とりあえず傍観者
女の人が男の人に乱暴されるシーンがあります。
苦手な方はブラウザバックしてください。
――――どうして?
胸が痛くなるほど切ない声が水の音に途切れながら聞こえてくる。
相変わらずなにも見えなくて自分が目を開けているのか閉じているかも分からない。
プールでどれだけ長く息を止めて潜っていられるか結と競争していた時のようにどこか遠く、幕の向こうから音の粒が歪んで聞こえているかのよう。
――――キライになっちゃったの?それとも――っちゃった?
一生懸命問いかけているのに答えて欲しい人には届かないようで、まるで小っちゃい子が泣いているかのように呼びかけは細く震えていく。
――――しぬの?このまま
それでもいいや、と水に滲んで諦めの感情が私の皮膚からじわじわと入り込んでくる。
『だめ、死んじゃダメ』
金縛りにあっているかのように指一本動かせないことがすごくもどかしい。
孤独に襲われ、誰かを必死で求める声の主があの美人な濡れ女さんだと鈍い私でも分かった。
でも知的で落ち着いた感じのお姉さんと今聞こえている子どもっぽい口調がぴったりこなくて逆に不安になる。
――――どうして?ねぇ、――は、どこにいるの?やだよぉ
――――ぃやだよ、さみしいよ
――――こわいよぉ、さむいよぉ、こわいよぉ……
『お姉さんっ!!』
お願いだから気づいて。
怖がらなくてもいい。
私はここにいるから。
『お姉さんってば!』
――――ああ、いたい……体が、――れて。バラバラに
――――やめて、やめ、やめ……ああ、いや……いやぁあ!
きっと命の危険が迫った時こんな声が出るのかもしれない。
お姉さんの苦痛と恐怖が悲鳴となって響き渡る。
それはくぐもった水の音を切り裂き、お姉さんが受けた絶望を私にも分け与えるかのように暗闇の中を青白い光がジグザグと斜めに奔った。
雷が近くに落ちた時の様に空気が振動して揺さぶってくる。
優しい漣のようなものじゃなくて、嵐で激しくうねる波のように。
私の身体はもみくちゃにされて前後も上下も分からなくなる。
始めから暗くてなにも見えないから理解できてはいないけど、感覚的に足が向いている方が下だって思ってたから。
――――ひ――い、どうして、わたし――り
すすり泣く声と涙に濡れた嘆きに私は堪らず叫んだ。
『お姉さん、私だよ!紬だよ。ここにいるよ。ここに!……え?う、あ――っ!?』
さっきよりも大きな轟音がすごい勢いで近づいてくる。
やばいと感じる前に頭の一番上から足の先まで一気に流れて、その強烈な熱量に内側から焦がされた。
燃えるように熱い。
そんな経験したこと無いけど内臓に火を着けられ皮膚が内側から炙られているみたいだ。
柔らかくて弱い部分を焼かれて私はそこから逃げようと必死だった。
これが生体エネルギーを霊に与えるということなんだとしたら、二度とやりたくないと思えるくらいの苦痛で。
このままだと体中の水分が蒸発して死んでしまう。
気管も焼け付いて喉もカラカラに乾いてる。
炎は視界までも赤く染めて私を燃料として更に燃え上がっていく。
『やだ……、死にたくない……おじいちゃん、どうしたらいいの?』
私どうすれば――?
滲む涙も呆気なく火に飲み込まれて泣くことすらできないなんて。
感じるのは熱さと痛み、そして渇き。
もう内側も外側も分からない。
輪郭も曖昧でどこからどこまでが私で、ここからどこまでが私じゃないのか区別できそうもない。
信じたことが間違いだとは思いたくなかったけど、この状況になって自分より彼女を優先することなんてできなかった。
帰りたい。
美味しいご飯と温かい家族のいる場所へ。
――――りたい
戻りたい。
――――おかあさんのところへ
寂しい。
――――どうして、むかえにきてくれないの?
痛い。
――――キライになっちゃったの?ねぇ?ねぇ?どうして?
