闇の主、名を喰らう声
I 喉の間
扉を越えた先は、喉だった。
壁は黒く艶めき、息を吸うたびに粘膜のようにわずかに収縮する。床は薄い水膜で覆われ、足裏にぬるりとした温度を残す。
胸の裏で、ぽん/ちり/こ/く。最後のくだけが、遠くの鐘のように遅れて落ちた。
ヨハンは逆薔薇の柄を握りなおし、低く言う。
「掴め――列を崩すな。名は“あと”、息は“先”だ」
ボミエは潮封珠を胸に当て、耳をぴんと立てる。
「わたしは……ニャ、ここ、声を飲み込んでるニャ。吐き出すのは“名”だけニャ」
ナディアの笛が、指の下でひやりと冷たい。彼女はいない。鏡の階で姿を奪われたまま、声も輪も失われている。
ミナが風紙を握り、囁いた。
「……ナディアの“息”、微かにする。奥」
ヴァレリアが盾の角を撫で、角度を鈍らせる。
「護句、掴め、礼――視線をばら撒くな」
ルーシアンは乾と曇を爪先で転がし、湿りの配合を読む。
「喉は曇に鈍い。詰まらせてやろう」
ミレイユが名録の余白に点をひとつ置く。
喉は影
息は座
名はあと
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II 縫われた笛
廊下の裂け目――そこは鏡でできた横穴だった。
薄いガラス膜が呼吸のたびに波打ち、その内側でナディアが座っていた。
目は開いている。だが口元は銀糸で縫い止められ、喉元から胸のあたりにかけて薄い符が貼られている。
符には針で刺したような細字が踊っていた。〈名は縫え、息は返せ〉。
ボミエのしっぽが細く震える。
「わたしは……ニャ、許さないニャ」
鏡の膜に指を触れると、ナディアの瞳がこちらを見た。
その目は泣いていない。怒ってもいない。
ただ輪のない背中で、仲間の音を思い出そうとしていた。
ヨハンは膜から手を離し、低く息を吐く。
「掴め――あの糸は“名の筋”。切り方を間違えれば、座が剥がれる」
ルーシアンが曇の瓶を持ち上げた。
「鏡の呼吸を鈍らせる。動くなよ、猫」
「動かないニャ」ボミエは頷き、杖先に**星喉**の印を結ぶ。
「わたしは……ナディアの“今”に点を打つニャ」
ミナが風紙を鏡にそっと当て、淡い句点を浮かべた。
ミレイユが名録に短句を刻む。
口は縫う
喉は座
名はあと
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III 喰名侯
その時、声が降りてきた。
壁でも天井でもない、四方から。
氷の刃物で空気を撫でるような、細く長い男の声。
> 「名はあと。座は裏。旅人――跪け」
廊下の先、遮光のカーテンが左右に裂け、主が現れた。
痩せた背丈。黒い燕尾。顔は仮面の塔――無数の白い仮面が積み上げられ、目と口の位置が少しずつ違っている。
肩から垂れる皮手袋の束は、誰かの手であり、器の残りだ。
> 「我は喰名侯。名を戴き、座を整え、この館の礼節を保つもの」
> 「礼を尽くせ、旅人。名を預け、座の証を置け。さすれば、その笛吹きの“声”を返してやる」
ヴァレリアが一歩前へ出た。
「護句、掴め、礼――礼は払う側ではなく、守る側が決める」
ヨハンは仮面の塔を睨みつけ、短く吐き捨てる。
「掴め。こちらは“預けない”。お前が吐く番だ」
仮面がわずかに傾く。
塔全体が軋み、幾百の目の穴が笑った。
> 「抗いは美徳か。ならば、喉で覚えよ」
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IV 名の秤
喰名侯が手袋の束をほどき、空中に秤を吊るした。
皿の片側には、ヨハンたちの名前が薄い糸になって絡み合い、もう片側には過去が積もる。
ピックルの笑顔、レオンの拳、谷都の鈴、森番の無言――すべて“秤の重り”。
ボミエの耳がぴくと跳ねる。
ピックルの声が囁いた。
――ボミエ
――ぼくはここにいるよ
――星を返して
ボミエは、しっぽを床に押し当て、爪を立てる。
「わたしは……ニャ、知ってるニャ。ピックルは“返せ”なんて言わないニャ。預けたって言ったニャ」
潮封珠が淡く光った。
秤の重りが微かに浮き、糸の幾つかがほぐれる。
ルーシアンが乾を秤に一滴。
「過去は湿ると重くなる。乾かして現在へ戻す」
ミナが風紙に点を描き、秤の支点へ貼り付ける。
「……ぐらつき、止まれ」
ミレイユが名録をめくり、声を置いた。
「名はあと。息は先。」
喰名侯の塔が、ほんのわずかに歪む。
> 「なるほど。口上は学んだようだ」
