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糸を辿って



 一之進くんを見送って信さんは門を潜る。


 しんっと静まり返った家の玄関に立つ。

 無理やり連れ去られたはずなのにそんな気配はどこにも残ってない。


 草鞋を脱いで上がると廊下を進み台所へと足を踏み入れた。


「母上」


 呼びかけられたお母さまはぼんやりとしたまま床に座り、子守唄のようなものをかすれた声で口ずさんでいる。


「母上」


 前に回り込み信さんはそっとお母さまの肩を叩いた。


「行きましょう」

「……どこへ?」

「美和の所へ」

「……美和は」


 いませんと息子の腕を振り払い、声を殺して泣くお母さま。

 信さんは言葉を探しながらもう一度手を肩に乗せた。


「匡秀が美和を連れ戻してくれます。だから――」

「なぜ?なぜあなたではないの?なぜ匡秀殿なのです」

「それは」

「あなたはあの人の子でありながらどうしていつも匡秀殿に勝てないのですか!」


 悲鳴のような声でお母さまはやり場のない怒りを信さんへとぶつける。

 彼は傷ついた顔を一瞬だけしてすぐに表情を変えた。


「申し訳ありません。父上の様に強くあればこのような無様なことにはならなかったはずです。でも母上。匡秀は優れた剣士であり、また誰よりも誠実な男です。私はあの男にならいくら負けても納得ができます。私の未熟さを素直に認められるのです」


 だからこそ美和を任せられたのだと告げられてお母さまははっと口元を抑え俯いた。


「美和を連れ戻せば、もうここで暮らすことはできません。美和を守るためにも、母上のためにも全てを捨てるお覚悟を」


 どうか。


「……全て、とは……あの人も……?」

「父上は連れてはいけません。共に行けばまた同じことの繰り返しです」

「でも」

「母上、どうか」


 頭を深々と下げる信さんをお母さまは冷ややかに見下ろして。


「いやです。私は柳井の家に嫁いだ時から生涯あの方をお支えすると決めております。どうしても行くのならお前たちだけで行きなさい」


 母は行きません。


「母上!」

「止めはしません」

「母上!」

「早う行きなさい」


 美和のこと頼みましたよ――。


 そう優しく微笑んだお母さまの顔を信さんは目に焼き付けるように見つめて。

 心変わりした時のためにと待ち合わせの場所を教えて家を後にした。


 お母さまを連れて出ることはできなかったことを悔やみながら真っ暗な道を走る。


 信さんは泣いていた。


 ずっと。


 暗いからどこをどう走ったかなんて分からない。


 信さんは朽ちかけたお堂の階段に腰かけてひたすら泣いていた。


 ぼんやりと霞がかかった空に浮かぶお月さま。

 土と草の香り。

 濃厚な夏の気配。


 どれほど待ったんだろう。


 泣くのを止めてじっと暗闇に目を凝らす信さんの耳に衣擦れと微かな足音が聞こえた。


 こんな時間に人気の無いお堂にやって来るのは匡秀さんと美和さんだけだろうけど、耳を澄ませて警戒を解こうとはしない。


 そんなお侍さんに呼びかけるのは不安そうな女の人の声。


「信さん?いるの?」

「――お貴さん、どうして」


 驚いて立ちあがるとお貴さんはほっとしたように微笑んで、一緒に夜道を歩いてきた一之進くんと共に彼の目の前に立つ。


「これを」

「お貴さん、駄目だ。受け取れない」


 差し出された布の袋を信じられないように見つめて激しく首を振る信さんの手を両手で宥めるように包んでその中に握らせる。


「これは差し上げるのではなくお貸しするの。いつか落ち着いたら返して欲しい」


 無一文で旅を続けるのは難しいから。


「持って行って」

「……かたじけない」

「いいの」


 幸せになってね。


 色んな思いが籠った囁きに信さんは熱い視線をお貴さんに向けたけど、結局なにも言えずに口を引き結んだ。


「姉上、そろそろ」

「そうね。あまり長くいては別れが辛くなるから。どうかお元気で」

「お貴さんも」


 結ばれていた糸が切れる音が聞こえ、また孤独が押し寄せる。


 姉弟の姿が見えなくなり、静けさが戻ってくる――と思っていた信さんは突然襲ってきた重い一撃に大きく体勢を崩して階段に腕を着いた。


 なにが起きたのか。

 分かってないのは私だけじゃなく信さんもだ。


 黒く大きな影が動いて生臭い臭いが風に運ばれてくる。


「な――!?」


 速い。

 とても目では追えないスピードでなにかが迫ってくる。


 重く尖ったなにかが。


 身体にぶつかる寸前にそれがなにか気づいた信さんが目を大きく見開いて「父上」と呟いた。


 え?