苦しい。
――――いい子にするから、おねがい、会いにきてよぉ
だめだ、吐きそう。
『―――――っ!』
それはとても不思議な感覚だった。
そしてとても不快な感覚で。
焼け爛れた内側と外側がぐるりと裏返って、守らなきゃいけない部分を無理やり表へと引きずり出された恐怖は多分味わったことのある人じゃないと解らないと思う。
一番弱い器官や臓器を剥き出しにされた気分。
でもその代り熱も痛みも渇きも消えた。
体の自由も戻ってきて、鼻と頬の上に当たっているフレームの重さを思い出した途端に視界も開けていく。
そこは積み木やブロック、絵本やぬいぐるみが散乱した部屋だった。
どれも新しくはなくて色が剥げたり、ページや生地が破れたりしている。
十人ほどの幼稚園から小学生までの子どもがそれぞれつまらなさそうに遊んでた。
遊んでいる子たちの中にお姉さんはいない。
ゆっくりと部屋を見渡してお姉さんを探していると、映像が切り替わるようにして私は小さな医院の待合室のような場所へと移動する。
右手に真新しい絵本を胸に抱いた小さな女の子はストレートの綺麗な黒髪を揺らして左手を繋いでいる隣の若い女の人と目の前に立つ二人の女性を交互に見ている。
お願いしますと若い女性が頭を下げると五十歳ぐらいの女性が大丈夫ですよと優しく微笑んで。
三十代の女性が女の子に向こうにおもちゃもお友達もいっぱいいるから一緒に行こうと誘う。
行っておいでと繋いでいた手を解かれて背中を押された女の子は不安そうに何度も振り返りながら奥へと連れて行かれる。
若い女の人は一瞬辛そうに顔を歪めて、いい子にしてたらすぐに迎えに来るから、となんとか笑顔を作ったけれどあんまり上手じゃなかった。
その証拠に女の子は愛らしい顔を白くして目と口を丸くして立ち止まる。
女性の手を振り解いてこっちへと戻ろうとするその小さな体はすぐに抱きかかえられ身動きできなくされてしまう。
大事に抱えていた絵本が床に落ちて、暴れる女の子を抑え込むのに必死な女性の足に踏まれてぐちゃぐちゃになってた。
――――おかあさんっ!
手を伸ばして呼ぶけれど、その声に女の人は顔を背けた。
年配の女性がこれ以上はお互いに辛いですからと出入口へと追い立てて。
扉が閉まる瞬間のその僅かな時間。
女の子と女の人の視線は確かに絡み合って――でも扉に遮られて終わった。
どうやらお姉さんは孤児院で育ったらしい。
小さな子から中学生まで食堂で一斉に食べる食事の様子。
二段ベッドが六畳の部屋に二つ並んでいる部屋。
勉強机なんかあるわけないから食堂のテーブルで宿題を広げて。
変わり映えのしない服。
ボロボロのランドセル。
小さくなっても踵を踏んで履き続けている上履きや靴。
それをからかってくる同級生。
苛めほど粘質ではないけれど綺麗な女の子に対する嫉妬みたいなものは女子の中では根深くて、仲の良い友達を作ることもできなかった。
甘えることのできない環境でお姉さんは我慢することを覚え、諦めることが一番楽なんだと気づいたみたい。
時々差し入れられる甘いお菓子に群がる子たちに自分の分を譲り、施設から与えられる物――例えばノートや下敷き、筆記用具や手提げかばん――を他の子が欲しがれば惜しがらずにあげた。
――――欲しいと思うから苦しくなるんだったら、欲しがらなければいい
なにもいらないって言いながらお姉さんはここへ来た時に持っていた絵本だけは大事に大事に隠し持っていて。
誰かがこれを欲しがる日が来ることをずっと怖がってた。
すっかり色あせて、表紙もボロボロになっているのにお姉さんの中ではたったひとつの宝物だったんだよね。
幸運なことに絵本を欲しがる子はいなくてお姉さんは大切な思い出を胸に中学生になった。
