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とりあえず感謝を伝えよう



「はいどうぞ。紬ちゃん」


 ほわほわ~とした笑顔は見ているだけでこちらの顔まで緩んでしまう、素敵な女性の名は久世真希子くぜまきこさん。

 鉄壁の無表情である宗明しゅうめいさんと爽やかな笑顔を浮かべながら物騒な発言を連発する宗春そうしゅんさんのお母さまだ。

 明るい茶色のふんわりヘアーを肩まで伸ばして、嫌味の無いナチュラルメイクをした真希子さんは可愛らしい色の水玉エプロンを着けて玄関で靴を履いている私にクマさんのハンカチで包まれた四角いものを差し出している。


「えっと、これは……?」

「お弁当。作ったの。朝早くからお寺(うち)に来てたら、紬ちゃんお弁当とか作れないじゃない?だから代わりにこれ持って行って?」

「でも朝ごはんご馳走になりましたし、これ以上は」

「あ……もしかしてお口に合わなかった?それならしょうがないわねぇ。無理に押し付けるのは迷惑でしかないか……」

「いいえ!とっても美味しかったです!ありがたくいただきます!」


 しょんぼりと眉を下げて真希子さんの胸元に引き寄せられたお弁当を私は速攻で奪いにかかる。

 お腹が空いているからとか、体を動かした後だからとか抜きにして用意してくれた朝ごはんはとっても美味しかった。

 丁寧に巻かれたたまご焼き、焼き目も香ばしい鮭の塩焼きにもっちりとした里芋の煮物、ホウレンソウのゴマ和えとトマトの酢漬け、なめこと豆腐のお味噌汁につやつやご飯。


 こんなに手の込んだ愛情たっぷりの朝食初めて食べた。


 お礼は言っても文句なんかあるはずないのに、真希子さんは私が遠慮したとは思わず美味しくなかったのだと落ち込んで。

 普段はお母さんが結の分と一緒に作ってくれるんだけど、朝が早いのでしばらくお昼はコンビニのお弁当にしなきゃいけないなぁと諦めていたから真希子さんの優しさと気遣いは本当にありがたい。


 だってコンビニのお弁当高くて薄給の私には――特訓が終わるまでとはいえ――毎日買うのは正直痛かったから。


「助かります。真希子さんのごはんほんとに美味しかったから」

「ほんと?ありがとう。嬉しい」


 語尾にハートマークがついているんじゃないかってくらい甘くて可愛らしい喋り方に胸がきゅんっと高鳴って私は自分の母の元気溌剌としたがさつさを思ってがっかりした。

 元気なのはいいことだし明るくて大きな声で笑うお母さんのこと大好きだけど、真希子さんの女子力の高さを前にするとどうしてもお母さんの魅力は霞んでしまう。


 肝っ玉母ちゃんって感じで、それはそれで素敵なんだけどね。


 そうなりたいかと問われれば難しいけど、明るい笑顔で家族を送り出したり迎えてくれたり――そういう所は見習いたいと思う。


「紬、遅刻すんぞ?」


 あんまりのんびりしていたからか、大八さんが竹箒と塵取りを持って玄関を覗く。

 私は腕時計を確認して今出ると出勤時間ぎりぎりになってしまうことを焦りつつ、真希子さんのお弁当を大きなトートバックの中に傾かないように洋服や小物で固定してから出勤用の鞄と共に肩にかけて靴を履いた。


