾に当たり、音もなく床で溶けて消えた。消えるとき、耳の奥で歌の切れ端が鳴る。


 ルーシアンが唇を噛む。

「紙の雨。濡れないのに、切れる」


 ヴァレリアが盾を傘のように上げ、角で紙片の落ち方を「押し分けた」。

「護句、掴め、礼!」


 ミナが風紙を広げ、紙片の軌道に句点を打つ。

「……落ちる場所を“決める”!」


 ボミエが星喉の糸で仲間の肩と肩を縫い、隊列を一つの“座”にする。

「わたしは……ニャ、離さないニャ!」


 ナディアの輪が低く鳴り、紙片の歌を別の調へ誘導する。紙片は輪の外で勝手に降り、輪の中は空白のまま。


 ヨハンは、額の最奥――透明糸の先の鈴へ向けて、短く叫ぶ。

「掴め――“鳴らずに鳴れ”!」


 鈴は鳴らない。だが、回廊中の紙片が一斉に落下を止め、宙に静止した。次の瞬間、紙片はそれぞれ勝手に燃え、灰にもならず消えた。


 進路が開いた。



XV 舌の門


 回廊の終端に、狭い門があった。門柱には歯のような白い石が並び、上辺は柔らかい赤で湿っている。門の向こうは暗く、低く、ぬめっていた。


 ナディアが息を整え、短く言う。

「嫌い……でも、行こう」


 ボミエが頷く。

「わたしは……ニャ、星喉をまた結び直すニャ」


 ヴァレリアが盾を抱え直し、ミナが風紙を筒にして胸へ当て、ミレイユが名録に新しい頁を開く。ルーシアンが乾と曇の瓶を左右の掌で叩いて音を作り、ヨハンは逆薔薇の柄を握った。


「掴め。――舌で待つ“主”を、眠らせる」


 門が、唇のように開いた。冷たい息が吹き、遠くの奥で、笑いが反響する。


 > 「ようこそ、抗う者たち。……本当の“味”を、教えてやる」


 夜の律は、まだ終わらない。だが、その輪の外側に、もうひとつ輪が生まれつつあった。



次回予告


第90話 舌の間、味覚の契り

心臓室を越えた先、待つのは「舌」。

名を味わい、座を甘く舐め、息を塩に変える“主”の舌に、

笛の輪と星喉の針、盾の角と逆薔薇の刃で、

眠りの契りを結べるのか――。

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