小宮山さん 大いに慌てる
制服に着替えてロッカーを閉じようと手を伸ばした下で白がぴくりと耳を立ててドアの方を鋭い視線で見た。
なんだろう?と疑問に思うよりも先に更衣室のドアがノックされ、私の返事を待たずしてガチャリと音をたてて乱暴に開く。
「……おはよぅ、紬」
「おは、よう、ございます」
ふらふらとした足取りで中へと入ってきた先輩はいつもより顔色が悪くて目の下にクマができていた。
いつもはばっちりと決まっているメイクも髪形も服装も精彩を欠いていて私は思わず悲鳴を上げそうになる。
その疲れきった様子に白もグルグルと喉の奥で唸り声を上げる始末だ。
「あの、高橋先輩」
「なぁに?」
「どこか行きました?週末」
「えー……?」
ベストのポケットの中からリンリンリンッと音が微かに聞こえてきて慌てて上から押さえた。
「なに?なんの音?」
「あ、すみません。携帯のアラームが鳴ってるみたいで」
「この時間帯にアラーム?」
怪訝そうな先輩の指摘を休日はこの時間に起きるんですよって誤魔化して私は一歩後ろに下がる。
まあアラームをかけるにはかなり中途半端な時間だからかなり無理があるんだけど。
冷や汗をかきながら私は再度「いつも行かないようなところに行きませんでしたか?」と聞いてみた。
「土曜日はアンナに誘われてスポーツバーに行ったし、日曜日はミハルとカラオケに行ったけど」
不思議そうに首を傾げた先輩が「あたた」と左肩を押さえて顔を顰めた。
ゆっくりと揉み解しながら疲労感たっぷりの溜息を吐くのを眺め、一瞬視線が合いそうになって慌てて顔を反らす。
「昨日から肩が重くて。遊び過ぎたせいか夜何度も途中で目が覚めて眠れないし最悪」
「あ、それは、大変ですね」
「お蔭で肌が荒れるし、なんにもやる気が起きないしさ……」
いつもきびきびと動く高橋先輩が私並みにのろのろと支度をするのを見ているのは調子が崩れる。
それに高橋先輩の不調は疲れが原因じゃない。
まあある意味正しくつかれてるんだけど。
どうしよう。
こういう場合はどうしたらいいんだろう?
高橋先輩の左肩には握り拳代のおばあさんの顔が乗っている。
虚ろな目で口を半開きにしたその幽霊は、白が目を三角にして威嚇しているくらいだから悪霊の一種なんだと思う。
ポケットの中で宗明さんのお守りの鈴が鳴りやまないのもそれが理由なんだろうな。
「紬?そろそろアラーム切ってよ。うるさい」
「あ!はい、すみません」
私だって止めたいけど、先輩の傍にいる間は止まらないと思う。
それに仕事中はずっと隣に座って仕事するわけで。
ああ、もう。
お守り鞄に入れてロッカーに入れておく?
「紬!止めてったらっ!」
「ひゃっ!すみません!」
初めて聞く殺気立った先輩の声に飛び上がり、私は堪らずに更衣室から走り出た。
そのままの勢いで事務室の自分の机まで逃げたところで漸く鈴の音は止まったけど、高橋先輩が近づいたらまた鳴り始めるんだからなんの解決にもならない。
「……どうしよう」
焦りと恐怖に竦みながら私はぎゅっとお守りを服の上から握りしめた。
ゆっくりと深呼吸を繰り返して心臓が静まるのを待つ。
「白、なんとかできない?アレ」
「キュゥーン」
床に膝を着け白の目を真っ直ぐ見つめてお願いしてみたけど、耳を伏せて切なそうに鳴くので私まで泣きたくなった。
きっと白は相手が私に危害を加える可能性が無い間は力を揮いたくないんだと思う。
一応警戒して威嚇はするけど相手が向かってこなければそれでよしとしたいのかも。
やっぱり神性の強い妖だから無駄な争いは避けたいんだろうな。
そこを曲げてまで無理になんとかしてもらうのは難しいよね。
「じゃあ他の方法を探さないと……」
先輩がこっちへと来る前になにかいい案をと思えば思うほど焦ってきてなんにも浮かばない。
できればお守りは持っていたいけど、そんなこと言ってたら不審がられるし、また苛立たせて怒られるのは避けたいしな。
もう机の引き出しの奥の方に入れて、鈴の音に気づかれないようにずっと喋り続けるってのは――さすがに無理がある。
宗明さんのお札をペタッと貼ったらどうだろう?
きっと消えてくれるだろうけど、先輩にお札のことを突っ込まれたら言い訳できないし。
いっそ正直に霊が見えることを伝えてしまおうか?
でも前に休憩中読んでたファッション雑誌の心霊特集のページ読まずに飛ばして、気持ち悪いからって捨てて帰ったくらいだしな……。
変に怖がらせるのも良くない気もするし。
どうしよう?