この頃になるとお姉さんは美しさに磨きがかかって、その上寂しそうな瞳をいつもしていたからどうしても男の子の視線を集めてしまう。
白に紺色の襟のセーラー服は清楚なお姉さんに良く似合ってたけど、それを追う男の子たちの目はとてもいやらしくて気色が悪い。
傍で見ている私がそう感じるくらいだから実際に向けられていたお姉さんはもっと嫌だっただろう。
そしてお姉さんをいやらしい目で見ていたのは学校の男の子たちだけじゃなかった。
施設には男の人もいて、予算が少ないからか建物の修繕や手入れなんかは全部その人がやっていたみたい。
いつも白目は黄色く濁って陽に焼けた黒い顔にニヤニヤとした笑みを張り付けてお姉さんの白い肌の上をジロジロと眺めてる。
お姉さんはできるだけ二人きりにならないように気を付けてたけど、男の方がしつこく隙を窺いながら狙ってたから。
こうなることは避けられなかったのかもしれない。
お姉さんは悪くない。
悪いのは男の方。
夏休みで小さい子たちをプールへと連れて行ったせいで女性の職員は留守で、残っているのは数名の中学生ばかり。
その数名もアイス食べに行こうぜと言って出て行ったのを部屋で絵本を見ていたお姉さんは気づかなかった。
突然入ってきた男の姿。
乱暴に床を踏んでお姉さんへ近づいた。
叩き落とされた絵本の上に力任せに押し倒されて。
いやだと、やめてと叫んでも男の手が緩むことなど無くて。
無残に散る。
――――ああ、いたい……体が、割れて。バラバラになりそう……
激しく揺さぶられながらお姉さんは耐えた。
白い両脚の間にいる醜い男が許せない。
――――やめて、やめ、やめ……ああ、いや……いやぁあ!
最後の瞬間泣き叫んだけれど誰も助けてはくれなかった。
もちろん私もなにもできずに見ているだけ。
苦しくて悔しくて涙を浮かべたけど、泣いてもいい権利なんて私にはないから目を伏せた。
ふと気づくと夜の道をお姉さんが歩いていた。
両足を引きずり、膝を開けた変な歩き方。
傷ついた瞳には光が無く、疲れ果てた身体はこれ以上進めないことが分かっているのに。
お姉さんは逃げるように町の外へ向かって歩いていた。
車のライトが後ろからやってきて、白と黒の車から制服姿のお巡りさんが一人おりてくる。
運転席のお巡りさんが発見したと無線で報告していたから、いなくなったお姉さんを探して欲しいと施設の人が頼んだみたいだった。
――――ああ、どこにも行けない
車に乗せられてお姉さんは施設へ戻され、あの汚らしい男の手から大切な絵本を手渡された。
耳元で分かったか?お前はここから逃げられないんだと囁いて、いやらしい手つきでお姉さんの腿を撫で上げる。
すぐに女性の職員が来たからそれ以上はなにもされなかったけど、一度起きたことは繰り返されるし、男はやっぱりしつこかった。
何度も何度も続いた行為から逃れるためにお姉さんは中学を卒業と共に施設を出てバイトを掛け持ちして寝る間を惜しんで働いた。
一生懸命働くお姉さんに好意を抱く人は多かったし、お姉さんにも笑顔が出るようになったことは喜ぶべきことだった。
相変わらずあの絵本を大切にしていて時折眺めては離れているお母さんを思ってたみたいだけど。
成人したお姉さんに赤い車に乗っている素敵な彼氏ができてこのまま全てが上手くいってほしいと願ったけど、それならば私の元に濡れ女さんが現れることはないわけで。
運命も神さまも恨みたい。
お姉さんは小さな幸せを望んでいたのに。
子どもの頃失った温かい家庭をずっと欲しがっていたのに。
――――わたしよりあの人の方がいいの?
別れ話を持ち出された時には彼氏は次の彼女を作っていた。
もしかしたら二股をかけられていたのかもしれない。
そして愚かで憎たらしい男はお姉さんじゃなく他の女性を選んだ。
――――親に捨てられた孤児だから?中卒の学歴しかないから恥ずかしい?