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V 言葉の手術
鏡の膜にナディアの目が揺れた。
ヨハンは逆薔薇の鍔を当て、銀糸の結び目を探る。
「掴め――切るのは“言葉の節”だ。名じゃない」
ヴァレリアが盾で光を鈍らせ、仮面の塔からの視線を滑らせる。
「護句、掴め、礼。目を逸らせ」
ルーシアンが曇を鏡に吹きつけ、呼吸を遅くする。
「膜の拍動を下げる――今だ、刺せ」
ボミエの杖先に、小さな星座が組まれた。
「わたしは……“星喉”を置くニャ。声の通り道、今に結ぶニャ」
星の点が銀糸に触れる。
きん、と鈴のない鈴が鳴った。
ミナが風紙の句点を糸の結びに押し当てる。
ミレイユが短句で息の角度を記す。
糸は節
喉は今
名はあと
ヨハンが逆薔薇でひと目だけ断つ。
銀糸がほどけ、ナディアの口元から音が漏れた。
最初の音は無音だった。
次の音は、脈になった。
三つ目の音で、輪が生まれた。
ナディアが吐息と一緒に微笑む。
「嫌い……でも、ありがとう」
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VI 鎮声珠の鐘
喰名侯が一歩、踏み込んだ。
仮面の塔がずるりと伸び、百の口が同時に囁く。
> 「名はあと。座は裏。戻れ」
館全体が逆唱を始める。鏡が鳴り、床が波打つ。
ルーシアンの瓶が震え、ミナの紙がめくれ、ミレイユの記録が黒く燃える。
ボミエが、胸から鎮声珠を取り出した。
「わたしは……ニャ、この珠で逆を寝かすニャ!」
珠は鳴らずに鳴り、囁きの向きを撫でて正順へと戻す。
床の波が座になり、鏡の鳴きが静になる。
ナディアが笛を構え、背に輪を描いた。
「嫌い……でも、歌う。今のために」
音は低い。
けれど、遠い。
喉に刺さった針を一本ずつ抜いていくような、痛みのない外科。
ヴァレリアの盾が地に礼を打つ。
「護句、掴め、礼――ここは私たちの座!」
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VII 仮面の崩落
喰名侯の塔がきしみ、仮面の端が欠けた。
その裂け目から覗いたのは、誰の顔でもない“肌”。
喰らい続けて輪郭を忘れた、名の無い肉。
> 「返せ、返せ、返せ」
百の口が同時に叫ぶ。
秤が暴れ、糸が暴れ、過去が空から降ってくる。
レオンの拳、ピックルの笑み、谷都の鈴、森の橋の手――全部が武器になってこちらへ飛ぶ。
ミレイユが名録を開き、頁の中央を強く指で押した。
「句点!」
紙の上に黒い点が浮き、降ってくる過去がそこで止まる。
ミナが風紙を重ね、点を座へ変える。
「……これで足場!」
ヨハンが逆薔薇を振るう。
「掴め――今ここだけを斬る!」
刃が名の筋だけを裂き、過去の刃は風にほどけた。
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VIII 帳破り
ボミエが星杖を高く掲げた。
「わたしは……“星喉”で帳を裂くニャ! ピックル、見てるニャ? わたし、もう預けられた星に寄りかからないニャ!」
杖先に星図が組まれ、館の天井に梳かれる。
星は鏡に写らない。
だから、鏡の裏は星を覚えられない。
ルーシアンが乾を吸わせ、鏡の膜から湿りを奪う。
「割れろ。――いや、欠けろ」
鏡は割れない。だが、欠ける。
欠けは口になり、外気が入る。
ナディアの笛が二重輪を描く。
「嫌い……でも、ここで歌う。裏返しを眠らせる」
輪の中だけ、反射が消えた。
仮面の塔がその円に踏み、ひざまずいた。
> 「礼……?」
塔はわずかに首を傾げる。礼を知らない口が、初めて礼に触れた。
ヴァレリアが盾の角を塔の芯に押し当てる。
「護句、掴め、礼――膝をつけ」
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IX 名を吐かせる
ヨハンは逆薔薇の刃裏を塔の頸に当て、囁くように言った。
「掴め。――“けじめ”をつけろ」
ミレイユが短句を置く。
奪うは影
返すは礼
名はあと
ミナが風紙で塔の口元に句点を貼る。
「……喋るの、ここまで」
鎮声珠が鳴らずに鳴り、主の喉が静になった。
塔の隙間から、糸がするすると吐き出される。
薄金の紐、白銀の線、紅の髪、透明な息――盗まれた名の部品が床に積もった。
喰名侯の声は、塔の底から微かに漏れた。
> 「戻れない。顔がない。名がない。座がない」
ボミエが紐の束から銀糸を選び、鏡に囚われていた子どもの名をひとつ、結び直した。
