今時の才能
その日、Tは気分が優れなかった。
湿った風が重たいとでもいうのか、
体中がだるくて、息苦しさに
時折、目眩すら覚えていた。
Tは、町の外れにある工場で、
毎日、朝早くから夜遅くまで働く
真面目な青年だった。
この何年かは、ほとんど休みもとらず、
ただひたすら働いていたのである。
だから、Tの体調が悪くなったとしても、
何の不思議もなかった。
Tはふらふらする頭で思った。
自分はなんの為に
働いているんだろう。
自分が働いて、
誰が喜んでいるんだろう。
それは、この町で暮らす
大勢の人達じゃないか。
みんな、この工場があるから、
幸せに暮らしていけるんじゃないか。
だから、もっと働くんだ。
Tは自問自答しながら、
ギリギリのところで作業を続けていた。
ある日、Tはついに気を失い、
自分が作っていたベンリダネの前で
倒れてしまった。
だが、工場で働く他の人達は、
自分達の作業を進めるのに手一杯だったし、
作業自体が、一人一人、
個別のものを作っているために、
Tが倒れても誰一人気づかなかった。
Tが倒れてから数時間は、
ベンリダネはそれまでにTが作っていた
ストックから配送されていた。
だが、やがてそのストックも底をつくと、
町のあちこちから苦情や問い合わせが
本社に入りはじめ、
ついに倉庫係から工場にも
連絡が入ってきた。
そこで、ようやくTが倒れていることに
皆が気づいたのである。
どたばたしながらも
一応、工場長が救急車を呼び、
Tは救急隊員らによって、
病院へ運ばれていった。
工場の人々は、
みんな遠巻きにその様子を眺めながら、
Tのことを話し始めた。
「働き過ぎなんじゃないか」
「溜め込む性格みたいだったわ」
「朝も、夜も見かけたけど、
何してた人かな」
「おい、君、労災にならないように
するには、どうしたらいいんだ?」
どの口からも
Tの体を心配する言葉は発せられず、
ましてや、倉庫係りが問い合わせてきた
ベンリダネのことなど、
工場長でさえ考えてはいなかった。
町では残り少なくなってきたベンリダネを、
我先にと買いあさる人々で
どの店もいっぱいになっていた。
なかには将棋倒しにあって
怪我人まで出る店もあった。
ベンリダネは人々の暮らしには
なくてはならないものとなっていて、
それが生真面目なTの仕事ぶりだけで、
生産されていたことが
誰が見破るのか
次第に明るみになっていった。
当然、Tが病院に運ばれたことは、
町中の人の知るところとなり、
そんな大事な仕事をTだけに
押し付けていたのは工場の責任だと、
糾弾しようとする者まで出てきた。
無論、一応とは言え、
工場長になっている者には
矢のような催促があり、
周りで働く人々もこれは
まずいことになってきたと、
もっともらしい理由で退職を希望する者が
後をたたなくなっていった。
しかも本社では、
工場の人間がサボっているから
おかしなことになるんだと、
今までよりもずっと厳しいルールで
ペナルティを課すようになった。
工場の壁には、そこらじゅうに
処罰の通知が掲示されるようになり、
それがまた重苦しい空気と、
従業員の絶望をもたらすこととなった。
その上、工場長や主任達は、
いつの間にか自分の家を売り払い、
とっくに別の町で、新しい生活を始めていた。
残された者たちは、
無責任な上役らの行動に幻滅し、
自分達だけが何故こんな目にあうんだと、
憤りを訴え、
ベンリダネはTでなければ作れないので、
Tを病院から連れ戻すべきだと主張し始めた。
ちょうど、工場のチェックに来ていた
本社の管理部長は、
その場の雰囲気をとりあえず抑えこもうと、
従業員の中で一番威勢の良かった男に、
Tを連れてくるように命じた。
男は威勢のいいところは
誰にも負けない自信があったし、
もちろん、力にも自信があった。
だから、担いででもTを
連れて帰りますよと、
本社のお偉いさんに愛想よく返事をし、
Tのいる病院までやって来たのである。
「この病院にTがいるのか。
えっと、Tの部屋はどこなんだ。
Tさんが入院してる部屋は
どこですかねえ?」
男は受け付けの若い女に聞いた。
「はい、Tさんなら、
一週間前に退院されて、
もうこの病院にはおられません」
若い女は名簿を確認する風でもなく、
すらすらと答えた。
男は直感的にTがいないというのは、
嘘だと思った。
「もう一度お尋ねしますがね。
Tさんが入院されている部屋は
どこなんでしょうか」
男は女の顔に自分の顔を近づけ、
目を睨み付けてもう一度尋ねた。
「五、五階の一番奥の部屋です。
特別室と書かれていますから。
すっ、すいません。ここで聞いたことは」
「わかりました。ご安心ください。
裏からこっそり入ったことにしましょう。
大丈夫ですから。ありがとう」
男はエレベーターにのり、五階に上がった。
驚いたことに、五階は赤い、
ふかふかの絨毯で敷き詰められ、
壁には有名な画家の絵が飾られ、
所々に見事な色彩の花々が
生けられていた。
男は病院らしからぬ様子に戸惑いながらも、
奥へと進み、特別室と書かれた
重厚なドアの前に立った。
「それにしても、Tはこんな場所に
本当にいるんだろうか。
いったい、どうなってるんだ」
男はそう呟きながら、ドアの取っ手を引いた。
「やあ、いらっしゃい。今日は何の相談?
