まずは繋がりをもつこと
いつの間にかお経も終わっていて、シャクシャクなってた音も止まっていた。
だけど宗明さんも宗春さんも黙ったままだし、さっき煙を炎ごと吸い込んだ大八さんだってその場でじっとしている。
『紬』
呆然と立っている私の前におじいちゃんがふわりと着地する。
唇が動いていないのに呼びかけてくる柔らかい声が耳の奥へと染み込んでじわりと涙腺が刺激された。
久しぶりに聞くおじいちゃんの声はどこまでも優しくて、私をあっという間に小さな子どもに戻していく。
おじいちゃんは棺桶に入っていた頃の姿では無くて、幼い時の記憶のままの姿をしていた。
皺はあるけれどシミの無い肌は血色がよく、緩いウェーブの入った髪の毛はふわふわと目元や頬にかかって――孫の私が言うのもなんだけど、おじいちゃんはちょっと格好いい。
黒い瞳は青みがかっていて綺麗だし、しっかりとした男らしい鼻をしていてふっくらとした下唇の右横に小さなほくろがあって実は色気もある。
身長も高いしきっと若い頃は結構モテていたんじゃないかと私は思っているんだけど真相は分からない。
目の前のおじいちゃんは触れられるくらいリアルだけど、その穏やかに微笑む細面の顔にはいつもかけていた眼鏡がないし、着ているものだけはお葬式の真っ白な着物を纏っていた。
本当に私の手の届かない人になっちゃったんだな。
今、おじいちゃんを形作っているのは煙と白い布。
生きて存在しているように見えるけど、血も肉もそこにはないのだと。
そう思えば思うほど失ったものの大きさに気づかされる。
もう会えないと思っていたおじいちゃんが目の前にいるのに。
大きな温かい手で撫でてもらうことも、抱きしめてもらえることもできない。
『びっくりしただろう?』
笑いながら首を左に傾けておじいちゃんは申し訳なさそうに言った。
こうして目の前に現れたことなのか、それとも見えないものが見える眼鏡のことだろうか。
どっちにしても驚いたことには変わりないので大きく頷く。
その拍子に眼鏡がずれてフレームの外側と内側が分かれて映る。
視力の悪いぼやけた裸眼にはおじいちゃんの姿を見ることができない。
視線を下げればレンズ越しに白い着物が作る皺や大好きな手が映っていて、その異様さや不思議さを嫌でも私に突き付けてきた。
「……だめなのかな?」
宗明さんが言うように、見えないものは見えないままがいいの?
おじいちゃんみたいに彼らとの暮らしを楽しむことは危ないことだから止めたほうがいいの?
「濡れて寒そうなお姉さんを温めることはできないし、なにか伝えたいことがあって来ている人たちの声を聞くこともできない。私は見えるだけでなにもできないけど」
指で押し上げて眼鏡の位置を直し、おじいちゃんの姿をくっきりと映し出した。
見失わないように。
「おじいちゃんが見ていた世界を見て、お祖父ちゃんが感じてたことを感じて、おじいちゃんが大切にしていた不思議なことに触れることで」
緊張で喉が引きつるように痛いし、涙はボロボロ零れてその度にレンズに雫が落ちる。
でもおじいちゃんが黙って聞いてくれているから。
私の言葉を待っていてくれるから大きく息を継ぐ。
「私はおじいちゃんと繋がっていたい……です」
途端におじいちゃんはくしゃりと顔を歪めて笑う。
そうすると目尻の皺が寄って、下唇のセクシーなほくろが頬の皺に隠れて見えなくなる。
顔いっぱいで嬉しいと言ってくれるおじいちゃんの笑みに私の胸は熱くなって伝えたい言葉が頭の中でふわふわ揺れた。
「大好きなおじいちゃんとこの眼鏡を通じてずっと繋がっていたいよ。おじいちゃんが愛したものを私も愛したい」
まだ人を心の底から愛したことなんかない私には簡単にはできないことかもしれないけど。
いつかはできるようになるかもしれないじゃないか。
初めから上手くできる人なんてほんの一握りの人で、その他大勢の一般人はひとつひとつ小さなことからクリアしてできるようになっていくんだし。
この際自分の鈍臭さや、不器用さは棚にあげとく。
一歩が笑えるくらい遅くても、一歩がどれだけ小さくても、歩き続けていればいつかゴールや目標に辿り着くんだから。
私だって愛せるようになる日も来る。
そうすることでおじいちゃんの愛を感じていたいんだ。
