とりあえず始まりはしたものの
結果からいえば、起きれたし、間に合った。
いつもよりずっと早く起きた部屋の真ん中で相変わらず濡れ女さんが倒れ伏したまま動かないのを見て胸を痛ませ「おとなしくお留守番しててね」と言い置いて始発の電車に飛び乗りましたとも。
うっかり寝てしまって乗り過ごしそうになったので、明日からは座らずに立ったままで移動しなくてはいけないと学びました。
薄暗い中を歩いて階段を登って行くと、事務所のある方には既に明かりがついていたし木戸が開けられた本堂の中にもオレンジ色の温かな灯りとお線香の匂いが漂っていたので宗春さんが言ってた通り朝のお勤めは随分と早くから始まっていたんだと思う。
いやね。
そりゃあ貴方たちはそれがお仕事ですから早く起きるのも慣れているでしょうし、苦ではないんでしょうけれど、私は土木事務所で伝票や発注表に領収証と戦い時に電話応対をするという別のお仕事があるわけでして。
もちろん教えてくださいと頼み込んだのは私だし、ある程度のことは覚悟してきましたけども。
「きっつい、足痛い、喉乾いた、眠い、お腹すいたぁ」
まさか険しい道を行き、足場の悪い階段を上ったり下りたりしながらあちこちに点在する小さなお社のお掃除とお線香をあげる……という苦行があるなんて想像もしてませんでした。
しかも暗いから木々や草の中からなにかが出てきそうで怖いし、虫の声も普段聞くより大きくて数も多い。
千秋寺は山というには小さく丘というには大きい自然豊かな中に建っている。
本堂と住居部分がある所は丁度中腹辺りで、そこから上はとても神聖な場所らしく簡単には人も妖も入れないらしい。
そんな場所に部外者である私を入れていいのかなぁと思わなくもないけど、宗春さんに急かされるように頂上へと向かって歩かされた。
厳粛な早朝の空気の中で私が苦しげに吐き出す息の音がとても不協和音を奏でていて申し訳ないけれどどうか許して欲しい。
「も、ムリ。ちょっと、休憩させて」
「……大げさだなぁ」
次の場所へと向かう途中で音をあげて座り込んだ私を、前を歩いていた宗春さんが立ち止まって振り返る。
「簡単に無理とか言わない方が良いよ。それにそんな所に座ったら汚れるし濡れるけど?」
確かに朝露に濡れてしっとりと地面も湿っているからじわじわと膝上までのチュニックを抜けてレギンスまでしみてきていた。
でもとてもじゃないけど立てそうにない。
膝はガクガクしているしふくらはぎはワナワナしている。
「しっかし、今日も妙な格好してるね。なんで花柄に花柄を合わせるかな……。柄同士の組み合わせは上級者向けだから無難に無地でまとめればいいのに。それを着てここまで歩いてきた勇気は称賛に値するけど」
理解はできないと続けて宗春さんは頻りに首を捻っていた。
ええ、そうですよ。
自分でも分かってる。
でも仕方がなかったんです。
悲しいほどに成長したお尻と太腿を隠してくれる服を格安衣料店で見つけるのはとっても難しいミッションで、売れ残っていた「これ、誰が着るの?」って私でも引くくらいの柄のチュニックワンピースぐらいしかなかった。
無地なんてセール品の場所に置いてあるわけがない。
最後に残ってた黒のレギンスを勝ち取ろうとした瞬間に汗だくのご立派な体のご婦人に掻っ攫われてしまったので、仕方なくビビッドなレギンスや奇天烈な柄のレギンスの中から選ばなくてはならなくなりましたとさ。
とほほ。
「これでもマシな方だったんですけどね……」
さすがにこの格好で仕事に行くのは精神が持たないので、ロングスカートにカットソーに着替えて出社するつもりですが。
出勤後に制服に着替えることを考えるとうんざりするし、荷物も多くなって邪魔なんだけど白いワイシャツにぴったり目のベスト、更になんの拷問か!といわんばかりのタイトスカートなので、どんなに重かろうが私は着替えを持っていく方の苦行を選ぶ。
「そういえば、兄さんに電話したんだって?」
「え?あ、はい」
「なんでそんなことするかな」
「え?だって、お札のことで」
「紬を指導するのは誰だったっけ?」
「あ、それはもちろん宗春さんですけど、で」
「分からないことは聞いてくれないと教えられないし、そもそも兄さんが素直に教えてくれると思ってるとこが甘い。最初に断られたのを忘れたんだとしたら紬の頭は飾り物で何の働きもしてないから無くても問題ないね。首から切り離されてもきっと大丈夫だ」
私の言い分など全く聞く気が無いみたいで、にこにこ笑いながら質問する相手を間違っている指摘から始まり宗明さんを頼ったことを叱って、最終的には必要なさそうだからという理由で恐ろしいことを言いだす始末。
慌てて逃げ出せるようにと腰を上げるが、濡れた地面に足を取られて上手く立ち上がれない。
「いい!?止めて!コワっ!怖いです!大丈夫じゃないです!死にます、普通に死にますぅ!」
焦っている私を嘲笑うかのように宗春さんは着ているゆったりとしたセーターの裾から中に手を入れて背中側からなにか細長いものを取り出した。