そんなのお姉さんの落ち度じゃない。
そんなことを言って傷つける男の方が悪い。
別れるにしてもわざわざそんなこと言わなくてもいいのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
信じられない。
――――待ってお願い。待って!嫌いにならないで!お願い、なんでもするから
――――わたしを捨てないで
縋りついたお姉さんを男は足蹴にして、床に転んだお姉さんを力任せに組み敷いて。
殴ったり噛みついたりしながら白い肌を傷つける。
暴力的な行為なのにそれを愛だと勘違いして喜んで受け入れたお姉さんを男は頭の悪いメス豚めと蔑んで二度と戻ってこなかった。
付き合おうかって言ってくれた綺麗な夕日が見える公園。
初デートで映画を観た帰りに寄ったファーストフード店。
手を繋いで一緒に食材を買いに行ったスーパー。
初めてお酒を飲んだ居酒屋の帰り道にキスをして、お姉さんの部屋で彼と肌を合わせた。
会いたいってメールがなにより嬉しくて、わたしも会いたいと返す喜び。
お給料日の後に必ず行った焼き肉屋さん。
立ち読みしながら彼を待ったコンビニ、誕生日に予約したレストラン、暑い夏の日に海に行ったこと、クリスマスにプレゼントを交換して自分の部屋みたいに寛ぐ彼の姿――。
どこにいても彼との思い出が溢れていて、お姉さんはあの時みたいに部屋から飛び出した。
気づいたら山の中。
季節は冬。
今にも雪が降りそうな灰色の雲と土の濡れた匂いと木々の香りが充満してて眩暈がしそう。
こんなに寒いのにお姉さんは薄着で白いワンピースを着てた。
彼が似合うよって褒めてくれたワンピース。
ワンピースと同じ色のストラップのついたサンダルはどろどろに汚れて、指の間や爪の間まで真っ黒になって。
道なんてないような所をふらふらと進んで、着いた先は岩場の上。
ごうごうと勢いよく流れる音とお姉さんが岩の先から下を覗いたことでその下に水が流れ込む場所があるのだと分かる。
少し濁った水が岩と岩の間から直角に落ちていて、下の方で白い飛沫をあげて跳ね上がっていた。
高さはそんなにないけれどお姉さんが目的を遂げるためには十分な深さがあるように見える。
――――わたしいい子にしてたのに、どうして迎えに来てくれなかったの?
風に吹かれて水が舞う。
お姉さんの髪も流れて顔が見えなくなった。
――――あれでも足りなかったの?もっといい子にする方法あった?
ないよ。
あるわけない。
あれ以上頑張ることなんてできなかったし、する必要もなかった。
お姉さんは誰よりも幸せになっていいくらい我慢したし努力もしたのに。
――――おかあさん、ごめんね……もう待てないよ
白いスカートが広がってまるで天使の羽のようだった。
男の人に酷いことをされてもお姉さんは綺麗なままで。
水の中へと吸い込まれながら最後に会いたいと願ったのは愛した彼ではなく、幼い頃に別れたきりのお母さん。
渦にもみくちゃにされて何度も何度も底へ沈み、浮かび上がりながらお姉さんは肺の中の酸素を全部吐き出してゆっくりと光を失った。
私が見ている世界も色を失って白と黒で描かれた味気ない景色になる。
山の中を通って町へと続く夜の道路は街灯なんかひとつも無いから、物の輪郭も分からない。
真っ暗な中を車のヘッドライトが照らしてすごいスピードで近づいてくる。
若い男の子が好むような車の形を確かめながら目の前を通り過ぎる瞬間に迷わず飛び込んだ。
車の中は大音量で音楽が流れていた。
後部座席の革のシートに座り、ルームミラーをじっと見つめると視線を感じたのか男の子がミラー越しにこちらを見て叫び声を上げる。
めちゃくちゃにハンドルを切って車は大きく揺れた。
そのままカーブに突っこんでガードレールを飛び越えて車は消える。
――――町はまだ遠い……また車を見つけなきゃ
歪んだガードレールの傍で次の車を待ち、何度も何度も車を変えながら辿り着いた町は知っている町では無くて途方に暮れる。
背の高いビルが無数に建ち並び、人だってどこから湧いて出てくるのかと驚くほど多い。
車の渋滞。
何本も交わる大きな交差点。
迫りくる音、音、音。
――――ここじゃない、ここはどこ?