あっ、院長じゃなかったんですね。
失礼しました。どちら様でしょうか?
えっと、もしかしたら工場の……
前にお見かけしたことがあります。
どうぞこちらへ」
ジーンズにポロシャツ姿の若者が、
爽やかな笑顔で男を迎えいれた。
部屋には五階の様子に相応しい、
数々の調度品が並べられ、
若者は、その中でも一番高価そうな、
応接セットの椅子を男にすすめた。
「あなたはTさん?」
男が座り、徐に尋ねる。
「そうですよ。ボクがTです」
若者が向かいの椅子に座り言った。
「そうですか。ずいぶんお元気そうで。
工場で倒れられたときは、驚きました」
「ええ、でもすっかりよくなって、
今はこの病院で治療しながら、
院長先生の相談役みたいなことを
させてもらっています」
「相談役?
何でまた…そんなに偉くなられたんですか。
道理で、病室にしては豪華だと思った」
男は部屋を見渡しながら言った。
「いやいや、偉くなんかないですよ。
院長と病室で話をしていたら、
ベンリダネを作っていたのは、
あなたですかと聞かれましてね。
それで、ボクが作ってたって言ったら
この部屋に移されたというわけです。
何でも、町ではベンリダネがなくなって、
大騒ぎになっているとかで。
この病院にもボクを訪ねて、
大勢やって来たらしくて。
不思議な話です」
「そうでしたか。
そこまでご存知なら話が早い。
Tさん、あなたがいなくなってから、
ベンリダネを作ることができず、
会社も大変なことになってるんです」
「えっ?でも工場では、
ベンリダネのことで、
みなさんから尋ねられたことは、
一度もありませんでしたし、
それに、単なるベンリダネですよ。
誰にでも作れるじゃないですか。
あっ、お茶も出さずに。ちょっと失礼。
五階ですが、コ-ヒ-を二つ頼みます」
Tは、傍にあった子機を使い、
誰かに向かって丁寧に指示した。
「とにかく、Tさん、あなたがいなくなってから、
工場は大変なことになってるんだ。
俺と一緒に工場へ戻ってくれ。
見たところ、元気そうだし、なあ、頼む。
嫌だって言われても担いで行くつもりだ」
男は大柄な体を椅子から前に突き出し、
Tに詰め寄った。
「ちょっ、ちょっと待ってください。
だいたい、どうして私ひとりがいなくなって
工場が困ることになったんでしょうか。
私の代わりにラインに入る人など、
たくさんおられたでしょうに」
Tは男の突き出た体をかわしながら、
落ち着いた口調で言った。
「だから、ベンリダネはTさん、
あなたにしか作れないんだ。
そんなことは、わかるでしょう。
ベンリダネが底をついて、
工場ではてんやわんやなんだ。
工場長はどこかへ行っちまうし」
「工場長がですか?