艶々とした黒いものの真ん中あたりに赤い房の付いた紐がぐるぐる巻きつけられている。
三十センチの物差しくらいの長さのそれは、時代劇なんかで高貴な女性が懐に隠し持っている危険なものと瓜二つだった。
恐ろしさが倍増して私は汚れるのも構わずにお尻をつけたまま後ろへ下がる。
なんだか昨日も同じようなことがあった気がするけど、今日は命の危険が間近に迫っていてそんな余計なことを思い出している余裕はない。
「大丈夫、痛くないから。コレの切れ味は今までの経験上疑いようのないものだしね。ほら、昨日紬も見たはず。あの小汚い犬の妖の腹、綺麗に裂けてたでしょ?」
脳裏に蘇る犬の姿。
一気に血の気が引いてガクブルと震えている私に見せつけるかのように宗春さんは赤い紐が捲かれている場所の少し下を左手で握り、ゆっくりと右手を反対側の方へと動かした。
うそ、やだやだ!
本当に犬の妖を斬ったもので私の頭と胴体を切り離そうとなさっていらっしゃる!?
悪い妖を斬るなら罪にはならないかもしれないけど、さすがに人を殺せば罪には問われる。
そんな常識を取り出したところで彼の目に宿る狂気じみた光の前では救いが見いだすことは難しかった。
宗春さんならやりかねない。
なんとなく心に浮かんだ自分の叫びを私は意外と冷静に受け止めた。
そんなことを思ってしまった自分をおかしいと思いつつ、時折見せる揺らぎのような宗春さんの危うさを忘れてはいけないと呼気と共に飲みこんだ。
太陽の目覚めの時が訪れ薄闇の中にキラリと光が反射する。
それはとても清浄で、美しく、波状の模様の上を走って黒い鞘の中へと消えていく。
そしてそれを抜き放つ途中で止まっている宗春さんの笑っているのに感情の無い顔すらも優しく照らしている。
「ねえ、宗明さんは」
張りつめた空気の中、宗春さんと向き合っているのに宗明さんの名を出す私の言葉の先を彼は黙って待っていた。
いい加減お尻も冷たくて我慢できないから限界に近い筋肉を誤魔化しつつ膝を伸ばす。
良かった。
今度はちゃんと立てた。
お尻を叩いて汚れを落としている間も宗春さんは催促せずにじっと聞く体勢を崩さない。
それが昨日の電話での宗明さんの対応と重なって、やっぱり兄弟なんだなと笑う。
似ているようで似ていない。
でもやっぱり似ている。
不思議な二人。
「もしかして昨日、電話で宗明さんは私に真実を教えてくれてないの?」
宗春さんに飾りもの扱いされた頭の中身を鈍いなりに動かしてみれば、彼がどこに問題があるかをそれとなく教えてくれているのが解った。
人でない者との付き合い方など教えられないというスタンスだった宗明さんが、私の質問の最後を微妙な言い回しで終わらせたこともなんとなく引っかかって。
「僕は紬と兄さんがどんな会話をしていたのか聞いてないから知らないけど、霊と妖は違うよ。どう違うか分かる?」
「違い……?えっと、幽霊は元々人……とか?」
「そうだね。人であるというのは大前提で、直に触れられるかどうかとか、相手に直接危害を加えることができるかどうかとか、まぁ色々あるけど、そもそも両者には力の源となるものが全く異なる」
突然始まったけどこれは私が知りたいと思っていることだった。
宗春さんはどこか遠い所を見ながらさらさらと喋っていく。
「まず妖は生き物が長く生きて変化する者、大事にされた物に魂が宿る者、人々の畏れや実しやかな噂話を核として生まれる者……と、まあ生まれ方自体が気持ち悪い上に、厄介なことに寿命が長い。更にしぶといしね。元が人である霊に比べれば全く以て相容れない相手だけど」
どこか迷惑そうな表情で「まぁ中には人と仲良くしたがる物好きもいる」と呟いたから妖という存在全てが悪い人ではないんだと分かってほっとする。
カチンッと音をさせて出ていた刃を鞘におさめた後、宗春さんはどこかぼんやりしていた目の焦点を合わせるための前準備なのか二度瞬きして私をその瞳に映した。
「霊は実態を持たない思念のようなものだから怨みや妬みとかそういう強い負の感情でその場所や人に憑く。場所から動けないのはそこに強い思いだったり、思い残したことがあるかその場に留まった方が長く自我を保つことができるし、恨めしいという感情を何度も思い返せることで力を蓄えることができるからだね。
人に憑くのは相手から簡単に生体エネルギーを吸い上げることができるし、あわよくば寂しさを紛れさせてくれるんじゃないかって期待しているからなんだけど」
さっきと同じ「だけど」で切った後、今度はにこりと微笑んで焦らされる。
朝を察知した鳥が囀り始め、肌寒いほどだった空気がゆっくりと温められていく。
逆にさっきまでここにいるよと鳴いていた虫たちが出番は終わったとばかりに鳴き止んで、林を吹き抜けて行く風がカサカサと物悲しい落ち葉の音色を響かせた。
「だ、……だけど?」
私は沈黙に耐えられずに尋ねたけれど、カラカラに乾いた喉は無残な声をしている。
必死に声を上げたのにこれでもまだだんまりを続けられたらどうしようか――そんな不安も焦りも宗春さんは笑顔のまま受け止めて一言。
「与えればいい」
「え?」
誰に、なにを――?