「わたしは……ニャ、返すニャ。お前の名は“あと”。息は“先”。――帰るニャ」
鏡の奥で、泣き声がひとつだけ笑いに変わった。
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X 沈む主、浮く館
喰名侯の塔が沈む。
仮面が床にころがり、顔にならない顔が、顔をやめる。
館全体の反射が、ひとつぶんだけ薄くなった。
それでも、全部は終わらない。奥の階が口を開け、もっと深い喉が待っている。
ナディアが唇の縫い跡を舌で確かめ、痛みをごくりと飲む。
「嫌い……でも、ありがとう。まだ歌える」
ヨハンは逆薔薇を肩にかけ、短く頷いた。
「掴め――ここは終わり。次は心臓だ」
ルーシアンが瓶を拾い集め、肩をすくめる。
「喉の次は舌かもな。乾きも湿りも、まだ足りない」
ヴァレリアが盾の革紐を締め、角を布で拭う。
「護句、掴め、礼。――まだ、崩さない」
ミナは風紙を胸に押し当て、目を細める。
「……風が言う。“まだ終わらない”」
ミレイユは名録の余白に、点をふたつ並べた。
ここで一
ここから二
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XI 鏡の書庫、遺言の束
喉の間を抜けると、書庫が現れた。
棚いっぱいに鏡の書板が納められ、背表紙は名前ではなく匂いで識別されている。
レオンの塩、ピックルの星油、谷都の鉄と小麦――**記録は“名”ではなく“在”**で綴じられていた。
ミレイユが書板を一枚取り、耳に当てる。
音が出た。
それは文字の音ではなく、生活の音――踏む土の音、笑いの皺、手の温度。
彼女は微笑み、涙を落として、短句を添える。
書は在
名はあと
息は音
書庫の奥、鍵束がひとつ、紐に結ばれて吊られていた。
鍵には文字がない。代わりに、角度が刻まれている。
ヴァレリアがそれを手に取り、盾の角に合わせた。
「……心臓室の角度だ」
ルーシアンが鼻で笑う。
「館の鍵穴は“角度”で開くのかよ。面白い躯体だ」
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XII 階に降る星
書庫の天井に、小さな穴が開いた。
そこから星が一滴だけ落ちる。
ボミエが手を伸ばし、掌で受ける。
星は熱くない。冷たくもない。今の温度だった。
「わたしは……ニャ、迷わないニャ」
彼は星滴を杖先に溶かし、星喉をもう一度編み直す。
ナディアも笛を整え、輪の芯を指で撫でた。
「嫌い……でも、好き。――音の仕事」
ヨハンが階の口へ立ち、逆薔薇を握る。
「掩え――掴め。行くぞ」
足を踏み出すたび、胸の裏でぽん/ちり/こ/くが正順に重なった。
鈴のない鈴が、鳴らずに鳴る。
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XIII 微笑の伝言
降り際、書庫の陰から影が一度だけ覗いた。
白い指、昼の影、葡萄酒の薄い皮。
リュシア。
彼女は何も言わず、唇だけで約束の形を作った。
――城で。
その歩幅は、人の間隔ではなかった。
ミレイユが名録の端に、ただ一行。
昼も夜も歩く者――館を見た
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XIV 火のない灯
階段を降り切ると、灯があった。
火はない。
けれど、灯だった。
壁に人の影が揺れ、まだ名を持つ者の息がそこで温まっていた。
ヨハンはその灯の下に逆薔薇を置き、深く短く息を吐く。
「掴め――ここを“座”にする。次へ行くために」
ボミエは潮封珠を灯にかざし、星杖で点を結ぶ。
「わたしは……ニャ、次も離さないニャ」
ナディアが輪の低音を置いた。
「嫌い……でも、眠らせるのは得意」
ヴァレリアは盾で灯の角度を守り、ミナは風紙で句点を増やし、ルーシアンは湿りと乾きを同量にした。
ミレイユは名録を閉じ、灯の下に本を置いた。
それは記録であり、鎮魂であり、約束だった。
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次回予告
第88話 肖像画の間、首のない歌
館の心臓室へ続く回廊に、古い肖像画が並ぶ。
そこに描かれた者たちは、名を塗られ、首を隠され、歌だけが額縁から漏れている。
失われた“名の旋律”を取り戻すため、
逆薔薇は額縁の糸を断ち、星喉は沈黙の喉に星を置く。
名はあと。息は先。
その一行が、次の扉の鍵になる。




