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ホットミルク



 うつらうつらと。


 眠れないと思っていたのに私の脳は睡眠状態になっていたらしい。


 それでもいつもよりも眠りは浅かったから、足元に丸まって寝ていた白がパッと顔を上げた動きで目が覚めた。


「白?どうかした?」


 奥の方がジンと痺れたように痛む頭を枕から上げると、薄暗い中で輝く銀色の毛に包まれた白は青と赤茶色の瞳で廊下の方の障子をじっと見つめてピンッと立てた耳で注意深く様子を窺っている。


 まだ体は横たわっているので緊迫した状況ではないんだと思うけど、すっかり目が冴えてしまったのもあって私は眼鏡をかけながらゆっくりと起き上がった。


 湯たんぽのお蔭で快適だったお布団の中から出るとゾクリとするような冷気が部屋の中を満たしていて慌ててパジャマの上に上着を着て靴下を穿く。


「なにかあったのかもしれないから行ってみよう」


 温かいお布団は名残惜しいけど白を促して廊下へと出た。

 白いうさぎのスリッパでなるべく音がしないように歩いて進み、本堂の方へ行く外廊下にするか住居部分に向かう廊下にするかで悩む。


 白が気にしているのは本堂の方だったけど、久世家のプライベートな方からも人の気配はしていて。


 結局自分が今パジャマであることを考慮して本堂へと向かうのは止めておいた。

 もし誰かが来ているんだとしたらさすがに恥ずかしいし失礼だから。


 パタパタと小さな音をたてて廊下を行くと台所の奥の方にある流しの上の灯りだけが点いていて、廊下を挟んだ居間兼食堂の襖の隙間から明るい光りが漏れていた。


 襖に近づいて耳を澄ませると話し声はしないけど薄らと気配はあるので中にいるのは一人なのかも。


 誰か分からないままそっと襖を開けるとこちらに背を向けて座っていた男性が笑いながらこっちを振り返る。


 目尻に寄った優しげな笑い皺と穏やかな瞳に見つめられて私は動揺して固まってしまう。


「騒々しくて目が覚めてしまいましたか?」

「いや、あの、はい」


 騒々しくは無かったけど、逆に静かさを破らないままで密やかに物事が動くと空気がざわめくような落ち着かなさがあるんだと知った。


「眠れるようにホットミルクでも作ろう」

「あ!いえ、大丈夫ですっ」

「しーっ。真希子も寝てるし、多恵さんや赤ちゃんが起きてしまう。いいから座って」

「すみません……」


 唇に人差し指を当てた隆宗さんを見て私は慌てて口を両手で覆う。


 そうだった。

 まだみんな寝ている時間帯なのに大きな声出して。


 立ち上がった隆宗さんは台所へと入っていく。

 冷蔵庫を開けて牛乳を出し、小鍋に移して火にかけ、温めている間にマグカップを二つ出して戻ってきた。


「紬さんは、はちみつ大丈夫?それともお砂糖がいいかな?」


 はちみつかお砂糖か確認してくれたので「じゃあはちみつで」と答える。


「お眼が高い。真希子が混じりっ気なしの国産蜂蜜が好きでね。それをたっぷり使おう」


 どこか浮き浮きとした様子で台所へと戻っていく隆宗さんはネル素材の紺色と緑ののタータンチェックズボンを穿いて、濃いグレーのVネックのシャツと裏地がモコモコの紺色の上着を着ているのでとても若く見える。


