親になれない大人たち、親の愛情が解らない子供たち。
お久しぶりの方はお久しぶりです、初めての方は初めまして黒井です。
最近色々な出会いがありまして、その中で若い方のお話を聞く機会が幾つかあり、彼女達は孤独からか、それとも別の何かなのかは分かりませんが、行きずりのおっさんである私に色々な話をしてくれました。
その中に印象に残った少女達が抱える悩み、大げさにいえば社会的な問題が一つあり、久々にエッセイを書いてみたい、そう思い今作を書き始めました。
まぁ、何かというと親との付き合いや親からの愛情が分からない、そんな現代社会でよく耳にする言葉に込められた、少女達が抱える心の飢え、不定形の不明瞭な愛情を求める少女達の葛藤です。
年若い少女達が抱える等身大の悩みに、何の因果か私はほんの少しだけ触れる機会を与えられ、あの時私が彼女達に送った言葉は、大人として暗い闇に迷う彼女達に一筋でも光を灯す事が出来たのか?彼女達が流した涙の意味は何だったのだろうかと、ぼんやりと振り返りながら書いていこうと思っています。
その彼女達の話の中核は『親の愛情がわからない、親がうざい、あの人達は愛してくれない、自分をちゃんと見てくれない』でした。
こういった愚痴って実は若い頃もよく聞く話でした、それこそ周りの元若者の定番の話題でありましたが、月日というのは優しくも残酷で、ふと気付けば、全力で駆け抜けた青い春は随分と古ぼけた色を纏い、親や周りの大人と社会に対しての不明瞭な不満を抱えて愚痴を吐き出し、望まない社会に押し込まれて荒波のような世界に揉まれ、いつしかその中で誰かを愛して結婚をし、その人と家庭を築いて子供を育み、いつの間にか立派な愚痴を言われる側になっていたのです。
こんな風な書き出しだと、またおっさんの親世代の自己擁護か、お決まりの愛情欠乏家族の再生産なんて言葉が聞こえてきそうで怖いですが、今回語る与太話の焦点と結論はそこじゃないんですよ。
確かにこれって、親が願う子供の未来と子供が望み選びたい将来の姿の違いから来る、十~二十代位の定番みたいな問題だと捉えがちですが、なんだか私の若いころと少し様相が違うように感じるのです。
彼女達が抱える闇ってのは、実は昔の感覚で話してはいけないモノで、もっと大きな問題が落とす影が潜んでいると思うのです。
なのですが同時に、私のようないわゆるモノ申す系なおっさんが大真面目にこれを言うと、またありもしない陰謀論で陰謀老者が騒いでいる、そんな風に感じる方もいるかと思います。
なので私の話など真剣に捉えず、与太話程度に読んで「へぇ~、そんな風に感じるフレンズも居るんだねー」と軽く読んで頂けると嬉しく思います、などと軽い前置きをおいてから本題に入りましょう。
まず今の子達は、我々旧世紀の人間とは文字通り違う世界で生きています。
戦後からバブルの時代に至る迄この国が引きずっていた、所謂暴力的組織は徹底的な破壊と批判を受け壊滅し、テレビや学校では暴力的な行為は恥ずべきものとされ、風俗的問題にもメスが入れられ規制され、高度でクリーンな熟成した社会の中、少子化の影響で個人を非常に大事にされて育ってきています。
こうした世界は、ほぼ全ての若者が個人の学力に関係なく、自分の学力に見合った大学に行ける程豊かであり、その上インターネット以前の時代や黎明期と違い、ほぼ誰もがインターネットという外付けの知識へ、人類が重ねた情報の集積地へ、いつでもどこでも指先一つで触れることが出来ます。
彼らはその社会的な恩恵を一身に受けて育っているので、我々世代と比べると羨ましい位に知的で理性的な子が多い、そんな印象を私は持っています。