「今日はありがとうございました。昨日お借りしたお洋服はまた今度お返ししますね」


 昨日のシャツとカーディガンをクリーニングに出す暇がなかったので、遅くなることを一応伝えておく。

 真希子さんは驚いたように目を丸くして首を横に振るが、その瞬間すごくいい匂いがしてまた私の胸をきゅんとさせた。


 この女性ひとどれだけ私をときめかせれば気が済むのか……。


「いいのよ。いつでも構わないし、良かったらそのまま紬ちゃんが着てくれてもいいし」

「え?そんな、それは悪いですよ」

「あ、そうよね。こんなおばちゃんのお下がりなんて若い子はいやよねぇ」

「あうあう、そんなことないです。真希子さんのお下がりなら喜んで」

「じゃあそうして?」

「ああ……なんかなにからなにまで、ありがとうございます」


 お弁当の時と同じ流れでやんわりと、かつ強引に真希子さんは自分の意思を貫いた。


 意外と強かかもしれない。

 もしくは私がチョロいのか。


「えっと、ではお邪魔しました」

「いってらっしゃい。紬ちゃん」


 顔の横で小さく手を振って見送ってくれる真希子さんに「いってきます」と返すと何故かすごく嬉しそうに瞳を輝かせて「いってらっしゃぁい」と軽く飛び跳ねる。


 眩しい。

 とても可愛くて、目がつぶれそう。


 年上の既婚女性――しかもとっくに成人している二人の息子さんがいる――の女子力の足元にも及ばないことにグサグサと自滅しながら玄関を出た。

 私に声をかけた後は掃除に勤しんでいた大八さんの逞しい腕と背中を眺めながら「大八さん、いってきます」と声をかけたら「おう、気をつけてな」と腕白小僧みたいにニカっと笑う。


 ああ、こっちも白い歯が眩しい……。


 いいなぁ。

 大八さん。

 おじさんなのにおじさんらしくないところがいい。


 ぶんぶんと大きく腕を振って送り出してくれたので、こっちも元気がもらえた気がする。

 肩にぐっと食い込んでいる荷物もなんだか軽く感じた。

 急な階段を急ぎ足で下りきって、細い道から駅へと向かう大きな通りに出て制服姿の学生さんやスーツ姿のサラリーマン、隙なく美しく着飾ったOLさんたちの中へと紛れ込む。

 人の波に飲み込まれてその一部になってしまうと身動きができなくなるし、なんだか私という個が薄れてしまいそうで不安になるのだけど、自他ともに認めるダサい服装の私はやっぱり浮いていてそのことに少し安心したりもする。

 チラチラと向けられる好奇の目は気持ちの良いものじゃないけど、私は眼鏡の位置を直して真っ直ぐ前を見た。


 この中にも人の姿をした妖が出勤を急いでいたり学校へと向かう途中で友達と何気ない会話をしていたりするかもしれない。


 そう思うといつもの風景も違ったように見えてくるから不思議だ。


 なるべく誰とも目を合わせないようにしながら改札を通ってホームへ向かい、ゴオォオっと音を立てて入ってきた電車へと押し込まれた。



  ★ ★ ★



 濡れ女さん大丈夫かなぁ……。


 結局あの後朝ごはんをいただいて着替えたりしていたら家に戻る時間が取れなくて放置したままの濡れ女さんのことが仕事中ずっと頭から離れない。

 宗春さんから「千秋寺の階段を半分までついてこれるくらいの根性ある霊なら紬が仕事終わって帰るまではもつよ」とは言われていたけどやっぱり心配だ。

 真希子さんのお弁当をいそいそと広げていると「あれ?」という高い声が背後から上がる。


「紬の今日のお弁当めちゃくちゃ可愛いんだけど?自分で作った?」


 事務所から徒歩五分の位置にあるコンビニの袋を下げて戻ってきた高橋先輩が驚いたような顔でお弁当を凝視している。

 目鼻立ちがはっきりしているのにまつ毛のエクステを装着しているので、目を見開くと目のお化けみたいになって怖いのでやめてもらいたい。


 でも高橋先輩が食いつくのもよく分かる。


 真希子さんのお弁当は朝いただいた卵焼きを斜めに切ってからハート形になるようにして詰めてあったり、人参が星形にくり抜かれていたり、ミートボールが可愛いクマさんのピックに刺さっていたり、ウィンナーがカニさんだったり、おにぎりが一口サイズでそれぞれ違う味がついていたり彩りにミニトマトやブロッコリーまで入っていて手がかかっていることが見ただけで分かった。


「いえ……今日は知り合いの方が作ってくださって」

「あー……確かに、紬じゃこんなセンス良いの作れないか」

「……否定はしません」

「あ~あ!私も料理上手で毎日美味しいお弁当作ってくれる彼氏欲しいー」


 ギッという音を立てて左隣の椅子に座った高橋先輩は口癖の「彼氏欲しい」を披露する。

 朝の挨拶代わりに「彼氏欲しい」と呟き、親しくしている別の土木会社の爽やか営業マンと楽しくお喋りして彼が帰った後で「あんな彼氏が欲しい」と悶え、他人の可愛いお弁当を見てめでたく本日三度目の「彼氏欲しい」発言をいただきました。


「先輩美人だし、積極的なのになかなか彼氏できませんよね?」


 胸に羨ましいぐらいの膨らみと細くくびれたウェストときゅっと上がった小さなお尻をお持ちの高橋先輩は何故かいい雰囲気になっても彼氏を作れない。

 それがとても不思議で世の中の男性は一体どこを見ているのかという憤りでいっぱいなんだけど、人には好みというものがあるので箸を持った手をぎゅっと握り締めるしかできなかった。


