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目の保養



 高熱に浮かされながら怖い夢をたくさん見た。


 暗闇の中を誰かに呼ばれながら走り回り、つまづいて周りを見れば千切れた手足がそこかしこに転がっていたり。


 正体も言葉も分からない相手が近づいてくるのを掘った穴の中にじっと屈みこんで息を殺して怯えていたり。


 汗だくになりながら空腹と乾きに苦しんで、水たまりに溜まった濁った臭い水に顔を突っ込んで飲む。


 そんな夢を何度も何度も見てもがきながら浮上すると、木目模様が綺麗な天井が視界の向こうに霞んで映った。

 左側から障子越しに優しい光が射しこんで、鳥がチチチチチッと鳴く声が聞こえる。


 悪夢は終わったんだってほっとしながら手を伸ばして眼鏡をかけ、もそもそと起き上がると着ていたピンクの上下のスウェットがぐっしょりと汗で濡れているのに気づく。


「うわぁ」


 おでこや首とかの上半身だけじゃなくて膝の裏や土踏まずまで気持ち悪くて、こんなに汗を掻いたのかって感心するくらいだった。


「ん?なんか、臭い」


 体中から漂う酸っぱい匂いにドン引きしながら、なにか着替えになるものがないか視線で探していると部屋の隅に畳まれた服があるのを見つける。

 おじいちゃんの家に持って行った着替えと同じもので、手に取ると黒いニット地のワンピースとレギンスの間に下着もちゃんとあったので全部抱えてほくほくしながらお風呂へ向かう。


 広い脱衣所はひんやりしていて私が吐いた白い息がほわりと浮かぶ。

 棚からフェイスタオルとバスタオルを持って籐籠が置いてある方へと移動してスウェットを上も下も脱ぎ捨て、下着も眼鏡もさっさと外してフェイスタオルだけ持ってお風呂場へと走る。


 こちらも広いお風呂場は湯船にお湯が張られていないのでかなり寒い。

 正面にある真ん中の洗い場に座り急いでシャワーの方にレバーを切り替えてから蛇口をひねる。


 最初は冷たい水が出て「ひやっ」と縮み上がるけど、すぐに温かいお湯が出始めた。

 まずは頭をノズルの下に突き出して汗と埃と砂と自分が嘔吐したもので汚れた髪を解しながら洗う。

 お湯が当たっていない体は寒いけど、シャンプーの匂いや流れていく泡を見ているとすっきりして気持ちがいい。

 コンディショナーを揉みこんで流し、一度シャワーを止めて水気をタオルで取りひとつに纏めて結ぶ。


 後はシャワーで体の表面の汚れを落とし、ボディーソープを泡立てて擦り、洗い流してすぐに脱衣所に戻って震えながらバスタオルを羽織る。


 温まるよりも汗と汚れを落とすのが目的なので仕方がない。


 ぽたぽたと前髪から雫が垂れているのをバスタオルの端で押さえてから、さて体を拭こうと肩からタオルを滑らせようとした時だった。


 ガラリ――と音がして脱衣所の引き戸が開いた。


「へ?」


 びっくりして音がした方へ顔を向けると戸を開けた状態のまま止まっている大八さんと目が合う。


「あー」


 大八さんは一瞬視線を上に向け、それから私の顔に戻したと思ったらゆっくりと下げていくのでその視線がお腹の辺りに行きつく頃に慌てて「大八さんっ!」って大声で名を呼ぶ。

