プロローグ
序章 ― 滅びの鐘と誓いの炎
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崩れゆく聖都
「大神官様、ここはもうダメです! 北門が破られ、城壁の内側にまで奴らが入り込んでおります! レジスタンスの亜人どもが押し寄せております、どうかお逃げくだされ!」
かすれた声で叫ぶヨハンの顔は、絶望と焦燥に染まっていた。かつて神の加護を誇った聖都エルドミナス。その中心にそびえる白亜の大神殿は今、煙と血の匂いに覆われている。遠くでは瓦礫が崩れる轟音と、人々の悲鳴が絶え間なく響き、神聖な鐘の音さえ悲嘆に濁っていた。
塔の高みに佇むキリフ大神官は、燃え上がる街を見下ろしていた。その表情は、恐怖も悲しみも通り越した、どこか達観したような静けさに満ちていた。
「……ヨハンよ。ワシのことはもうよい」
その低く響く声に、ヨハンは言葉を詰まらせた。
「今後は其方が、亡き聖教国に代わり、十字聖教を──我らが神の教えを──多くの人々に伝えるのだ。たとえこの国が滅びようとも、信仰は消えぬ」
キリフは自らの胸元から銀のペンダントを外し、ヨハンの手に押し付けた。その中央には、神の象徴たる十字と古代文字の祈祷が刻まれている。
「これは……!」
「決して絶やすな。たとえお前ひとりになろうとも──」
その言葉を最後に、キリフは振り返ることなく塔の縁へと歩み寄った。そして、神に祈るように目を閉じると、静かに身を投げた。
「大神官様ーーッ!」
空を切る絶叫と、鈍い衝突音。すべてが終わったその瞬間、ヨハンの心に、神の沈黙だけが残された。
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過ぎ去りし夢
──夢か。
ヨハンは跳ね起き、荒い息を整えた。寝台の上で汗に濡れた額を拭いながら、窓の外に広がる異国の空を見やる。
あれから、もう一月が経つというのに、あの最期の光景が瞼から離れない。
夜毎に夢で繰り返される大神官の笑顔と、胸に残るペンダントの冷たさ。それは彼に逃げ道を与えず、同時に彼を立たせる唯一の支えとなっていた。
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滅びの記録
聖教国アーガリス──神を崇め、神の名のもとにすべての民を導く国。
そこでは、十字聖教徒は神の前で平等とされながらも、亜人たちは「劣った存在」として扱われ、労働に縛られ続けていた。
その矛盾は長年、国を静かに蝕んでいた。
隣国ルオ=ヴァルドがその不満を巧みに利用し、亜人たちに武器と策を与えたとき、もはや聖都を守る術はなかった。
神に選ばれし国と信じて疑わなかったアーガリスは、わずか数日のうちに瓦解した。城壁は崩れ、街路には血が流れ、大神殿の鐘は破壊され、祈りは風に散った。
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残された炎
ヨハンはペンダントを握り締めた。
あの夜、燃える塔の上で託された重み。それは今も変わらない。
「大神官様……俺は──いや、私は、必ずや神の教えを広め、聖教国を復活させてみせます」
その言葉は、自らを鼓舞するための呟きだった。だが胸の奥では、確かな決意が脈を打っていた。
まずは信徒を集めなければならない。
そのためには布教の旅に出るしかない。
目指すは南西の大陸、ルゼリア群島と呼ばれる広大な交易地帯。多様な種族が行き交い、神や文化が入り乱れるその地であれば、新たな十字聖教の芽を育てられるはずだ。
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旅立ちの朝
海洋都市マリナ-デル-ベイラの桟橋には、朝の霧が漂っていた。
波止場には、ヨハンの旅支度を積んだ小さな帆船が揺れている。
まだ薄暗い海を見つめ、ヨハンは深く息を吸い込んだ。
「待っていろ、アーガリス……必ず、もう一度あの旗を掲げてみせる」
海鳥が甲高く鳴き、潮風が髪を揺らす。
その声は、まるで滅びた祖国からの遠い呼び声のように響いた。
新たな旅路が、静かに幕を開けようとしていた。