「消えかけるほど弱った霊をお優しい紬は見捨てられないんだよね?ならてっとり早く紬の生体エネルギーを与えてやればいい」
戸惑って固まっている私の耳元へ唇を寄せて。
甘く囁く。
「そのままだと消えちゃうよ?」
「消え――ウソ!だって、宗明さんは」
そうだ。
なんの保証もない。
宗明さんは受けたダメージと濡れ女さんの力が強ければ――と言っていた。
疲れて鈍った頭だったとはいえ内容をしっかりと理解し無かった私が悪い。
放っておけば回復するだろうなんて。
思い込んで。
「兄さんの札の効果はすごいよ。自分ではたいしたこと無いなんて紬に謙遜してたけど、古い妖ですら身動きできずに言うこと聞くくらいなんだから」
そんな威力絶大なお札をただの幽霊である濡れたお姉さんに近づけたんだから元に戻るなんて幻想はもう抱けない。
宗春さんの言うとおり放っておいたら彼女は消えてしまう。
「私、家に」
急いで帰らなきゃと来た道をお寺まで戻ろうと回れ右した私の腕を掴んで止めて宗春さんは「体調万全じゃないと全部吸い取られて紬が死ぬけど?」と忠告する。
うぐぐ。
死ぬのは困る。
「まずは空腹を満たそう。母さんが朝食を用意するって言ってたから食べていったらいい」
「ごはん!あ、でも、申し訳ないし」
「申し訳ないって言いながらも顔は嬉しそうだけどね」
「……明日からはちゃんと自分で準備します」
「別にいいんじゃない?甘えとけば。母さんはりきってたし、紬が来るの喜んでたし」
「でもっ」
「いいから、戻る」
無理やり会話を終わらされても私の中の申し訳ない気持ちは消えないし、余計に大きくなっていく。
苦学生や子どもなら分かるけど、社会人としてお世話になりっぱなしって言うのはやっぱり気が引ける。
さっさと横を通り過ぎてお寺へと向かい始める宗春さんを追って歩き出しながら、別の形でお返しする方法を考えるしかないと諦めた。
せっかくのご厚意だし、昨日昼食に誘ってくれたのに断ってしまったことも心苦しかったし。
「……あれ?」
ふと眼鏡の端に道下に生えている真っ直ぐな杉の木の枝の間に真っ白い毛並みの犬?のようなものが見えて立ち止まる。
道の下といっても今いる場所は丘の頂上へ向かってかなりの傾斜があるから、杉の木を見下ろすくらいに高い。
更に視界を遮るように木々が折り重なっていて見通しも悪い。
見間違いかな?
そう思ったけど風にキラキラと輝く白い毛の一本一本まで鮮明に見えて――いや、待って、うん、やっぱりちょっと頭がおかしいのかもしれない。
私の目は裸眼でも0.1ギリギリあるかないかくらいしかないし、眼鏡で矯正しても1.3ぐらいしか無いのに、この距離でふわふわと柔らかそうな毛の動きがはっきり見えるわけがないんだ。
多分、目が誤作動を起こしてる。
間違いない。
私が眼鏡の脇から目を擦ってもう一度目線を上げるとそこにはもうなにもなかった。
聖域であるこの場所に妖は入って来られないって説明を受けてたから、疲れてありもしないものを見たんだと納得させてすっかり置いて行かれていた宗春さんに追いつくために急いで足を動かした。
【補足】
妖怪に濡れ女という名の妖がいますが、紬に付きまとっているびしょ濡れのお姉さんはそれとは違います。ただの幽霊です。びしょ濡れの女性だから濡れ女さんと紬は呼んでいますが、実際に妖怪に同じ名の妖がいることを知りません。