 父上って。


 そんな。

 どうして。


「ここに?」


 偶然重なった私と信さんの声。


 ゆったりとした動きで信さんから離れるお父さまはぞっとするほど楽しそうに笑っていた。


「いくら問いただしても佐代が口を割らなかったので、さてどうしたものかと思うておったら、丁度友人思いの姉弟が夜道を急いでいたのでな」

「ま、さか」


 お貴さんと一之進くんの後を着けて来てたのか。


「良い幼馴染を持ったものだな」

「ちち、うえぇ!」

「お前には勿体ないほどだ」

「その血は、」


 朧月でもこれだけ近くにいれば相手の姿はよく見える。

 お父さまの着物は胸元と袖口がべったりと赤黒く濡れていた。


「安心しろ。姉弟は無事に帰って行った」

「で、は」

「夫に従わぬ妻などいらぬ。私に意見などしおってからに」


 ――おおぉおおお


 唸り声のような悲鳴を上げて信さんは身を起こし、お父さまに飛びかかって行った。

 でもそれよりも早い動きで躱し、がら空きになった脇に鈍く輝くものが容赦なく叩きつけられる。


 ドオッと地面に倒れた信さんの懐から転がった布の袋。


 お貴さんの優しさ。

 思いやりの形。


 それをお父さまは拾い上げてニタリと笑う。


「ち、ちう……そ、れは」

「煩い」


 苦しそうな息の合間から一生懸命声を出してお父さまの非道を責めるけど届かない。

 声も言葉も手も。

 全て。


 蹴り上げられ、抉られた脇腹を踏みつけられて。


 血が。

 着物を黒く染める。


「最期に」

「ち、……ちうえ」

「我が人生を恨みながら良い酒を呑むのも一興」

「おやめ……くだ」

「さらばだ。我が不肖の息子よ」

「ぐぅ……!」


 全体重をかけるようにして足の裏を傷口に擦り付けられて信さんが呻く。


 ああ、もう。

 やめて。

 お願いだから。


「案じるな。真面目だけが取り柄のお前も、家に尽くすことが務めと真っ直ぐに生きた佐代も極楽浄土へと行けるだろう」


 私は地獄へと堕ち二度と顔を合わせることも無かろうから。

 安心しろと笑って。


 お父さまは最後に信さんの喉元に刃物を押し付けようと伸し掛かってきた。


 その腕からもがいて必死に逃れようとする信さんと、上から全体重を使って潰そうとするお父さまの攻防はフッフッと短く息継ぎする音と時々くぐもった呻き声が入り乱れ中々決着がつかない。