 非難の調子にはっと気づいた大八さんが「悪い」と謝って戸を閉める。


「えっとだな。この時間は風呂掃除をするのが日課なんだが、まさか紬がいるとは思わなくて」


 引き戸の向こうから大八さんの言い訳が聞こえてきて申し訳ない気持ちになった。

 昨日の状態を知っている大八さんにとって私が起きてシャワーを使っているなんて予想できない出来事だったはず。


 しかも忙しい大八さんのお仕事の邪魔をしてしまっていることが心苦しくて、自分にできるだけの速さで体を拭き上げて着替えを終わらせる。


 髪は解いて乱暴にバスタオルでごしごしと拭き、汚れものとタオルを洗濯機に放り込んでから戸を開けた。


「あの。すみませんでした」

「いいや。目の保養だった」


 ありがとなって礼をいわれるとなんだか謝り損な気がするというか、恥ずかしいものを見られたことへのもやもやが残るというか。


「お風呂使わせていただいたので、お掃除私がやります」

「いいって、いいって。紬は病み上がりなんだ。無理すんな。真希子さんが飯食べれそうだったら声かけてくれっていってたからそっち行け」

「でも」

「おいおい。おれの仕事奪ってここから追い出そうってのか?」


 眉を上げてにかっと笑った大八さんが掃除道具を手に脱衣所へと入ってくる。

 お風呂場を開けて中に道具を置き、入口でズボンの裾を雑に曲げている彼の首から長い数珠が揺れているのを見ながら私は返答に困った。


 大八さんは好きでここにいるわけじゃない。


 もし私が彼の仕事の代わりをすることで大八さんがここから出て自由になれるのだとしたら宗明さんに交渉しても構わないと思う。


 でも細々とした仕事をさせるために大八さんに数珠をかけて縛っているわけじゃないはずで。


 デッキブラシを手に取ってまだ私がそこにいることに不思議そうな顔をした大八さんが困ったように笑う。


「早く飯食ってこい。腹減って死にそうな顔してるぞ」

「そんな顔してますか?」

「おう。してる、してる」


 ひらひらと手を振り、掃除を始めた大八さんの大きな背中に「すみません。ありがとうございます」と声をかけて私は逃げるように廊下を走って真希子さんがいる居間を目指しながらきゅっと唇を引き結ぶ。


 なにもいえなかった自分が本当に不甲斐なくて悔しい。

 榊さんみたいに前向きな言葉で励ましたり、強さと優しさを見習ってみんなの力になりたいのに。


 上手くいかない。


 高望みしすぎなのかもしれないけど、目標にする人はやっぱり自分が尊敬できる人がよくて。


「あー、もう。やだなぁ……って、あれ?」


 気づけば居間を通り過ぎて玄関まで来てしまっていた。

 ぼんやりしすぎるのも、考えごとに夢中で周りが見えなくなるのも直さなくちゃ。


 とほほ。


 くるりと回って方向を変え、廊下を戻ろうとした私の目の端に黒い影が動いて「うん?」と首を傾げる。


 玄関戸のガラスの模様の向こうに黒い細長い人型のシルエットがゆらりと立っていた。


 お客さまかな?


 お客さまなら要件を聞いて内容次第では中にお通ししなくちゃいけない。


 真希子さんのサンダルを借りて土間に下りて手を伸ばしながら戸に近づく。

 把手に指を引っかけようとしたら向こうからぐいっと横に開けられて。


 いきなりがばりとその腕に抱きしめられた。


「!?」


 一体何が起きたのか。

 分からないまま固まっていると「やっと帰れた」って甘く耳元で囁かれた。


 は?は?は?

 なに?


 なにが起きてるの?


 待って!待って!?


 混乱している間にも背中に回された腕に持ち上げられるようにして抱きすくめられる。

 唇が寄せられたこめかみの辺りに嬉しそうな低い笑い声が吐息と共に響く。


 あまりにも情熱的な抱擁に危機を感じ「や、待って」と相手の上着の袖を引こうとした所で気づいた。


 目の前の人が身に着けているのが黒い僧衣だってことに。


 でも宗明さんがこんなことするわけがないし声だって少し似ているけど別物だ。


 つまり。

 この人は人違いをしている。


 そしてこの状況はまずい。


 焦りながら「あの、違います」と私が呟いたのと彼が「真希子と真希子の作るご飯が恋しくて恋しくて」とお腹の音と共に訴えたのは同時だった。


「え?」

「すみません」


 ようやく人違いだと気付き、勢いよく離れた男性は蒼白になってしまって互いに気まずく視線を逸らす。

 ぺこりと頭を下げて謝った私の背後から「た か む ね さ ん!」と地を這うような恐ろしい声が聞こえ、男性は両手を突き出して必死になって「誤解だ!違うんだ!」と言い訳を始めた。


 そしてヨレヨレに汚れた僧衣を着た隆宗さんは土間に土下座して許しを請う。

 真希子さんは冷たい眼差しを湛え腕組みをして玄関の床の上に立って隆宗さんを見下ろしている。


「家にまさか真希子以外の女性がいるなんて思わなかったんだ!しかも帰りを察して玄関に飛び出してくれるなんて以心伝心だと喜んでしまい確認を怠ってしまった。すまない!真希子!」


 読経するのがお仕事のひとつでもあるからか、隆宗さんの声は朗々と歌っているかのように通る。


 しかも「真実愛しているのは真希子だけだ」なんて言葉を傍で聞かされている方としては大変居心地が悪い。


「ほんとに?」

「もちろんだ」


 顔を上げ真希子さんの問いにすかさず答える隆宗さん。


「わたしだけ?」

「真希子だけだ」


 再度問われて大きく頷いて右手を差し出す隆宗さんを見つめる真希子さんの瞳がうるうると揺れる。


「ほんとに隆宗さんなの?」

「そうだよ」

「ほんと?」

「本物だよ」


 真希子さんが息を飲み堪らずに土間に飛び降りると隆宗さんがさっと立ち上がり、その体を優しく抱き留めた。


 離れていた時間を惜しむように隆宗さんの胸と背中に縋りつく真希子さんの指が切なくて私も思わず泣きそうになる。


 隆宗さんは真希子さんの涙を胸で受け、優しく背中を撫でて。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 涙と笑顔で交わされる挨拶に愛と温もりを感じながら足音を忍ばせて玄関に上がり、邪魔者は消えますからねと心の中で呟いて居間へと引っ込んだ。



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