不安と変化と小宮山さん
頭がガンガンする。
完全な二日酔いだ。
いつも通りに起きた私はお湯で濡らしたタオルで全身を拭いて、念入りに歯磨きもしたけど体中の毛穴と胃の中から吹き出すアルコールの臭いにげんなりした。
もう二度と深酒はしない!
気合を入れるために髪をおだんごにして、亜紗美さんに教えてもらったナチュラルメイクを済ませると本堂へと向かった。
むくんでパンパンになっている顔のことはこの際気にしない。
既にスタンバイオッケーの宗明さんと宗春さんにぺこりと頭を下げて挨拶を交わし、そっと定位置に座る。
私の右隣に白が神妙な顔で腰をおろしたところで二人の纏う空気がキリリと引き締まった。
静かにそして厳かに始まる朝の読経はじっくりと一時間近く続く。
毎度のことながら不思議なんだけど、ここで朝のお勤めに参加している時はどれだけ正座してても痺れたりしないんだよね。
普段はちょっと正座しただけでも血流が悪くなって痛くなってくるのに。
心地のいいお経を全身で聞き、ようやく頭痛も和らいだみたい。
お酒の臭いは取れないけど。
読経が終わった宗春さんも宗明さんもそれぞれのお仕事に向かうので、私は黙ってペットボトルを寺務所まで取りに行き靴を履いて奥の院へと向かった。
細い山道に入る前に白が私の前へと出てとことこと先へ進み、鼻先を空へと向けて異変が無いかを確認してる。
ここは天音さまが護る聖なる場所だから安全なはずなので、必ずしも危険かどうかを探っているわけじゃないんだろうと思うけど。
「ああ……やっぱり、きつい」
摂取しすぎた水分とアルコールのせいで身体がすごく重く感じる。
いつもは苦にならない山道を登るということがとてつもない苦行に思えて辛い。
息も上がって喉も乾く。
奥ノ院の洞窟で聖なる水を少しいただこう。
そしたら宗春さんと宗明さんのお経を聞いたあとみたいにしゃんとなりそうだ。
「しばらく、お酒は控えよう」
たくさんじゃないにしろ金曜日もビールを飲んだし、やっぱり続けて飲酒するのは肝臓にもよろしくないだろうし。
上がらない足を必死に前へ前へと出し、まだ暗く沈んだ山道を行く。
虫の音もしない静かな山に私の乱れた息遣いと足音だけが響いてほんのちょっとだけ不安になる。
この道はちゃんと天音さまのいる奥の院へと続いているのか、私が知らない間に別の世界へと迷い込んでたりしないかとか、宗春さから頭大丈夫?って心配されそうだなって苦笑いした所で気づく。
そうだよ。
もっと考えなきゃいけないことがあるじゃないか。
本当に私はだめだなぁ。
もしかしたら無意識のうちに面倒なことを先送りにしようとしているのかもしれない。
それじゃ解決しないのに。
ああ。
でも心を無にしないと水は汲めないんだった。
「――――だめだっ!ちょっと落ち着こう」
足を止めてゆっくりと深呼吸をする。
土の湿った匂いと濃い植物の香り。
冷たい風。
無音の中に聞こえる私の鼓動。
勢いよく流れる血液。
足の裏に感じる大地の感触。
「…………ふう」
よし。
少し治まった。
考えなきゃいけないことはあるけどそれは今じゃなくてもいい。
今するべきことは奥の院まで行って水を汲んでくること。
全てはそれから。
大丈夫。
ここは地上にありながら神や仏が住まう聖なる地。
一歩ずつ丁寧に、大切に進まなくちゃ失礼になる。
心を鎮めてひたすら前を見て登れば道はちゃんと目的地へと誘ってくれた。
階段を登り、天音さまのいるお堂の横を通って洞窟へ。
白は入れないのか地面にお尻をつけて一声鳴いて送り出してくれた。。
ひんやりとした空気と水音が体に絡みつき、登ってきたことで上がった体温が一気に奪われる。
滾々と湧き出る青緑に輝く水は足元を濡らしているので滑らないように気を付けながら近づいた。
そっと腰を屈めてペットボトルを沈める。
水に浸かった手が切るような痛みを感じていても心はそこから切り離して、底にある丸い石板の龍の模様に視点を固定して呼吸が乱れないように集中する。
清水の甘い香りと共に湧き上がる時にできる緩やかな波紋が一瞬だけ止まった――気がした。
「え?」
思わず零れた声に私の心は簡単に動揺し、ペットボトルがごぽりと音を立てて浮き上がる。
慌てて持ち上げて確認すれば、殆どいっぱいになっていたので問題はない。
ないけど。
なんだろう。
これ。
肌がぞわぞわと粟立って指が、手が震えて止まらない。