どうしよう――!!
更衣室のドアが開く音が聞こえ、自分の血の気が引く感覚に軽い眩暈を感じる。
もう、無理だ。
お願い。
誰か。
助けてっ!
先輩のヒールが近づいてくる音にびくりと怯えた私の目に、眩しく輝く光りの束が射しこみ、思わぬ救いの主の登場に歓喜した。
「おはようございます!真琴さん、お願いしていた書類用意できてますか?」
「榊さん……!」
顔を上げて振り返った先に榊さんの爽やかな笑顔があり、私はふわふわとした安堵感に包まれる。
ああ!後光が射してる!
榊さんの眩い光りは間違いなく後光に違いない。
「正吾くん?こんな時間に珍しいわね。真琴さんならまだよ」
「ああ、あかりさん。おはようございます。小宮山さんも」
怪訝そうな高橋先輩が榊さんの方へと歩き出すと、肩の上のおばあさんが嫌がる様に首を振りながら歯を食いしばってその場に留まろうとしていた。
でも榊さんの強い光りに押されて端の方からゆっくりと薄くなっていく。
誤ってお札を貼ってしまった時の濡れ女さんみたいにムンクの叫びのような顔になって無念そうな声が今にも聞こえそうだ。
「あれ?あかりさん、顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
「なんか肩こりが酷くて。昨日は夜も寝れなかったのよ」
ぶつぶつと文句を言いながら肩と首を回して高橋先輩が「あれ?」と驚いた声を上げる。
「どうしました?」
「……いや、なんか急に肩が楽に」
「なんじゃそりゃ」
きょとんとしている先輩の前で楽しそうに榊さんが笑うと光りが強くなって完全におばあさんは消えてしまった。
なんなの。
すごすぎない?
榊さんの魔除けパワー。
おばあさんは追い出されちゃったのか、それとも成仏できたのか分からないけど、高橋先輩は榊さんの前向きなエネルギーを貰ってどんどんと元気になっていく。
肌艶すらよくなっているように見えるんだけど。
「おかしいな。昨日電話で朝イチ行くからって伝えてたんだけどなぁ」
「真琴さんは朝弱いからまだきっとベッドの中よ」
「ちょっと電話かけてみます」
「それがいいわね」
スマホを胸ポケットから取り出して、そのまま外へ出て行こうとする榊さんを私は急いで呼び止めた。
「榊さん!」
「え?なに?」
「あの、ありがとうございました」
突然お礼を言われて戸惑っているのか瞬きを二度してから「オレなにもしてないけど」と苦笑いした。
そりゃそうだよね。
榊さんは自覚ないんだし。
だから私は「この間ごちそうになったので」と伝えた。
そうすると納得したのかニコッと微笑んで。
「いいよ。楽しかったし」
「また機会があったらその時は私がごちそうします」
「いいって」
「そうよ!正吾くんに奢るんなら私にも奢ってくれないと」
すっかり調子を取り戻した先輩が拗ねた口調で会話に入ってくる。
その様子にほっとしながら私は大きく頷く。
「もちろんです。高橋先輩にはいつもお世話になってるし」
「じゃあまた茂も呼んでご飯でも行きましょう」
「いいわね。いつでも誘って」
パチリと華麗にウィンクを披露する先輩はいつもよりお化粧が上手くいってなくても綺麗だった。
見習わなくちゃ。
「じゃあオレ電話かけてくるんで」
「ああ、ごめん」
「すみません」
いいえって首を振ってから榊さんは電話帳から真琴さんの番号を探しながら出て行く。
ああでも本当に助かった。
榊さんが来てくれなかったらどうなっていたんだろう。
あの能力があれば私ももっと役に立てるのに。
「どうしたの?ぼんやりして」
「え?あ、すみません」
こんな所で無力を嘆いても仕方がない。
また同じようなことがあった時の対処法を、宗春さんに相談して教えておいてもらわなきゃ。
もしかしたらなんか私でも簡単にできる、良い方法があるかもしれない。
知識がないせいで周りの人が苦しい思いをしているのを黙って見ていなきゃならないのはやっぱりイヤだし。
不意に昨日帰りに見た赤ちゃんを抱えた女性の姿を思い出して胸がチクリと痛んだ。
大丈夫。
私は間違ってない。
知らない人が道端でひっそりと泣いていても殆どの人は見てみぬふりをする。
私だって今まではそうしていた。
もしかしたら女性に気づくことさえできなかったかもしれない。
今こうして私が罪悪感に囚われるのは赤ちゃんが普通の人間じゃなかったからだ。
きっと。
共存したいって願いを持っているのに、目の前の不思議から距離を取らなきゃいけないことの矛盾に気持ち悪さを抱いているだけ。
でも、これってちょっとおかしくない?