ベンリダネがそんなにすごい物なんでしょうか。
確かに会社の主力商品だとは
聞かされていましたが、
製造工程はマニュアル化されてますし、
何しろ、私はもう工場を
クビになってますから。戻れないはずです」
「えっ、クビになっている?」
「そうです。病院に担ぎこまれた後、
その工場長さんから連絡がありましてね。
それぐらいのことで休むんなら
クビだって言われましたから。
ボクも、会社に迷惑を
掛けたくなかったので、
工場長の言われるとおりに
退職届を送りました。
どっちみち、ボクのようなひ弱な者が、
長く働くのは無理だったんで」
「工場長の奴め…。
勝手なことしやがって。
あっ、失礼、でもそんなことは
どうにでもなりますよ。
今から、すぐに戻って、
またベンリダネを作ってください。
お願いします」
男は、とうとう頭を下げて、
泣き落としにかかろうとした。
コンコン、コンコン。
そこへ、間合いをはかったような、
上品なノックの音がした。
「失礼します」
小柄だが、凛々しい顔立ちをした
スーツ姿の美女が、
コーヒーカップを二つ、トレーに乗せ、
部屋に入ってくる。
コ-ヒ-の香ばしい香りと、
香水の微かな香りが
部屋の中に広がり、
頭を下げていた男は、
その香りに誘われるように顔をあげた。
Tは男に押し切られないように、
腕組みをしたまま話をした。
「とにかく、ベンリダネを作るために、
工場へ戻ることは、ボクにはできません。
今は、病んでいたボクを救ってくれた
院長に感謝していますし。
ここでの生活に幸せを感じていますから」
Tはそう言うと、
コーヒーを運んできた
女の顔を見た。
女も柔らかな顔になる。
「ゴホン……しかし、このままでは、
私は戻れませんよ。
本当は私だってこんなことはしたくない。
受付の女性に凄んで入り込むなんて、
嫌な気分ですよ。
Tさんがこれほど重要な人物なのに、
実際、本社で何も考えていないことの方が
問題だと思います。
管理部長に言われてここに来ましたけど、
ただ、私は仲間と約束したんですよ。
Tさんを連れて帰るとね。
いい加減な工場長とはいっしょに
なれないんですよ」
「……お砂糖とミルクは、
こちらに置かせていただきます。
失礼します」
女が滑らかな余韻を残して、
部屋から出ていった。
「ではこうしましょう。
ベンリダネ製造のコツを
あなたにお教えしましょう。
いや、なに、段取りは
マニュアル通りでいいんです。
ただ、これほど難しいように
思われるということは、
ベンリダネ製造のときの
コツがわからないんだろうと思います」
Tはそう言うと、
ポロシャツの胸ポケットから
目薬のような容器を取り出し、
目の前に置かれたコーヒーカップに、
青い液体を一滴、落とした。
「なんですか?それは」
「ベンリダネのエキスですよ。
これをコーヒーに加えて、
三分待つと、
味がマイルドになるんです。
さっきの秘書も化粧品として、
使ってます。
きめ細かい肌になります。
これは、三時間ほど待つ必要が
ありますけどね。
いかがですか?コーヒーに一滴」
Tはその容器を男に渡した。
「ど、どうも、では……あっ」
男が容器を強く押しすぎて、
数滴、コーヒーに入ってしまった。
「大丈夫です。問題はありません。
かえって頭がすっきりしますよ」
「はあ……
使い方は色々あるのはわかりますが、
作る時のコツというのは?」
「そうですね。
ベンリダネは色々なことに使えますし、
使えばそれなりに人々の暮らしを
快適にしてくれます。
でも、誰もが作れない。
作り方だけは、わかっているというのに」
「……はい」
男は、何がコツなのかが聞けると思い、
固唾をのんだ。
「実はこの病院に運ばれて、
治療しているうちに気がついたのですが、
ベンリダネを作るためには、
ガマンダネを充分に、
練りこんでいかなければならないはずです」
「ガ、ガ、ガマンダネ・・・ですか」
男の顔が強張った。
「ええ。今思えば、工場にいる間、
ボクは知らず知らずのうちに、
何年もガマンダネを練りこんでいました」
「……Tさん、
やっぱり工場に戻ってくれませんか?
この町であのガマンダネを練りこめる
人間なんて、
今時いるわけがないじゃないですか……」
威勢がよかったはずの男が
頭を抱えていた。
「……そんなことはないだろうに」
その男の姿を見ていたTは、
まろやかになったコ-ヒ-を飲みながら、
自分には特別な才能があるのかもしれないと
思い始めていた。