鏡の迷宮、失われた影
I 終わらない廊下
階段を上りきった先――そこには、見渡す限り同じ光景が広がっていた。
どこまでも続く、鏡の廊下。
天井も、床も、壁も、全てが磨かれた鏡面で、進むたびに自分たちの姿が幾重にも反射する。
ヨハンは逆薔薇を肩にかけ、低く呟く。
「掴め。ここは“目”の中だ。焦るな。進む順も乱すな」
ボミエの耳がぴんと立ち、尾が警戒を示す。
「わたしは……ニャ、全部の“視線”がこっちを追ってるニャ。ひとつひとつが別の何かニャ」
ナディアは笛を握り、息をゆっくり吐き出した。
「嫌い……でも、音で座を刻む。――迷わないように」
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II 鏡の罠
最初の異変は、ささいなものだった。
ミナの影が、仲間たちの足元から一瞬消えたのだ。
「……今、何かが引いた」
ミナは風紙を握りしめ、蒼ざめた顔で呟いた。
ルーシアンが瓶を床に滑らせると、湿気が鏡面に広がり、淡い波紋を描く。
「鏡の“裏”が吸い込んでるな……。影を先に食って、次に“名”を持っていくつもりだ」
ヴァレリアが盾を軽く叩き、短く吐く。
「護句、掴め、礼。――誰も“視線”を外すな」
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III 失われた影
奥へ進むごとに、鏡の罠は深まった。
足跡が二重に映り、呼吸音が反響し、仲間の声が少しずつ遅れて返ってくる。
そして――。
ミレイユの影が完全に消えた。
「……え……?」
ミレイユは名録を抱えたまま、声を震わせる。
「わたしの……“座”が、揺れてる……」
ヨハンは即座に逆薔薇を構え、鏡のひとつを叩き斬った。
だが、鏡はひびを入れながらも壊れない。
代わりに、遠くから低い声が響いた。
> 「名はあと……座は裏……一つ、いただこう」
ボミエの毛が逆立つ。
「わたしは……ニャ、まだ間に合うニャ! “星”で繋ぎ止めるニャ!」
潮封珠が淡く光り、ミレイユの足元にうっすらと影が戻る。
だが、その輪郭は細く、不安定だった。
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IV 嘲笑する影
廊下の奥、歪んだ鏡がひとつだけ揺れていた。
そこから現れたのは、人間の姿を模した“何か”。
顔は仮面、声は冷たい水音。
> 「抗うな、旅人。影は借りる。名も、座も。全て“主”のものだ」
ヨハンは睨み返す。
「掴め。座も名も、渡さない!」
ルーシアンが湿気を爆ぜさせ、ヴァレリアが盾を構えて前へ出る。
ナディアの笛が鋭く鳴り、仲間の輪を結界で固めた。
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V 鏡の戦い
影が伸び、廊下いっぱいに広がる。
それは刃のように鋭く、声のように柔らかい。
ミナが風紙を舞わせ、風の盾を作る。
「……影の動きを止める!」
ボミエの星杖が青白い光を放ち、影の根元を撃ち抜く。
「わたしは……ニャ、“座”を返してもらうニャ!」
ヨハンが逆薔薇を振り抜き、影を切り裂く。
「掴め――!」
鏡が割れ、反響する声が悲鳴を上げる。
だが、完全には消えない。
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VI 深い罠
戦いが終わったかに見えたその時、床が沈み、廊下全体が歪んだ。
仲間たちの視界が揺れ、反射した像がずれていく。
> 「……一人、足りない」
ミナの声が震える。
振り返ると――そこにナディアの姿がなかった。
ボミエが耳を動かし、必死に探る。
「わたしは……ニャ、ナディアの“息”が奥からするニャ!」
ヨハンが逆薔薇を構え、低く呟く。
「掴め。追うぞ」
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VII 奥への道
奥の扉が、ゆっくりと開いた。
冷たい風が吹き抜け、誰かの笑い声が響く。
> 「来い、旅人。名を捧げよ。そうすれば“座”だけは残してやろう」
ヨハンは一歩を踏み出し、低く言った。
「掴め――必ず取り戻す」
ボミエは杖を強く握り、しっぽを震わせながら頷いた。
「わたしは……ニャ、絶対に諦めないニャ。ナディアを、仲間を、絶対に」
ルーシアンが瓶を背に回し、冷ややかに笑う。
「いいぜ。鏡ごと吹っ飛ばしてやる」
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VIII 迫る“主”の影
扉の奥は闇だった。
深く、底のない闇の中から、足音がひとつ。
そして――低い声が囁いた。
> 「ようこそ、抗う者たち。……宴の始まりだ」
闇がざわめき、冷たい風が吹き抜けた。
鏡の迷宮の奥で、“主”との戦いが始まろうとしていた。
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次回予告
第87話 闇の主、名を喰らう声
迷宮の最奥で、館の“主”が姿を現す。
名を奪う罠と、仲間を試す狂気の声。
ヨハンたちは、自分たちの“座”を守り抜けるのか――。