ほんとにどうしようもないくらい我がままで、バカで心配ばっかりかけてしまう孫で――。
「ごめんね」
私が謝るとおじいちゃんはどうしていいか解らない顔のまま小さく頷いて先を促した。
「ごめんなさい……私、全然会いに行かなくて」
おじいちゃんは私が小さい頃からなにひとつ変わってなかったのに、成長するにつれどうしようもないちっぽけなプライドが邪魔をしておじいちゃんを避けてしまった。
変わってしまったのは私の方。
伝えられなかった後悔や言えなかった言葉がずっとあって苦しかった。
あんなに可愛がってくれてたのに。
あんなに会おうと思えば会える距離にいたのに。
ほんとに、ほんとに。
「大好きだったのに、ずっとほんとは、もっと色んなこと話したかったのに」
本当だったら二度と聞いて貰えなかったはずの思いを拾い上げながら必死で紡いだ。
「恥ずかしいとか、説明するのがめんどくさいとか、忙しいからとか言い訳しなきゃよかった。もっと素直になればよかった」
いつか会えなくなるのだと頭の中では理解してても、それは自分が想像していたよりもずっと早くて。
「もっと、もっとできることあったのに」
顔を見て話すのが照れくさかったら電話をすれば良かったし、なにを喋ったらいいのか分からないならじっくり言葉を選べる手紙を書けば良かった。
「私、頑張らなかった。私、狡かった」
会えなかった三年分のごめんなさいと会っていたのに視線も合わせずに近づこうともしなかった子どもっぽい愚かさを、泣きながら懺悔するのはどこか心地いい。
「私、甘えてた」
おじいちゃんにだけではない。
家族や周りの環境にも私はきっと甘えていた。
友だちとも適当に話を合わせて一歩退いた付き合いをしていたし、一生懸命になにかに打ち込むのは失敗するのが怖くて避けてきた。
なにかを選ばなきゃいけない時はできそうな方を選んできたし、お洒落だって地味な私が可愛いものを身に着けると笑われるんじゃないかと思うとできなかった。
素敵な恋だって、自分の時間を充実させるための趣味だって私には手の届かないもので。
おとなしくしていればみんな受け入れてくれる。
だからこのままなにもしないでじっとしていようなんて。
また努力もせずに後悔するつもりなのかと思ったら、もう我慢できなかった。
見えないはずの人たちは知らない間もずっと私のことを見ていた。
私の卑屈さを。
私の弱さを。
彼らが私を見ている。
声も無く、言葉もなく。
じっと見つめることで。
私の怠惰を責めていた。
私たちはその世界で生きられないのに、何故足掻かないの?
どうして自分らしく生きようとしないの?
って。
言ってるように聞こえた。
「ほんとは怖いし、気持ち悪いけど眼鏡を外したらおじいちゃんも見えなくなっちゃうよ」
それにほんとの私も見えなくなるような気がした。
眼鏡を外したら私はきっと見えない彼らに見られていることを忘れてしまう。
努力せずに逃げたら今度こそ、彼らから愛想をつかされてしまう。
「大切にするから。ちゃんと大事にするから――おじいちゃんの眼鏡をかけててもいい?」
真っ直ぐにおじいちゃんを見上げて懇願すると、眉尻を下げて困ったような顔をする。
泣いている私の頭を撫でようと右手を持ち上げた後で慰めることができないことを思い出したのか更に悲しげに肩まで落とす。
『紬は知らんかったろうけど小さい頃からずっと見えないものたちに愛されとったから、きっとこうなるやろうなと頭のどっかで分かってはいたけれど』
堪らんなぁとおじいちゃんは宗明さんの方へと視線を動かした。
その時になってようやく宗明さんや宗春さん、大八さんがいることを思い出し慌てて涙を拭う。
今更取り繕っても遅いんだろうけど、気まずいし恥ずかしい。
誰も笑っているような気配もないけれど、いい歳して号泣してって呆れられていることは間違いないだろうなぁ。
『彼がさっき言ったとおり見えることは危険なことなんよ。隠したいものを暴かれるのは誰もが恐ろしい。人の姿で人の世に潜り込んでいる妖たちは特に顕著や。いつバレるかと怯えながら暮らしとる。彼らは彼らで大切な繋がりを持ち、人としての生活を送っているのを忘れたらいかん』
おじいちゃんの言葉を真摯に受け止めて「はい」と返事をするけれど、お祖父ちゃんは私ではなく宗明さんばかりを見ている。
なんでだろう?