龍姫さまも天音さまも強い力を持つ妖で、不安を持つことなんてばかばかしいくらいなのに。
カラカラに乾いた喉を潤すために唾液を飲み込むとゴクリとひどく大きな音を立てた。
「紬」
「――!」
不意に呼ばれて私は声の無い悲鳴を上げる。
振り返った先に闇の中でも輝く銀色の着物と黒い打掛が見えて名を呼んだのが天音さまだと分かった。
白い手首が返ってゆるゆると手招かれる。
「紬」
再度呼ばれ、ペットボトルを抱え直して入口へと向かう。
頭をぶつけないように屈んで外へと出る私の耳にこぽりと水が湧く音が聞こえたけど、それはとてもか細くて心をひどく揺らした。
「おお、なんと。無残な顔をしておる」
くすくすと笑いながら口元を袖で隠す天音さまは普段と変わらない様子でどこか拍子抜けする。
「過ぎた酒は身体の毒。どれ、少し楽にしてやろう」
そう言って私の頭上に軽く手を翳した天音さま。
微笑みはそのままに目を伏せた美しいお顔を間近で見ていると、なんの憂いも無いような気がしてくる。
白が近寄ってきて私の足に体を擦り付けてきて甘えたように鳴いた。
「さて、どうじゃ?少しは良かろう?」
「あ。はい」
言われてみれば身体の怠さとか、頭が重いのとか随分と楽になってた。
頬に手を当ててみればむくみも改善されているような。
「ありがとうございます」
「よいよい。折角の愛らしい顔が台無しなのは見ていて忍びない」
「あはははは……」
絶世の美女である天音さまから“愛らしい”って褒められても、なんかそれは仔犬や仔猫を可愛いと思うのとそう変わらないような。
まあ人は自分にないものを欲しがったり、素敵だって思うものだから、天音さまにはないこの庶民的な感じが新鮮なのかもしれない。
「ちと話をしよう。紬、こちらへおいで」
階段を登り開けっ放しの引き戸を抜けてお堂の中へと入って行く天音さまの後を追ってお邪魔すると、なにもない空間から座布団を引っ張り出して私に渡してくれた。
ううん。
器用というか便利だなぁ。
十二月になって急に冷え込んできたから座布団を使わせていただけるのは本当にありがたいので床の上に置いて正座する。
白は私の後ろで横たわり前足の間に鼻先を突っ込んでリラックスモードだ。
「喉が渇いておろう。これを飲むとよい」
「ありがとうございます」
またしてもどことも知れない場所に手を突っ込んで、瓶に入った飲み物を取出して勧めてくれた。
蓋はコルクで栓がされ、ラベルも無いのでどこのものなのか、中身がなんなのか全く分からないけど。
喉がすごく渇いていたのでコルク栓を引っ張って開け、瓶の口にそのまま唇をつけて傾けた。
柑橘系に似た爽やかな香りと、砂糖じゃない甘さが口の中で広がってするりと喉の奥へと流れて行く。
濃くもなく薄くもない。
そしてしつこくない甘みがすごく味わい深くて私は目を丸くした。
「――!おいしい」
「気に入ったか?」
「はい」
一体なにを使っているのかすごく気になるけど、神さまや仏さまだけが口にできる特別な飲み物なのかもしれないので尋ねるのは我慢した。
それに話があるって招かれたんだから余計な詮索はしちゃダメだ。
もしかしたらさっきの現象についての説明をしてくれるのかもしれないけど、それは簡単に話せるようなものじゃない気がする。
また不安が襲ってきて逃げ出したい気持ちをぐっと抑え込むように腿の上でぎゅっと拳を握りしめていると、天音さまが「まずは」と話を切り出してきた。
来た!と身構えた私を見つめて天音さまはちらりと白い歯を見せて微笑んだ。
「宗春の変化に紬は気づいておるか?」
「……え?そう、しゅんさん?」
「そうじゃ」
「えと、変化」
話って宗春さんに関することなのかな?
「私の家族に挨拶をしてたり、会社に持って行くお菓子を用意してくれたり、常識的な行動ができるんだってびっくりはしましたけど」
それだって本当は頭がいい宗春さんのことだから、やるべき時はちゃんとするだろうし、知識としては私よりずっとあるわけで。
「あとは心配してくれて電話をくれました。あの時はちょっといつもより素直な気がしたけど、昨日会ったらいつも通りでしたし」
変化と言うよりはただの気紛れのような感じがするんだけど。
「あれはあれなりに反省しておるのだ。おもしろかろう?」
「え?反省?なんの?」
日頃の行いを悔いているならもっと違う言動になる気もするからきっとそれじゃない。
ならなにを、どこを反省してるんだろう?