だってこれじゃ私。
人よりも妖たち側に寄った物の考え方になってない?
相手が人間だったら困ってたり、泣いてたりしているのが気にならないなんて。
もちろん多少気にはなるけど、それでも時間が経ったら忘れてしまうくらい些細な出来事として処理される。
もっと考えなきゃ。
共存するってことはきっとお互いの距離感が大事になってくるはず。
人同士だって適切な距離がないと不快に思われたり、嫌われたりするんだから。
同じように――ううん、きっとそれ以上に慎重にいかなくちゃいけない。
未来で後悔しないように。
今はたくさん後悔したり、悩んだりしよう。
しっかりしなくちゃ。
まずはお仕事が最優先。
ゆっくりと深呼吸をしてからお守りが入っているポケットを上から軽く握った。
中でチリッと涼やかな音がして微かに白檀の匂いが香った気がして、ほんの少しだけ心の淀みが解れる。
大丈夫。
今は我慢の時。
いつかきっと自分なりに付き合えるようになるから。
それまでは。
我慢、ガマン。
そう言い聞かせて仕事をしてたからか、今日はあっという間に時間が過ぎた。
真琴さんにご挨拶してから会社を出てから逆方向の高橋先輩と別れ、その先輩御用達のコンビニへと入る。
レジの店員さんの「っしゃいませ~」の声に軽く会釈をしてからおにぎりやお弁当が並んでいる陳列ケースの方へと向かう。
最近では独り暮らしのお年寄りや独身者のためにパウチされた調理済みのお肉やサラダとかのお惣菜も豊富でびっくりする。
そういえばレジの前を通ってきた時に温かいケースの中にコロッケやとんかつとかもあったし、自炊しなくてもそこそこ充実した食生活が送れそうだ。
今の季節だとおでんとかもあるし。
そういえば学生の頃は友だちと寒い中で食べる肉まんとか特別美味しく感じたなぁ。
なんだか久しぶりにコンビニに寄ったけど、意外と忘れていた思い出があったり、発見があって楽しいや。
しかも商品がクリスマスのパッケージになってたりとか、飾りつけが賑やかでそれだけでもウキウキする。
「あった、あった……牛乳っと」
紙パックや容器に入った色んな種類の飲み物の中から見つけた牛乳を選んで――それでも種類がいくつかあって、メーカーもたくさんあってかなり悩んだ――棚で仕切られた通路を歩きながらあんぱんとナッツ入りクッキーを手に取る。
足元で小人さんたちが期待に満ちた眼差しを向けてくるので、周りの人に変に思われないように注意しながらキミたちのだよってしっかりと頷いた。
昨日買おうと思っていて買えなかったら。
きゃーって飛び跳ねて喜ぶ小人さんたちに癒されながらレジへと向かうと、茶髪の店員さんが手際よくお会計してくれて牛乳だけを別の袋に入れて二つ渡してくれた。
「っした」
「…………」
きっと“ありがとうございました”の略なんだろうな。
夕方は仕事帰りの人とか学生とかが多くて私の後ろにも三人並んでたから店員さんも忙しい。
ぺこりと頭を下げてレジを離れて外へと出るともう暗くなり始めていた。
家への道を歩いていると道の端に黒い影だったり、薄ぼんやりとしたなにかとすれ違ったりするけど見えてませんって顔をして進む。
明らかに幽霊じゃなさそうな形のなにかが空を横切ったり、やっぱり昼間より彼らが活発に動いていて落ち着かない。
白がいるからか、それとも匂いがしないからか。
知らんぷりしてればやり過ごせる。
向こうからなにかしてくる気配もないし、危険も無いから白にも変化がないんだろう。
でもちょっと疲れる。
黄昏時は逢魔が刻っていうから数が多くて。
街灯の明かりも頼りないから突然飛び出して来られるとびっくりするし。
暗いなら暗い方が楽だなぁ。
「あ」
紺色のブレザーにタータンチェックのスカートの結が目の前を歩いている。
我が妹ながら後ろ姿だけでも可愛い。
「結」
「!」
名前を呼んで駆け寄ると結はきょとんとした顔で振り返り、そして私の顔を確認した途端に眉をギュッと寄せて不機嫌そうに口を曲げた。
あ。
しまった。
反抗期の結は外で姉から声をかけられるのは嫌だったみたい。
「あ――……」
どうしよう。
でも今更なかったことにはできないしね。
「今帰り?」
「……」
見て分かるだろって空気を出しながら早歩きになる結。
肩幅が小さい結の背中はあまりにも華奢で、思わず手を伸ばしてしまいたくなる。
でも今はダメだ。
結は必死で堪えてる。
理由がない苛立ちや不安や焦りを。
だから少し離れて見守らなきゃ。
苦しいけど。
結だって辛いんだから。
いつもの結に戻ってくれるのをお姉ちゃんは待ってるからね。