『友好的な相手ばかりでもない。ただ人を襲い血肉を喰らうことを好むものおるし、騙して魂を狩ることに悦びを得るものもおる。基本、人の生き死になど奴らは頓着してくれはせん――が、人と深く繋がることを選び、別れを惜しみ、死を悲しんでくれるものも確かにいる』
こっちをちっとも見ないけど最後の方は実感がこもっていたから、おじいちゃんにもそんな風に選んでくれたり、惜しんだり、悲しんだりしてくれた相手がいたのかもしれない。
どんな妖だろうか?
もし会えるならおじいちゃんとの思い出話を聞いてみたいなと思った。
ぼんやりとそんなことを考えていたらおじいちゃんが私の方へと顔を戻す。
青く黒い瞳で私のかけている眼鏡越しに私の目を見つめて、怖いほどの真剣な表情で忘れるなと言う。
『妖と人は根本的な部分が全く違う。生まれ方もその性質も。それだけは決して忘れちゃいけん』
約束しておくれと。
『人の常識など通用せん。人の理解や力の及ぶ相手ではない。簡単に近づいてはいかんよ。できるだけ目を合わせないようにして、見つかった時は逃げなさい。そして頼りなさい』
――彼らを。
「え?宗明さんを?」
「ああ」とお祖父ちゃんが頷く。
「宗春さんも?」
「そうだよ」とまた頷く。
「大八さんも?」
そしておじいちゃんは笑顔で応えた。
「でも、だって宗明さんは」
彼らとの付き合い方を教えるのは断ると、さっさと眼鏡を外せと言った。
人でない者と慣れ合うのは愚かだってそうはっきりと言ったのに。
『紬、おじいちゃんがこうしてお前と話したかったことを叶えてくれたのは彼らや。ここに入れずに困ってたおじいちゃんを中へと入れてくれたんも彼らだよ。
おじいちゃんは浄土に行ってしもうたから、紬があの眼鏡をかけたんを見て慌てて来てもなんもしてやれんやった。この世への心残りが少のうて姿形を留めることさえできんかった』
すまんなぁって謝るおじいちゃんに私は首を振る。
「それって成仏したってことなんでしょ?全然悪いことじゃないよ」
むしろありがたいことなのに。
おじいちゃんはにこりと笑って「でもな」と続けた。
『紬の着けとる眼鏡な、おじいちゃんの父さんから受け継いだもんでな』
「おじいちゃんのお父さん……私のひいおじいちゃんってこと?」
『そうだよ。
千年以上生きた大亀の甲羅を使って作られたらしくてなぁ。素養がある者には不思議なものが見えるらしいって聞いて子どもの好奇心でかけさせてもろうたら』
「……見えちゃった?」
『ああ、見えた。初めて見たんは庭の椿の精やったわ。そりゃもうえらい別嬪さんでな、彼女見たさに親父にせがんで譲ってもろうた』
頬を染めて懐かしそうに語る顔がとても幸せそうだった。
まるで好きな人を思い出しているかのように。
もしかしたらおじいちゃんの初恋だろうか?
だとしたら素敵だと思う。
叶わぬ恋でもこんな風に懐かしむことができたのだとしたら、それだけでその想いはキラキラと輝く宝石のようなもののように感じられる気がする。
『あっさりくれた所を見ると親父には素養がなかったんやろうな。なんかが見えるいうのも信じとらんようやった』
お蔭で小さい頃から色んなものを見てこれたと、そのお蔭で少しずつ付き合い方を自分なりに見つけることができたとおじいちゃんは言った。
でも私は今まで不思議なことと無縁な生活をしていたから、すごく心配してくれているんだと思う。
『おじいちゃんは紬の未来を見れんかった自分を恨むわ』
おじいちゃんはなんだか変な言い回しをして、自分に落ち度があったのだと呟いた。
まるで見ようと思えば見れたのだと言いたげな口調だったから「私の未来を、見るってどうゆうこと?」とにじり寄る。
だがおじいちゃんは曖昧に笑って「ごめんなぁ」とまた謝った。
『見れとったらちゃんと色々と教えてやることもできたろうし、眼鏡を紬の手の届かん所へくれてやってもよかったんやけどな』
深く長いため息をついてお祖父ちゃんが背筋を伸ばす。
『きっとこうなる運命やったんです。宗明さん、宗春さん、大八さん、だからどうか紬を……孫娘を助けてやってくれませんか』
宗明さん、宗春さん、大八さんとそれぞれしっかり目を合わせてからおじいちゃんは深々と頭を下げた。
『迂闊で目の離せん子やけど優しい子なんです。悪いんは紬やなくて私ですからどうか』