勿論この世代にも酷い者も居ますが、これは少子化で大事にされすぎた悪影響ででしょうね、少しばかり礼儀がない子や堪え性のない我儘な子が目立ちますが、あくまで悪目立ちするからギャップが凄いだけで、数量を相対的に見れば変な奴の割合って、他の世代とそう変わらないか、むしろ少ないのではないかと思います。
そんないかにも優秀な彼らですが、なぜか自分に自信が持てない、自分は人とうまくコミュニケーションが出来ない、自分は家族に愛されず、社会的に無価値な人間であると考える子が多いと感じます。
そういった考えが社会的な貧しさから来るのなら、私達世代でもある程度理解できそうなもんなのですが、二親揃った平均的な水準な家庭、もしくはそれ以上の家庭に育った子でも、結構な割合でコミュニケーション能力に自信が無かったりします。
そして彼らは自分が愛されていない理由について、一様に理論的に見える形で語り、自身の欠落部分について、もはや取り返すこと出来ない重大な人格的な問題である、そう決めつけているように感じます。
彼らの違和感に値する部分、本人が欠落原因だと確信出来る理論の情報源泉は大体インターネット上、特にメンタルヘルス系の情報が基礎になっており、そうした情報には優秀な検索エンジンで簡単にアクセス出来るのです。
しかもその情報の多くは医師や大学教授など権威のある人が書いた情報、よしんばそうでなくても統計を根拠にしたり、多くの人がなんとなく感じている情報の集積物で、そうした知識の集積物に対し、親が持つ経験という情報はあくまで個人が発する情報としか捉えられません。
危ない事に巻き込まれないように、人としての道を外れてくれるなと心配して口煩く自分を規制する親の言葉と、学術的な根拠がある(あるように見える)情報、自分は愛されていないと悩む少年少女はどちらを選ぶでしょう?彼らの導き出す答は悲しいほどに決まってしまうと私は考えます。
内容の良し悪しに関わらず、親が発する苦言は全て不快なノイズである。そう捉えてしまうのではないでしょうか?
こうして彼らは、我々が親に反発した時以上にインターネットの情報によって反発を加速させます。
インターネットには、自身と同じ様に悩む声は大量にあり、顔を合わせなくても素性をさらけ出さずに気軽に繋がれる、そんな仲間がいる。
こうなると最早、たった一人の凡人である大人の経験論から来る忠告など、言われる子供の側からすれば、文字通り信じるに値しない、それこそ耳障りな雑音に成り下がってしまうのでしょう。
自分が正解と思える情報は簡単に手に入り、多くの同じ悩みを持つ仲間いるネット世界がある、こうしたわかりやすさは信頼に繋がり、ひいては現実社会の大人への否定に繋がり易い構造を作っていると思います。
自らの存在価値を確かめたいと非行に走り、同様の仲間達と集まり、周りの大人に迷惑を掛けながら、現実社会でどうにか自分の居場所や関わりを確かめた親世代にとって、彼らが居場所を求めるネット世界は未知なる世界のように見えるかもしれません。
ですが、どこまで行っても我々は人間ですから、成長段階でやっている事って時代が変わったからとそう変わるものではないんです。
ネットで政治や社会批判したりするのだって、はっきり言えば学生運動などとさして変わらないし、ネットで行き過ぎた平等主義を掲げ、そう可怪しくもない人を叩くポリコレ棒と言われる行為だって、社会主義を讃えてゲバ棒振り回してた今の七十代とか、盗んだバイクで走りだしたり、夜の校舎の窓ガラスを割ってた五十代と何が変わるのって話です。
そうした精神活動の発露の場所が現実世界ではなく、インターネットに変わっただけ、彼らの求める物は誰かからの愛情や信頼であり、そういった感情自体は私達と何ら変わらないのです。