 無力だ。


「……肉食系女子を草食系男子は怖がるからね」

「はあ?そんなもんですか」

「紬は?男いないの?この人素敵!とか、この人と付き合いたい!とかさ」

「おとこ……」


 溜息をひとつ吐き出して高橋先輩はお口をあ~んと大きく開けてメロンパンへと齧り付く。

 チラリと袋の中にあるから揚げやおにぎり、パスタと食後のプリンを確認して私も大きく溜息をついた。

 先輩は暴飲暴食をしてカロリーを大量に摂取しても、太る気配が無くて本当に羨ましい。


「いいですね、先輩は。どうやってそのスタイルを維持しているか教えてくださいよ」

「ん?なに?急に。少しは身なりに気をつけようかって気持ち出てきた?」

「や……まぁ、コンプレックスが少しでも解消できたらいいなぁとは思ってますよ。随分前から」

「なぁに?随分前から思ってるのになんもやってないわけ?そりゃないわ」


 ガサガサとおにぎりの包みをむきながら高橋先輩は天井を仰ぐ。

 直ぐに目の前のおにぎりへと視線を下ろしてぱくぱくと平らげる。


「思ってるだけで現状が変わるくらいなら誰も苦労はしないわよ。私だってジム行ったり、食べ過ぎた後は甘いものや脂っこいものひかえたりして体重コントロールしてるんだから」


 頬をぷくりと膨らませ次にコーヒー牛乳にストローを刺した高橋先輩の横顔は少し幼く見えた。


「私、人間ってだいたいが食べてるものでできてると思うんだ。

 口から摂取するものってさ、体の中を通って行くじゃない?できればちゃんと手作りされたものを入れたいし、栄養価の高いものを食べたいけど、その時によって食べたいものって違う訳よ。

 疲れてる時は甘いもの食べたいし、嫌なことあるとビール飲みたくなるし。食べ過ぎたり飲み過ぎたりで後悔しても、結局お腹が空いたらそんなこと忘れちゃう」


 私は欲求に忠実な人間なのよ、と胸を張ってパスタの透明の蓋へ手をかける。

 クリーム系のこってりとした匂いが漂う。


「つまり紬には綺麗で理想的な身体に見えるんだろうけど、私を形作っているのはコンビニ弁当やアルコール、どぎつい糖分とこってりとした脂質と添加物で成り立っているわけよ。それに比べたらお母さんの手料理やお弁当を毎日食べてる紬の身体の方が健全で美しいと私は思うんだけどさ」