とめどなく押し寄せる音はあの日飛び込んだ滝の音に似ていてイヤだった。
次の車に乗り込んで下ろされた場所は静かな住宅街へと向かう道の途中。
私はお姉さんと出会った。
それが始まり。
お姉さんはセーラー服姿で蹲り、背中を波打たせて泣いている。
不幸ばかりで辛かった人生を泣いているんじゃないんだと私には分かってた。
死んだら全て終わるんだと思っていたお姉さんは、自ら命を絶った罰を受けて行く所へ迎え入れてもらえずに何年も何十年も彷徨い続けて。
私の所へと来るまでにたくさんの命を奪い、傷つけたことを後悔していた。
『お姉さん』
――――イヤ
触れようとした手を拒絶されて私は落ちていた薄いボロボロの本を拾い上げる。
開いてみるとどのページも破れていて物語を読み進めるのはとても難しかった。
最初のページは赤ちゃんを抱く女の人の絵があって誕生を喜んでいるんだなとなんとなく分かる。
次のページはひなまつり楽しかったねと断片的に読めた。
次に捲った場所には病院の絵となにかの薬だと分かる名前が幾つかあって。
ああ、そうかと納得した。
後は今見てきたばかりの記憶が簡潔に短く書かれていたから私はそっと閉じて表紙へ戻る。
優しいクリーム色の表紙を撫でて、その本の薄さに涙が零れた。
――――ねぇ、おかあさん来るぅ?
幼い言葉で迎えが来るのを待っているお姉さんを私は堪らず絵本ごと抱きしめた。
『来ないよ』
――――なんでぇ?
泣きじゃくるお姉さんにそういう設定なんだって言えない。
お姉さんの人生という物語の中ではお母さんが迎えに来られないように決まってた。
生きていれば迎えに来れたかもしれないけど。
――――おかあさぁん
『ごめんね。ごめんね』
生きている間に幸せになれなかったお姉さんは、死んだ後も苦しんでいる。
満たされない心を抱えて必死に愛を求めてる。
だから私は思い切って呼びかけた。
『芙美ちゃん』
私が知らないはずの名前を呼ばれてお姉さんはびくりと固まった。
『芙美ちゃんは頑張ったよ。怖いこといっぱいあったね。辛いことだっていっぱいあったけど、良いことも少しくらいはあったよね。私ちゃんと見てたよ。芙美ちゃんが頑張ってるとこずっと」
――――みてた?
『うん。いっぱい我慢して、いっぱい努力してた』
――――つむぎ
『もういいよ。頑張らなくて。お母さんも芙美ちゃんのこと大好きだったし、生まれて来てくれたことを喜んでたよ』
――――ほんと?
『お母さんだって本当は迎えに来たかったんだよ。でも事情があって来れなかった。だってお母さんは』
――――しってる、びょうきだった
『そっか』
――――ありがと、つむぎ……やさしい人
『そんなことない』
――――わたしつむぎにであえてよかった、つむぎに
お姉さんの身体が私の腕の中でゆっくりと縮んでいく。
記憶を遡る様にランドセル姿の小学生になり、施設へ来た頃の幼い姿になった。
そこで止まらずどんどん小さくなっていくから私は自分でも驚くぐらい取り乱して、お姉さんって何度も叫んでは涙を流す。
――――つむぎ、ほんとにありがと……なまえ、よんでくれて
赤ちゃんの無垢な笑顔で「ありがと」と呟いて、お姉さんは小さな種になった。
『なんで?私、お姉さんを助けたかったのに。消えないように必要なら私のエネルギーをあげようって思ってたのに』
黄緑色の種が指の隙間から落ち絵本の上に転がって、芙美と書かれたタイトルに吸い込まれて消えた。
ああ、どうしてこうなったのかな?
やり方を間違えたのか、それともこれが正しかったのか全然分からない。
分からないけどもうお姉さんは私の所からいなくなって、もう二度と会えないことだけは間違いなかった。
『ごめんね。ごめんなさい……芙美さん』
死んで霊になった人はこの後どうなるんだろう?
おじいちゃんがいるような場所へ行けるのかな?
それとも罪深いからって地獄へと落とされるのかな?
なにも分からない。
分からないから怖くて。
でも最後にありがとうって言ってくれたお姉さんの幸せそうな顔を思い出したらなんだか泣けてきて。
目を閉じた。