我々が現実で迷惑を掛けながら答を探した代わりに、彼らはネット世界で自らの空虚を承認欲求で満たし、真に求めている愛情や欲求の代替品として、目に見える数字の多寡で優劣を自ら決めつけ、より多くの数字を得るために無謀な行為を行ったり、危険な行為に走る暴走行為を行うのでしょう。
つまりは青春の鬱屈の吐出口がネットなだけで、やっていることにそこまで大きな変化はないのだと思います。
ですが人間というのは所詮は動物なのでしょう、冷たい無機物に表示される情報だけでは生きていけないし、多くの人が自分中心に考えがちなネットではどこか寒さを感じ、見えない格差や諍いが彼らを疲弊させるのです。
彼女達はこうした電子上の付き合いの中、常に何処かに空虚感や生き辛さを感じ、誰かの愛を求め彷徨い、心の隙間を狙う悪い男に騙されたり、逆にそうした悪い男を利用しているつもりになって、夜の街を渡り歩いたりと、見ていてとても辛い自傷的な行為に走ります。
少女達の多くは非常に気さくで、とても人懐っこくて好感が持てる子が多く、私のような年上のおっさんにも、全く物怖じしないかのように話しかけてきますが、彼女の言葉や意見に耳を真剣に傾けて聞いていると、実はそれは擬態で、その心に抱える問題の形が少しだけ見えてきます。
本当の自分はこの苦しい世界を一生懸命頑張って生きているんだ、そう訴えるように出てくる話の多くは家庭への不満、自らの理想と現実のギャップ、自分という存在への無価値感への葛藤に彩られています。
『平凡な自分は生きる価値は無い、だって平凡は自分が否定した親と同じ存在になるから自分はそう有りたくない』
これは非常に辛い自己矛盾だと思います、自らが否定したものと自分が対して変わらない生き物である、そう認めなければ先に進めない問題、そんな大きな人生の問題を一頻り語り涙を流す彼女に、私はこう言いました。
「君の抱える問題はとても辛い事だね、だけどね、貴方が全ての正解が解らなかったように、貴方の親御さんもね、きっと正解が解らなかったんじゃないかな?」
その言葉を聞いて彼女は驚きます、大人は全て自分が正しいと、自分の思いを押し付けてくるものだと思っていたから、そんな風にいう人が居ると思わなかった、そう言われました。
「確かにそういう部分はあると思う、残念だけど大人って、どうしても自分も経験したことだからキツく言ってしまう時もあると思う。でもそれは愛がないから言ってるんじゃなくて、痛いことだから避けて欲しい、愛してるから言ってる場合だってあるんだ」
でも自分の親はきっと違う、いつも喧嘩になるか無理やり認めさせられる、それが嫌で仕方ないんだと、嗚咽混じりに私に伝えてきます。
「そうか、きっとね、どうやって伝えれば良いか、答が分からなくなってるんじゃないかな?どうにかしなきゃって、親御さんも必死になって伝えようとするけど、願いや思いが見えなくて、愛しているのに言葉が届かなくって、互いの間の溝が大きくなって、悲しみや憎しみの連鎖が止まらなくなるんじゃないか、おじさんはそう思うよ」
そんなの子供を愛してたらある訳無いじゃん、うちの親はきっと違うよ、私を見てないよ、などと悲しそうに口を開く彼女に、私は一つ疑問を投げかけます。
「家族が生きていけるお金を稼ぐって実は大変なんだよ、今じゃ子供を大学に行かせるのなんて当たり前だって思うかもだけど、それこそ子供一人育てようとしたら芸能人が乗ってる高級車なんて余裕で買えるくらいのお金がかかる。君はそんな当たり前を親から与えられて生きてるんだけど、それって愛がなくても出来るのかな?」
それは分かるけど、でも親なら皆やってるし、それって当たり前でしょと、少しだけ悩みながら返してくる彼女に私は続けます。