「……先輩は独り暮らしだから」

「しょうがない?まあね、焦ってジム行って後から節制するくらいなら自炊して日頃から気にかけてりゃいいんだろうけど、そういうの性に合わない」


 先輩の大きな目が私を見つめて「あんたは恵まれてる」と指摘する。


「……ですね」


 私は頷いて手元のお弁当を見下ろす。

 真希子さんが作ってくれたお弁当には食べる私の健康や喜んでくれるかなという優しい思いがおかずと共に詰まっていた。

 いつもお母さんが作ってくれるお弁当は茶色いけど、食べなれた味付けや私の好みをよく知っているぶん安心感がある。

 昨日となるべくおかずが被らないようにしてくれたり、口喧嘩した次の日でも変わらずお弁当を用意してくれたり。

 そういえば家族のために朝昼晩とメニューに頭を悩ませて作ってくれているお母さんにちゃんと「ありがとう」と伝えたこと無かった気がする。


 大変なのに当たり前だって思って感謝もしないなんて。


 二十三年間も家事をお母さんの世話になっている私が将来家を出ることになった時ちゃんとできるかどうか自信がない。


 きっと高橋先輩の様に外食で簡単にすませることを選ぶと思う。

 そして努力をしない私はどんどんとコンプレックスを加速させていくんだ。


 恐ろしい……。


 とにかく今日は定時で帰って濡れ女さんにエネルギーを分けてあげてから、照れくさいけどお母さんにありがとうって言ってみよう。




 午後の業務は全く手がつかなかった。


 濡れ女さんが心配だとか、これからどうなるんだろうとかいう不安からじゃなく襲いくる眠気との戦いで必死だっただけだけど。

 なんとか眠らずに済んだのは隣から高橋先輩がなにかと話しかけてくれたのと、いつも以上に飲んだコーヒーのお蔭かもしれない。


「お疲れさまでした!」


 事務所に現場に出ている作業員が戻ってくる前に私は退勤を押して制服のまま飛び出した。

 いつもなら私服に着替えて帰るんだけど、今日はそんなこと構ってられない。

 会社から家まで徒歩圏内なので歩いて帰るんだけど、急いでいる時の片道二十分は結構遠いんだなぁ。

 もどかしくて小走りになりながら家を目指していると、お出汁と醤油の匂いが風に乗って運ばれてきた。


 ああ、お母さんの煮物の匂いがする。


 家の煮物は昆布と干しシイタケの出汁を使っていて美味しいんだよね。

 真希子さんの里芋の煮物も美味しかったけど、私はお母さんの煮物が一番好きで今までそれを超える煮物と出会ったことが無い。


「ただいまぁ!」


 玄関を引き開けると家じゅう美味しい匂いが溢れて幸せな気持ちになる。

 荷物を持ったまま「おかえりぃ」と返ってきた台所へと顔を出すと、お母さんはまな板に乗せたかぼちゃと戦っていた。


「ん?どうしたの、紬。今日は早いじゃない」

「うん、ちょっとね」

「しかも着替えずに帰って来るなんて、この後でかけるの?」

「いや、さすがに早起きしたから疲れてるし出かける予定もないし」


 急いで帰ってきた私を振り返りお母さんはふっくらとした頬を持ち上げて笑う。


「えっとね、明日も明後日も多分しばらく朝早いからお弁当入らないんだけど」

「そうなの?助かるわ。なら明日結には学食にしてもらおうかしらね。そしたらお母さんゆっくりできるし」


 そう言いながらかぼちゃの方へと顔を戻したお母さんの背中を見つめてごくりと唾を飲みこんだ。


「あの、あのね。お母さん」

「なぁによぉ?」


 夕陽が台所の窓から差し込んでお母さんの項をほんのりと赤く染める。

 私は固いかぼちゃに包丁を入れて綺麗に半分に割れるのを眺めながら「いつもありがとう」と慎重に吐き出した。


「どうしたのよ?あんた熱でもあるんじゃないの?」

「ないよ!」

「変な子ねぇ」

「あのさ、後で教えてくれる?お母さんの煮物の作り方」

「え~?いいけど、もう作っちゃったし。今度作る時に一緒に作った方がいいんじゃない?」

「いいから。他にも色々教えてよ」

「やだ。気持ち悪い。明日雪でも降るんじゃないの?」

「……まだ秋だし、雪なんか降るわけないじゃない」

「分かんないわよぉ?いいから、はやく着替えてらっしゃい。話はその後」

「はーい」


 お母さんは一切こっちを向かないままかぼちゃを切っていた。

 だから顔が赤くなっているのに気付かれずに済んだんだけど、なんだか素っ気ない気がしてちょっと面白くない。

 一旦玄関まで戻って階段を登り二階の自分の部屋に行くと朝出て来たままの姿で濡れ女さんが倒れていた。

 お侍さんも小人たちも変わらず壁にくっついてるけど。


「ただいま。お姉さん」


 遅くなってごめんね。

 放置したままでごめんね。


「聞いてください。私のえっと、生体エネルギーというものをあなたにあげるので受け入れてくださいね?」


 ぐったりとしたまま動かない濡れ女さんとは逆にお侍さんが慌てたように腰を上げた。

 彼はずっと座ったままだったから立てないんだと思ってたからちょっとびっくりする。


「大丈夫だよ。私はね。お姉さんを信じてるから」


 小人たちがぞわぞわと足元に集まってきて頻りに首を振っているけどもう決めたんだ。

 私はお姉さんの傍に膝を着き大きく息を吸って気持ちを整える。

 宗春さんはやり方なんか説明しても理解できないだろうから、相手に任せておけばいいっていった。


 私がそれを許せば勝手に吸い取るだろうからって。


「じゃあ、お姉さん。始めようか」


 手を伸ばした私を黒い底の無い目が見つめて、苦しげに唇を開ける。

 そして小さい唇の動きだけで「いいの?」と聞いてきた。

 頷いて濡れて寒そうなその体を、抱きしめるように身を屈めた瞬間。


 私は一気に水の音に包まれてなにも考えられなくなった。




ようやく宗さんSのお母さまを登場させることができました。

そして紬のお母さんもですね。

この後お母さんと台所に立つ約束をした紬ですが、果たして戻ってこられるでしょうか?


次回、濡れ女さんの過去が明らかに?

よろしくお願いします。

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