潮騒の果て、星が哭く
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I 波打ち際の静けさ
夜が明けた港は、嵐の前のように不自然な静寂に包まれていた。
潮風には焦げた鉄の匂いがまだ残り、昨夜の戦いの余熱が石畳にしつこくこびりついている。
市場は開かれていない。漁船はひとつも出ていない。
街全体が、これから訪れる「満潮」を察して息を潜めているのだった。
礼拝所の鐘楼で、ボミエは星潮の杖を両手で抱き、空を見上げていた。
雲の切れ間から、昨夜と同じ星座が顔を出す。ピックルが愛した星。彼女の耳が小さく震えた。
「……もう少しだニャ。もう少しで、終わらせるニャ」
胸の奥で静かに答えるように、杖がわずかに脈打つ。
ピックルの芯がまだ生きている証だ。
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II 作戦会議
礼拝所の奥では、ヨハン、アメリア、ルシアン、ライネル、ナディアが集まっていた。
机の上には港周辺の地図が広げられ、塩倉から海門、そして灯台跡地までのルートが赤い線で引かれている。
「セラフィナは再び“満潮の門”を開く気だろう」
ライネルの声は低く重い。
「前回は鍵を“間”に挿したことで封じ込めたが、今回はそれを学んでくるはずだ。隙を与えれば街ごと飲み込まれる」
ルシアンが指で地図の海路をなぞった。
「満潮は明日の深夜だ。潮が最大まで膨らんだ瞬間、彼女は陸と海の扉を同時に開こうとする。俺たちが抑えるべきは“二つの流れ”だ」
アメリアは剣の柄を握り締める。
「セラフィナを直接叩く。彼女が立っている限り、この街に夜明けは来ない」
ヨハンは静かに頷いた。
「鍵はワシが持つ。だが、今回は“間”に預けるだけでは足りぬ。赦しを、この街全体で繋がなければならん」
ナディアは笛を指先で転がしながら微笑む。
「合図は私に任せて。鐘楼の音で街全体を一つにする」
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III 星の練習
夜になる前、ボミエは港の外れで杖の練習をしていた。
波打ち際に小さな光の線を引き、結び目を作っては解く。
その手つきは、初めて星を結んだ夜よりもずっと自然で、迷いが少なかった。
「ボミエ」
背後からヨハンの声がした。
振り返ると、老神官の顔には深い疲れが滲んでいたが、その眼差しは穏やかだった。
「……無理をしておらぬか?」
「大丈夫ニャ」
ボミエは小さく笑い、耳を揺らした。
「ピックルがいつも言ってたニャ。“怖くても線は前に走る”って。……わたし、もう逃げないニャ」
ヨハンは頷き、杖の先端を見つめた。
光の中には確かに、ピックルの軌跡が息づいていた。
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IV 満潮の夜
満潮の刻が訪れた。
港全体が淡い青光に包まれ、潮は異様な静けさを纏って膨らんでいく。
その中心――灯台跡地に、セラフィナが現れた。
黒衣の裾を翻し、冷たい笑みを浮かべて。
「また来たのね、可愛い子猫ちゃん……そして、哀れな祈り手たち」
その声が港全体に響くと同時に、海が裂け、陸と海の間に巨大な“満潮の門”が姿を現した。
潮の檻が街を囲み、空気が震える。
「鍵を差し出せば、この苦しみは終わるわ」
「黙れ、魔女め」
アメリアが剣を構え、前へ踏み出した。
その背に、ヨハン、ルシアン、ライネル、そしてボミエが続く。
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V 総力戦
戦いは一瞬で始まった。
ルシアンの水が潮の檻を裂き、ライネルの炎が影を焼く。
アメリアの剣が屍を薙ぎ払い、ナディアの笛が鐘と共鳴し、街全体の祈りを繋ぐ。
ボミエは星潮の杖を高く掲げ、星の線を港の空に描いた。
それは街全体を覆う巨大な結界となり、檻の圧力を押し返す。
「ピックル……見てるニャ? わたし、ちゃんとできてるニャ!」
だがセラフィナは冷たい笑みを崩さない。
彼女が指を鳴らすと、影が渦を巻き、街全体を飲み込むように襲いかかった。
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VI 犠牲と覚悟
港の中央、ヨハンは鍵を胸に抱き、短く祈りを紡いだ。
赦しの文句が響くと、街全体の祈りが共鳴する。
「ヨハン! 潮が逆流してる!」
ルシアンの叫びと同時に、アメリアが影の刃を防ぎきれず膝をつく。
その隣で、ボミエが必死に星の線を繋ぎ直した。
「みんなを……守るニャ……!」
杖の芯が強く脈打つ。
それはピックルの声が背中を押しているようだった。
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VII 終局
門の隙間が開き、深い闇が街を呑み込もうとしたその瞬間――
ヨハンの祈りと、ボミエの星の線、そして街全体の声がひとつになった。
「――赦しは“間”にある!」
鍵が空間に溶け、門を押さえつける力が生まれた。
潮の檻が次々に砕け、夜空が割れるように光が走る。
「ありえない……そんな祈り、聞こえるはずが――!」
セラフィナが初めて狼狽の声を上げた。
星潮の杖が最後の光を放ち、満潮の門はゆっくりと閉ざされていった。
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VIII 静寂のあと
港には、ただ波の音だけが残った。
倒れ込んだボミエの肩に、ヨハンがそっと手を置く。
「……よくやった」
アメリアは剣を支えに立ち上がり、ルシアンは港の水を浄化し、ライネルは静かに傷を押さえた。
ナディアが鐘楼から降り、安堵の笑みを浮かべる。
街は生き残った。
だが、セラフィナはまだ完全には消えていない。
その影が海の底で渦を巻いているのを、誰もが感じていた。
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IX 誓い
礼拝所で、ボミエは杖を膝に置き、静かに目を閉じた。
ピックルの芯が、微かに震えて答える。
「……ありがとニャ、ピックル。
わたし、これからも、逃げないニャ。
みんなで、この街を守るニャ」
ヨハンはその背を見守りながら、胸の奥で静かに祈った。
夜は去った。だが、闇はまだ残っている。
だからこそ、希望を絶やしてはならない。
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X 朝焼けの港
翌朝、港には柔らかな朝日が差し込んだ。
市場には少しずつ人が戻り、漁船もゆっくりと沖へ出ていく。
鐘楼の鐘は穏やかに鳴り、街は少しだけ、元の生活を取り戻し始めていた。
その高台で、ヨハンとボミエは並んで海を見ていた。
「……終わったニャ?」
「いや、まだじゃ。だが……次は勝てる」
ボミエは小さく笑い、杖を抱きしめた。
遠くの水平線に、ひとつの光が瞬いた。
それはまるで、ピックルが微笑んでいるかのようだった。