 二十代後半の息子さんがいるようには見えないし、ラブラブな真希子さんと一緒にいるとその辺の新婚さんよりも初々しく感じるくらいだ。


「はいどうぞ」

「ありがとうございます」

「底にはちみつがあるからしっかり混ぜながら飲んで」


 くるくるとスプーンを混ぜると琥珀色のはちみつがミルクの間から時々顔を出してくる。

 ホットミルクの甘い香りと湯気に誘われるように口をつけると舌先を焼くような熱さにびっくりして身を固くすると「熱いから、ゆっくり」って笑われた。


「うう、すみません」


 反射的に謝りながら前にも似たようなことがあったなって思い出す。


 あの時は宗春さんが珍しく気を使ってくれて。

 カレーを前に食欲の無かった私に甘酒を温めて持ってきてくれたんだよね。

 すごく嬉しくて感動してたら「いらないなら僕が飲む」っていわれて、取り上げられると思ったから慌てて飲もうとして。


 いやぁ。

 あれは熱かった。


 あれに比べれば隆宗さんが作ってくれたホットミルクはふうふうして飲めば適温で飲めるくらいだ。


 隆宗さんもスプーンで混ぜながらマグカップに口をつけている。

 私と違って慎重に。


 不意に眉間に力を入れて隆宗さんがコクリとミルクを飲みこんでテーブルに置いたカップを両手で包んだまま私を見たので背筋を伸ばした。


 なにか大事なことを話してくれる雰囲気だったから。


「今、商店街の意向を伝えに雨村が来ています。恐らく宗春の提案を受け入れるという内容で間違いないでしょう」

「はい」


 朝になる前に状況が変わってしまったようだけど、それは無理もないと思う。


 龍神池の水が湧いていた場所が枯れてしまったということはそこの主である龍姫さまの身が危ういってことだから。


「私は紬さんの力に頼るという宗春の案には反対なのですが」


 途中まで固い声で続けていた隆宗さんがそこで何故か困ったように微笑んだ。

 私へと向けていた視線を下ろしてミルクの表面に貼った薄い膜をゆらゆらと両手で揺らして。


 なにをいわれるんだろうかと冷や冷やとした気持ちで次の言葉を待つのはまるで針のむしろの上に座っているみたいで正座した脛の部分がピリピリと痛い。


 反対なら反対で良いから止めを刺して欲しかった。


 腿の上に置いたマグカップから漂う甘い香りにつられて白が鼻先を近づけてひくつかせているのも空気を読んでいない感じで居たたまれない。


「どうやら」

「は、はい」


 もう一度戻ってきた隆宗さんの視線になんとか相槌を返すのがやっとだった。


「あなたは真希子の信頼と宗明の信用だけでなく、宗春にもその価値を認められているようです」

「え?」

「つまり反対しているのは私だけでして。あなたとあなたの力が必要だと三人がかりで説得されました」


 ふふっと笑って。

 隆宗さんはスプーンで膜を避けて温くなったミルクをゴクリと飲んだ。

 そして「信じられないことですよ」と呟いた。


「宗明と宗春が意見を同じくすることなど今まで一度もなかったから」


 こういう日が来るとは思っていなかったって嬉しそうな表情をされてしまうと私の心も温かなもので満たされていく気がした。


 そして隆宗さんの言葉から引っ張られて思い出したことがある。


「そういえば天音さまも前に『兄弟の意見が一致したことなどこれまで一度もなかろう』っていってて、それは宗春さんが悪いみたいな言い方をしてました」


 隆宗さんが大きく頷いてそっと溜息を吐いた。


「宗明は失敗を恐れるが故に注意深く、失敗をせんがために己にも他人にも厳しく生きてきた。宗春は逆に失敗に対して無頓着というか興味が無いからね。自分が失敗しようが成功しようがどっちでもいいと思っている」


 それが元々の性質なのか。

 それとも兄を見て自然と覚ったことなのか。


 隆宗さんもはっきりとは分からないみたいだ。


「二人の意見が割れるのは宗明が選ばなかった方を宗春が意図して選んでいるからで、宗明の話を聞かずに勝手に行動するのも」

「宗明さんのため――なんですね」

「その通り」


 宗明さんが正解を選んでも、間違いを選んでも修正がきくように別の手を打つ。

 自分のことよりも宗明さんのために。


 私を指導することを宗春さんが引き受けてくれたのも利用できる可能性があったから。


 その可能性が本当に僅かで取るに足らないものだとしても、宗明さんが選ばなかったという理由だけで宗春さんは起こり得るかもしれない“もしも”のために選んで行動するんだ。


 宗春さんの本心や意思は別にして。


 ツキンッ――と胸の辺りで痛みが走る。

 何故だか分からないけど無性に悲しくて、同時に腹立たしく思っていると隆宗さんが穏やかな瞳を翳らせて口を開いた。


「宗明と宗春が自分の感情を抑え寺の存続や己の役目を重視するようになったのは私と弟の達真たつまが原因なんです」

「隆宗さんと弟さんの?」

「私も達真も似たり寄ったりの性格でね。何度も自覚が足りないって怒られても全く堪えなかったからさすがの父も仕事さえちゃんとやってくれればと諦めてくれたんだけど」


 呑気で明るく大らかに成長した兄弟はお父さまの理想とした僧侶像というか息子像とは大きくかけ離れてしまったらしい。


「だからこそ孫に期待をかける気持ちが強かった。それを分かっていながら止められなかったことの責任は私にある」


 真面目な宗明さんは与えられる試練や修行を当然のことだと受け止めただろうし、頭の良い宗春さんは自分の役割をすぐに理解したはずだ。


 子どもの時に子どもらしく振る舞うことを許されない。

 二人の兄弟がお互いに助け合えればもっと違う未来があったのかもしれなかったんだろうけど。


 天才的な理解力と実行力を持つ宗春さんの存在は宗明さんにとっては脅威で、弱音なんか吐けないし、だからこそ必死で技術を磨き精神を鍛えるしかなくて。


 宗春さんにとって宗明さんは自分を律して他人の為に尽くす立場の人であり、生きる理由として存在する唯一の人で。


「宗明と宗春は共に居ると意識しすぎて互いに足を引っ張り合うことになるからと卒業後宗春をうちに戻さずに懇意の寺に預けていたんですが、真希子が迎えに行って強引に連れ戻してしまった」