「そうかもしれないね、でも普通の人がね、お金持ちじゃない人が行う子育ってね、それこそ人生をかけて行う事なんだ。だから少なくとも君には、自分の人生を投げ打ってでも幸せになって欲しいと願ってくれる人が居る、そうは思えない?」
彼女は何も言いません、きっと怒られていると感じているのでしょう、視線を床へと落として俯いてしまいます。けれど私は怒っているわけでも叱っているわけでも無いので、続きを話して反応を見ます。
「だから親が凄くて立派だから敬え、なんて偉そうな事をおじさんは言わない。ただ可能な限りきちんとした教育を、できるだけ多くの幸せを掴んで欲しい、そう願ってくれる人が君には居る。そういう風に自分を認めてあげれないかなって思うの、そうじゃなけりゃね、君も親御さんも報われなくて余りにも悲しすぎる、そうおじさんは思うんだ」
悲しいってどうして?別におじさんには関係なくない?と、心底不思議そうに言われますが、やっぱり私は悲しいと感じるので苦笑いで語ります。
「世の中のおっさんってね、はっきり言って馬鹿なんだ。家族のためにボロボロになるまで必死に働いて居るくせにさ、ろくに家庭を顧みなくて家に居ないでしょ?だからたまの休みに子供と話してもさ、まともな会話どころか、触れることすら上手く出来ない不器用な奴ばっか、それを仕事が忙しいから子供に関われないんだーって、勝手に理由つけてね、自分は嫌われるのだって仕方ないって諦めてる奴ばっかりなの」
確かに世の中のおっさんで仕事と家庭の両立が上手く行ってる人もいますけど、おっさんが集まる飲みの席で下手すると既婚者全員こんな事言ってるんですよ、みんな子供の事に悩んだり、自分ができた父親でもないと愚痴っているんです。
実は子持ちのおっさんって立派な父親とか、素晴らしい大人なんてそうそう居ないんですよ。
それこそ大半は立派な父親・大人でありたいと願う父親ワナビばかり、でも尊敬される父親になりたくて、一生かけて必死に自分を削って親になろうとする。
だから某社の有名なミニバンに、『父になろう』なんて馬鹿らしいキャッチコピーが付けられて、世のおっさん共は共感して子供とドライブに行こうとか考えたりするんです。
「そういうおっさんたちの情けない愚痴をね、いっつもいっぱい聞くんだけど、どのおっさんもやっぱり自分の子供には幸せになって欲しいって言ってるよ、だからせめて子供世代である君たちにさ、ちゃんと幸せを願ってくれる人が居る、そう思って欲しいな-って思う」
一応言っておきますが、別に父親の愛は生涯を掛けたアガペーであると気取る気も無いですし、伝わらないのはおっさんどもの不甲斐なさであり、時に父親を嫌うのは正常な成長に必要な親離れの一環だと思います。
その上で言います、貴方にはちゃんと自分の幸せを願ってくれる人が居た、自分は無価値ではないし、幸せを願ってくれる人がいる程に価値がある、そう自分を評価して欲しいと思います。
「だから周りに認められない自分は無価値だとか、生きる意味が無いなんて思わなくていいし、もし親の愛を信じるのが難しいなら、自分が自分の価値を認めればいい、自分自身を他人任せにしたらそれこそ解らなくなっちゃうからさ、やっぱ自分をきちんと見て自分なりに歩いて欲しいなって思うんだ」
ここまで話した所で、おじさんちょっと変わってるねと笑われてしまいましたが、俯き泣く少女の姿は何処かへ行って晴れ晴れと笑っていましたので、こんな大人に成れない私の言葉が、少しでも彼女のその後に、そして少しは世の中の役に立てればいいなと願っています。
もし彼女と同じような悩みがある方が居ましたら、私はここに書いた言葉を貴方にも送りたい、現実世界を恐れず、誰かと話してみると案外此方も悪くない、少なくとも貴方は誰かに愛されて生きているのだと、そう大人ぶって言ってみたいと思います。