それより。
「おもしろがっちゃ宗春さんかわいそうですよ」
「あれに面白味が出てきたことを喜んでなにが悪い?今まで可愛げも人間味も無かったあれが、今まで誰かに対して申し訳なかったと思ったことが無いあれが」
ああも変わろうとは。
「あれは嫌がるだろうが、ここへ呼びつけて祝宴でも開きたいくらいなのだ」
上機嫌で笑っている天音さまには悪いけど、宗春さんがそんなに変わったとは私には思えない。
それにしてもいくらお寺の仏さまで付き合いが深いとはいえ宗春さん酷い言われようだなぁ。
「でも天音さま。一体なにを宗春さんは気にしてるんですか?」
「聞きたいか?ああそうだろうとも。聞きたかろうなぁ」
「え?あ、はい。まぁ」
なんか勿体ぶっていわれると私としては遠慮したくなってくるんだけど。
完璧主義な宗春さんが自分の失敗を知られることを喜ぶとはどうしても思えないし。
でもそれを対宗春さん用の切り札として持てるのは有り――いやいやいや。
私はきっとそれを上手く使えないだろうし、宗春さんがおとなしく恭順してくれるとは思えない。
また刃物を持ち出してきて脅されるどころか、今度こそ命を奪われてしまうかも。
恐ろしい。
「紬が日常生活に戻るにあたって宗春が紬の家やその周辺を調べて回ったのは知っておろう?」
「はい。本人から聞きました」
「そうか。その時初めて紬が千秋寺へと通うことの困難さに気づいたようでな」
「え?でも宗春さん、狒々に襲われた時に来てくれていたので知っていたんじゃ」
どういうこと?
今更家と千秋寺の距離なんて気にする方がおかしいよ。
「あれは車だが紬は徒歩と電車を使っての移動だ。しかも始発に乗って毎日寺へと通うてその後また逆戻りして会社へと出勤することがどれだけ大変か。今回電車に乗り歩いてみたことで酷なことをさせていたと思ったようじゃの」
え?やだ。
ちょっと待って。
それは宗春さんが気に病むとこじゃない。
「でもそれは、私ができませんって最初に伝えなかったのも悪くて。実際早起きはちょっと辛かったけどお寺に来ることは全然嫌じゃなかったし苦でもなかったから」
「そうだの。普通なら仕事をしながら毎日通うて来いと言われるだけでも諦めるだろうそれを、紬は一生懸命通うてきたな」
前に座る天音さまが腕を伸ばして私の頭の上をそっと撫でた。
優しく。
「偉かったの」
「そんなこと」
ふるふると首を振ると天音さまの笑みが深くなる。
「宗春を信じ、一途に通うてきた紬の頑張りをあれも認めたのだろうな」
「天音さま……」
「礼を言おう。紬。誰もがもう変わらぬだろうと諦めていた宗春を変えてくれて」
「ちが、私はなにも」
頭を撫でていた手が下に降り、そしてもう片方の腕も私に差し出してきて両頬を包まれた。
これではもう首を横に振れない。
やんわりと封じられたので目で訴えるけど天音さまの微笑みの前では全く意味もなさなかった。
「しかもそれだけじゃない。宗明も」
笑うようになったと。
感謝されて。
私は泣きそうになる。
「凍りつき、修復不可能だった兄弟の時が動き出した。これは紬だからできたこと」
「そんなの」
私の力なんかじゃない。
だってまだ二人は和解できてないし、向き合うことすらできてないのに。
なにもまだ始まってないのに。
「紬。大事なのは止まった時が動き出したという点なのだ。時は変化を呼ぶ。そして形を変えいずれは正しき道を歩き出す」
そこが重要なのだと諭すように説明して。
「いつか救っておくれ」
私たちを――。
「今はまだ守られだけのか弱き存在だとしても、紬は私たちの希望なのだ」
「天音さま」
「安心せい。その時までは私がしかと守ろう。そしてそこの」
「ガウッ!」
「うむ。よい返事じゃ。紬の言いつけを守り利口でいるんだぞ?」
「クゥン」
何故か落ち込んだように顔を伏せて白が切なく鳴いた。
「さあ朝一番の陽が射す。そろそろ戻らねば心配するだろう」
「はい。ありがとうございました」
「よいよい。気を付けてな。私はいつでも紬を見ておるからの」
希望だとか、救ってほしいとかいう言葉は正直重い。
だけどこうして期待しているよって言ってもらえるのは誇らしくもあって。
私にできることを精一杯やろうって奮い立てるくらいの威力があった。
だから正しい道をみんなが歩めるために頑張ろう。
微力だろうとも。
諦めずに。
今はまだ
その時ではない