 首の後ろを左手で撫でながら隆宗さんは「真希子はずっと自分の育て方が悪かったんだと思っていたから」と切ない声で呟いた。


「子を、人を育てるとはかくも難しいものなのかと常々思い悩んでいましたが」


 ゆっくりと口の端が上がり綺麗な弧を描いた隆宗さんの微笑みには痛んだ心を解して包み込んでくれるような温かさがあった。


「紬さんが千秋寺に来てくれるようになってから随分とここも空気が良くなったようです」

「そんな。私の方がとてもお世話になって、ご迷惑もかけてて」

「それがいいんでしょう。紬さんのように素直で可愛らしい女性と接点を持つことで宗明にも宗春にも良い刺激になっているんだと思います」


 う~ん。

 私って二人にとって良い刺激になってるのかな?


 できればこれ以上の迷惑をかけるのは避けたいというか。

 少しでも恩返しがしたいと思っているんだけど。


「特に真希子は女の子を欲しがっていたのでとても喜んでいますよ」


 千秋寺に来るたびに大歓迎してくれる真希子さんにもしかしたら娘のように思ってもらえているのかなって思ううとすごく嬉しい。


 でもほんわか癒し系で可愛い真希子さんと凛々しい中にも可愛いらしいところがある隆宗さんの間にできたお嬢さんだったらそれはそれはもう大変な美少女が生まれているに違いないなって想像しただけでもドキドキしてくるんだけど。


 そうなったら宗明さんも宗春さんも妹を溺愛して欲しい――なんて勝手な妄想を脳内で展開していると隆宗さんに名前を呼ばれて慌てて戻ってきた。


「しかし本当にいいんですか?あなたは私たちのように荒ぶる妖と対峙する修行を積んだわけでもこの町に住んでいるわけでもない。我々が頼んだからといって無理に協力する必要は無いんです。それとこれだけは伝えておきたいのですが」



 誰がなんといおうと。

 誰かがあなたを責めようとも。


「あなたのせいではないんです」


 それだけは間違ってはいけないと。


 隆宗さんの気遣いにじんっと胸を震わせながら改めて決意を口にしてゆっくりと頭を下げる。


「どうか私にやらせてください」


 顔を上げると隆宗さんは静かな眼差しで私を見ていた。

 ずれた眼鏡の位置を戻してからしっかりと視線を合せる。


「私の夢は妖や不思議と共存して生きていくこと。商店街の姿は私の夢や理想に近いんです。だからこそ守りたいんです」


 上手く想いを言葉にできたかのどうか。

 隆宗さんが「たとえ姉姫を救えたとして」と表情を厳しくして続ける。


「時が動き出した町はあなたが知る商店街とは違うものになる可能性が大きいですよ。それでも紬さんの気持ちは揺らぎませんか?」


 そう問われて私は商店街の人たちの顔を思い出す。

 八百屋の菊乃さん。

 それから和良日の直樹さんと恵子さん。

 亜紗美さんや花屋のお姉さん、和菓子屋さんの奥さん。

 居酒屋さんの娘さんの百花ちゃんも。


 みんな生き生きとしていて温かかった。

 そしてみんな笑顔だった。


 時が正常に動き出して町の風景が変わったとしても、育まれてきたみんなの温かさと笑顔はきっと変わらない。


 いつか語り部から語られる妖や不思議な話をみんなが信じなくなったとしても。

 私は今住んでいる人たちの笑顔を守りたかった。


 龍姫さまを。

 天音さまを。


 だから。


「変わりません」


 って答えると隆宗さんは「そうですか」と頷いて。


「では全力で支えましょう」


 優しく微笑んで約束してくれた。


 それから私のマグカップに残っているミルクを飲むようにいわれたので、すっかり温くなってしまった中身をぐいっと飲み干す。

 空になったカップを差し出された手に渡すと「明日から忙しくなりますから少しでも寝てください」と勧められたのでおとなしく立ち上がり部屋へと戻った。


 お布団の中はまだ湯たんぽ効果でぽかぽかで、はちみつ入りのホットミルクの力もあって今度こそぐっすりと眠れた。


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