 焦れたお父さまが大きな拳を振りかぶって、重い一撃を与えようとしたその隙を信さんは見逃さなかった。


 さっと左腕を伸ばしてお父さまの首元に巻きつけると身を起こしながらぐるりと反転する。


「信……!きっ、さまぁ!!」

「お、ゆるしを、ちちうえ」


 腿と腿で相手が動かないように腰の部分を挟み込んで、両手をクロスするようにして着物の襟をぎゅっと握るとそのまま締め上げた。


「ぐぅう……!」

「父上、どうか」


 お許しをって謝罪しながらそれでも信さんは手の力を緩めない。

 それどころか更に力を加えていく。


 真っ赤だったお父さまの顔が段々と青くなり、見開かれた目といっぱいに開いた口から液体を溢れさせて――地面の上に幾筋も苦しんだ跡を残して力尽きた。


「はあ……はっ……おわ、……た」


 なにもかも。


「終わった……」


 震える手で信さんは自分の脇腹を抑えて痛みを堪えるように顔を顰めた。

 呼吸を整えようにも怪我と恐怖のせいでそれもままならない。


 治まってきているなって思っていたらお腹の傷に当てられている指先に力が入って乱れてしまう。


 着物も重く湿っていて袴部分まで流れる血で染まっている。


「私も、これまでか……」


 終わりを覚っているはずなのに信さんの声は案外ほっとしているように聞こえた。


 それからお父さまの懐に空いている方の手を入れてお貴さんが持ってきてくれた小さな巾着袋を取り出して傷に響かないように慎重に息を吐く。


 家族の運命を狂わせた理不尽な父。

 最後まで父と家を捨てられなかった母。

 女として一番忌むべき道へと送られた妹。


 そして信さんのために奔走してくれた匡秀さん。

 生活が苦しいのはお互いさまなのにお金を工面して届けてくれたお貴さんや一之進くん。


「いかん……目が」


 軽く頭を振った信さんがそのまま体勢を崩してドサリと倒れる。

 起き上がろうとしては力が入らずに地面の上を這いずり回り、それが叶わないことを受け入れて弱々しく笑った。


「まさ、ひ……で」


 力を振り絞って呟いた後、零れる涙。

 身体から力が抜ける。


 ――あいつは必ず来る


 だから


 ――匡秀が来るまで


 どうか


 ――あと少し、もう少し


 頼む


 ――もってくれ


 最後にあいつに


 ――謝りたい


 だから


 ここにいる。

 いたいのだと願い。


 今こうして私の目の前にいる。


 ――できればこのような無様な姿を晒したくはなかったのですが。


 眉を寄せて恥じ入る様に面を伏せた信さんは、それでも希望を捨てきれずにこうして待っていた。


『辛かったね』


 ――強く誇り高い父へいつか戻ってくれると信じ、現実を受け入れられなかった私の弱さが原因です。


 信さんはそう言って悔やんで自分を責めるけど、あの状況では無理も無いと思う。

 悪いのは信さんじゃない。


 ――あなたの生きている時代は自由で羨ましいが私には生き難い。匡秀ならば問題なく馴染めそうだが。


 ふふっと笑った信さんにつられて私もつい笑顔になる。

 確かに匡秀さんならこの時代でも楽しく生きていけるかもしれない。


 「紬殿」って呼ばれて私は彼をまっすぐに見つめた。


 こうして向き合うと身長はそんなに変わらなくて、凛々しい顔立ちの中に幼さも見えて胸が苦しくなった。


 ――力は揮うためにある。そして護るためにある。


 覚えておいて欲しいと懇願される。


 ――私はその力を使うのを躊躇ったせいで多くのものを失った。だからあなたにはそうなって欲しくないのです。


『信さん』


 ――紬殿が頑張っておられるのを私はここでずっと見ておりました。変わろうと奮起し、知ろうと努力するあなたは日々輝いていく。


 微笑んだ信さんは腰の刀を鞘ごと抜いて横向きに差し出した。

 遠い昔に手放してしまったはずの刀を。


 ――あなたの選んだ道は険しく困難でしょう。ですがきっと歩み抜くと私は信じております。


 目で促され私は信さんの刀に恐る恐る手を触れる。


 ――どうか私の願いを叶えてください。あなたの力で。あなたの手で。


 終わらせて欲しい。


『分かった……』


 できるかどうかなんて不安はどこかに行ってもらうことにする。

 宗春さんが“その誰かも動けずにいる”って言ったということは、マサちゃんの時みたいに相手も会いたいと思っていてくれていれば私が繋げられるってことに違いないから。


 信さんのためにも。

 匡秀さんのためにも。


 やるんだ。


 一度やれたことだもの。

 やれるって信じなきゃ。


 なにもできないから。


 大きく息を吸いこんでゆっくりと吐き出す。

 宗明さんに教えてもらった心を落ち着かせる呼吸法。


 狒々との特訓で掴んだ誰かと繋がるための感覚を研ぎ澄ませて。


 匡秀さん。

 どこにいるの?

 どこで囚われているの?


 信さんはずっとここで待ってるよ。

 約束したこの場所で。


 あなたを信じて。

 ずっと。


 匡秀さん。


 ――匡秀……


 匡秀さん。

 聞こえる?


 信さんはここだよ。

 ここにいるよ。


 繰り出した糸の先を不意になにかが掴んでぐいっと力強く引かれた。

 何度か強度を確かめるように引かれた後、その糸を伝って誰かがやって来る気配がする。


 温かくて大きい。

 そんな空気が凄い勢いで。


 ――信。

 ――匡秀!