頼みますと。
色々と教えてやってくださいと重ねて。
私の代わりに頼んでくれているおじいちゃんの隣に並んで「どうかお願いします」と体を半分に折るくらいの気持ちで勢いよく頭を下げる。
これでダメでも諦める気はなかった。
教えてやろうと根負けしてくれるまで意地でも毎日でも仕事帰りに通ってやると勝手に決めて。
おじいちゃんが彼らを頼りなさいって言ってくれたってことはこの三人は信頼できるってことだから。
ここ以外のお寺に駆けこむなんて選択肢は私の中には存在しなかった。
「どうするの?兄さん」
「…………俺の考えは変わらない」
「まじか!ここまで手貸してやって断るのか!?宗明本当に冷たい奴だなっ!」
「だってよ?どうする?」
「え?どうするって……」
どうしよう。
宗明さんの気持ちは変わらないらしいけど、宗春さんや大八さんは協力してやってもいいんじゃないかって思ってくれてるみたい。
どうしようかと迷っている私の横でおじいちゃんが微笑んでいる。
見上げて視線が合うとふふっと笑ってちらりと宗春さんを見た。
ああ、そうか。
抵抗はあった。
もちろんすごく。
でも私はおじいちゃんの判断を信じているから。
ごくりと唾を飲みこんで私は宗春さんの前に移動する。
そうすると彼が片方の眉を上げて静かな瞳で見下ろしてきた。
「あの宗春さん、さっきお断りした件なんですが……まだ有効でしょうか?」
おずおずと尋ねる私を不躾なほど眺めてから宗春さんは「僕でいいの?」と笑う。
緊張で震える指を掌に握りこんで「はい」と頷いた私の後ろで、宗明さんが何故か息を飲み身じろぎした音が聞こえたが止められる前に急いで「お願いします」と頼み込んだ。
宗春さんは背後の宗明さんを見て嬉しそうに目を細めた後で軽い口調で了承し、明日の朝5時に千秋寺に来るようにと言い放つ。
「朝、ご、五時ですか……」
「これでも遅い方だよ。朝のお勤めはもっと早いけど始発動いていないから無理でしょ?」
「……分かりました。明日五時に窺わせていただきます」
「あ、服装は動きやすい格好で。スカートなんて履いて来たら追い返すよ」
「うえ!?スカート以外、持ってないんですけど……」
「ジャージも?」
持っていないと首を振れば、買ってでも用意しろと言われてしまった。
ジャージなんて高校の体育で着たくらいで、私服でズボンなんて小学校の低学年くらいから履いてないのに……。
でもお寺に入れないならなにも教えてもらえない。
帰りに格安洋服店に寄るしかないか……。
でもあるかなぁ?
大きなお尻やむちむちの太腿が目立たないようなズボンかジャージ。
そういえば財布にいくら位入ってたっけ?
ぼんやりと財布事情を思い出しているとおじいちゃんが身を屈めて『紬、頑張るんだよ』と励ましてくれた。
うんと返そうと目を向けた時、おじいちゃんは既に薄くなっていて。
――元気でな。
の言葉を最後に白く細長い糸になって、やがて、消えた。
大丈夫。
もう泣かない。
おじいちゃんも遠い所から見てくれていて応援してくれているから。
歓迎してくれていない宗明さんだって、いつかは私がここへ来ることを受け入れてくれるかもしれないし、見かねてなにか教えてやろうかって気まぐれを起こしてくれるかもしれないじゃない?
こうして少しでも繋がっていれば、なにかが、いつかは変わるかもしれないから。
慌てずに、ゆっくり行こう。
苦い顔の宗明さんを振り返って私は小さく笑う。
大八さんは喜んでくれて「よろしくな!紬」と差し出されて握った彼の手は熱くて力強い。
宗春さんは相変わらずなにを考えているのか解らない微笑みを浮かべている。
千秋寺の人たちはそれぞれがちょっと引くくらい個性的だけど、おじいちゃんと会わせてくれた彼らには本当に感謝しかない。
まだまだ色々と問題はあるけど、まずは第一歩を踏み出すことはできたことを喜ぼうと思う。
そして落ち着いたらおじいちゃんのお墓参りに行こうと決めた。
「まずは」で始まるサブタイトルはこれにて終了です。
なんとか通って教えてもらえるようにはなったけど、相手は宗春さんですからね。
紬ちゃん前途多難です。
おじいちゃんの力がどれほどだったのかや、妖のお友達もそのうち出てくるのでそれまでお待ちください。