 二つの声は対照的だった。

 苦い後悔が滲む匡秀さんの声と再会の喜びに満ちた信さんの声。

もちろん表情も対照的だ。


 ――信、すまない。俺は。

 ――やめてくれ。私こそすまないことをしたと思っているのだ。私が臆病なせいで家の事情に巻き込んでしまったことをどうか許して欲しい。


 その場に土下座でもしそうな勢いで頭を下げた匡秀さんの肩に手を置いて優しく微笑んで信さんは首を振る。


 ――もっと早く父上を諫めるべきだったし、ああなる前に全てを捨てる決断をすべきだったのだ。全ては愚かな私の弱さのせい。申し訳なかった。匡秀。

 ――お前は弱いのではなく優しいのだ。その上に頭が固くて、融通が効かん。お前はもっと自分のことを知るべきだった。


 そうすれば。


 ――無理に無理を重ねていると分かっただろうに。友としてお前を殴ってでも逃亡させていればあんな最期を迎えることも無かったはずだ。


 無念だと呟いて顔を歪め、匡秀さんは膝を着いた。


 ――あの後、お前と別れ美和殿を闇雲に探し、漸く彼女を乱暴に連れ去る三下たちに追いついたのは橋を渡る寸前でのことだった。


 懺悔するように、介錯を待つ時の様に首を信さんの前に差し出して語られるのは信さんの知らないその後のこと。


 ――美和殿を捕えている男に飛びかかり、奪い返したまでは良かったが。


 相手は刃物を持ち出した。


 匡秀さんは腰に刀を下げていたけど武士が簡単に抜くことはどうやらいけないことらしく、なんとか大ごとにならないようにと頑張っていたようだけど。


 美和さんを庇いながらでは上手くいかず。

 そして相手は三人いて。


 普通なら苦戦なんかしないはずなのに追い込まれた匡秀さんは相手の刃を避けて美和さんからほんの少しだけ離れたその隙を狙われて咄嗟に刀を抜いた。


 獲物を得た侍がその辺のヤクザ者に負けるわけがない。

 手加減はできたはずだ。


 なのに。


 ――俺は己の力を過信していたらしい。そして己の精神こころも。


 切り伏せた相手の血を見て動揺するよりも気が高ぶってしまったと。

 返す刀で次の男を斬り、更に逃げようとした男を掴まえて皆殺ししようとしてしまったらしい。


 ――それを止めてくれたのは美和殿だった。


「お止め下さい!それ以上の殺生はなりません!どうか!どうか!匡秀さま」


 必死に涙を堪えて興奮し抜刀している男の腕にしがみついた美和さんの姿と声が匡秀さんの記憶に引きずられて映し出される。

 返り血を浴びた匡秀さんの袖と腕は汚れていて、そこに抱きついた美和さんの綺麗な着物も頬も同じように染まっていた。


――密かに取り返すつもりが大立ち回りをしたせいで騒ぎになってしまった。そのせいでお前の元に戻ることが叶わなくなったのだ。

 ――捕えられたのか。

 ――……ああ。


 溜息のような返事に信さんは再会した喜びの表情から一変させ、同じように「ああ」と声を漏らして目を閉じた。


 ――匡秀と美和のその後に起こった様々な責任は私にある。お前の生家である下沢しもさわのご両親や兄上たちにも多大な迷惑をかけてしまった。この期に及んでなんと謝ればよいのか。

 ――俺がやりたくてやったこと。そもそも人を殺したのは俺の罪。お前のせいではない。

 ――だがその状況を作り出したのは私であり私の父だ。


 ああ、ああ。

 匡秀。

 お前は。


 ――死罪を賜ったのか……?

 ――もっと上手いやり方があったが、剣しか取り柄が無かったからこそ解決法として咄嗟に取った物は刀だった。それだけのことだ。

 ――だがっ!

 ――信。俺たちが生まれたのが今のような時代であればよかったのになぁ。


 更に言い募ろうとした信さんを穏やかな声と笑顔で黙らせて、匡秀さんはしみじみとそう呟いた。


 ――そうであれば憂いなく人生を謳歌できただろうに。


 お前と俺と。

 そしてお前のお父上殿も。

 みんな。


 ――幸せに暮らせた。

 ――匡秀……。

 ――だがあの時代だからこそお前に会えたのだ。俺は存分楽しかったがお前はどうだ?


 後悔だけか?

 辛かっただけか?


 信さんはそう問いかけられて目を潤ませた。


 ――いいや。いいや!私も楽しかった。匡秀に会えて。


 良かった。


 そう微笑んで。


 ――そうか。それで十分だ。


 立ち上がり信さんの肩を叩いた後「ところで」と私を見た匡秀さん。

 なにを言われるんだろうって身構えたのが分かったのか困ったように眉尻を下げて笑う。


 ――迷い留まっていた俺を信の元へと導いてくれたあなたは……おっと。名を尋ねる前にまずはこちらが名乗るのが筋。俺は下沢匡秀しもさわまさひでと申す。


『あ。私は紬です。小宮山紬』


 ――紬殿、と呼ばせて頂いても?


『はい』


 ――死しても約束に縛られた俺と信をこのように会わせていただき感謝いたします。


『いいえ……本当はもっと早く会わせてあげられれば良かったんですけど』


 個人的な感情で二人の再会を引き延ばしていたことが胸に小さな棘を残す。


 約束を果たしお互いの思いを口に出して更に絆を深めていくのを見ていた身としては本当に申し訳ないばっかりで。


 でも二人は私を責めようなんて気持ちは無くて。

 ただただ深い感謝と幸せそうな顔で微笑んでいた。


『あの。ひとつ聞いてもいいですか?』


 ――なにか?


 匡秀さんに向けた質問は美和さんのその後について。

 彼女は。


『どうなりました?』


 ――美和殿はお貴さんの家に身を寄せた所までは聞いておりますが、その先は。


 そうだよ。

 匡秀さんだって死んでるんだ。

 知りようがない。


 でも。


『お貴さんの所にお世話になったのならきっと大丈夫ですね』


 きっと親身になって美和さんのために色々と便宜をはかってくれただろう。

 だからきっと。


 家族は失ったけど幸せな人生を送ったって思いたい。


『信さん。良かったね』


 名前を呼ぶと照れくさそうに頷いて。


 ――私は幸せだった。匡秀のような友を持てて。こうして来てくれる友がいて。そして紬殿のような優しいお嬢さんに力を貸してもらえて。


 本当に。

 幸せ者だ。


 勿体ないほどに。


 ――どうか。紬殿。刀を抜いてください。


『え?』


 抜くって。

 どうして?


 まさか私にこれで二人を斬れってことじゃ。


 ――案じずとも無理なことをお願いは致しませぬ。芙美殿の時のことを


 どうか思い出してくださいと言われて戸惑いつつも記憶を探る。


 あの時はどうだったっけ?

 芙美さんの過去を見て、言葉を交わして――そうお母さんの病気をボロボロの本から読みとって。


 そうだ。

 彼女が大切にしていた絵本に書いてあったもの。


 それは。


『――分かった。抜くよ』


 大丈夫。

 取り戻すだけだ。


 彼を。


 彼の名を。


 右手に柄の方を、左手に鞘を持ってゆっくりと引き抜く。

 金属が擦れる涼やかな音を聞きながら磨かれた刀身に波打つ模様を見つめる。


 薄くて。

 でも重くて。


 触れればひりつくように熱く。

 氷柱のようにどこまでも澄んでいる。


 これは信さんの魂。

 これが信さんの名前。


『信じ偽りのない人。その場を和ませる温かい人――信和のぶかずさん』


 お侍さんは名前そのままの人だった。


 ――ああ。やっと。


 呼んでもらえたと喜んで。


『信和さん。ずっと傍にいてくれてありがとう。狒々に襲われた時に助けてくれてありがとう。それから、それから』


 どうしよう。

 言葉が出てこない。


 あうあうと形にならない声を上げている私に信さんは優しく微笑んだ。


 ――礼を言うのはこちらの方です。私のような者を怖がらず救ってくださりありがとうございます。匡秀とも会わせていただいた。このご恩をお返しできないことが心苦しいのですが、心残りをしては元も子もないので。


 深々と頭を下げる信さんの横で同じように匡秀さんも腰を折る。

 二人のお侍さんはそのまま徐々に薄くなっていく。


 これで良かったのかなとちらりと不安がよぎる。


 私ができるのは鎖から解き放つだけ。

 彼らを行くべきところへと導くのは私にはできなくて。


 ――…………。


 ふと空気が微かに振動する。

 そして声が聞こえた。


 それは私にとっては聞き馴染んだものであり、そしてそれは彼らにとって助けとなるべきもの。


 祈ってくれている。

 彼らのためにお経を上げてくれている。


 どこでなんて分からない。

 だってここは精神世界みたいなところだから。

 距離なんて関係ないんだ。


 心地よい音に身を委ねながら私もこの世界との繋がりを断つ。


 深くゆるやかに。


 そしてそのまま。

 意識は夢の中へと滑り落ちた。



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